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検索方式の変更

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WordPressの検索機能が拙劣だったため、以下の点を変更した。

  • Googleサーバを使った検索『GoogleCustomSearch』を導入
  • WordPressの検索で結果に該当部分の引用を表示

WordPressオリジナルの検索は、厳密に「この言葉」と決まっている場合に重宝する。Googleだと、「事」と入れても「事」と「こと」を両方調べてしまうためだ。

逆に、どのように読めばいいか不明な場合や、記憶が曖昧な場合にはGoogle検索のほうが優れている。Google検索の場合は以下のルールがあるのでご参考まで。

  1. 単語の前に「-」(半角マイナス)を入れるとその単語が含まれない候補に絞られる。
  2. 単語の前に「+」(半角プラス)を入れるか、「”」(半角引用符)で単語を括るとその単語は分割されない。
  3. 単語と単語の間に「 OR 」(半角空白とOR、半角空白)を入れると、その前後の単語の片方のみが対象となる。

判りにくいので具体的な例を出そう。

氏真  +氏政 OR “氏康” -氏直

「氏真」はなるべく一括りで候補に上がるが、「氏」と「真」が分割されても候補にはなり得る。その後ろの氏政は+が直前にあるので、「氏政」が連続した文字列のみが対象となる。「”」で括られた「氏康」も同様。そして、ORでつながれた「氏政」と「氏康」は、どちらか一方が含まれる場合のみ対象となる(氏政と氏康両方がいる場合、両方いない場合は対象にならない)。最後の氏直は「-」があるため除外対象となる。

詳しくは以下のリンクをご参照あれ。

Google 検索の基本: その他の検索のヘルプ

12月の更新

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12月1日からのエントリーでは、古文書のアップを優先する。これは2月に刊行予定の『戦国遺文 今川氏編2』によって今川氏関連文書が増える予想に備えるものであり、また、様々な論の展開に必要な文書を補充する目的もある。

いつもより堅苦しい内容になりがちだが、解釈への疑問点・意見などあれば、コメントなどでお知らせを。

時事情報になるが、11月27日に山形城本丸から戦国期(最上氏時代)のものと見られる建物跡が見つかったという。火災で焼けた跡が最上義光書状の「本丸が焼けた」の記述と合うそうで、根石を置く形式と掘っ立て式の混在、焼けた瓦の存在により、戦国末期の姿がこれから明らかにされるだろう。

一方、近江八幡市ではシンポジウム「安土 信長の城と城下町」が同じ11月27日に開催された。安土城内の清涼殿存在有無が議論されたようで、その成果の発表が待たれる。

その他、ようやく国史跡となった岐阜城では金箔瓦、金沢城兼六園成立以前の城内庭園『玉泉院丸』で階段状の滝、甲府城では羽柴氏時代の石垣が見つかっている。

松本城は幕末期の景観を取り戻すべく、2018年度完成を目指して外堀復元計画が開示された。恐らくここでも貴重な遺構が見つかることだろう。

岩槻城跡で11月20日に開かれた見学会では、近世・戦国期と共に縄文期の遺物も公開された。それぞれの時代でどのように場所が使われたかは、文献だけでは知りえない。

このような発掘調査によって史料解釈は精度が高くなり、大きく前進する。史料を読む際の留意事項が増えるが、とても嬉しい作業増だ。

小田原 2

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※本エントリは1998年と2010年の小田原を比較した個人的な覚書である。

前のエントリ「小田原1」の続き……。

幸田門を更に進む。ナック中村屋は外見そのままで健在にも思えるが、内部を見ていないので判らない。ここは古いデパートだった。そのはす向かいにあった志沢も老舗のデパートで、山下清のサイン会を行なうなど、一時期は地域の文化振興も担っていた。現在はスーパー銭湯になっている模様。手前を右に折れて栄町1丁目の交差点に出る。直進して大工町に行くと、かなりシャッター街っぽくなっていた。ここは1980年代から怪しかったので、ゆっくりと退潮しているのかも知れない。伊勢治書店は残っていたが、向かいのオービックビルに八小堂書店はなかった。ここの八小堂オービック店で、1981(昭和56)年に刊行されたばかりの『日本城郭大系第6巻 神奈川・千葉』を購入したことを今でも覚えている(何故か平山郁夫の版画が付いてきた)。平凡社の『QA』と出会って雑誌編集の魅力を知ったのもここ。ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』もここで入手した。翌年、2階奥のPCショップ(これももうない)で、当時はマイコンと呼ばれていた『MZ-80K2E』を買った。このどれもが、現在に至るまで私の人生の基礎となっていることを思うと、何ともやるせない気持ちになった。ちなみに、伊勢治のことを小田原人は「いせぇじ」と呼んでいた。「御幸の浜」を何故だか「みゆきがはま」とも呼んでいた。

そのまま大工町を直進して高野書店に行き、無事に『小田原市史 史料編中世2 後北条氏1』を購入。伊勢治まで戻ったら右に折れる。茶半家具でも見に行こうかと思ったが、時間も押しているので『旧ニチイ』と思しきビルを通り抜けてダイヤ街に向かう。その際に「おもちゃのあさひ屋」の濃緑の看板を発見。物心ついた頃から、ニチイの上にこの看板はあった。そして、あさひ屋の濃緑の包装紙の匂いが思い出される。あの紙包みを空ける時の胸の高鳴りと共に……。

ニチイの面影を全く留めていないビルを抜ける。昔、ニチイの地下には何故か『寿がきや』があって、そこのうどんが100円なのに美味だった。高校生の頃はやたらと行っていたものだ。抜けるとそこは旧長崎屋のビル。ドン・キホーテか何かが入っていたがスルー。右手に『魚國』・『岡西』が健在なのを見つけてほっとするも、東映だった場所は『ラーメン宿場町』という変な空間になっていた。

左手に向かう。「仲見世は多分ないだろうが、何かの痕跡がないか」と仄かな期待を抱くも、全くもって消されていた。仲見世とは屋根がついた商店街なのだが、何故か曲がりくねっていて天井も低かった。食料品店を中心にした、戦後ヤミ市っぽい猥雑さを持った空間であった。ここの鰻屋『正直屋』の鰻が大好きだったし、目の前で鰻を捌いているのを眺めるのも乙なものだった。親類の間では三島の『うなよし』が最高評価だったが、私は心中で正直屋に勝るものはないと確信していたものだ。

ダイヤ街を南下する。『十字屋』はもうないだろうけど、同じビルなら通り抜けしたいと考えていたが、建物ごとなくなっていたようで断念(ビルの横の隙間もなくなっていた)。あのビルは階段や踊り場が奇妙な配置で面白かった(販売物は女性用衣類だったので物を買ったことはない)。

再び栄町の通りに出て、駅に向かう。通りの向かいに、釜飯をよく食べに行った『鳥ぎん』を確認。スズメを頼んだら、骨っぽくて食べれなかったのもついでに思い出した。鳥ぎんの隣には『日栄楼』も、ここだけ時間が止まったかのように完全に同じ形で存在していた。ここはサンマー麺と焼き飯が絶品だ。

駅に向って蕎麦屋『寿庵』の健在を確認できたのも嬉しかったが、その前の三角ビルは公園になっていた。このビルは確か、地上2階・地下1階で、地下には飲食店があったように記憶している。地上は銀行系の何かだった。

奇妙な雰囲気は相変わらずの『おしゃれ横丁』に入り、殺風景な路地裏を辿っていくと、北条氏政・氏照の墓が現われる。昔と比べてきちんと整備されていたものの、目立たない点では高レベルを維持している。墓の前を直進してから曲がり、守屋のパンがあるかを確認。休みだったものの、甘食で著名な名店はしっかり残っていてひと安心。

『ラスカ』と呼ばれる駅ビルに戻る。ビル内には『有隣堂』があって八小堂の不在をまた思い出した。伊勢治・『平井』の各書店はあるものの、駅前・オービックに展開した八小堂の存在が、有隣堂の小田原進出を防いでいたように思う。『小田原市史後北条2』を購入したのが、この書店との別れになった。文庫を買った際に書店の紙カバーをつけてくれるが、その折り込みが独特で、本を優しく包みながら外れない仕様になっていた。鰻の話とかぶるが、昔の年寄りは「本屋と言えば平井」と主張して譲らなかったものだが、私は八小堂に敵う書店はないと確信していた。

ちなみに、帰路に鯛めし弁当を購入するが、昔の6角形の箱ではなく、内容も違っていた。たまたま買ったのが小田急系の店だったからかも知れない……。

小田原 1

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過日、高野書店で『小田原市史 後北条氏1』を購入するため、10年ぶりに小田原へ行った。さすがに町並みも変わっており、昔日の面影はなかった。そこで、私が知っている1976~86年頃の小田原と比べた所感を残しておこうと思う。

駅舎が三角屋根ではなくなり、大きな駅ビル内には様々な店が立ち並んでいた。それと、東口からだとJRの改札を抜けて地下に潜ってから今度は小田急線の改札があるという、浸水に弱い半地下みたいな駅だった。そして東と西の改札は通り抜け不可だった。それも駅ビル内に吸収され、とても普通の駅になった。急いでいたので気づかなかったが、大雄山線の改札はどこにあるのだろう……。

駅の東口に出ると、空中歩道がある。丸井デパートだった建物はものの見事に雑居ビルになっていたが、その昔『箱根登山デパート』だった『ベルジュ』は看板を掲げて頑張っていた(1階がファーストキッチンだったのは驚き。昔は女性用の洋服屋がマネキンを置いていて華やかだった)。

ネットで廃墟の噂を聞いていた小田原地下街『アミーおだちか』は、本当に地下通路とシャッター街になり果てていた。1980年代には、飲食・アパレルは当然として、ファストフード・レコード店・玩具店・文具店も完備しており、かなりの人出があったと思う。今は薄暗く静かな空間に人影も殆どなく、余りの落差に衝撃を受けた。

タクシー乗り場はそのままだったので、南町の小田原文学館まで移動。市民会館前で国道1号線と合流したが、国際通にも何となく寂れた感がある。映画館の「オリオン座」がなくなっていた。

文学館を軽く見て箱根口まで移動。南町が閑静な住宅街なのは変わらなかったが、1号線沿いの商家は空き地が目立った。建物の老朽化が進んでいるのかも知れない。1号線を渡ると、ものすごく古い本屋がまだやっていて驚いた。戦後すぐに開業したような、民家の間口を開放して本を並べただけの代物である。

後北条時代は大手だったと言われる箱根口の石垣を抜けると、左手に小田原スポーツ会館と御感の藤、これは前と同じ眺め。右手に見慣れない巨大建造物があったが、これは城内小学校と本町小学校が合併してできたものらしい。

昔と変わらぬ藤棚で一休みして、馬出に向かう。これまで常盤木門しか馴染みがなかったせいか、銅門の大きさに一驚。ただ、下見板張りじゃないのが残念なのと、組み上げた石垣の角が切り込みハギ過ぎて違和感があった。古写真を見ても普通の打ち込みハギだと思うが……。この傾向は現在の小田原城のあちこちに見られるが、大震災後に組み直した際にそうなってしまったのかも知れない。

復元された銅門を西から

復元された銅門を西から

その後郷土資料館へ。料金無料(昔は違ったような)。館内はとても古臭い資料館で、子供の頃に社会科見学で訪れた際の印象とのギャップを感じた。それなりに頑張っているのは感じるが、東京からの観光客を迎えるには正直厳しいだろう。

資料館から常盤木門には行かず、本丸脇を抜ける。関東大震災で崩れた本丸石垣が転がっている。この傾斜地には、本丸動物園であぶれた動物が狭い檻に入れられて点々と配置されていたことがある。ヤギやアライグマ、タヌキなどが寂しそうにしていた。動物園がいかに残酷なものであるかを学ばせてくれた場所だ。

道を直進すると遊園地に至る。ここが健在なのは嬉しかった。入ってすぐに豆汽車がお出迎え。左手に券売機があり、その手前に『コーヒーカップ』も健在。こいつを回し過ぎていつも係員に叱責されていたのを思い出した。右手の階段を登った辺りにはアームで上下しながら回転するボートみたいな乗り物があったのだが、既に撤去されていた。

『コーヒーカップ』と呼んでいた遊具

『コーヒーカップ』と呼んでいた遊具

正面を進むと豆汽車ホームと、電動の乗り物(移動はせずにその場で動くタイプ)がある。そして、鉄製の馬が2頭、残されていた。これは、私が幼い頃によく座らされていたものだ。本当は電動に乗りたかったがそう何度も乗れるものではなく、これで気を紛らわせていた。まだ残っていたのかと感慨深かった。

鉄馬君1号

鉄馬君1号

鉄馬君2号

鉄馬君2号

その奥には観覧車跡地への階段。独特の小ぶりな観覧車はもうない。右に折れて踏み切りを渡り、土塁をくり抜いたトンネルを抜ける。左手に、滅多に乗らせてもらえなかった豆自動車のサーキットが現われた。幼いレーサーたちがハンドルを握り締めている。サーキットも小さく、電動自動車が信じられない遅さで動いているのに驚く。

豆汽車と豆自動車
豆汽車と豆自動車
遊園地看板と天守台石垣

遊園地看板と天守台石垣

上の写真で背景にあるのは天守台の石垣だが、よく見ると打ち込みハギというよりは切り込みハギに近い。中途半端なのは、大震災後に近代の技術で組み上げたからかも知れない。

豆汽車の子供たちに手を振りながら、再び踏み切りを渡って左手に折れると本丸に辿り着く。ここまででかなり時間を消費してしまったため、天守はスルーして象舎へ。ここは来年取り壊される前に見ておきたかった。遊園地と同じく、記憶より遥かに小さな建物だった。やはり梅子はいないのだと実感して、象舎を記憶につなぎ止めた。

ちなみに、本丸内にあるゴミ箱に「燃せるゴミ」と書かれていたのを発見。誤植ではなく方言である。「燃やせる=もせる」が小田原周辺の言葉。語尾に「~け?」「~だべ」「~べよ」を付けたり、走ることを「跳ぶ」というのも独特。最大の特徴は、言葉と言葉の間に強調表現として「おめ」を入れる点だ。これは「お前」を約めた言い方で、第二人称を常に挟むことで相手をロックオンさせる狙いがあると考えられる。特に西国の方々からすると、汚い上に絡まれた感じに受け取るらしい。そして今回の小田原行での最大の驚きは、この小田原弁を全く耳にしなくなったことだ。東京生活が長くなるにつれて、小田原に行った際の訛りには敏感になったものだが、全くの標準語ばかりが耳に入ってきた。それだけテレビやネットなどのメディアが強いのだろう。

常盤木門から降りて歴史見聞館に入る。変なマルチメディア展示をするよりも、きちんと古文書や図表を使ったほうが面白いのではないかという実例を見た。昔の観光客用施設に過ぎるのではないか。

なくなってしまった城内小学校跡地を抜け、学端からお堀端へ。左に折れて幸田門に向かうが、その途次、道端の小公園で小田原城天守の古写真を見つけた。

天守台と大久保神社

天守台と大久保神社

天守台と観覧車

天守台と観覧車

解体中→大久保神社が乗っている→観覧車が載っている→復興天守が乗っている

という、歴史ファンからすると小田原市に「昔自分はワルだった」と告白されているように感じられるシュールな風景だった。ただ、小田原はその愛すべきシュールさは失わないでほしいとも思う。

CMS変更

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調子に乗ってアップし過ぎたせいか、これまで使ってきた『ppblog』が文字化け・検索不能という症状をきたすようになってきた。下書きを含めると、文字量の多いエントリー数が700を超える状況で、DB不使用は限界だったようだ。

今回はCMSに『Wordpress3.0』を使用したため、各記事のURIが大きく変更されている。当サイトへのリンクを持つ各位はご注意を。

検索性能は大きく向上したものの、検索結果の抜粋表示には手が回っていない。絞り込み検索を含めて何れ対処する予定。暫くお待ちを。

カテゴリ・文字コード・リンク変更処理に関しては一通り検証を終えたつもりだが、 何分急遽変更したので漏れがあることは大いに予想される。適宜ご指摘・ご助言を賜れれば幸甚である。

経過告知01:直接史料の収束と兵員数検証史料の提示について

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 いよいよ『桶狭間』を巡る資料の掲載もひと段落といったところである。今川氏関係の史料はほぼ網羅できたことと思う。後北条氏・甲斐武田氏の史料も揃っている。惜しむらくは西側からの史料が薄い点だ。合戦の当事者である織田氏史料が殆ど見つけられなかったことと、周縁国のうち美濃・伊勢の史料がまだ充分に調査できていないことは今後の課題だろう。岩村の遠山氏も謎の存在だし、三木氏が書状で語った「織田氏は今川氏に遺恨を持っているらしい」という文言もまた奇妙である。間接的な謎だが非常に気にかかっているところだ。今川義元を捕殺したのが織田氏ならば、何故彼らは今川氏に遺恨を持っているのか。『桶狭間』で今川方と戦ったのが織田方だったと直接示す史料はまだないだけに、気になるところだ。
 この後は当時の兵員数を傍証する史料を掲載する。これは史料が豊富に残る後北条氏がベースとなる。今川氏が『桶狭間』でどの程度の兵員数を動員したのかを検証することは、最終的な結論に向けての重要な前提だと考えている。
 更にその後、掲載した史料の解釈を再度やり直すこととなる。かなりいい加減な解釈を加えていたため、前半掲載分から見直しが必要になっている。なるべく随時行なうこととするが、全ての史料を精査するのに時間がかかるため、このステップで若干の時間がかかるだろう。
 上記諸課題をクリアして後、改めて具体的な検証作業を開始することとなる。まだまだ結論は見えてこないものの、私なりの『桶狭間』が少し具体的になってきた。解釈修正が完了したら「思いつき」として提示してみたい。

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