一小田原請取之役所ニ可置者三人、此内壱人竹木以下可出入、手代之者二本鑓持之内、以上三人、諸色之武具如定可指置、此外十人参陣、一乍毎度之儀、参陣之者、弓一人無不足、兼日如定置厳密ニ相嗜、可致参陣事、一留主ニ置者之交名悉相記、来十六日ニ上之、役所へ者、廿日ニ可置付事、以上、

[虎朱印]

三月十二日

岡本八郎左衛門殿

→「北条家朱印状写」(安得虎子十)

 定め書き。一、小田原の受け取り役所に3名置いて下さい。このうち1人は竹木を出し入れさせ、手代の者は2本槍持ちとしますので3名となります。様々な武具は定められた通りに配置しなさい。このほか10人が参陣します。一、毎度のことながら、参陣の者は弓1人の不足もなく、かねてから定めておいたように厳密に用意し、参陣すること。一、留守に置く者は一覧に名前を必ず記入し、来る16日にこれを上げよ。役所へは20日に提出すること。

 戦場を指す言葉として、「地名+口・表」がある。時代別国語辞典によると、以下のように定義されている。

2-5 地名につけて、そこへの出入り口に当たることを示す。

2-2 戦場で、直接敵と戦う前線。陣や隊列の先頭。

 アップした用例から考えて、この定義で合っているかを調べてみよう。

形部口より気賀へ働候衆七八百
殊於河窪口伏兵砌
其上於平方口
於嵩山市場口長沢
去年五月廿八日富永口へ各相動引退候刻
今度当口指立人数知久・下条・松房・市田被加退治候
諸口御味方相調
於土居口合戦被討捕山田惣三郎
早ゝ千喜良口へ被引出可給候
其口之儀、悉皆任入候
仍当口之様躰
下総口之事
就越国之凶徒沼田口令越山
去五月十九日於尾州大高口
於当国興国寺口今沢
早ゝ当口へ可移候
作手筋諸口苅田動之儀申付之

 『口』の場合は、地名と密接に関係しており、どれも戦闘と関係している。既に臨戦態勢に入っているか、軍事的緊張状態にあると定義してよさそうだ。指定可能な範囲は狭く、1つの作戦で複数分立しているケースも見られる(諸口)。表の場合「諸表」とは言わない。拠点防御と密接に関係していたのだろう。

其表之儀、本庄逆心付而、去初冬ヨリ御在陣
安点良表江国中衆出勢与相見候
其表之御備具披露御報可畏入候
仍其表遂日御利運之由
其表相替子細無之候哉
此表皆ゝ同心之者共、可申聞候
然者其表之事、弥馳走可為祝着候
先以其表無異儀候由
広瀬領償之儀一円可申付、但年来伊保梅坪表江令扶助分者可除之
今般佐竹義重向于当表動候処
来年西表与至于弓矢者
仍興国寺表へ遣人衆
弥其表之儀、馳走可為祝着候
敵信州表江就罷出候
此表者焼動迄之事候条

 こちらも同じく、軍事的緊張を前提としている。ただ、「口」よりは漠然とした範囲を示しているようだ。「西表」と方角と組み合わせているため、現代語に置き換えるならば、「~のほう」や「~方面」という訳語になるだろう。

 まとめるならば、「表」が広くあって、その下に狭く「口」があるという関係になると想像されるが、管見の限りではそのような用例は見られず、両語は別々に語られている。この点の解明は課題である。

 2007年8月27日にWikiからBlogへ変更されてから、早いもので3年が経過した。Pukiwikiで記事をアップしていた頃から勘定すると、5年超である。紆余曲折ありつつ今川義元敗死の原因を追究し続けてきた。

 450周年であり、私の年齢が義元享年と近づく2010年には一旦結論を出したかったものの、それは叶わなかった。2011年2月に刊行される『戦国遺文 今川氏編2』で史料を見るまでは鳴海原合戦の検証は完結しないためだ。とはいえ現状入手できる史料のアップロードが終了しているため、史料探索は鳴海原からずれていく。興味の対象が徐々に1561(永禄4)年の小田原合戦に移っていることもある。山内憲政を中心に考えると、この遠征にはいくつか疑問点が出てくる。史料を揃えたらそれらを検討してみたい。

 鳴海原合戦に関しては、直接関与する織田氏関係の文書は1点しかない(佐久間信盛書状)。何らかの形で刊行されることがあれば採取したいが見込みは薄い。
 織田氏系の史料として取り上げられているのが『信長公記首巻』だが、当サイトで検証した通り厳密な史料というよりは荒唐無稽な講談に近い内容である。本来であれば『信長公記』全般の記事を全て検証して、首巻の『桶狭間』と比較してみる手法もあるが、書誌学に近くなってしまうこともあって現状では見送っている。

 三河国の大給城に拠点を置いた大給松平氏が、今川氏にどのように扱われていたかを史料から考察する。まず、永正期に伊勢宗瑞指揮下、信濃国小笠原氏と共同で行なった遠江・三河遠征に関係するものを挙げる。

A:1516(永正13 [...]

 服属した三河国人を、今川氏がどのように扱ったを提示してみようと思う。牧野保成は、1546(天文15)年には今川氏に所属している。
1546(天文15)年10月16日 牧野保成条目写
所領の不入を今川氏奉行に認定してもら [...]

禁制
一 殺生事
一 山林伐取竹木事
一 於寺中并門前狼籍之事
右、於違犯之輩者、忽可被処厳科、仍如件、
天文十四年二月十五日
頭陀寺

→戦国遺文 今川氏編「某禁制」(頭陀寺文書)
『静岡県史料』第五輯によれば今川家 [...]

(今川義元花押)
禁制
一 山林竹木伐取事
一 殺生其外致狼藉事
一 領主寄進之田畠等、他之綺違乱事
右、於違犯之輩者、所可処厳科如件、
天文十四[乙巳]年正月廿五日
  静居院

→戦国遺文 今川氏編「今川義元禁制」 [...]

[印文「義元」I型]
遠江国万石之内六郎左衛門屋敷、先年信州衆相動時、彼屋敷足懸之間、従前々屋敷之内棟別免許云々、然者五間分停止諸役畢、自然之時者、相当之奉公可致之旨、可被申付者也、仍如件、
天文十三[甲辰]
二月十九 [...]

 名胡桃城を巡る古文書に出てくる地をマーキングしてみた。岩櫃は参考用に追記している。真田方の拠点として名胡桃が孤立している様子が窺える。中山城は1584(天正12)年段階で後北条方であったことは確実なので、岩櫃と名胡桃間 [...]

 1590(天正18)年7月11日。北条氏政・氏照と松田憲秀の切腹をもって戦国大名後北条氏は滅亡する。この日をグレゴリオ暦に改めると今日、8月10日となる。前年11月24日の豊臣氏宣戦布告状発行から、実に223日間の激闘 [...]

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