カテゴリー : 思いつき

更新再開

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武家と商家の関連について、手が空く限り調べてみたのだが、そのテーマでの一般書は見当たらなかった。『日本商人の源流』という古い書籍では、中世の大規模なキャラバンには多数の護衛が従属していたと紹介している。この辺りから、武家はむしろ伝馬・問屋に近しい位置なのかと方向修正を試みていたりする。森林資源の切り出しや流通路の整備についての武家文書はかなり多いように見えるので、ここを切り口に、気長に今後も考えていこうと思う。

などと言いつつ、近頃は『杉山城問題』と呼ばれる論叢に興味を惹かれてもいた。こちらは拙いながら少し見解をまとめることに成功したので、史料を提示してから検討してみようと思う。とはいえ、縄張り論やフィールドワークなどは無理だし、遺物の年代測定についても詳しくないので、あくまで今回引用された「椙山之陣」について掘り下げていく内容になると思われる。

【お詫び】contactページの誤作動

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当サイトのコンタクトフォームが、2011(平成23)年6月10日以降誤作動しておりました。お問い合わせいただいた内容は消失しております。本日11時に修復して現在動作していることは確認しました。

この間ご連絡いただいたというお心当たりのある方は、宜しければ再度お知らせ下さい。

機能確認を怠り、心ならずも応答しなかった結果となってしまいましたことをお詫びします。

 

更新休止のお知らせ

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不図思いついたことがあり、大変興味を持って頭の中で思考を進めていったのだが、これが予想外に惚れ惚れとする美しい仮説に育っていった。何れは1次史料と引き合わせて検証する必要があるだろうが、従来の私の史観を大きく変更する内容だけに既存の思考方向を改める必要がある。

ひとまずこの状況を整理し、自分の中で決着をつけるためにサイトの更新を一時的に休止する。秋には再開できるのではないかと考えているが、こればかりは判らない。

どのような仮説かというと、「武士は武装商人だった」のではないかというものだ。過去の学校教育の成果では、武士は農民が武装したものという理解が主題だったと記憶している。私はここから発展させて、大規模な土木工事・建築を行なえる農民が武装化して武士になり、中央から来た受領貴族と融合したと基本的に理解していた。しかし、「武将」ではなく「武商」だったと仮定することで多くの根本的な疑問が解けることに衝撃を覚えている。

  1. 戦国大名・国衆は、なぜ寄進を繰り返し行なうのか?
  2. 大名は町場(商工)に関わる課税がゆるいのはなぜか?
  3. 河川と街道の確保に執念を持つのはなぜ?
  4. 武器は自分たちで作っていたのか?
  5. 意外に破産者の多い被官の存在は何を示すのか?

これまでいくつか私が行なってきた史料解釈についても影響があると思われ、論旨を切り替えるためには色々と思考実験と演繹の再構築が欠かせないだろう。

サイト自体を止める訳ではないので、既存記事などでご意見がある場合はお気軽にコメントを。また、Contactリンクから直接メッセージを送れるので、細かいご連絡はそちらで。

真実は時の娘

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2013年2月4日、世界中を驚かす速報が流れた。前年9月に英国レスターのとある駐車場から発掘された人骨が、1485年8月22日に32歳で戦死したイングランド王リチャード三世だと確定されたというのだ。この年ボズワース・フィールドの戦いで討ち取られたリチャード三世の遺体は辱めを受けレスターのどこかに埋められたが、その後川に流されたという伝承もあって所在が明らかではなかった。

年代測定でこの時代に埋葬されたことはすぐ確認されたらしいが、その後DNAによる鑑定を続け、リチャードの姉から女系でつながる人物を複数特定した。そして彼らのミトコンドリアと比較したら適合したとのこと。ミトコンドリアは女性を経由してしか遺伝しないため、ほぼ確実だという。

既に頭蓋骨から顔も復元されており、後世ウィリアム・シェイクスピアが描写したような佝僂病・片腕の麻痺などは骨格からは窺えず、ただ極端な脊柱側湾症が判明した。これは別の資料による「右肩が上にあった」という記述と一致する。また、前身に10箇所の損傷が見られ、うち8箇所が頭部に集中していることから、落馬して馬の下敷きになったところを滅多打ちにされたのでは……と推測しているWeb記事もあった。足を引きずっていたというのもシェイクスピアの文だが、これも否定されている(踝から先は残念なことに失われていたので完全否定ではない模様)。

詳しくは、下記のサイトをご参照のほど。
白い猪亭 真実のリチャードを探して

以下は私的な記述。

このサイトの旗印は「Truth is the daughter of time, not of authority」だが、この由来は推理小説『時の娘』(ジョセフィン・ティー著)にある。題材はリチャード三世。彼を抹殺することで成立したチューダー朝によって改変され消されたストーリーを俄か史家である療養中の刑事が組み立てていく。16歳で初読に及んだが、その論理的展開は明快で実に面白く、価値観が大きく変わった。以来、『史実』と称するものをあらゆる視点から疑うことが歴史に対する礼儀であって、後世の通説が仕掛けるプロパガンダを避け少しでも論理的な帰結に近づこうとする義務が後世の人間にはあると考えるようになった。

今回の発見により、この小説が題名に込めた「真理は時が生むものであって、何れは明らかになるのだ」という考え方が現実のものになった点は本当に恐ろしく美しい暗合だ。時の女神は、まるで気まぐれに物証を投げてくる。これまでリチャードについてああだこうだと論争していた文献史家は沈黙して調査結果を待つよりない。それまでは緻密で隙のない論理的帰結だった仮説が、あっという間に瓦解する事もあるだろう。

ただそれにしても、何の仮説も組み立てず神頼みでは詰まらないので、歴史好きは今日も資料を漁り稗史を練るのだ。何かの弾みで出てきた遺物・遺構によって自分が調べたことが全く無駄になるのだとしても。功利主義者から見れば正気の沙汰とは思えないけれども。

ちなみに、英国の古い俚諺は「Truth is the daughter of time」のみで、「not of authority」とつけたのはフランシス・ベーコンなのだが、これについては少しばかり面白い巡り会わせがある。チューダー朝の意を受けリチャード三世を怪物に仕立て上げたシェイクスピアと、フランシス・ベーコンは同一人物という説があるのだ。同じ人物でなかったとしても、少なくとも同時代・同じロンドンにいた2人から、正反対の文章が出てくるのは大変興味深い。

1485(文明17)年の日本はといえば、応仁の大乱から徐々に戦国へと時代が大きく転換し始めた頃だ。1456(康正2)年生まれの伊勢宗瑞が29歳。大規模な土一揆に沸き上がる京都で足利義尚の申次衆として活躍していた年である。宗瑞の姉は既に未亡人となっており、一人息子の龍王丸(氏親)は元服を目前に控える14歳で今川家家督は一族の範満が務めていた。

シェイクスピアが作ったイメージからすると気づきにくいが、リチャード三世は19歳で初陣、32歳で戦死という早熟な面を持っている。日本で言うと北畠顕家(17歳初陣、21歳戦死)、佐野宗綱(14歳初陣、25歳戦死)が近いかも知れない。

5年目の随想

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2007年8月27日の桶狭間合戦に挑むが最初のエントリだった。

このサイトを開設してちょうど5年目となる(実際にはその前に同じドメインでPukiwikiを使ったプレサイトもあったが、余り更新していなかったのでカウントしていない)。これも一つの契機、日頃思っていることを取り留めなく書いてみようと思う。

いわゆる『桶狭間合戦』(このサイトでは『鳴海原合戦』)について、1次史料だけで再構築しようと考えていたのだが……思ったより史料の読み込みが必要で、データ入力作業をしているだけの展開になっている。5年を経て登録文書数は未だ千にも満たぬ。

現在の主題である鳴海原合戦については、2~3の仮説は既に出来上がっている。とはいえ戦国遺文今川氏編の完結が2013年秋となるため、それを待って仮説を完成できればと考えている状態だ。後2年といったところか……。

私事だが、去る3月の初旬に心臓を患うこととなった。不惑を大きく越えて桑年の方が近くなってしまった身。『終わり』は意識していたが、これ程強烈に思い知らされるとは予期していなかった。発作時の対応を誤らず無理をしなければ何事もないのだが、油断は禁物と医師に言われている。

一方奇遇なことに、生業も多事多端となってきた。私が勤めているのは小さな出版社だが、最早斜陽となって長い業界だから大変だったりする。ここ数年は、自分の部署だけではなく全社案件を扱う事が激増しているが、今夏から兄弟会社の諮問も相次いでいる。恐らく後1年は落ち着かないだろう。

とにもかくにも、図書館や古書店に立ち寄る回数も減り、歴史への着想に思いを巡らす頻度も落ちてきた。この隙のなさとGalaxyNoteによる古文書入力の簡便さから、ついついサイトの内容も文書アップばかりになっている。これは少し危険で、文書を読む度に小さな発見や解釈の迷いがあって「今度まとめてみよう」と思いつつも放置している。これを書き残しておかなければ、私の半端な解釈がそのまま流布してしまいそうだ。何とかせねば。

今振り返ると、5年前の文書解釈は結構未熟だ。それなりに解釈をこなしてきた目で見ると汗顔の至りである。何れ修正を試みたい。などと偉そうに書いているが、私は完全に自己流の解釈でしかない。以前「下行米」への指摘を匿名の方から頂戴したが、このような系統だった知識がないのだ(高校2年の日本史が最後)。戦国期の文書は解釈が難しく、識者の方もまだまだ勘で解釈している部分があると思う。だから私のような素人が跋扈する余地があるのだけれど、それでよいのかは自分でも疑問に思う。

古文書入力用端末GalaxyNote

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Androidでの文字入力が楽過ぎて、古文書のテキスト化と解釈作成もPCから移行しつつある。旧字体の入力にしてもマイナーな字だとWindowsではマウスによる手書きになる訳だから、始めから手入力の方が早い。

とはいえ、Android端末なら全てが手書きに適しているのではない。『mazec』を最大限に使うには、ペン入力と巨大な画面が必要になる。だからといってiPadのような大型タブレットだと持ち歩きに不便だし、太い静電式ペンは扱いが面倒だ。

そこで私が使っているのは5.3インチの適切な画面と電磁誘導式ペン入力に対応した『GalaxyNote』だったりする。

写真で一緒に写っているのはLenovoの『ThinkPadX61 Tablet』用の電磁誘導式ペン。ペン先がちゃんとあるので、ボールペンのような書き心地だ。本体に内蔵できる標準ペンもあるが、小さくて使いづらいので収納したまま。

GalaxyNoteは、NTTドコモから発売されるかも。歴史好きはぜひ触ってみてほしい。

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