カテゴリー : 史観雑感

元号調べに便利なサイト


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つるぎの屋 和暦西暦皇紀干支一覧

干支と改元月日、閏月が記戴されているので、とても使い易い。中世末だとかなり下までスクロールしなければならないのが唯一の難点だが、改元月日があるのは素晴らしい。

携暦くん


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出先で歴史系の調べ物をしていると、時系列の確認が面倒になる。Windowsだと『スーパー暦』というフリーウェアがあるのだが、これまでのケータイでは年号暦日をWikipediaで一々アクセスするのが億劫だった。

ということでAndroidが主力機になった際、真っ先に見付けたのがこれだ。

閏月も指定できるので、すぐ調べられて便利この上ない。欲を言えば干支が表示されるともう完璧なのだが、それは干支表をテキストで保存しておけばよい。AndroidOSをお使いの方はぜひお試しを。

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倩々雑記


年の瀬も押し迫り、また狂躁の時節が到来した。これより如月の中頃まで生業が喧しくなる。記事も史料アップも暫時滞るだろう。だからという訳ではないが、少しくは思いつくままの書付を散らしてみようと考えた。文献の裏付けもなく脈絡も怪しいものだが、日頃浮かんで消えていく着想を綴っていければ何かに繋がるかも知れないという下心もある。

細録を付ける理由として、携帯端末(Android)+漢字手入力(mazec)で歴史記事を作る効用の実験をしてみたいという事がある。現代語に最適化された文字入力では、単漢字変換が主になる。「治部」と書きたい場合、「じ」と「ぶ」で変換するが、それぞれ変換候補が多いので、私は「おさむ」と「ぶい」とー旦入れて「部位」の「位」を消している。これはフルキーボードでも手間なので、1Oキーやフリックでは諦めていた。何より、文学入力のために思考を切り替えてしまうと、戻ってくるのが難儀だった。mazecなら直接「治部大輔」と書くだけでよい。iPhoneのタッチインタフェースには納得がいかなかったが、これならメリットが感じられる。

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『西湘地域』という妄想


西湘。文字通り、西の湘南。

最近は小田原周辺を「西湘」地域と呼ぶ例が多いように見受ける。これは私が東京に出てからだから、1990年代からだと思う。「湘南」ブランドを想起させる名称が口当たりもよく、ベッドタウン・観光での誘致に使われるようだ。

でも、昔は地域名として使われることはなかった。この地域はあくまで足柄地方だった。

「西湘」という言葉の初例は市内酒匂地区にある県立西湘高校。1957(昭和32)年、近隣の酒匂中学敷地内にて創立している。他の使用例である西湘バイパスが1967(昭和42)年なので、それより10年早い。ではなぜ、「西湘」という名前が高校名に使われたのか。

小田原付近にある県立高校は殆どが地域名を冠している(小田原・足柄・大井・吉田島・湯河原・山北)。例外は城東・城北・城内で、小田原城を基準に方角を入れている。更に例外だったのが西湘である(小田原の私立高校が「旭丘」「相洋」だったことを考えると、私学なネーミングである)。元々は城東高校の普通科から派生したという話を聞いているが、建学時は女子高だったという。

『西+湘』という命名の由来は、校内では著名な話だった。私はここの出身だが、学年担当の教師から「西湘というのは、『西の湘南高校』を目指してつけられた名前だ。それをお前たちは(以下略)」と怒られるのはよくある話だった。その創設に当たって、旧県西学区で最も進学率の高い小田原高校、またはその上を行く隣接学区の平塚江南高校を目標に据えるのではなく、文武共に全国でトップレベルの湘南高校を目指したというのだから大言壮語も甚だしい。しかも女子高で、だ(その後は極端に男子を増員し、80年代には男子が70%以上を占めていた)。

一方の西湘バイパスについては、「湘南のドライブというイメージを小田原までつなげたい」という希望があったように思う。その際に、10年経って人口に膾炙されてきた『西湘』が用いられたのではないか。従来は箱根・熱海の東、東京からの通過点に過ぎなかったこの地域を「西の湘南でもあるんですよ」とアピールする狙いが窺える。

ということで、私が在学した1980年代半ばだと「西湘」といえば高校かバイパスだった。地域名ではないし、一般的には「湘南は湘南で小田原とは別」という前提があった。平塚でさえ遠いのに、そのまた先の江ノ島の辺りが湘南だと考えていたから。

ところがその後で、『湘南』ナンバー問題が勃発する。これは小田原に住んでいた友人に聞いた話だが、自動車の『相模』ナンバーが飽和となり、『足柄』『湘南』の両ナンバーが検討された辺りから妙な話になってきたらしい。

当初小田原を含む足柄上・下郡は『足柄』ナンバー、茅ヶ崎・藤沢が『湘南ナンバー』。残りはそのまま『相模』ナンバーの予定だった。ところが、平塚をどうするかで揉めたそうだ。平塚は自身が湘南地域であることを喧伝しており、地元に所属するプロサッカーチームにも湘南を冠している。紆余曲折あったものの、まあ平塚までは湘南としようと決まった。ところが今度は伊勢原や二宮、大磯が騒ぎ出した上、明らかに関係がない小田原までが「平塚が湘南なら自分たちも湘南だ」と主張し始めた。

結局小田原も湘南ナンバーにはなるのだが、それにつられて足柄の郡部と南足柄市も『足柄』ナンバーではなく『湘南』ナンバーになるという奇妙な状況が出現した。そもそも『相模の南の水辺』という意味合いで中国から移入された言葉が『湘南』なのに、海もなく南でもない、山北や箱根までが『湘南』ナンバーとなっている。このことを東京で指摘される際、必死に湘南になりたがっているように思えて私は気恥ずかしさを覚える。小田原周辺では気にしていないのだろうか……。

話は少し逸れたが、この『湘南』ナンバー騒動は『西湘』地域自称につながってくる。『足柄』地方であることを恥じ、『湘南』イメージのお零れをもらおうというものだ。このまま行けば、足柄平野を西湘平野に、酒匂川を西湘川にするかも知れない。足柄には味わい深い地名が多数あるのに、もったいないことである。

言わずもがなではあるが、過去の小田原町は箱根・湯河原・真鶴とともに足柄下郡であった。上郡は南足柄市・中井・大井・松田・山北・開成となる。これらの地域は近世小田原藩とほぼ同一であり、明治の最初期には伊豆国と合わせて足柄県を構成していた。室町・戦国期には一時的に西郡と呼ばれていたものの、その前はやはり足柄郡である。

『湘南の西』という東京視点に踊らされ、『足柄』という独自の地域名を忌避する姿は浅ましい。かつては南関東の中心地だった誇りはもはや感じられない。そして、そのような軽薄な姿勢では、歴史的資産を観光資源にする資格はないように思う。

端的な例を挙げるなら、現在の小田原駅前にある北条氏政・氏照の墓所に『幸せの鈴』が安直さを象徴している。墓所に願掛けをして鈴を結び、成就したらまた鈴を結びに来させるもので、ジャラジャラぶら下げる辺りは平塚市が『湘南平』とネーミングした高麗山の『ハート・ロック』を真似たように見える。

後北条歴代で最もリアリストであった氏政に『幸せの鈴』を宛がうとは……元々後北条氏には冷淡な小田原にしても、これはひどい扱いではなかろうか。看板には史料の裏づけでもあるかのように次の記述がある。

ここに眠る北条氏政、氏照は、長引く秀吉との攻防戦の中、戦禍にまみえる領民を思い、開城を決意されたと伝えられています。

何がどう『伝えられた』のだろうか。史料上、開城を決意したのは氏直だし、「伊達も離れたし八王子・韮山も落ちてやっぱり勝てなそうだから」というのが理由だと思われる。氏政・氏照にしたって領民のために小田原合戦を起こした訳ではない。後北条氏は「御国のために徴兵に応じろ」という理屈を使っていたが、その御国は国民国家ではなくあくまで後北条家を指す。暴力団のショバ代のようなものだ。そもそも、徴兵されなければ巻き込まれる筈もない百姓を大量動員したのは氏政・氏照なのだから「戦禍にまみえる領民を思」う筈もない。そこを強引に平和の象徴とするなら、きちんと根拠を示さねばならない。

そのような努力を怠り、単純に史跡を観光資源として利用する。また古来より名を馳せた『足柄』の地域名を捨て軽佻浮薄な『西湘』と名乗る。それが小田原の経済的な発展を期すための唯一の方法で苦渋の決断、というものなら致し方ない。が、それにしても少し節操がなさ過ぎないだろうか。

上杉輝虎=伝統主義者という呪縛


御館の乱を扱った書籍の刊行が相次いだのと、今川義元最期の次に1561(永禄4)年の憲政南進を扱おうと考えているため、上杉輝虎の関東管領継承を調べている。そこでよく目にするのが「上杉謙信(輝虎)は京公方、関東公方を敬っていた」という記述である。しかしそれは真実の姿だろうか。この前提によって、輝虎に逆らう勢力は「旧秩序を敬わない」と推論されている点が気になっていた。

史料に即して細かい検証を行なうのはこれから行なうとして、一般に知られている事績とその裏事情を列挙してみよう。

  1. 2度も上洛して足利義輝に奉仕した。
  2. 関東管領に就き復古体制を敷こうとした。
  3. 村上氏など信濃から亡命した反武田勢力を保護した。

1については、守護代の家格しか持たない輝虎が、守護権力を進展させた武田氏に対抗するための措置である。義輝は三好氏と対決してくれることを期待して便宜を図ったが、実際の貢献は行なっていない。むしろ、輝虎に過度な期待を寄せた義輝は三好氏を刺激した挙句殺されてしまう。輝虎は旧来の権力を上手に使って自己の権力強化を成したに過ぎない。

2も同様である。藤木久志氏著作で知られることとなったが、越後から関東への出兵は口減らしと略奪が主目的だった。略奪の中でも人身収奪の苛烈さは他氏を抜いている。また、義輝から得た権限は当初「関東管領憲政を補佐する」というものだったが、いつの間にか「輝虎が憲政の養子となって関東管領を継ぐ」という奇抜なものに変わっていた。越後上杉氏ならともかく、その配下の守護代、しかも、越後上杉房能、関東管領上杉顕定の2人を殺した長尾為景の次男が継ぐのは驚愕の目で見られただろう。憲政は37歳で輝虎は30歳、年齢差はさほどないし、憲政には子があった一方で輝虎は妻帯すらしていない。よしんば憲政が関東管領から引退したがったとしても、為景が擁立した越後守護上杉定実が健在である。この不自然な継承が成田氏・大石氏・藤田氏らの離脱を招いたように思う。

3については、確かに村上義清を保護している。しかしそれは他氏でも行なわれていた戦略で、追放された旧主を保護して橋頭堡とする例は多い。また、村上義清自体はほぼ一代で成り上がった下克上の人物であり、守護代ですらないのに北信濃を席巻している。普通に考えれば、彼に政治的利用価値があったから引き取ったのだろう。

伝統に殉じようとしたとか、義の武将とか、そのような思い入れは輝虎の実像から遠ざかるばかりではないか。一国守護だった今川・武田、外来者として未知のシステムを持ち込んだ後北条・里見と比べると、輝虎は斎藤利政・三好長慶・陶晴賢・織田信長に近い。いわゆる、守護代を踏み台にした急速なステップアップ組だ。彼らは時代を先取りした革命・破壊・急進をもって語られることが多い(個人的には、守護よりは革新、外来者よりは保守と見ている)。府中長尾氏は守護代ということもあるし、輝虎を彼らのグループとして考えみてもいいのではないかと思う。史料が揃ってきたこともあり、そろそろいいタイミングかと。

景勝は何故長尾を名乗ったのか


奥野氏が寄せてくれたコメントにより『関ヶ原前夜』(光成準治著・NHKブックス)で紹介されている文書で上杉景勝が「長尾殿」と呼ばれていたことが判った。紹介された文書は上杉氏を敵視した大名のものではない。このことから、長尾は景勝が自称したものだと考えられる。

そもそも景勝が所属したのは上田長尾氏である。その上には越後守護代である府中長尾氏が来るため、長尾一族とはいえ、ほぼ国人に近い身分だ。名乗れる筈の上杉氏は、越後守護の上杉氏の上に位置する山内家を指すため、わざわざ家格を3ランクほど落とした自称をしていたこととなる。

その理由を考える上で参考になるのが、上越市が公開した『春日山城跡保存管理計画書』内にある、以下の伝承だ(出典不明)。

慶長3(1598)年、上杉景勝は羽柴秀吉の命により会津へと国替となった。その際、景勝はあろうことか謙信の遺骸を置いたまま会津に行ったといわれる。替わって春日山城主となった堀秀治は、景勝に謙信の遺骸を会津に移すように依頼し、夏には会津に移したことが知られている。

また、『関ヶ原前夜』では、堀氏が上杉氏への讒言を行なった理由として、以下の理由を挙げている。

  1. その年の年貢を全て会津に持っていってしまったが、その際に現金化できるものは売るよう指示したこと
  2. 持ち去った年貢を堀氏に貸し付け、更に取り立ても行なったこと
  3. 侍と称して耕作者を多く会津に連れて行ったこと

堀氏側から見ると、結構厳しい話である。越後に入ってみたら、農民と税収は持ち去られている。城内だか寺だか不明だが、奇妙な甕があった。聞いてみると謙信の遺骸が封印されているという。当然、持ち去られた農民・税収の取り返し交渉を開始すると同時に、「甕を引き取ってほしい」と要請しただろう(「夏には会津に」というのは、異臭に怯えた堀氏にとっては切実だったに違いない)。

実は、景勝による『謙信信仰』が始まるのは米沢移封後である。それまでは、実はどう扱っていたかは知られていない。私は、家督継承後から会津時代までの景勝は「上杉」も「謙信」も嫌っていたのではないかと推測している。

上へ上へと出世意欲は旺盛だが、「自分は妻帯しない」という変なポリシーから養子を多数とっていた謙信。当然ながら継承を巡っての争いとなるし、統治機構も未整備で国人連合から脱しきれておらず、当主の権限も弱い。関東管領を名乗りながら、関東を統治できた訳でもない。

この未熟な政権を建て直し、羽柴政権の力を借りて当主専制のシステムに組み替えたのは景勝である。彼からすると、謙信が推進した府中長尾家の上杉化は、メリットどころかデメリットしかなかったという認識だろう。得意の絶頂にあった会津移封時、矛を交えた武田も後北条も織田も既になく、自分ひとりが羽柴氏の公認大名として生き残り120万石を得たという思いが強かったのではないか。

ところが、強引過ぎた移封によって堀氏から謀叛の告発を受け、最終的には羽柴政権から攻撃されることとなる。同時に勃発した関ヶ原合戦によって征討軍が引き返したことで滅亡は避けられたものの、米沢30万石のみに大幅減封される。

景勝はここで一転して謙信信仰を強化した可能性が高い。それまでの独断専行の非を避けるためにも、「先代の遺風を守る保守派」としての主張を始めたのだと思う。このことによって、長尾の名乗りはなかったこととされたのではないだろうか。

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