カテゴリー : 思いつき

昔の人の距離感覚

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大村家盛紀行文によると、彼は1日辺り8~9里(32~36km)歩いて旅行している。1日頑張るのであれば現代人でも可能だと思うが、備中国から武蔵国までこのような速度で移動するのは不可能だと思う。
とはいえ不可能だと思うのは戦後以降になって初めてかも知れない。私の親戚の話を聞いたことがあるが、太平洋戦争最末期から戦後の混乱期にかけて、静岡県三島の楽寿園のそばから神奈川県小田原の酒匂まで10歳前後の兄弟二人、1日かけて歩いて来ていたというのだ。国道1号線をまっすぐなので、迷うことはない。また、見つけた自動車が止まってくれて、よく乗せてくれたともいう。近年でも浮浪者が徒歩で箱根越えをしている。
しかし、往路それで遊びに来て、帰路に祖母が汽車賃を与えても「もったいないから小遣いにしたい」と言ってまた歩いて帰ったという。とても信じられない話だが、当事者から直接話を聞いたのでソースとしては確実である。
三島と小田原の距離は大体30km。山越えという点を考慮すると、戦国期の大人以上の移動能力を発揮したことになる。さすがにそれはないと思うので、ヒッチハイクの成功率が高かったような気はする。ただし、ヒッチハイクできなければ30kmを歩かねばならない訳で「それなら子供でも1日で歩ける」という感覚を当時の人々は持っていたことは確実だ。

軍監が女性だったらと考えてみる

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どの戦で天守が「司令塔」だったのか??

上記はいつも拝読している『城の再発見!』ブログのエントリーだが、大坂夏の陣屏風絵で描かれた天守では窓に女性の顔があることを指摘している。また、城主が天守に登るのは落城が決定的になった時であること、天守は大奥・詰めの曲輪に連結していることも触れられている。そして、天守自体は鉄炮・大砲の的になるのに、なぜ女性が存在するかは疑問だとされている。

天守は人質を入れていたと考えると、ある程度納得はいく。陣地の奥なら守り易く逃げられにくいだろう。ただ、天守から戦場を見下ろした女性たちが、軍監も兼ねていたと考えることも可能だ。戦っている父・兄弟・夫・息子の活躍を熱心に見て勤務評定につなげただろうし、男たちもそれを意識して指物や前立を目立つようにしたのだろう。

鈴木眞哉氏は『戦国軍事史への挑戦 ~疑問だらけの戦国合戦像 』(歴史新書y)にて、戦場での勤務評定が具体的にどのようになされていたかは不明としているが、野戦も含めて女性軍監がいたと考えるのも一案ではないかと思う。その利点・不利点を挙げてみる。

利点

  1. 男が敵前逃亡できない
  2. 居住地域ごとに軍監も編成されており、抜け駆けなどは軍監同士で相互監視
  3. 他人の監査ではないため、納得性が高い
  4. 人質も兼ねて軍と移動を共にするため、留守中敵方に内通できない

不利点

  1. 急速に戦線が崩壊した場合、軍監(人質)まで拉致される危険がある
  2. 女性内での序列が勤務評定に影響する可能性がある
  3. 軍監部隊が大きくなり、補給物資の量が増大する

現在この考えに史料的根拠はないが、後北条氏が人質の管理を民間に委託していたりという意外な事実が徐々に明らかになっていることもあり、可能性はゼロではない。この留意点に立って、いくつか史料を当たってみようかと思う。

女性たちが熱心に見守り、声援を送る。これは兵士のモチベーションを上げる最強の手段だと思う。そう考えて改めて天守を観察すると、優美な様式のものが存在する理由も判りやすい。そして、会津若松の天守が燃えていると勘違いした白虎隊の絶望には「母や姉妹が焼かれて誰も見守るものがいない」という切迫したものが含まれていたのかも知れない。

中津城売却先決定

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中津に関するエントリを上げた矢先の10月4日、7月より模索されていた売却先が埼玉の法人に決定した。先年ようやく成瀬家から公のものになった犬山城と同じく、中津城も奥平家所有だったそうだ。中津市と交渉していたが1億5,000万円の売却金額・事前耐震検査の是非を巡って決裂し、インターネットを経由して売却先を探していた。今回の売却金額は5,000万円。安いと見るか高いと見るか。

売却益で天守の直下にある奥平神社の修繕をするそうだが、確かに雑草が生えかかって大変そうだった。本丸にはこのほかに城井神社・中津大神宮・金比羅神社などが林立する。過疎化が進む中で、神社の結婚式も減り観光客も減ったのだという情報がネット上にあった。

その一方で、今川義元に大高兵粮入れでの戦闘を称えられていた奥平定勝の子孫が、よくぞここまで城を保ったという感慨もある。成瀬・奥平ともに21世紀まで城を守り奥三河国人の面目を施したと言えるだろう。

幕末ブームについて思うこと

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NHK大河ドラマの影響からか、坂本竜馬を中心とした幕末書籍やテレビ番組が多い。歴史に興味を持つ人が増えるのは嬉しいことだと思う。

ところが個人的には、幕末の思想背景は模糊としており、すっきりしなかったので馴染みがない。曖昧な割に、通史では「尊皇攘夷」「公武合体」「開国論」「征韓論」などなど、イデオローグで人々が行動したように描かれる(「勝てば官軍負ければ賊軍」は維新後の言葉らしいが)。特に攘夷は判りづらい。水戸藩・萩(山口)藩が突出した攘夷原理主義のようではあるが、孝明天皇のそれとどう違うのか。

『攘夷の幕末史』(講談社現代新書・町田明広著)を読んだところ、尊皇攘夷VS公武合体の対立構造がおかしいのではないか、という指摘があり幕末への視野が少し開けた感があった。尊皇と攘夷は別物であり、当時の日本では殆どの人間が尊皇と攘夷を掲げていたという。但し、勅命を最優先する直接尊皇と、陪臣であることから台命(大政委任による幕府経由の勅命)を優先する間接尊皇が存在したとのこと。

攘夷の方は古来より存在する「朝鮮を日本の朝貢国にして天皇制を確立したい」という願望と連動しており、「とりあえず外国を追い払ってから侵略」派(小攘夷)と、「とりあえず開国して戦備を備えてから侵略」派(大攘夷)に分かれていた。

何れにせよ攘夷は侵略概念であり、当時の日本では海外侵略を行なうことは国是として認識されていた。一見弱腰外交に見える幕府要人も征韓論を意識していたし、勝海舟・坂本竜馬も侵略を前提に開国を語っている。

東アジアの華夷秩序内で「天皇」という小皇帝を内包した段階から、自分たちへの朝貢国探しが始まり、三韓征伐伝説・羽柴氏の朝鮮出兵・日清戦争・日露戦争を経て太平洋戦争まで突き進んだ侵略概念が、攘夷なのだという(琉球・朝鮮通信使もこの文脈に合致する)。

これはとても腑に落ちる意見だ。日清戦争以降の戦いについて「西欧列強が植民地政策を進めたため日本も追随した」という言説をよく聞くが、「元からあった攘夷(侵略)概念が近世猛烈に増幅され、列強の施策に便乗する形で発露した」と考えたほうが、幕末になぜ攘夷という言葉がしきりと使われたのか判然とする。

個人的には、攘夷はイデオローグだけでなく、貿易と外貨兌換率を巡る経済主張でもあったと思うのだが、この辺りは金本位制を巡る経済論になるので改めて考察してみたい。

ちなみに、過日中津を訪れる機会があったが、この地方では幕末期、蘭癖大名として著名だった奥平昌高の意を受け、医学を中心として様々な活動をしていた。そういった事柄は全て郷土史でしかなく、ただ福沢諭吉の出生地としてのみ語られている印象がある。

単に私がこの時代について無知過ぎるのかも知れないが、特定の英雄だけが突出して掘り下げられる傾向は厳然として存在しているように思う。

ただ、その状況はインターネットによる情報発信で大きく改善される可能性があると信じている。これまで発信手段のなかった郷土史家が、ネット上で様々な人物を紹介してつなげていくという作業も可能ではないかと。その過程で激しい議論もあるだろうし、拒否される意見も出るとは思うが、通り一遍だった歴史が、地域ごとに多元性を持つ好機でもあるだろう。

『漂流巌流島』

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創元推理文庫の『漂流巌流島』(高井忍著)を読んだ。主人公が脚本家の4話もので、それぞれ、巌流島の決闘・赤穂浪士の討ち入り・池田屋事件・鍵屋の辻の仇討ちがモチーフとなっている。

ひょんなことから素人歴史研究家が矛盾に気づき、様々な視点から解明を試みる、というのはジョセフィン・ティーの『時の娘』と同じ構成(当サイトのスローガンである「TRUTH IS THE DAUGHTER OF TIME」もこの作品から援用している)。

4作の中では、赤穂浪士討ち入りが最も興味深かった。浅野長矩の傷害事件だけを取り上げるのではなく、他の江戸城内の刃傷沙汰(細川宗孝が傷害致死となった件)と並べて検証している点は奥が深い。喧嘩両成敗の語義が、非武士と武士の間で異なっていたことに言及しているのもポイントが高かった。

巌流島と鍵屋の辻は、推理物としてはなかなかだが歴史上の整合性を考えると、作者が提示した結末は必然性に欠ける気がする。一番残念だったのが、池田屋事件の推理。作者の新撰組への思い入れは感じるものの、蓋然性にすら乏しい筋立てで、謀略に寄り過ぎではないか。謀略でもいいのだが、冒頭で提示された吉田稔麿の一件を深追いすべきじゃないかと……。

とはいえ歴史部分の叙述も平明でテンポがよく、佳作であることに違いはない(歴史物というよりは推理物として読んだほうがいい)。

小机城訪問 竹林による城跡整備

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JR横浜線の小机駅から、歩いて10分。横浜線と第3京浜が交差するという現代でも要衝の地に小机の城跡がある。途中の住宅街が若干入り組んでいるものの、城はずっと見えているので迷うことはないだろう。

小机駅ホームより城跡を望む

小机駅ホームより城跡を望む

私が初めて小机を訪問したのは15年近く前だったが、その際は城下の根小屋集落は古い民家が多く、小机城に関係のある人々がまだ住んでいる雰囲気があった。現在では城のすぐそばまで新興住宅地が押し寄せている状態で、往時の面影はない。

根小屋と称される集落より登る

根小屋と称される集落より登る

城の縄張りは、第3京浜・横浜線による破壊された部分が多く未解明だという。それでも、東西の主郭は残されており、中心部は明確に遺されている。

かなり年季の入った想定図看板

かなり年季の入った想定図看板

城跡内はほぼ全域を竹林が覆っており、藪をかき分けるような場所はない。下草も刈られて起伏をしっかり見られる。竹薮になってしまうと竹の根が遺構を破壊することもあるようだが、現状は問題ないように見受けられた。

東西郭を区切る堀底は遊歩道になっている

東西郭を区切る堀底は遊歩道になっている

また初見の頃の話に戻るが、当時は丸太の展望台のような井楼が模擬で東郭に建っていた。とはいえ、登ったとしても木々に遮られて余り眺めが良くなかった印象がある。鶴見川が一望できるかもと期待していたので少々落胆した記憶がある。その展望台も撤去されている。

西郭矢倉台は、以前丸太組みの井楼が建てられていた

西郭矢倉台は、以前丸太組みの井楼が建てられていた

最後に、小机城の最大のセールスポイント、比高二重土塁をご紹介しよう。これは縦深で土塁を2重化したもので、後北条系の城跡に多く見られるという。

城の中心部を高い土塁で囲い、その向こうに低い土塁を配置する。そして、土塁と土塁の間を空堀とするものだ。攻撃側が手前の低い土塁を越えると、空堀がある。防御側はその向こう高い土塁から狙い撃ちという仕掛けだ。

東郭南の空堀とその対岸は比高二重土塁になっている

東郭南の空堀とその対岸は比高二重土塁になっている

比高二重土塁の外縁から空堀を覗く

比高二重土塁の外縁から空堀を覗く

茅ヶ崎城では西に向かって僅かに見られた比高二重土塁が、小机でははっきりと遺されている。河川と集落と位置関係、郭と矢倉台の配置などで茅ヶ崎城・小机城はよく似た構造を持っている。