古文書データの非公開化

5月 6th, 2016

これまでアップロードしてきた古文書のデータを整理してきたが、データに問題があったため一括で非表示とする。

そのため文書の参照リンクが機能しなくなるので、暫定的にCSVファイルを設置する。

ファイルの列は以下の順になっている。

URLのID番号、文書概要文、文書本体、末尾部分(月日/差出人/宛所)、出典と補足、年、月日、比定か実記かの分類

日記や伝承類、文書番号が確認できなかったデータは含まれていないのでご留意いただきたい。

推論部分は6月中に非公開とする予定。

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翻訳と解釈

4月 24th, 2016

翻刻された文言を、現代語に置き換えたものを私は「解釈」と呼んでいる。「現代語訳=翻訳」ではないからだ。翻訳とは、2つの言語を使う人同士をつなぐことを示すのが一般的な語義だろうと思う。たとえば、英語しか話せない者に、日本語の意味を解釈して英語に変換する作業が翻訳だ。これは互いの話者が同時に生きているから成り立つ。ところが古文書だとそうはいかない。

明後六日ニ鯛卅枚、あわひ百盃、相調可持来候、替り者、於此方可被為渡候由、被仰出候、始而之御用被仰付候間、少も無如在、必ゝ六日ニ者、夜通も可持来候、至無沙汰者、可為曲事候、御肴共ふゑん可相調者也、仍如件、『戦国遺文後北条氏編2613』

上の文書で北条氏繁の奥さんが頼んだことは、実は確認のしようがない。この言語を話せる人間は死滅しているからだ。だから一方的な解釈を行なうことはできても、それで意味が合っていたかは判らない。そしてまた、戦国遺文で「ふゑん」は「無塩」だと注記してあるが、これが正しいのかも厳密に確認はできない。

もし彼女が生きていたら、塩を振っていない鯛と鮑を持ち込んだ際にその解釈の正否が判り、その「解釈」は「翻訳」へと一気に昇格できるのだろう。

そうした考えがあって、私は自戒を込めて「解釈」として現代語に置き換えたものをアップロードし続けた。

そしてその解釈は、文書ごとにサイトに掲載してきた。これは、全くの独学で解読する知識がなかったために、逐語訳を積み重ねていき、過去分から検索して意味を整合していくために必要だったからだ。だから初期の置き換えでは現代語に寄り添っていたが、ここ最近は「現代語に適当なものがなければそのまま」にしていた。

自力で語彙を増やすには文書を読んで仮の解釈を重ねていくしかなかった。

各種辞書を活用したとしても、掲載されていないとか、意味が明らかに違うということもあって参考程度にしかならなかった。「令」「被」「急度」「一両人」などは、個別に文書内の実例を追っていくことで、この時代の今川・後北条で用いられていた語義と辞書に掲載されている用法が異なることが判った。

その一方で、語彙によって意味の近似値を探る意図以外にも、なるべく全ての原文と解釈文を掲載したかったという目論見もある。

文書は1つの伝達パッケージである。その中でごく一部分しか提示せずに推論するのは間違っていると考えていたからだ。文章全体を俯瞰して、書き手がどういう意図を他に持っているのか、宛所に対して何を伝えたがっているのかを見るべきだ。

とはいえ、必要な数語のために、とてつもなく長い書状をデータに起こす時には躊躇いを感じた。できれば部分だけをデータ化して済ましてしまいたかったのが本音だ。だが、そうやって勝手に切り取る権限は自分にはないとの思いで全文を掲出し続けた。

結果として、その推論時には興味がなかった文が後でヒントになることが多かったし、語の用例を増やすという副産物は貴重なものだった。だからそこまでの自分の判断はそう間違ったものではないと考えている。

では、どこで道を踏み外したのだろう。そうやって僅かずつでも解釈を重ねてきたのに、何故専門書と見解の相違が出てきてしまったのか。

根本的な過ちがあるとすれば、方法は正しいとして、それを試みた私自身の資質が至らなかったという点、解釈の基点となる蓄積文書数が少ないうえ採録傾向が偏っていた点(気の向くままに採取した文書が1,144件、本文総文字数で174,036字でしかない)が挙げられる。

資質の至らなさは今更どうこうなるものでもないので一先ず措く。一方で、文書数の偏向と蓄積の少なさは今後少しずつでも改善していければとは思う。だが、データを見ると年比定や文書番号でかなりの不備が見つかっていてそれを修正中という体たらく。これまで行なってきた推論は一旦破棄して、ゼロから思考実験のやり直しをするしかないだろう。

誤解釈の疑い

2月 14th, 2016

遺構が刻々と失われている状況で全国の城跡を調査することは、大変意義深い活動だと思っている。職業的な研究者では到底手が回らない部分を、アマチュアが主体的に調べて開示してくれている。

その一方で、翻刻された文書の解釈は100年後に行なっても構わないものだ。むしろ、新出史料や翻刻史料が年を追って増加することを踏まえると、今の時点で解釈を行なうこと自体、後考への悪影響になる可能性も高い。大局的に考えるならば、アマチュアの自分が行なってきた自己流の解釈と仮説構築について暗澹とした思いを禁じえない。

勿論、視点の異なる人間によって、同じ文書であっても異なる解釈が出てくる可能性はある。だから自己流の解釈をネット上に公開することで、後世参考になる仮説を導く契機になるかも知れない。

しかしそれとても、他の先行研究での文書解釈との齟齬がないという前提によって、自らの我流解釈への客観的信頼を担保できなければならないだろう。

2014年秋頃から顕著になってきたが、考察の参考にしようと書籍や論文を手に入れても、解釈の違いが気になって先に進むのが容易ではない。何とか手がかりを得ようと関連する文書を色々と読んでみるのだが、自分の解釈がどうして違ってしまうのかすら把握できずにいる。

独習する者にとってこれは非常に重い。読んだ文書の数は徐々にだが増えているのだから、知識不足というよりも、能力不足が原因だと結論付けられる。無自覚に解釈方向が捻じ曲がってしまっており、自己修正できていないのだろう。

このような状態で私の解釈を開示し続けるのは、歴史を調べる多くの方々への悪影響となる。だから一旦はサイトごと消去してしまおうかと考えてみた。ところがそれでは、この後で私と同じ手法を試みるアマチュアが出てきた際に、同じ轍を踏むことになると思い当たった。

私が試みている解釈法は、文書をデータ化して、似た文言が現れたところで比較して語彙を増やしていく手順である。目の前にある翻刻だけから解釈を試みたので、このやり方になった。後に『古文書・古記録語辞典』『時代別国語大辞典』も参考にしていくようになったが、基本的な手法は変わっていない。

無我夢中で解釈を重ねて来たのだけど、ふと気づけば自分の過去の解釈を真に批判してみた事がなかった。まずはこれをやってみよう。

うまく行かない確率の方が高そうだが、それならそれで、素人がこれを試みた結果、何がどう破綻していったのかを詳細にレポートすることで、幾許か世の中に貢献できるだろう。

どのように検証していくか、長考が続く……。

編著史料『福島太夫殿御事』冒頭部分

10月 17th, 2015

慶長三年戊戌八月十八日、太閤様御他界、其前兼御遺言秀頼十五歳成候迄、家康輝元一年代り大坂に被相詰仕置き御頼候、其外諸大名も一年代はり相詰候様にとの儀、秀頼江無沙汰仕間敷旨、各起請文仕候得之由、諸大名不残上巻に起請文致、此時家康公明年中大坂御詰に成る、景勝越後より奥州江国替仕候に付、三年在京御免に候然共、諸大名誓紙景勝一人不被致候、景勝登誓紙可有旨、家康公被仰越候得共、景勝返事、三年在京御免にて罷登申間敷候返事に付、家康公より再三被仰遣候得共、兎角得心不仕候て荒々敷返事故、家康公御立腹、我等迎に可参との御事にて江戸へ御下り被成、諸大名景勝むほん仕候とて追々関東江下り被申候、家康公御先手被遊候何も宇津宮迄御出陣被成候処に、上方にて石田治部少輔むほん企候に付、家康公ハ私成仕置ふとゝき成儀にて御坐候とて、毛利殿御上り候て大坂御番被成候得と、安国寺を使に遣し、早速輝元大坂へ上り被申候、此旨宇津宮江聞へ家康公被仰様々、景勝を致退治候後上方江打向可申候、各大坂に妻子在之間、是より早々上方へ御上り候得と被仰付候、其時福島左衛門太夫被申候ハ、私義治部少輔と一味仕候筋目無御坐候、大坂へ妻子治部少輔に渡し人しちにてハ無御坐候、たとへ串に指候共男之ひけにハ罷成間敷候間捨候と申候て、惣領刑部是江召れ候間家康公へ人志ちに進候、是より上方へ御先手可仕候、上方にて御人数・兵粮之義、私太閤様より十万石御代官所預七年分之米尾州に納置候間三十万石程と御用可罷立候、景勝義ハ先御捨置、上方江御出馬御尤に奉存候と被申候、左衛門太夫様々申候故、細川越中守殿・池田三左衛門殿・浅野紀伊守殿・田中筑後殿・堀尾信濃守殿、其外諸大名家康公御味方可仕と被申候共、家康公上方江之御出馬跡より御登り可被成との義に付、井伊兵部殿御名代に御登せ被遊候

<後略 以下、池田輝政と交互に先陣として移動しつつ清州に達し岐阜城を攻略するくだりに至る>

 

松平家を守った「しんさう」

8月 18th, 2015

井伊谷の幼主である次郎法師について以前考察したが、同様のことがその10年以上前に岡崎で起きていた。

1556(弘治2)年に大仙寺の寺領が脅かされた事件である。まず時系列で見ていく。

最初に現われたのは今川家当主の義元が発行した判物である。

先行する判形があったが紛失したとのことで重ねて判形を出す。後々に至り、あの紛失した判形が出てきて、譲り状があると虚偽の申請をする者があるならば、取り調べて成敗を加えるものである。

 と書かれており、紛失した判形を改竄して不当な申し出をする者がいることを前提としている。その3日後には元服したばかりと思われる松平元信(家康)がほぼ同文の判物を出している。

前の寄進状を出そうとする者は、盗人とするだろう。

この中でも「前之寄進状出し候ハん者ハ、可為盗人候」と、不穏な文言が含まれている。そしてこの判物に花押はなく、印が据えられている。この印については後述する。

 元信と同日、「しんさう」という人物(恐らく女性)がより生々しい形で告発をする。解釈文を引用しよう。

 返す返すも大仙寺のこと、道幹にも今の三郎にも、私は仕えて来ました。この寺は私の寺ですから、どこであろうとも口出しすることはなりません。
 大仙寺寄進状ですが、前にお出ししたものを誰かに盗まれてしまったと、そのように申してきました。重ねて三郎(元信)が寄進状をお出しします。印判のことは、まだ誰ともこのようなことをしていなかったので、私の押判を押してお出しします。どんな時もこのようなことに判を押す場合は、この寄進状に似せてお出しすることでしょう。前の盗まれた物にも3文字の判はありません。前の寄進状を出す者は盗人でしょう。そのために、私から一筆差し上げました。

 この書状には花押も印もない。それなのに「われゝゝかおしはんをおしてまいらせ候=私の押判を押してお出しします」と書いているのは、元信の判物に押された印が「しんそう」のものだからである。それは以下の書状・寄進状で過去使われていた。

 「たいよ」宛ての寄進状には1542(天文11)年9月20日の日付がある。現在となっては印文は未詳だが、「しんさう」いわく3文字ではないものだったのだろう。これは家康が生まれる直前で、まだ広忠が健在の頃。男系が一旦途絶える前に、彼女は黒印状を発給していた。

 これらの史料から、状況を整理してみる。

 この事件を積極的に解決しようとしたのは「しんさう」で間違いない。文章を見ても怒りが伝わってくる。そこで彼女は義元に訴えて今川家から寄進状を兼ねて寺領を保護する判物を出してもらった。

 しかし、3文字だという偽の印の存在を大仙寺から聞いていたため、元信にも同文の判物を発行させ、その印として自身のものを流用した。更に駄目押しで状況を細かく伝えた書状を送った。

 これだけのことができるのは、この時駿府にいたからだと思われる。また、義元に紋切り型ではなく今回の事情に即した改変を加えさせていることから、発言力もある程度もっていたのだろう。

 このように、一門の長老がいて幼い後継者を輔弼できた点は、井伊谷とは様相が異なっている。今川義元や朝比奈泰能、太原崇孚も色々介入して当地を助けてはいたが、彼らだけではやはり混乱しただろうと思う。偽印まで横行して混乱していた状況が放置されたなら、後に松平元康が自立するのは難しかったのではないだろうか。

井伊谷の帰属 2 正徳に誕生した井伊谷伝説

7月 30th, 2015

 『細江町史資料編4』に所収されている『井伊家伝記』の説明は以下。

最近、龍潭寺へ合併された中川の大藤寺に所蔵されていた文書で、祖山和尚が当時の古記録や言い伝えを基に、井伊家の由緒を正徳五年八月十五日に書き上げた草校で、上下二巻を合本してある。大藤寺境内は、井伊直親が住み、直政が生まれた処で、後に直親の菩提を弔う寺になった。

 1715(正徳5)年というと、井伊家が井伊谷を追われてから146年経っている。なぜこのタイミングだったかは、前述した『一八世紀前半遠州井伊谷における由緒の形成について』に事情が描かれている。1711(正徳元)年に『井之出入』という争論が発生した。井伊谷にある龍潭寺と正楽寺の間で、井伊氏始祖の伝承を持つ井戸の修理担当を奪い合った。

 この当時、井伊谷周辺を支配していたのは近藤氏で、5家(井伊谷・気賀・金指・大谷・花平)に分かれているものの一族総石高は1万石を超える大身の旗本である。正楽寺が当初井戸を管理しており、それは近藤氏が承認している。しかし戦国期に井戸を管理していた龍潭寺が現状を認めず、寺社奉行に訴えた。最終的には、井伊氏指示のもと龍潭寺が井戸を管理することが確定し、以後は井伊家当主が龍潭寺に参詣するなど、緊密な関係を築くこととなった。

 訴訟当時の彦根・与板の両井伊氏は龍潭寺の伝承に興味がなかったが、訴訟が進むにつれ段々と始祖伝承を共有していったという夏目氏の指摘から、龍潭寺側もその熱意に対応して『井伊家伝記』をしつらえたと見られる。

 しかしその記述は、同時代史料とは大きく矛盾する構成になっている。なぜか今川氏真が井伊家当主を付け狙うようになり、家老の小野但馬が讒言を繰り返している。そして最大の齟齬が次郎法師の存在だろう。

「備中次郎と申名は、井伊家惣領の名、次郎法師は女にこそあれ井伊家惣領に生れ候間、僧俗の名を兼て次郎法師とは無是非南渓和尚御付被成候名なり」

 次郎が井伊家の伝統的な仮名なのは正しいが、受領が備中というのは疑問。少なくとも直政の父は信濃守を称していた痕跡がある。僧俗の名を兼ねるために『法師』を付けたというのは、聞いたことがない。

幼名 実名
次郎法師 赤松政則
小法師 菅沼貞吉
吉法師 織田信長
三法師 織田秀信
塩法師 大友義鎮
彦法師 鍋島直茂
千法師 吉川興経
長法師 竜造寺隆信

 Webで検索しただけなので厳密ではないが、他大名のどの法師も基本的に男児の幼名として扱われている。彼らとの明確な差異がない限り「次郎法師という名前は女性も名乗れる」とは判断できない(そもそも、1715年という後世史料しか根拠がない状態では次郎法師・直虎が女性という説は首肯できない)。

 そして「次郎法師は成人した女性」という設定にしてしまったために、『井伊家伝記』は迷走を繰り返す。直政が嫡流ではなくなってしまったり、その女性の周辺の継承候補者を除外(殺したり、国外逃亡させたり)しなくてはならなくなってしまった。

 少し踏み込んで当時の状況を考えてみよう。既に見たように、井伊氏が谷を出た時の状況は余り体裁のいいものではなかった。一方で、谷のすぐ南にいた堀江城の大沢氏は徳川方を相手に一歩も引かず、今川氏真の許可を得た上で降伏した。その後は吉良・今川・武田・畠山と同じく高家として高い格式を持った旗本になった。そして井伊谷は実質大名クラスの実力を持つ近藤氏が支配している。

 親藩筆頭で大老格である井伊家中が祖先の武功を誇る際に、大沢氏と近藤氏は非常に厄介な存在となる。『井伊家伝記』ではこの2家との直接比較を避けつつ、上位権力者である今川氏からの執拗な当主殺害と、当主が女性だったという言い訳を付け、自尊心を保とうとした試みではないだろうか。