2024/02/17(土)虚偽を書く子孫

史料はどこまで本当のことを語るのか

葛山与右兵衛尉の必死の訴え

葛山与右兵衛尉という人が、徳川氏の奉行衆に宛てて書き出した文書がある。駿河の東泉院から不正を指摘されたらしく、その反論。ここで与右兵衛尉は、東泉院が持っている文書は葛山助六郎から不当に獲得したもので、正当性はないと主張している。

原文

  • 戦国遺文今川氏編2624「葛山与右兵衛尉陳状案」(葛山文書)

東泉院言上返答
葛山与右兵衛尉
一、冨士村山坊中、従前々東泉院拘来候由言上、虚言之申所候、今川殿御代十一代に候、其御代■未聞之儀候、殊今川殿御先祖之御判形所持之由被申候、彼御判形之儀ハ、先辻坊拘申候葛山助六郎、去辰年 氏真様御没落之刻、彼助六郎逆心仕候ニ付而、討手被仰付候処ニ、欠落仕候、梅原四郎衛門尉申者、相模之山角同心越智源十郎と申者両人、彼助六郎妻子須津之多門坊ニねまり候つる、其荷物押取候内ニ御判形共御座候、これを梅原ニこい申、所持仕候ハ、明鏡ニ無由緒、乱取之御判形証拠ニ可罷成候哉、同氏真様・氏政様御判形有之由申候、彼御判ハ越国へ御使を申候刻被下候、尤氏真御国ニ被成候者、辻之坊望有ましく候、其意趣者懸河へ御供申候故、六百貫余之御判形被下候、然上ハ右之儀をさへ可申立候へ共、只今之儀ハ、 殿様御分国ニ罷成候故、其引かけハ入申ましく候、殊我等儀ハ、去午四月葛山本領七千貫余之本帳、久野御城ニ而本田作左衛門尉殿へ指上申候キ、御忠節たるの条、浜松へ参上可申之由被仰候間、参上申候、御勘定落着仕罷帰候刻、坊中之儀、作左衛門尉殿申付而被仰付候、然処ニ去午六月甲州御入国之刻、駿州侍御訴訟ある人ハことゝゝく今度可被立之由、作左衛門尉殿被仰候間、則六月九日ニ曽禰下野守と同心いたし、霜月御無事罷成候刻まて、大野之御取出ニおゐて走廻候、内々右之忠節申候条々申立、助六郎軍役知行分御訴訟可申上処ニ、其刻作左衛門尉殿御煩ニ付而、於浜松御裁許申、被聞召 御朱印被下候間、先祖住書と存候処ニ、只今東泉院申掠らるゝ処ニ候、殊其時分鷹野と同意いたし、東泉院浜松へ我等と同日ニ罷越、裁許落着まて踞候つる、其時分ハ閉口いたし、只今申上ハ如何様之子細候、彼東泉院午之春中ハ当国ねまり候て、同六月十二日小田原へ罷越、御取合之内ハ相模ニ候て御無事之上、極月廿八日ニ罷帰、未之正月十四日ニ浜松へ参上いたし候、拙夫事ハ御取合中ハ御手先ニ候て御奉公申候、此儀不申上故、于今助六郎軍役分不被下候事
一、五社拘申候別当ハ従前之平僧にてハ不罷成候条、院主学頭之御座候て、常ニ護摩修行候処ニ、当御代ニ罷成、女犯肉食をいたし、五人の宮僧一人もなく、御神事時ハ麦壱表・弐俵にて小僧新法師を雇ひ懃候事 御下知候哉、拙夫申所偽と被思召候者、下方年老候者共ニ御尋可有之候、同社人廿五人の所、たゝ今十人御座候、残而十五人ハふそく被仕候、然上ハ御祭礼等ハ点転候、東泉院知行高辻米方三百六十俵・代方五拾八貫文之所に候、去年河成申上候哉、代方之儀ハ、一銭も依不申候、此所務両年にハ百十六貫文、此米五百八十俵、米方両年ニ百俵、厚原ニ御座候、合六百八拾俵余候歟、如此所務いたし五社浅間宮之柱之一本も不取、妻子のはこくミ計ニ仕候、何も妙楽坊の時、建立之仮殿のまゝにて候、たゝ今の分ハ退転之儀候、御不審ニ被思召候者、以御検使御見分所希候、
四月廿七日/葛山与右兵衛尉/進上・御奉行所

現代語解釈

東泉院言上返答
    葛山与右兵衛尉

一、冨士村山坊中、前々より東泉院が抱えてきたと報告していますが、虚言です。今川殿の御代は11代ですが、その中で聞いたことがありません。特に今川殿の御先祖の御判形を所持しているとのことですが、あの御判形は、先の辻坊に仕えていた葛山助六郎のものです。去る辰年(永禄12年)に氏真様が御没落の際、助六郎は逆心して、討手が差し向けられたため逃亡しました。梅原四郎衛門尉という者と、相模の山角の同心、越智源十郎という者の両人が、助六郎の妻子が須津の多門坊にいるのを見つけ、その荷物を押収した中に、御判形などがありました。これを梅原からもらって東泉院が所持しています。明白に由緒がない、奪い取った御判形が証拠なるのでしょうか。
同じく氏真様・氏政様の御判形があるといっています。あの御判は越国への使者となった際に下されたものです。もっとも、氏真の分国になりませんでしたから、辻坊の望みはありえなくなりました。掛川へ御供したことで600貫文余りの知行をもらえる御判形が下されたという意味です。ただこれを言い立てようとしても、現在では殿様(家康)の御分国になっていますから、その言い分は通用しません。
特に私のことは、去る午年(天正10年)4月に、葛山本領7,000貫文余の本帳を、久野御城にて本田作左衛門尉殿へ差し上げました。忠節であるから浜松へ参上して申し上げるようにとのことで、参上しました。検収が終わって帰る際に、坊中のことを、作左衛門尉殿が指示するようにと仰せがありました。そうしたところに、去る午年(天正10年)6月の甲州御入国の際、駿州の侍で訴訟を抱えた人たちが挙兵に呼応し始めたと、作左衛門尉殿が仰せになりました。なので、6月9日にすぐ曽禰下野守と同心し、11月に和睦が成立する時まで、大野の砦で活躍しました。内々にこの忠節を申し立てて、助六郎の軍役・知行分を獲得すべく訴訟したところ、その時に作左衛門尉殿がご病気になり、浜松での御裁許となり御朱印を下さいました。ですから「これを先祖重書に」と考えていたものを、いま東泉院が申し掠めてきました。
特にその時分は鷹野と同意し、東泉院が浜松へ私と同じ日に到着、裁許の落着まで滞在しました。その時分は閉口しました。現在言い出しているのは如何様な内容です。
あの東泉院は午年(天正10年)の春中は当国に滞在し、6月12日に小田原へ行き、交戦中は相模にいて無事に暮らし、12月28日に帰りました。未年(天正11年)1月14日に浜松へ参上しています。拙夫は交戦中は前線でご奉公しました。このことを言わなかったので、現在助六郎軍役分を下されないでいますこと。
一、五社が抱えている別当は以前のような平僧ではないので、院主・学頭がいて常に護摩修行していましたが、今の代では、女犯肉食をし、5人の宮僧は一人もおらず、御神事の時は麦1~2俵で小僧・新法師を雇って勤行していますことは、御下知なのでしょうか? 拙夫がいう内容が偽りだと思われるなら、駿河国下方の主だった者たちにご確認下さい。同社人が定員25人のところ、ただいまは10人となっています。残りの15人は欠員のままで、この状況では御祭礼などは行なえません。東泉院の知行高は合計で米方360俵・代方58貫文になっています。去年は河成(洪水)でもあったのでしょうか。代方のことは一銭も言っていませんので、この所務は両年で116貫文、米は580俵、米方では両年100俵で、厚原にあります。合計680俵余りでしょうか。このように所務があるのに、五社浅間の宮柱の一本を取ることもなく、妻子の生活に宛てるばかりです。どれも妙楽坊の時に建立した仮殿のままです。現在では退転していることです。御不審に思われるのでしたら、御検使を派遣して御見分していただきたいと思います。

与右兵衛尉が説明する、永禄12年の氏真没落時の混乱

1569(永禄12)年に今川氏真が没落した際に、葛山助六郎が逆心、討たれそうになったので逃亡したという。そんな中、梅原四郎衛門尉・越智源十郎という者が助六郎の妻子を見つけた。その際に押収された荷物に判形があり、梅原は東泉院からの請求でこれを渡した。恐らく与右兵衛尉は助六郎の息子で、梅原・越智が見つけた「妻子」の中に含まれていたのではないか。この辺りの描写は非常に細かい。

助六郎の妻子から判形を押収したとされる梅原・越智については、後北条氏被官として実在した可能性が非常に高い。

梅原六郎右衛門尉という人は『大見三人衆由来書』に出てきていて、伊勢盛時が伊豆に入る際からの被官関係である。梅原四郎右衛門尉もまた、伊豆にいた後北条被官だろう。同じく伊豆の後北条被官である西原氏が、この時期の氏真身辺に登場することから考えても妥当。

相模の山角同心とされる越智源十郎は、1588(天正16)年の虎朱印状で山角康定が奏者をしている「越智某」宛のものがあり、その存在もまた事実である可能性が高い。

いずれにせよ、戦国遺文で天正13年と比定されているこの文書が書かれた時、後北条は健在で、与右兵衛尉が仕官しようとしていた徳川と同盟状態だった。調べればすぐ判明することとして、梅原・越智については正確な情報に基づいて名を挙げたと思われる。

押収された文書が何だったのか

これは明確に書かれておらず、少し不思議な感じがする。

  1. 今川殿御先祖之御判形
  2. 氏真様・氏政様御判形(越国へ御使を申)
  3. 辻之坊に宛てた氏真判形(懸河へ御供申候故、六百貫余之御判形被下)

1は文面から押収の事実が確実。2と3は東泉院が持っていたものであって、これを提出して東泉院は自分の正当性を示そうとしたのだろう。与右兵衛尉は、今川ではなく徳川の分国となったのだからどちらも無効であるとしている。3が辻之坊宛の文書であり、ここから東泉院は「自分が辻之坊を代々掌握していたのだ」と主張し、1を提出した。ところが与兵衛尉は「1は奪われたものである」と主張していたということになる。

それぞれの内容を調べてみると、1は不明だが候補がいくつか存在する(後述)。東泉院が義元の判形を貰っていたことを受けてのことだろうか。3もまた辻之坊宛のものは存在していない。

2については、「越国」使者となったことを賞した氏真文書と、終始変わらなかった忠誠を誉めた氏政文書の2つが存在している。

今川氏真が越国への使者を勤めたことを賞したもの

今度越国江為使被罷越之間、為其忠賞、辻坊分葛山采女正跡職一円出置候、并室六道之関、是又領掌畢、以此内毎年造営之儀、無怠慢可被申者也、仍如件、
永禄十二己巳五月廿一日/氏真(花押)/五社惣別当東泉院(上書:五社惣別当東泉院 氏真)
戦国遺文今川氏編2370「今川氏真判物」(富士市浅間本町・富知六所浅間神社文書)

北条氏政の判物

氏真御証文之筋目披見、殊敵へ無通融、始中終被存忠信由、令得其意候、寺領不可有異儀者也、仍状如件、
永禄十二年己巳十一月十三日/氏政(花押)/五社惣別当東泉院(上書:五社惣別当東泉院 氏政) 戦国遺文後北条氏編1331「北条氏政判物」(六所文書)

東泉院文書から炙り出される、与右兵衛尉の矛盾

与右兵衛尉が「後北条被官を通じて文書を東泉院に奪われた」と言うが、辻坊関係で残る今川氏輝と義元の文書は葛山文書として、東泉院とは別系統で伝来している。徳川家が裁定して与右兵衛尉に返却させたとも考えられるが、そもそも宛所が葛山助六郎である文書を、東泉院が現有しているからと言って揉めるものだろうか、という疑問はある。

橋本源左衛門尉宛の葛山氏元判物が東泉院系の伝来で残されているものの、辻坊は無関係で日付も永禄12年の2月14日となっていて、辻坊から葛山助六郎が放逐された後の文書である。

  • 戦国遺文今川氏編2273「葛山氏元判物」(東泉院旧蔵橋本文書)


一、参拾貫文、植松右京亮跡
以上
右、今度別而走廻之間、為新地彼跡敷申付也、但内浦代官之儀者除之者也、仍如件、
永禄十二己巳二月十四日/氏元(花押)/橋本源左衛門尉殿

この日付を見る限り、与右兵衛尉が書いたように「葛山氏関係の文書を東泉院が所蔵した」という傍証になる。但し、時期はもっと後になるだろうと思う。武田がいなくなる天正10年以降が想定される。

ただ、与右兵衛尉の主張が裏付けられるのもここまでで、史料を後述した辻坊関係の文書を見ると、辻坊と東泉院がそもそも訴訟関係にあり、武田方についた葛山領を、今川氏真が東泉院に与えていることが判る。

以下、細かく見てみる。

富士村山辻坊を巡る継承者たち

1535(天文4)年6月4日付で今川氏輝が「辻坊頼真」に「富士山興法寺中悉辻坊相拘処」を保証している。この件は「今度大鏡坊雖及公事事」という引き金があった。「大鏡妨」は1558(永禄元)年の今川氏真判物(戦今1439)で「東泉院父大鏡坊切発」と書かれているように、東泉院の父で、大納言・頼秀とも呼ばれた人物。

くだって1551(天文20)年7月9日付で今川義元は「葛山助六郎」に村山辻坊職の半分を保証する。残りについては「池清坊与為兼帯」とあることから、池清坊のものとなったのだろう。「任頼真譲状」とあるので、天文4年に辻坊職にあった頼真の後継者が2人だったと思われる。但しこの文書は天文23年と区別のつきにくい状態。

1566(永禄9)年8月21日付で今川氏真は「池西坊」に村山辻坊職の半分を保証。池西坊は、天文20年の文書から考えて池清坊の後継者だろう。但し、この文書では「辻坊兼帯地 」としながら、兼帯相手の名は出していない。しかし永禄12年5月21日の今川氏真判物では、東泉院に対して「辻坊分葛山采女正跡職」を宛行っており、葛山某が引き続き半分保持していたことは確実だろう。

  1. 辻坊頼真は大鏡坊頼秀から訴訟されていた。
  2. 大鏡坊の訴訟は今川氏輝の裁定で退けられた。
  3. 辻坊頼真の遺領は2分割され、池清坊・葛山助六郎に与えられた。
  4. 池清坊分の半分は池西坊に与えられた。
  5. 永禄12年の政変で葛山采女正分は東泉院に与えられた。
  6. 東泉院は、大鏡坊頼真の後継者。

東泉院の活躍状況

東泉院が一貫して今川方だったことは、与右兵衛尉も認めているところだが、文書でも確認可能だ。

5月21日に今川氏真が出した書状では、越国への使者として活躍した恩賞として葛山采女正の辻坊知行を宛行なっている。また11月13日の北条氏政書状では、東泉院が敵に通じることなく氏真に忠誠を尽くしたことが賞されている。

他の家を巻き込んでの文書で、これは非常に客観的に実証可能だ。

まとめ

  1. 与右兵衛尉が主張した累代の今川家文書は葛山文書で伝来(返還された?)
  2. 東泉院は今川氏真から保証された文書を持っており、不正を行なう動機がない
  3. 東泉院は文書を改竄しておらず、関係文書として預かっていた可能性が高い
  4. 東泉院は永禄12年2月12日付の葛山氏元朱印状を保持している
  5. 葛山氏元朱印状も、助六郎文書と同じく預かっていたのかも知れない
  6. 「葛山本領七千貫余之本帳」を献上したことから、徳川には葛山本家を名乗った?
  7. 「助六郎は分家」と東泉院が暴露し、慌てた?

全体を読んでみると、葛山与右兵衛尉は徳川への仕官に当たって軍役(知行高?)を査定されている途中であり、由緒書でつじつまが合わない点が出てきたのではないか。そこで徳川の奉行が東泉院に証文類の確認をした。「やっぱり嘘じゃないか」という指摘に、何とか反論しようとしたのがこの文書なのだろう。

この手の訴訟は後北条でも今川でも頻々と起きており、その度に「糺明したところ明確な論拠から裁許した」とよく書かれていた。近代的な高度な法解釈を前提として考えると「そんな簡単に白黒つくのか」と疑問に思うけれど、実態としてはこのレベルだったのだろうと思う。

そして、この文書の比定年は1585(天正13)年。氏真没落は1569(永禄12)年だから、僅かに16年後のことである。それでも高を括って都合のいい記述をする人間はいたのだという、よい証拠になると思う。

  1. 助六郎と与右兵衛尉は非常に近い親類
  2. 発生から16年しか経過していない
  3. 登場人名におかしな点はない
  4. 文書自体は真正だが記述者が事実を改変

記述する人間の知見・目的などの要素はあるものの、時代が近いからとか子孫が言ったからという要因は、その記述内容は保証せず、むしろ虚偽を助長する原因になる。

辻坊関連文書

1533(天文2)年

  • 戦国遺文今川氏編0504「今川氏輝判物」(旧辻坊葛山氏文書)

富士興法寺辻坊惣跡、并神領坊中当知行分之事。一、三女坊此外七坊同山伏分、御神領木伐山、神成、伊奈古郷、并大宮実役田畠、西坊屋敷、遠州村松之内引田、菅谷、各其外村山内諸役町銭等、并中宮御室内院諸末社参銭等之事。右、任増善寺殿判形之旨、為不入抱置山等、西釘沢東不動沢ヲ限而、無相違令領掌訖、衆徒山伏出仕勤行就有退転者、堅所可有糺明、仍而如件、
天文二癸巳年十月十九日/氏輝(花押)/富士山興法寺々務代辻坊

1535(天文4)年

  • 戦国遺文今川氏編0531「今川氏輝判物」(葛山文書)

富士山興法寺中悉辻坊相拘処、今度大鏡坊雖及公事事、依無筋目、如前々山中参銭所以下、悉無相違永令領掌訖者、衆徒山伏出仕就無沙汰者、別人仁可申付、其上於坊中山伏退転之所者取立、出仕勤行可申計、自然参詣之時者、可為宿坊者也、守先例弥可抽奉公之状、仍如件、
天文四乙未年六月四日/氏輝(花押)/辻坊頼真

1551(天文20)年

  • 戦国遺文今川氏編1025「今川義元判物」(旧辻坊葛山氏文書)

冨士村山知行半分事
右、為辻坊跡職永領掌不可有相違、并村山・木伐山・雷・粟蔵、同山目代、池清坊与為兼帯可令執務、任頼真譲状之旨、勤行出仕等、以代僧無疎略可申付者也、仍如件、
天文弐拾甲寅年七月九日/治部大輔(花押)/葛山助六郎殿

1554(天文23)年

  • 戦国遺文今川氏編1172「今川義元判物写」(葛山氏文書)

冨士村山知行半分事
右、為辻坊跡職、永領掌不可有相違、并村山・木伐山・雷・粟蔵、同山目代、池清坊与為兼帯可令執務、任頼真譲状之旨、勤行出仕等、以代僧無疎略可申付者也、仍如件、
天文弐拾甲寅年七月九日/治部大輔(花押影)/葛山助六郎殿

1566(永禄9)年

  • 戦国遺文今川氏編2098「今川氏真判物」(富士宮市村山・村山浅間神社文書)

駿河国村山内辻坊兼帯地
神鳴・木伐山・栗蔵・冨士嶽、其外役所以下并畠屋敷等之事。右、任先判形之旨領掌了、然者為両寺務代神主役人等并拘置坊跡先達分、是又如先証永不可有相違、兼又社人十二間棟別・点役・門屋敷共、如先印判所令免除也、勤社役之条不可準于自余、次毎年代官参分事、以下方夏納所内、如先印判従代官前可請取之者、守此旨、勤行法度以下堅申付者也、仍如件、
永禄九年八月廿一日/上総介(花押)/池西坊

1569(永禄12)年

  • 戦国遺文今川氏編2370「今川氏真判物」(富士市浅間本町・富知六所浅間神社文書)

今度越国江為使被罷越之間、為其忠賞、辻坊分葛山采女正跡職一円出置候、并室六道之関、是又領掌畢、以此内毎年造営之儀、無怠慢可被申者也、仍如件、
永禄十二己巳五月廿一日/氏真(花押)/五社惣別当東泉院

補記:東泉院が越後に実際に行ったことを示す文書

遠山康光の書状に「東泉院」が出てくる

  • 戦国遺文後北条氏編1240「遠山康光書状写」(歴代古案三)

去十八自塩津御書中、晦日於当地小田原致披見候、天用院御同道御参府、御太儀存候、其元弥可然様御取成、可在御前候、仍氏真以使僧府中江被申達候、為其氏康添状被申候、随而氏真・松平有一和、去月十五日懸川出城、無相違落着、只今者、三島近所号沼津地被立馬、大細氏政調談、始薩田・蒲原、国中仕置堅固被申付候、此上氏真本意者、屋形様相極御調策候、委細期来信之時候、恐ゝ謹言。追而、自氏真使僧、富士別当東泉院と申仁ニ候、万端可有口上候、以上、
壬五月四日/遠左康光/松石御宿所

今川氏真が使者に「東泉院」を遣わす

  • 戦国遺文今川氏編2431「今川氏真書状」(上杉家文書)

被任兼約、凌雪中御出張、大慶候、於本意之儀者、御馳走相極候、其口之様子、可示給事所希候、猶東泉院附口上候、恐々謹言、
十二月十五日/氏真(花押)/謹上上杉殿(上書:謹上上杉殿 氏真)

※これ以外にも登場文書はあるものの、省略した。

2023/04/07(金)駿府にいた賀永の正体

賀永と氏規は別人か?

『言継卿記』に出てくる「賀永」は北条氏規と考えていたが、専門家から別人との仮説が出された。言われてみると「賀永=氏規」という記載はないから、検討が必要だろう。改めて記載を追ってみよう。

賀永関連記述の時系列

◎は寿桂(今川氏親の妻)と同伴している記載。※は参考用記載

  • ◎「大方之孫」10月2日

    湯山(伝聞):寿桂とその娘(中御門宣綱の妻)と共に湯治。「大方之孫、相州北条次男也」と説明している。

  • ◎「孫がいえい若子」10月28日

    寿桂宅:寿桂の他に賀永と上臈(冷泉)・奥殿(元上臈)・中臈頭(小宰相)が在宅している。

  • 「伊豆之若子」12月19日

    伝聞:賀永の祝言があったと言継が聞く。

  • ◎「伊豆之若子」12月23日

    寿桂宅:寿桂へ小鬼子を贈り、同時に賀永へも「矢、車字」を贈る。寿桂から「はつり一包、雉之羽十一具」を、賀永から「羽三具」を贈られる。

  • 「若子」12月24日 単独で言継を訪問

    言継宿所:昨日の大方・若子へ贈った小鬼子を取り寄せ、「木れん子」を「すけ薄」を置く。若子が来て「晩飡」を共にする。

  • 「伊豆之若子賀永」1月2日 単独で破魔矢を贈与

    賀永に依頼していた破魔矢が到着する。

  • ◎「若子賀永」1月3日

    寿桂宅:寿桂へ「薫物十貝」を、賀永へ「五貝」を贈る。三献があり賀永、奥殿・御黒木(言継の養母)が相伴する。

  • ◎「賀永」2月9日

    御黒木宅:十炷香を張行。参加者は御黒木・寿桂・言継・賀永・御まん・奥殿・山宰相・中将・小少将・賀永乳母・あこう・客人・あち・こち・城桶検校。

  • ※「中御門息之喝食」2月22日 再延期された浅間宮廿日会の桟敷で同席

    冷泉弟の子・各和式部少輔・牟礼備前守・朝比奈泰朝・蒲原元賢、由比光綱・光綱弟の十郎兵衛・神尾対馬入道・観世大夫が既に桟敷にいた面々。

  • ◎「賀永」2月29日

    言継宿所:甘利佐渡守が使者として来訪。寿桂から「黄金二両、島つむき三端、紙一束」、賀永から「段子一端、紙一束」、冷泉局から「紙二束」、奥殿から「紙一束、引物二、師子皮こ一対」、小宰相から「香箸、紙一束」が贈られる(その後言継は寿桂宅を訪れるが賀永の名は出てこない)。

従来の通説では「孫」とある繋がりから氏規=賀永とされていた。これに対して「孫は何人もいたはず」としたのが別人説で、更に踏み込んで中御門宣綱の息子を賀永とする説もある。それぞれ、検討してみる。

賀永は中御門信綱の息子か?

まず、中御門宣綱の息子が賀永というのは否定できる。上の一覧で判るように、賀永が中御門息だとすると、名前の呼び方が不自然になってしまう。親交を重ねた言継は2月9日に「賀永」と名のみ記すようになったのに、2月22日にいきなり「中御門息之喝食」と他人行儀になり、2月29日に再び「賀永」呼びになる。これはさすがに不自然だ。

一方、12月19日の賀永祝言に続けて宣綱の行動が記述され「賀永と宣綱は近しい存在」という指摘もある。しかし、記述内容をきちんと読むとおかしい点に気づく。賀永祝言に続けて、宣綱は「無興=不満」だったと書かれている。息子の祝言に不満を持つというのもまた不自然だろう。

元服前の氏規が喝食っぽい名を持っているのを不審に思っての比定かもしれない。しかし、上記のように言継卿記を素直に読む限りでは別人だろう。

賀永と氏規は別人か?

どちらも寿桂の孫と記述されている氏規と賀永は別人だろうか。別人説では、賀永は寿桂孫の一人ではあるものの、相模ではなく「伊豆之若子」と呼ばれたことから後北条との関係者ではないと推測している。

寿桂の孫となると、言継卿記には実に6人も登場する。北条氏康に嫁した娘が産んだと思われる氏規・氏真妻、中御門宣綱に嫁した娘が産んだと思われる娘と息子、義元の息子である氏真、瀬名貞綱に嫁した娘が産んだと思われる虎王。これに対して「孫」として説明されているのは氏規と賀永しかいない。

これは、氏規・賀永が寿桂と同居して孫として扱われていたからだろう。氏規は寿桂の湯治に同行しているし、賀永は8回登場するうちで5回は寿桂同伴である。他の孫達は寿桂と別の生活圏に居住していたため、その関係から説明されたものと思われる。

更に「若子」という尊称がつくのは賀永のみであり、周囲に敬されていたと考えられる。こうした敬称は宣綱の娘に付されていて「姫御料人」と呼ばれているものの、貞綱息子の虎王には付いていない。権大納言である宣綱と、一門とはいえ義元被官である貞綱とで待遇を分けているのだとすれば、賀永は太守氏康の次男だから尊称を付けられたと考えられる。

※興味深いのが宣綱の息子である喝食に尊称がない点。寺に入った者として距離を置いているように見える。であれば喝食風な名を持つ賀永は実態としては寿桂宅にいたため俗人として扱われ「若子」と呼ばれたのだろう。

まとめると、以下の項目から氏規と賀永は同一人物と考えられる。

  • 寿桂と極めて親しい関係にある氏規が、言継卿記では1回の伝聞にしか登場しないのは不可解
  • 寿桂孫として敬され言継卿記で多数登場する賀永が、同時代史料で一切見えないのは不可解
  • 寿桂と常に同行した孫で「若子」の尊称という条件を満たすのは氏規
  • 氏規と全く同条件の人物の存在を比定するよりも、氏規=賀永とした方が自然

相模ではなく伊豆の若子と記されるから後北条とは無縁という推測も、よくよく考えると筋が通っていない(伊豆国は後北条分国)。後北条と無関係でありながら、伊豆と関わりを持った寿桂孫の存在を想定するほうが無理があるのではないか。

伊豆や喝食との関連性

では、氏規はなぜ「伊豆之若子」と呼ばれたり、喝食のような名前「賀永(がえい)」を名乗ったりしたのか。

「伊豆」と「祝言」

私は、「伊豆」が使われるようになった鍵は12月19日の「祝言」にあると考えている。言継はこの祝言を記した後に「中御門無興」と付け加えている(どちらも伝聞)。「無興」は「気に食わない」とか「不満」を指すが、言継卿記では直近の12月5日に登場している。

次中御門へ罷向暫雑談、今日隠居之事、使四人有之云々、無興至極痛入者也

とあり、「隠居」について使者4人が来て宣綱が憤懣やる方ない状況になったと書かれている。14日にも宣綱は「隠居之儀事破云々、種々雖加意見無同心之間罷帰了」とあり、その憤激を言継が宥めようとして諦めた記載もある。その5日後の祝言で宣綱が「無興」というのであれば、賀永の祝言が宣綱隠居と密接に関わっていると考えていいだろう。

宣綱が登場する12月分記載を全て列挙してみた(※11月末に濃密な接触もあったので参考記載)。

  • ※11月28日:中御門宅にて酒宴。
  • ※11月30日:中御門宅にて風呂に入る。
  • 12月01日:宣綱が留守中に来訪したと聞く。
  • 12月03日:中御門宅にて宣綱と雑談。
  • 12月05日:中御門宅に行き「隠居の件で使者4人が来訪し、強い不満を抱いた」と宣綱から聞く。
  • 12月07日:宣綱から筆が返却される。
  • 12月11日:宣綱が留守中に来訪したと聞く。
  • 12月13日:中御門宅にて宣綱と雑談。
  • 12月14日:早朝に宣綱から呼び出しがあり、隠居の件が破綻したと激怒される。説得を試みるが効果なし。
  • 12月19日:言継が、伊豆の若子の祝言と、宣綱の不満を伝え聞く。
  • 12月26日:言継が、宣綱から借りていた鏡を返却し、同時に姫御料人へ物を贈る(姫御料人の記載終見)。

宣綱が「無興」になったのは、氏規を姫御料人の婿に迎えて中御門家を継がせたかったのではないか。駿河の今川、遠江の朝比奈に娘を送り込んだ中御門家だから、その計策を練ったとしても突飛な話ではない。何より、政略結婚の画策だと考えると、宣綱の行動のあれこれが腑に落ちる。彼を憤激させた使者4人は後北条氏から来て中御門家との婚姻を謝絶したものだと思われる。

※宣綱には子がいなかったと思われる一方で、異母兄弟とされる宣治には男子(宣教)と女子(宣胤の妻)がいた。宣治は1555(弘治元)年に死去しており、言継が駿府に滞在した弘治2~3年の前に遺児達を引き取って養子にしていた可能性がある。但し、この女子が宣胤の妻となるかは年代的に疑問が残る。宣胤は1569(永禄12)年生まれだから、宣胤の妻はこの女子の娘である可能性の方が高いように思う。

そして、この祝言から「伊豆」が賀永に付されるようになる。これは、北条綱成の娘との婚姻が成立して伊豆に知行を得たからではないか。この時点で氏規知行が伊豆にあったという史料はないが、1565(永禄8)年に伊豆奥郡の手石郷へ朱印状を発給している(戦北891)。また、更に後年になるが氏規の妻は伊豆仁科郷の地頭として名を残している(戦北4969)。結婚を機に伊豆の知行を与えられる可能性は高い。

ちなみに、元服前の婚姻は他に井出千熊・馬淵金千代の婚姻契約があるので問題はない(戦今1667)。むしろ、祝言が元服だとするなら、その後も若子・賀永と呼び続けた理由が判らなくなるから、婚姻と考えるべきだろう。

氏規は喝食だったか?

ここから先は推測・憶測の上に仮説を進める形になるため、一つの仮構として捉えていただきたい。

氏規が喝食のような「賀永」を名乗ったことについて。彼は実際に喝食だったのだろうと考えている。というのも、氏規は後北条一門の中で唯一浄土宗の戒名を持っている。とすれば、臨済宗大徳寺派で占められる後北条一門から離れた場所で浄土宗に帰依する出来事があったと推測される。

今川一門もまた義元以降は臨済宗(妙心寺派)なのだが、義元には氏規を浄土宗に帰依させる動機がある。それが対三河政策で、当時の三河には日蓮宗や浄土真宗、曹洞宗もあったのだが、義元が橋頭堡にしようとした松平一族は浄土宗を信仰していた。恐らくだが、義元は氏規を養子にして三河進出の中心に据えようとしていたのではないか。その足がかりとなる松平氏と同じ宗派にするため、氏規を浄土宗寺院に喝食として入れた。

氏規は終生浄土宗に帰依しており、当時駿府にいなかったと思われる徳川家康となぜか親しかったのは、同じ宗派を信仰しているためだろう(家康の駿府不在は徳川家康登場初期の考察、家康との関係性については北条氏規への偏見についてを参照)。

しかしながら言継卿記の賀永は寿桂宅に起居しているし、当時の駿府で最も有力だった浄土宗寺院(新光明寺)に寄宿していた言継の記述でも寺院関係者としては出てこない。

これは、義元の意図を危ぶんだ寿桂が氏規を引き取って身柄を担保していたのだろう。そしてそれを横からかっさらおうとしたのが宣綱で、亡くなった弟の娘を充てがって中御門家を継がせようと画策していた。

この駿府での騒動に慌てた氏康は綱成の娘との婚姻を強行し、元服前とはいえ伊豆で知行を与えた。このために「伊豆之若子」と呼ばれるようになったのだろう。

しかし、1556(弘治2)年5月2日に座間鈴鹿明神社の棟札銘に「北条藤菊丸」と名を残した氏規が、僅か5ヶ月後の同年10月2日に言継卿記で「賀永」という名乗りになっていたことから考えると、氏規の争奪戦はこの年に相当な速度で進んだようだ。

氏康と同盟した後の義元は西へ一気に勢力を広げており、天文19~22年頃には尾張東部(知多・岩崎)にまで達している。この勢いに乗った義元は、氏康の息子を得たのだろう。義元の後継者は氏真しかおらず、その妻に氏康娘を迎えたとしても縁戚関係は不安定だった。

1545(天文14)年11月9日に実績がある(戦国遺文今川氏編783)ことから、この時も寿桂が氏康と義元を仲介して、氏康次男の藤菊丸を氏真予備として養子にする決定がなされた。その後、1556(弘治2)年から三河国で反乱がが相次ぎ、三河の政情が悪化。この対応に苦慮した義元が、一刻も早くという要請を出し、今川家の将来を憂慮した寿桂が口添えしたのかもしれない。

2023/03/30(木)北条氏康の長男は「氏親」か?

氏康長男の実名

北条氏康長男「天用院殿」の実名が「氏親」であるとの仮説を黒田基樹氏が構築しているが、これは『駿河大宅高橋家過去帳一切』のみに依拠している。ところがこの史料は非公開のものらしく、原本の確認がとれていない(新八王子市史通史編2でも出典が黒田氏『伊勢宗瑞』とあり原本確認ができていない)。黒田氏はこの仮説の補強材料として『足利義氏等和歌短冊』に「氏親」の名があるとしているが、これも成立経緯がよく判らない(この史料は栃木県史中世二に収録されている可能性あり)。

更に、この「天用院殿の実名は氏親説」と、その弟に「氏照」がいることを合わせて同氏は、氏康室の瑞渓院殿が、今川義元の正当性を否定し自らの実子が今川家正統であることを訴えるために、息子たちに氏親・氏照の名をつけたと推測している(今川氏親の長男が氏輝)。

「そもそもこの時代に母親が名付け親になっていたのか?」という疑問をとりえずおくとしても、この仮説には時期的な齟齬があるように思う。

先掲過去帳によると天用院殿死亡時年齢は16歳となっているので生年は天文6年。最も若く12歳で元服したとして天文17年。ところが、義元と氏康は天文14年12月には和睦、その後は両者ともに他方面に進軍を開始しており緊張関係は見られない。同じ史料を使ったとしても既にここで大きな疑問が生じる。

そもそも、この政局で氏康は長男に「氏親」と名付けるだろうか? 義元に対して、今川家当主としての正統性に疑義を叩きつけることもあるし、今川家中にいる氏親偏諱の被官を奪うような行動にもなってしまう。氏親の偏諱を受けた被官は多い(文書で確認できるだけでも朝比奈親徳/親孝、岡部親綱、長池親能がいる)。

北条氏照は今川氏輝に関連している?

氏康室が息子に「氏照」と名付けたのが今川氏輝にあやかったというのは更に不可解だ。今川氏輝を「氏照」と書いた高白斎記があるように、「輝=照」なのは当時の当て字風習から理解はできる。ただ、氏照名乗りの初見である1560(永禄3)年10月20日には後北条・今川の同盟は引き続き順調に稼働しており、偏諱の横取りを画策する状況にない(文書で確認できる氏輝偏諱者は、朝比奈輝綱、輝勝、岡部輝忠、四宮輝明、正木輝綱、由比輝満がいる)。ただ、状況としては義元死後ではあり、駿府とほぼ関わりがないだろう氏照の名乗りに対して、それほどの遠慮はしていなかった可能性はある。それよりは、永禄になって他大名への上洛を促したり名馬を所望したりと干渉し始めた足利義輝の方が意識にあったのだろう。義輝が関東国衆へ「輝」を偏諱したとしても、氏照が吸収できる。「照」と字を変えたのはさすがに遠慮があったか。

他の兄弟

他の兄弟を見ても、氏規は義元の元で元服しているが、「氏規=うじのり=氏範」と音が通じているのが象徴的ではある。今川家通字である「範」の当て字を使っている上に仮名も今川当主の「五郎」に繋がる「助五郎」となっている。もしかしたら今川家での元服直後には「助五郎氏範」を名乗っていたのかもしれない(「氏規」表記が出てくるのは永禄6年の『光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚書』で、関東衆ではなく三河衆として「北条助五郎氏規、氏康次男」として「松平蔵人元康、三河」の直前に書かれている)。京都から見た氏規は家康と絡んだ存在だったのかも。

氏邦は藤田泰邦に養子入りした関係で「邦」を継いだと思われる。

どちらも、元服時にいた家の事情によって命名されている。

氏康長男の実名の推測

私の仮説では、天用院殿は仮名「新九郎」とともに実名「氏政」を名乗っていて、それを次男が継承したとなる。「氏政」は上杉憲政の偏諱簒奪が目的の政治的な命名なのは、憲政がそれを避けるために「憲当」に改名していることから判る(読み方は同じで字だけ変えている)。

しかし、憲政改名は天文14年5月27日~15年4月22日の間で、氏政の登場とは時期が合わない。これをどう考えるべきか考えていたが、憲政を改名させたのは「氏政の前の氏政」がいたからと考えればすっきりする(親子・兄弟で実名を同じにする例は存在する)。

紛らわしいので、ここより以降は最初の氏政(天用院殿)を氏政1、よく知られている次の氏政を氏政2と記述する。

通説だと氏康婚姻は天文4年とされるが、この年だと氏康が20歳で少々遅い。天文2年頃には娶っていたのではないかと思う。この翌々年に長男が生まれたとすると天文15年に12歳となり、元服は可能。前年12月に成立した三国同盟を受けて元服し「氏政」を名乗った。それを知った憲政が偏諱乗っ取りを嫌って「憲当」に改名した(ただ、憲政を名乗ったりもして不規則に変化する、また長尾当長とされる人物も文書だと「政長」を名乗っていて不明瞭な部分は残る)。

憲当は天文21年5月には本拠地失陥が確実になっているが、その直前の3月に氏政1が18歳で早逝してしまう。そこで次男が元服し氏政2となった(氏政2の生年は諸説あるが最も遅い天文10年だったとしても当時12歳で元服は可能)。

憲政改名に「氏政」の偏諱奪取があったとする仮説を組み立てていたが、上杉が上野国を失った後に氏政が登場してきており、ここは疑問だった。しかし、氏政1の存在を考慮するとすっきりと話が繋がる。

ひとまず、ここまでの仮説を年表風にまとめてみる。

  • 天文14年12月:三国同盟成立
  • 天文15年1月:氏政(天用院殿)元服※12歳だとして天文4年生まれで恐らく婚姻翌年の誕生※氏政誕生は天文7~10年、氏規誕生は天文14年

  • 天文15年:4月26日までは「憲政」、7月5日には「憲当」

  • 天文21年3月:天用院殿死去(天文4年生なら享年18歳、氏政は12~15歳、黄梅院は10歳)
  • 天文23年に氏政婚姻(氏政は14~17歳、黄梅院は12歳)

  • 天文3以前:氏康(大聖寺殿)が氏親娘(瑞渓院殿)を娶る

  • 天文4:氏政1(天用院殿)誕生
  • 天文6:氏繁室(新光院殿)誕生
  • 天文9:氏政2(慈雲院殿)誕生
  • 天文14:氏規(一睡院殿)誕生
  • 天文17:氏真室(蔵春院殿)誕生(1554(天文23)年に6歳で嫁入りし1570(元亀元)年に22歳で長男出産)

※氏照・氏邦・三郎景虎、足利義氏室・太田氏資室・武田勝頼室は母が別か養子の可能性を考慮してひとまず除外