和歌が苦手なのをどうしたものか


先日知り合いより、冷泉家主催の和歌についての講演会に誘われた。私が歴史好きなのを知っているので、打診してくれたようだ。しかし、残念ながら苦手なのである。クラシック音楽を聴くのと同じで、鑑賞すると猛烈な眠気が襲ってくる。生まれついての散文人間なのだと思う。

ところが、史料の読み込みで和歌が出てくることも多いのが悩みどころ。冷泉為和の日記に「河つらとハ今河家ニ禁也、同嶋も禁也、殊新嶋一段不吉」という意味深な表記が出てくる。川面・島が禁句であり、特に「新島」は一段と不吉だというのだ。謎の死を遂げた今川氏輝について、今川系図で「入水」とつなげられていることが思い起こされる。安倍川に出来た新しい中州で何かあったのか……。

という辺りで私の探求は終わる。何故なら、川面・島を禁句とするのがどの程度異常なのか不明なのだ。その時の歌も引用されているものの、アップ時の解釈文では完全に省略している始末。やはりある程度は和歌のたしなみがないと、今後どんどん厳しくなってくる予感がしている。

以前神保町にて掘り出した『戦国時代和歌集』(1944年・川田順著)を紐解いてみようかと思う今日この頃。

昔の人の距離感覚


大村家盛紀行文によると、彼は1日辺り8~9里(32~36km)歩いて旅行している。1日頑張るのであれば現代人でも可能だと思うが、備中国から武蔵国までこのような速度で移動するのは不可能だと思う。
とはいえ不可能だと思うのは戦後以降になって初めてかも知れない。私の親戚の話を聞いたことがあるが、太平洋戦争最末期から戦後の混乱期にかけて、静岡県三島の楽寿園のそばから神奈川県小田原の酒匂まで10歳前後の兄弟二人、1日かけて歩いて来ていたというのだ。国道1号線をまっすぐなので、迷うことはない。また、見つけた自動車が止まってくれて、よく乗せてくれたともいう。近年でも浮浪者が徒歩で箱根越えをしている。
しかし、往路それで遊びに来て、帰路に祖母が汽車賃を与えても「もったいないから小遣いにしたい」と言ってまた歩いて帰ったという。とても信じられない話だが、当事者から直接話を聞いたのでソースとしては確実である。
三島と小田原の距離は大体30km。山越えという点を考慮すると、戦国期の大人以上の移動能力を発揮したことになる。さすがにそれはないと思うので、ヒッチハイクの成功率が高かったような気はする。ただし、ヒッチハイクできなければ30kmを歩かねばならない訳で「それなら子供でも1日で歩ける」という感覚を当時の人々は持っていたことは確実だ。

『戦国時代古文書入力用辞書セット』 for Windows IME


閉館時刻間際の国会図書館。机上には『愛知県史』、『戦国遺文 武田氏編』。付箋でマーキングした文書は20件以上で、とても間に合いそうにない。が、今を逃せばデータ起こしできるのは2ヶ月以上先になってしまう……。

ところが、変体漢文を普通の変換処理で入力すると、途轍もなく手間がかかる。「候へく候」は、「sourou heku sourou」とやたら長いし、「ところ」と入力した場合も「所」か「処」のどちらかになるのだが、まともに変換するとずらっと候補が並んで見づらいことこの上ない。「鬮」や「訖」は出てこないし、「廿」「卅」も変換不能である。

ということで、時間短縮するため、ユーザ辞書を作り出すことにした。頻出の「候」は「sr」、「仍如件」は「yk」、「処・所」は「sy」を当てている。GPLによる配布となるので、ソース明記があれば改変も再配布も自由である。興味がある方はご活用を。
具体的な内容は、元号からと西暦の何れかから、元号(西暦)に変換できるものと、以下のリストのような変体漢文の具体的入力に特化したものに分かれている。WindowsのIMEであれば、ユーザ辞書ツールの「ツール → テキストファイルからの登録」で読み込めばインポート完了となる。

rek_jp_dic(29.76KB)←ここをクリックしてダウンロード
WindowsIMEへの登録方法が判らない方はこちら

□hentai_kanbun.txtの内容一覧

読み 変換候補 品詞名
sr 名詞
srj 候条 名詞
sら 候間 名詞
sy 名詞
sy 名詞
yk 仍状如件 名詞
yk 仍如件 名詞
あらためて 改而 名詞
ある 名詞
いい 名詞
いい 名詞
いえども 名詞
いじょう 已上 名詞
いみな 名詞
いよいよ 名詞
いらん 違乱 名詞
いんぱん 印判 名詞
名詞
うえもん 右衛門 名詞
うちとり 討捕 名詞
うちとる 討捕 名詞
うへい 右兵衛 名詞
うへえ 右兵衛 名詞
おいて 名詞
おわんぬ 名詞
名詞
かげ 名詞
かさねて 重而 名詞
かねて 兼而 名詞
きょうこう 向後 名詞
ぎょうぶ 刑部 名詞
くじ 名詞
くるわ 曲輪 名詞
名詞
げち 下知 名詞
ごうりき 合力 名詞
こきゃく 沽却 名詞
ここ 名詞
ここにより 因茲 名詞
ここもと 爰許 名詞
こにだ 小荷駄 名詞
これ 名詞
こんぼう 悃望 名詞
さえもん 左衛門 名詞
さて 名詞
さね 名詞
ざね 名詞
さへい 左兵衛 名詞
さへえ 左兵衛 名詞
さんじゅう 名詞
しかれば 然者 名詞
しき 名詞
しゅう 名詞
じょう 名詞
じょう 名詞
じょう 名詞
しょうゆう 少輔 名詞
しょむ 所務 名詞
じんぷ 陣夫 名詞
すえ 名詞
すけ 名詞
すなわち 名詞
すんしゅう 駿州 名詞
そうふ 崇孚 名詞
たい 名詞
たか 名詞
たしか 名詞
ただ 名詞
たのみ 名詞
だゆう 大輔 名詞
ちか 名詞
ちくぼく 竹木 名詞
ちゅう 名詞
ついて 名詞
つきて 付而 名詞
てっぽう 鉄炮 名詞
とかく 菟角 名詞
とも 名詞
なかんずく 就中 名詞
ならび 名詞
名詞
にんしゅう 人衆 名詞
にんそく 人足 名詞
にんぷ 人夫 名詞
のうしゅう 濃州 名詞
のり 名詞
はしりめぐ 走廻 ら行五段
はしりめぐり 走廻 名詞
はたまた 将又 名詞
はなはだ 名詞
はなはだ 名詞
はんぎょう 判形 名詞
びしゅう 尾州 名詞
ひてい 比定 名詞
ひょうろう 兵粮 名詞
名詞
べき 名詞
べく 名詞
べっして 別而 名詞
ほう 名詞
ほうき 伯耆 名詞
まこと 名詞
まさ 名詞
まじく 間敷 名詞
みち 名詞
みつ 名詞
むねべつ 棟別 名詞
もうし 名詞
もうしいれ 申入 名詞
もうしつけ 申付 名詞
もうす 名詞
もって 名詞
やがて 名詞
よって 名詞
より 名詞
より 名詞
よりおや 寄親 名詞
よりこ 寄子 名詞
よる 名詞
らくきょ 落居 名詞
られ 名詞

軍監が女性だったらと考えてみる


どの戦で天守が「司令塔」だったのか??

上記はいつも拝読している『城の再発見!』ブログのエントリーだが、大坂夏の陣屏風絵で描かれた天守では窓に女性の顔があることを指摘している。また、城主が天守に登るのは落城が決定的になった時であること、天守は大奥・詰めの曲輪に連結していることも触れられている。そして、天守自体は鉄炮・大砲の的になるのに、なぜ女性が存在するかは疑問だとされている。

天守は人質を入れていたと考えると、ある程度納得はいく。陣地の奥なら守り易く逃げられにくいだろう。ただ、天守から戦場を見下ろした女性たちが、軍監も兼ねていたと考えることも可能だ。戦っている父・兄弟・夫・息子の活躍を熱心に見て勤務評定につなげただろうし、男たちもそれを意識して指物や前立を目立つようにしたのだろう。

鈴木眞哉氏は『戦国軍事史への挑戦 ~疑問だらけの戦国合戦像 』(歴史新書y)にて、戦場での勤務評定が具体的にどのようになされていたかは不明としているが、野戦も含めて女性軍監がいたと考えるのも一案ではないかと思う。その利点・不利点を挙げてみる。

利点

  1. 男が敵前逃亡できない
  2. 居住地域ごとに軍監も編成されており、抜け駆けなどは軍監同士で相互監視
  3. 他人の監査ではないため、納得性が高い
  4. 人質も兼ねて軍と移動を共にするため、留守中敵方に内通できない

不利点

  1. 急速に戦線が崩壊した場合、軍監(人質)まで拉致される危険がある
  2. 女性内での序列が勤務評定に影響する可能性がある
  3. 軍監部隊が大きくなり、補給物資の量が増大する

現在この考えに史料的根拠はないが、後北条氏が人質の管理を民間に委託していたりという意外な事実が徐々に明らかになっていることもあり、可能性はゼロではない。この留意点に立って、いくつか史料を当たってみようかと思う。

女性たちが熱心に見守り、声援を送る。これは兵士のモチベーションを上げる最強の手段だと思う。そう考えて改めて天守を観察すると、優美な様式のものが存在する理由も判りやすい。そして、会津若松の天守が燃えていると勘違いした白虎隊の絶望には「母や姉妹が焼かれて誰も見守るものがいない」という切迫したものが含まれていたのかも知れない。

中津城売却先決定


中津に関するエントリを上げた矢先の10月4日、7月より模索されていた売却先が埼玉の法人に決定した。先年ようやく成瀬家から公のものになった犬山城と同じく、中津城も奥平家所有だったそうだ。中津市と交渉していたが1億5,000万円の売却金額・事前耐震検査の是非を巡って決裂し、インターネットを経由して売却先を探していた。今回の売却金額は5,000万円。安いと見るか高いと見るか。

売却益で天守の直下にある奥平神社の修繕をするそうだが、確かに雑草が生えかかって大変そうだった。本丸にはこのほかに城井神社・中津大神宮・金比羅神社などが林立する。過疎化が進む中で、神社の結婚式も減り観光客も減ったのだという情報がネット上にあった。

その一方で、今川義元に大高兵粮入れでの戦闘を称えられていた奥平定勝の子孫が、よくぞここまで城を保ったという感慨もある。成瀬・奥平ともに21世紀まで城を守り奥三河国人の面目を施したと言えるだろう。

幕末ブームについて思うこと


NHK大河ドラマの影響からか、坂本竜馬を中心とした幕末書籍やテレビ番組が多い。歴史に興味を持つ人が増えるのは嬉しいことだと思う。

ところが個人的には、幕末の思想背景は模糊としており、すっきりしなかったので馴染みがない。曖昧な割に、通史では「尊皇攘夷」「公武合体」「開国論」「征韓論」などなど、イデオローグで人々が行動したように描かれる(「勝てば官軍負ければ賊軍」は維新後の言葉らしいが)。特に攘夷は判りづらい。水戸藩・萩(山口)藩が突出した攘夷原理主義のようではあるが、孝明天皇のそれとどう違うのか。

『攘夷の幕末史』(講談社現代新書・町田明広著)を読んだところ、尊皇攘夷VS公武合体の対立構造がおかしいのではないか、という指摘があり幕末への視野が少し開けた感があった。尊皇と攘夷は別物であり、当時の日本では殆どの人間が尊皇と攘夷を掲げていたという。但し、勅命を最優先する直接尊皇と、陪臣であることから台命(大政委任による幕府経由の勅命)を優先する間接尊皇が存在したとのこと。

攘夷の方は古来より存在する「朝鮮を日本の朝貢国にして天皇制を確立したい」という願望と連動しており、「とりあえず外国を追い払ってから侵略」派(小攘夷)と、「とりあえず開国して戦備を備えてから侵略」派(大攘夷)に分かれていた。

何れにせよ攘夷は侵略概念であり、当時の日本では海外侵略を行なうことは国是として認識されていた。一見弱腰外交に見える幕府要人も征韓論を意識していたし、勝海舟・坂本竜馬も侵略を前提に開国を語っている。

東アジアの華夷秩序内で「天皇」という小皇帝を内包した段階から、自分たちへの朝貢国探しが始まり、三韓征伐伝説・羽柴氏の朝鮮出兵・日清戦争・日露戦争を経て太平洋戦争まで突き進んだ侵略概念が、攘夷なのだという(琉球・朝鮮通信使もこの文脈に合致する)。

これはとても腑に落ちる意見だ。日清戦争以降の戦いについて「西欧列強が植民地政策を進めたため日本も追随した」という言説をよく聞くが、「元からあった攘夷(侵略)概念が近世猛烈に増幅され、列強の施策に便乗する形で発露した」と考えたほうが、幕末になぜ攘夷という言葉がしきりと使われたのか判然とする。

個人的には、攘夷はイデオローグだけでなく、貿易と外貨兌換率を巡る経済主張でもあったと思うのだが、この辺りは金本位制を巡る経済論になるので改めて考察してみたい。

ちなみに、過日中津を訪れる機会があったが、この地方では幕末期、蘭癖大名として著名だった奥平昌高の意を受け、医学を中心として様々な活動をしていた。そういった事柄は全て郷土史でしかなく、ただ福沢諭吉の出生地としてのみ語られている印象がある。

単に私がこの時代について無知過ぎるのかも知れないが、特定の英雄だけが突出して掘り下げられる傾向は厳然として存在しているように思う。

ただ、その状況はインターネットによる情報発信で大きく改善される可能性があると信じている。これまで発信手段のなかった郷土史家が、ネット上で様々な人物を紹介してつなげていくという作業も可能ではないかと。その過程で激しい議論もあるだろうし、拒否される意見も出るとは思うが、通り一遍だった歴史が、地域ごとに多元性を持つ好機でもあるだろう。