カテゴリー : ディケンズ

デイヴィッド・コパフィールド(4)

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 いよいよ大団円となる最終巻だが、ちょっとご都合主義が目立つ。ミコーバー一家・ペゴティ一家をオーストラリア移民でハッピーにしてしまうのが強引だし、ユライア・ヒープとモティマーを珍妙な監獄に入れて披露しているのも微妙に違和感がある。とってつけた結末もまたディケンズの特徴ではあるのだが、それにしても手を抜きすぎているようだ。
 あえて意味を深くとって考える意義がありそうなのは、デイヴィッドとユライアの相似性。主人公である好漢デイヴィッドと陰湿な悪党ユライアは、正反対に位置するキャラクターと思われる。ところが、この二人は推理小説でいうところの『一人二役』のような補完関係をなしているのだ。
 第52章「爆発」では、ウィックフィールド家に関連するメンバーはほぼ全てがユライアに対峙する。大人しいアグニスや、ユライアの母親までがユライアを追い詰める側に回る。情報面からはミコーバー、法的処置はトラドルズ、感情表現はベッチー伯母、ユライアの母が「皆に謝れ」との泣き落とし、という具合だ。
 ところが、ユライアとの関係が最も悪い筈のデイヴィッドが一切発言をしていない。他の人間に任せたまま、無反応である。ユライアが攻撃するのはデイヴィッドだけなのに、自身は何の感想も漏らさず叙述に徹している不自然な描写が続く。ユライアが多弁であればあるほど、デイヴィッドは寡黙になっていく。デイヴィッドが反ユライアの盟主であるのは全員が理解しているにも関わらず、デイヴィッドは不可解な沈潜を維持しているのだ。
 これは作者のディケンズも理解しているようで、判る読者には判るように書いている気配がある。その他の場面でも、ユライアとデイヴィッドに葛藤がある場合、必ず2人っきりのシチュエーションになるのである。これは作者が仕組まないと実現できないプロットだ。
 カフカ・ドストエフスキーを経験した現代読者であれば、「ユライア・デイヴィッドは同一人物の2面性をキャラクター化したもの」と看破することは容易い。「人に取り入れる成り上がり」の明るい側面をデイヴィッド・暗い闇をヒープが担ったのだとすると、この小説はまた違った読み方を誘うことになる。
 詳細な検討が必要かも知れないが、デイヴィッドがドーラに夢中になると同時にヒープがアグニスを狙い始める筋立てもこの説を補強すると思われる。
 デイヴィッド主観で考えると、大人に成り切れない妻が自立する様子を描いたのが、ドーラの死とアグニスとの再婚になる。アグニス主観で考えると、成り上がるために悪も辞さなかった夫が周囲の吊るし上げで正気に返る様子がヒープの自滅劇となるだろう。成長を拒否する妻の人格ドーラ・社会的悪を内包した夫の人格ヒープは淘汰され、最終的な夫婦関係の形成がなされるという筋立てになる。
 その経過を描いたものが『デイヴィッド・コパフィールド』という読み方の可能性は非常に魅力的に見える。

デイヴィッド・コパフィールド(3)

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 物語のテンポが一気に上がってくる第3巻は、エミリーの駆け落ちから幕を開ける。幼馴染の漁師ハムとの結婚を控えた彼女は、その寸前にスティアフォースと逃亡してしまう。上昇志向のあるエミリーは、家族に愛着を持ちながらもチャンスに賭けたのだ。デイヴィッドは残された家族の悲嘆を見てスティアフォースとの決別を感じるものの、彼との思い出や影響は捨て切れないというチグハグな感情を抱く。この辺りは後期作品の重厚さにつながっているくだり。
 この小説には、女性の願望がよく描かれている。デイヴィッドの最初の妻ドーラは、彼の母とかなり似た要素を持っており、成熟を拒否し、結婚してもなお世故に長けることなく死去してしまう。彼女たちの欲望は「生涯少女のままいたいのに」というところだろう。前述のエミリーには分不相応の淑女(変身)願望があり、スティアフォースに横恋慕するローザ・ダートル、ドーラとデイヴィッドの幼い恋を煽り立てるジューリア・ミルズたちには、恋愛という概念に振りまわれた女の情念が見られる。スティアフォースの母、ヒープの母、アニー・ストロングの母、ベッチー・トロットウッドには、その強過ぎる母性によって迸る征服欲が見られる。
 改めて読み直してみると、驚くほど女性たちが元気な作品である。アグニスとペゴティが完成された女性像をトレースして若干退屈な存在だが、前期諸作に比べるとちょっぴりではあるが陰影が施されており、少しは深読みができる仕掛けだ。
 3巻の中でいよいよユライア・ヒープの暗躍が始まるが、ドーラの父スペンローの怪死、アニーの密通疑惑など、どう考えても巨大な伏線と思われるエピソードが「実は伏線ではなかった」というディケンズにありがちな終わり方をしそうで恐ろしい。多少は緻密な作りの後期作品ならありえないのだが……。これも中期作品を読む上での楽しみと考えてみよう。

デイヴィッド・コパフィールド(2)

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 中盤の若干中だるみというか、伏線をゆるゆる張っているような感じの2巻目。表面上物凄く好人物のスティアフォースが絶好調で2面性を発揮している(1読して結果を知っているので尚更感じるのだろうけど)。そして、デイヴィッドは熱烈な恋に落ち、ヤーマスに迫る危機を見過ごしてしまうところも2読目ゆえにしっかり伏線を確認できた。この頃のディケンズは、後期作品程ではないが筆致が冴えつつある。
 またまた人物評だが、アグネスを巡る敵役にユライア・ヒープという小悪党が登場する。睫毛がない爬虫類的な要望で、いつも自己卑下して生きている男。私は、おべっかと増長の入り混じったような嫌味な態度を指して『卑下慢』ということを、この本で初めて知った。典型的な悪役として設定されており、海外のロックバンドでこの名前をとったグループがいることを知った際、ちょっとびっくりした。そういえばアメリカの奇術師に『デイヴィッド・カッパーフィールド』というのがいるが、彼の名前がディケンズのこの小説からとられたことは日本では知られていないような気がする。
 閑話休題。このヒープは姑息な手段で成り上がっていくのだが、大伯母に援助されて法律の仕事を目指しているデイヴィッドに対して猛烈な対抗心を燃やしている。ヒープはその雇い主の娘であるアグネスを狙っているのだが、アグネスはデイヴィッドだけを信用しているという三角関係(デイヴィッドはニュートラル)。この恋模様のためもあるのだが、デイヴィッドに付きまとっている理由はヒープが直接語る。引用してみよう。
————————————
ユライアは叫んだ。「私みたいな、こんな賤しい者の胸に、初めて、大きな望みの火をともして下さったのは、あなたなんですからねえ。しかも、それを憶えていて下さったとは! いや、もう!—-すみませんが、もう一杯、コーヒーをいただけますでしょうかしら?」
 その火を点じたという一句を、彼は、特に力を込めて言い、同時に、ちらと私の顔を見たのだったが、そこに、何か、私を、ハッとさせるものがあった。いわば一瞬、強い光が、パッと彼の全身を照らし出したとでもいった感じだった。妙に改まった調子になって言った、コーヒーの催促を思い出し、例によって、髯剃り用のポットから注いでやったが、なぜか、注ぐ手はぶるぶる震え、これは、この男、とても敵わぬ。いったい、この次は、何を言い出すつもりなのか、それもわからない、激しい不安に、突然、襲われた。しかも、それをまた、相手は、ちゃんと、見抜いているように思えて仕方がない。
————————————-『デイヴィッド・コパーフィールド』(新潮文庫・中野好夫訳)
 つまり、野心を持ったのはその昔デイヴィッドが言葉をかけたためだとヒープは告白するのだ。これを、デイビッドへの揺さぶりととるか、真情の吐露と見るかは読者次第だが、ディケンズとしては両方をちらつかせているように思う。
 この後、デイヴィッドの乳母だったペゴティの夫バーキスの死によって第2巻は終わる。何もかもが中途半端であるものの、デイヴィッドを取り巻く人間模様は急展開への伏線を張り終え、彼の幼年期と少年期が終わりつつあることを暗示している。

デイヴィット・コパフィールド(1)

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 第2読目となる。この作品はディケンズの前期と後期を画するもので、彼の自叙伝的な内容となっている。主人公デイビッドをダニエル・ラドクリフが演じたDVDが、ラドクリフ主演の映画『ハリー・ポッター』に便乗して日本で発売されていた(勿論入手済み)。文庫で4巻に及ぶ長編小説を2時間にまとめるのは非常に困難なのだが、割合にうまくまとめられていた。
 
 それにしても、第1巻を読了するのに相当骨を折った……。苦労人ディケンズの自伝的小説と呼ばれるだけあって、主人公が相当の苦難に遭う。だが、両親を次々に失ったり、継父とその妹にいびり出されたりと、ディケンズ本人でもここまで苦労はしていなかったような苦難ぶり。ディケンズの父がモデルといわれるミコーバーの描写が秀逸であるのは20年前の第1読と変わらないのだが、コパフィールド少年の苦労を読むとひたすら身につまされるのには参った。恐らく、負っている経験の広さ・深さが20年前とは異なり、辛いのだと思う。中でも、スティアフォース少年がメル先生を侮辱するくだりが最も堪えた。
 経緯はこうである。継父によって寄宿学校に追いやられたデイビッドは、出迎えに来たメルという教師によって救貧院へと案内される。そこにはメルの母と友人がいた。デイビッドはそこで食事をもらって休憩し、助けてもらう。当時の救貧院は差別の対象となっており、メルは母のことを勤務先に隠していた。そこでデイビッドにも口止めをするのだが、彼は崇拝するスティアフォース少年に伝えてしまう。スティアフォースは典型的なお坊ちゃん。才能はあるのだが怠惰で、酷薄。周囲の人間は彼を礼賛するが、チラホラと裏の性格が示される。
 スティアフォースはある日、メルを侮辱して校長に救貧院の一件を告発し、学校から追い出してしまう。結局このエピソードは、主人公の忘恩・無配慮・臆病さを示しているのだが、自らのこととして振り返ると、これまでの己が行状がフラッシュバックして、捲るページの重さといったらない。
 というようなことの繰り返しで、読了が異様に遅れた。第2巻以降はもう少し気楽に読めるのかも知れないが……。

ピクウィック・クラブ 下巻

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 下巻に入ると、文体が面白いように変わっている。ようやくディケンズらしさが出てきたというべきか、無意味な前置きやわざとらしい言い回しは影を潜め、伸び伸びとした人物描写が光っている。ピクウィック氏が債務者監獄に入れられると、これでもかとばかりに貧困の悲惨さが繰り返される。ここもディケンズらしさの最初の源流と言えるだろう。
 ジンクスとトロッターが改心していく様子も興味深かった。ムニャムニャと感謝するジンクス、鉄の意志で仁義を通すトロッター。特にトロッターが登場時とはまるで違うキャラクターになっている。個人的には、ピクウィック氏に感化されてからのトロッターがこの作中で最も面白かった。
 最後の辺りもウィンクルとサム・ウェラーがメインになっている。その他の人物も、この二人に絡む人物が活躍している。ウィンクルのほうは、アラベラ(ウィンクルの妻)、アラベラの兄とその友人、ウィンクルの父親。サムだと、メアリー(サムの妻)、トニー・ウェラー(父親)、トニーの後妻という顔ぶれ。初期登場人物では設定できないようなドタバタ振りを、彼らが振りまいている。
 微妙に登場し続けたのが、ウォードル氏の召使である『太った少年』ジョー。メアリーに色目を使ったり、相変わらずの食う・寝るぶりが愉快だ。ウォードルの寝室に閉じ込められたスノッドグラースを発見した件は、本作一番の痛快さを持っている。
 そして、ピクウィック氏を敗訴に追い込み訴訟費用をまんまとせしめたドットソンとフォッグがそのまま成功していることにも注目したい。最初の長編からして、ディケンズは勧善懲悪に異を唱えていた。複雑なストーリーと曖昧な善悪性がディケンズの後期小説の特長だと言われるが、既にその萌芽は見られたのである。

ピクウィック・クラブ 中巻

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 サム・ウェラーの調子が上がりっ放しになってきた中巻は、その前段階では行き当たりばったりだったストーリーが少し形作られていくような展開。サムのほか、ウィンクルも恋模様を見せ始める。スノッドグラースは上巻で既に恋愛モードに入っているが、ウィンクルは意外だった。その一方で、偽カサノバのタップマンがさっぱり姿を見せなくなりつつある(タップマンはスノッドグラース・ウィンクルより年嵩、ピクウィック氏よりは年下らしい)。
 解説の中で、ピクウィック+サム・ウェラー=ドン・キホーテ+サンチョ・パンサの相似形が語られていた。従者としてのサムはサンチョ・パンサを髣髴とさせるので容易に思い浮かぶが、ピクウィックの原型がドン・キホーテにあるという指摘は面白かった。理想主義者でお人好し、しかも世間知らずという設定は確かに似ている。ドストエフスキーがこの流れを作ろうとして『白痴』のムイシュキン公爵を創造したが、自身で及ばないと告白したという。
 ディケンズ作品ではお馴染みの裁判シーンが早速出てきていた。ここだけは何とも冗長過ぎる気がする。『荒涼館』ぐらいになると本筋に裁判が組み込まれているので納得できるのだが……。当時の裁判を研究している人には参考になるとは思うが、文学を読むには余りに細かいし、同時代でないと判らない点が多い。
 その他、『リトル・ドリット』で頂点を極める陰惨なプロテスタントの教義も、サム・ウェラーの義母に絡んでて登場している。
 ディケンズがその後展開したモチーフとしては、救貧院・身分格差・債務者監獄・拝金主義があるが、この辺りは下巻でも見られそうな感じがする。やはり作家の処女長編には、その後の要素が凝縮されているのだろう。

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