カテゴリー : 思いつき

『西湘地域』という妄想

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西湘。文字通り、西の湘南。

最近は小田原周辺を「西湘」地域と呼ぶ例が多いように見受ける。これは私が東京に出てからだから、1990年代からだと思う。「湘南」ブランドを想起させる名称が口当たりもよく、ベッドタウン・観光での誘致に使われるようだ。

でも、昔は地域名として使われることはなかった。この地域はあくまで足柄地方だった。

「西湘」という言葉の初例は市内酒匂地区にある県立西湘高校。1957(昭和32)年、近隣の酒匂中学敷地内にて創立している。他の使用例である西湘バイパスが1967(昭和42)年なので、それより10年早い。ではなぜ、「西湘」という名前が高校名に使われたのか。

小田原付近にある県立高校は殆どが地域名を冠している(小田原・足柄・大井・吉田島・湯河原・山北)。例外は城東・城北・城内で、小田原城を基準に方角を入れている。更に例外だったのが西湘である(小田原の私立高校が「旭丘」「相洋」だったことを考えると、私学なネーミングである)。元々は城東高校の普通科から派生したという話を聞いているが、建学時は女子高だったという。

『西+湘』という命名の由来は、校内では著名な話だった。私はここの出身だが、学年担当の教師から「西湘というのは、『西の湘南高校』を目指してつけられた名前だ。それをお前たちは(以下略)」と怒られるのはよくある話だった。その創設に当たって、旧県西学区で最も進学率の高い小田原高校、またはその上を行く隣接学区の平塚江南高校を目標に据えるのではなく、文武共に全国でトップレベルの湘南高校を目指したというのだから大言壮語も甚だしい。しかも女子高で、だ(その後は極端に男子を増員し、80年代には男子が70%以上を占めていた)。

一方の西湘バイパスについては、「湘南のドライブというイメージを小田原までつなげたい」という希望があったように思う。その際に、10年経って人口に膾炙されてきた『西湘』が用いられたのではないか。従来は箱根・熱海の東、東京からの通過点に過ぎなかったこの地域を「西の湘南でもあるんですよ」とアピールする狙いが窺える。

ということで、私が在学した1980年代半ばだと「西湘」といえば高校かバイパスだった。地域名ではないし、一般的には「湘南は湘南で小田原とは別」という前提があった。平塚でさえ遠いのに、そのまた先の江ノ島の辺りが湘南だと考えていたから。

ところがその後で、『湘南』ナンバー問題が勃発する。これは小田原に住んでいた友人に聞いた話だが、自動車の『相模』ナンバーが飽和となり、『足柄』『湘南』の両ナンバーが検討された辺りから妙な話になってきたらしい。

当初小田原を含む足柄上・下郡は『足柄』ナンバー、茅ヶ崎・藤沢が『湘南ナンバー』。残りはそのまま『相模』ナンバーの予定だった。ところが、平塚をどうするかで揉めたそうだ。平塚は自身が湘南地域であることを喧伝しており、地元に所属するプロサッカーチームにも湘南を冠している。紆余曲折あったものの、まあ平塚までは湘南としようと決まった。ところが今度は伊勢原や二宮、大磯が騒ぎ出した上、明らかに関係がない小田原までが「平塚が湘南なら自分たちも湘南だ」と主張し始めた。

結局小田原も湘南ナンバーにはなるのだが、それにつられて足柄の郡部と南足柄市も『足柄』ナンバーではなく『湘南』ナンバーになるという奇妙な状況が出現した。そもそも『相模の南の水辺』という意味合いで中国から移入された言葉が『湘南』なのに、海もなく南でもない、山北や箱根までが『湘南』ナンバーとなっている。このことを東京で指摘される際、必死に湘南になりたがっているように思えて私は気恥ずかしさを覚える。小田原周辺では気にしていないのだろうか……。

話は少し逸れたが、この『湘南』ナンバー騒動は『西湘』地域自称につながってくる。『足柄』地方であることを恥じ、『湘南』イメージのお零れをもらおうというものだ。このまま行けば、足柄平野を西湘平野に、酒匂川を西湘川にするかも知れない。足柄には味わい深い地名が多数あるのに、もったいないことである。

言わずもがなではあるが、過去の小田原町は箱根・湯河原・真鶴とともに足柄下郡であった。上郡は南足柄市・中井・大井・松田・山北・開成となる。これらの地域は近世小田原藩とほぼ同一であり、明治の最初期には伊豆国と合わせて足柄県を構成していた。室町・戦国期には一時的に西郡と呼ばれていたものの、その前はやはり足柄郡である。

『湘南の西』という東京視点に踊らされ、『足柄』という独自の地域名を忌避する姿は浅ましい。かつては南関東の中心地だった誇りはもはや感じられない。そして、そのような軽薄な姿勢では、歴史的資産を観光資源にする資格はないように思う。

端的な例を挙げるなら、現在の小田原駅前にある北条氏政・氏照の墓所に『幸せの鈴』が安直さを象徴している。墓所に願掛けをして鈴を結び、成就したらまた鈴を結びに来させるもので、ジャラジャラぶら下げる辺りは平塚市が『湘南平』とネーミングした高麗山の『ハート・ロック』を真似たように見える。

後北条歴代で最もリアリストであった氏政に『幸せの鈴』を宛がうとは……元々後北条氏には冷淡な小田原にしても、これはひどい扱いではなかろうか。看板には史料の裏づけでもあるかのように次の記述がある。

ここに眠る北条氏政、氏照は、長引く秀吉との攻防戦の中、戦禍にまみえる領民を思い、開城を決意されたと伝えられています。

何がどう『伝えられた』のだろうか。史料上、開城を決意したのは氏直だし、「伊達も離れたし八王子・韮山も落ちてやっぱり勝てなそうだから」というのが理由だと思われる。氏政・氏照にしたって領民のために小田原合戦を起こした訳ではない。後北条氏は「御国のために徴兵に応じろ」という理屈を使っていたが、その御国は国民国家ではなくあくまで後北条家を指す。暴力団のショバ代のようなものだ。そもそも、徴兵されなければ巻き込まれる筈もない百姓を大量動員したのは氏政・氏照なのだから「戦禍にまみえる領民を思」う筈もない。そこを強引に平和の象徴とするなら、きちんと根拠を示さねばならない。

そのような努力を怠り、単純に史跡を観光資源として利用する。また古来より名を馳せた『足柄』の地域名を捨て軽佻浮薄な『西湘』と名乗る。それが小田原の経済的な発展を期すための唯一の方法で苦渋の決断、というものなら致し方ない。が、それにしても少し節操がなさ過ぎないだろうか。

我らが共通の友(中)

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ロジャー・ライダーフッドという悪役が登場する。この人物は最初の章から完全な小悪党として出てきているが、何とも捕らえどころないキャラクターに思える。物語が始まる前に彼は収監されている。どうも強盗殺人をしたらしい、という設定だが、本人が頑強に否定するため服役したにも関わらず「らしい」が消えない印象になっている。

この男が本当にそこまでの悪人なのかという疑問は、話が進展するにつれて強まる。やっていることは密告や窃盗といったレベル。自分を真面目な人間だと韜晦する定型的な台詞回しからしても、どことなくユーモラスにすら描かれる。ブラッドストンのような近代的殺人者と比べると、どうしても狂言回しの中世的悪党に見えてくる。

だが、ライダーフッドのような悪人こそが極めて現代的な悪人だという定義も可能である。

  1. 自分で自分に暗示をかけている
  2. 1であることを薄々判って利用している
  3. 弱者から金をたかり、仲間の信義を売っても良心が痛まない
 3については少々複雑なシステムが使われているように思う。1の自己暗示でライダーフッドは「自分はとにかく虐げられている。この程度の権利はある」という鬱憤を用いており、退嬰的な自己肯定の基本部分にしている。21世紀の現代日本でいうところの「(自分に合わせてくれない)社会が悪い」がそれに近い。
 全てを他者のせいにして自分は飄々としている、という点でライダーフッドは救いようのない悪人だと描いているのかも知れない。実際、死と再生がテーマの本作で、蘇生しながら人格が変われなかったのはライダーフッドのみである。

雉も鳴かずば……

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2005(平成17)年7月23日に発生した千葉県北西部地震の少し前、13時30分頃より立川市内の空き地(国有地)で雉が異様な鳴き方を始めた。

そこはフェンスで囲われていて、その前年から雄の雉が早朝よく鳴いていた。だが、その時は鶏に近いような声を頻繁に繰り返し、何事かと集まった5人前後の人間にも臆することなく鳴き続けた。私は箱根育ちで雉はよく見ていたが、それなりに用心深い鳥でこういう行動を見たことがない。間抜けな遭遇で大慌てしたり、人間は気づいているのに雉が気づかずにいたりは稀にあった。しかし人間との距離2メートル以内で鳴き続けるのは異常に見えた(最初に来たという人に聞いたところ、人が来る前から鳴き出してわざわざ通りのそばまで出てきていたという)。

上の画像がその時のもの。フェンスの網目にカメラのレンズを押し付けて撮影している。雉は15分ほどすると、のそのそと茂みに戻っていった。

この3時間後の16時35分に、地震が来た。立川市は震度3だったが、足立区では震度5強となった。ちなみに、都内最大の活断層である立川断層はここから800メートルぐらいの位置。

この手の話は「友達の友達……」というパターンが多いが、自分で直接見聞したことなので記事にしておこうと考えた。2011年3月11日のことを思い出してみるが、この頃は既に雉の鳴き声も聞こえなくなっていた。3時間前というパターンが同じであれば、11~12時頃に雉がどこかで鳴いていたのかも知れない。

※2011年7月15日、この空き地のそばで雌か幼鳥と思われる個体が目撃されている。ここ数年見かけなかっただけに、この情報に安堵した。

我らが共通の友 (上)

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ディケンズの小説はどの作品も我が家のように寛げる空間だ。ページをめくると馴染みの顔ぶれがいつも迎えてくれる。世情が騒がしい昨今、どうしても読みたくなって気に入りの3作品からこれを選んだ。

ディケンズが完結させた長編としてはこの『Our mutual friend』が最後になる(『エドウィン・ドルードの謎』は未完のため)。最初の長編『ピクウィック』ではまだ異物として扱われていたブルジョワジーだが、その台頭は最早既成事実となっていて、物語では彼らが多数活躍する。モチーフは拝金主義の否定。そしてもう1つは仮死と蘇生による価値観の再生だ。

テムズ川のボートに乗る父と娘を描くスピーディな描写で物語は始まる。このオープニングは極めて近代的に感じる。説明的な文章も入りつつも、基本的には登場人物の動作や表情によって内面を伝えてくる。初期の作品は中世的な間延びを見せていたのだから、最末期に至るまで文体を模索していたディケンズの凄みが判る。

小説のメタファーは上で上げた川(再生の場)で、折々で登場する。川で生活していた娘のリジー・ヘクサムは、ある事情から川を離れる。そこに待っていたのは川とは違う開けた人間関係だった。友もいれば敵もいる雑多な環境にいきなり放り込まれたと思うのだが、ここはさほど深く描かれていない。それよりも、リジーによって怠惰な人生から目覚めかけているユージン・レイバーンへの説明の方が多い。

前回読んだ時よりも印象に残ったのが、障害を持った少女ジェニーの奇妙な歌。リジーと一緒にいたロンドンの狭い屋上空間。ここを天国になぞらえ、階下に退散する小悪党に向かって「戻ってきて、死になさいね」と繰り返し歌う。この小説のメタファーを考えると、作者に一番近い位置にいる代弁者は彼女かも知れない。

もう一つのメタファーである塵芥の山(拝金の場)の主人公も、本来のあるじジョン・ハーマンではなく、許婚のベラ・ウィルファーになっている。まあ普通に考えれば物語として奇矯なのだが、先ずはお手並み拝見。

『地震の日本史』を読んで

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中公新書で割合気軽に入手できる(寒川旭著・2007年)。考古学のアプローチがメインで描かれており、先史時代から阪神・淡路大震災までを網羅している。液状化の痕跡は縄文時代の遺跡からも出てくるそうで、地割れで引き裂かれた住居がいくつも紹介されていた。地質学の解説もあるので、本格的に調べてみたい場合に便利だろう。こういった書籍を読むと、文献史学の限界を本当に痛感する。折り重なった地層と遺物から年代を測定する際、もうちょっと細かく比定するのを手伝うぐらいしか役に立っていないようだ。

古文書が本格的に蓄積されるのは16世紀後半からで、せいぜい500年(実情が判るものだと18世紀を待たねばならない)。地震は数千年単位の評価軸が必要になる訳で、「史料がないから」発生しないなどということは全く当てにならない。21世紀に入ってから、地層解析は急速な進歩を遂げ、かなりのことが明らかになってきた。そうなると文献史学は本当に補助的な位置づけになるだろう。

明応地震については、東海と同時に南海地震が併発したことが確証されたそうだ。高知県四万十市・徳島県の板野郡と徳島市、大阪府東大阪市で相次いで砂脈(液状化現象跡)が発見されたのだ。684(天武13)年~1498(明応7)年の期間で、大体200年以内の間隔で南海地震が規則的に発生した可能性が高く、また同時に東海地震も伴っていたという。その後、1605(慶長10)年の慶長地震・1707(宝永4)年の宝永地震を考えると100年刻みになっている。1855(安政2)年では150年間隔が空き、今年2011(平成23)年に至るまで156年間発生していない。※1944(昭和19)年の昭和東南海地震をカウントすると100年周期に戻ったことになるが、個人的には微妙だと思う。

筆者は後書きで警告する。

都市化が進んだ地域では、開発によって地形が改変され、池や川や海を埋めた場所でも、ほとんどの人が知らずに住んでいる。土地の名称がむやみに改変されている現状では、地名から土地の履歴を察知することも難しい。明治時代前期に参謀本部が作った仮製地形図は昔の地形を知る貴重な資料で、大きな図書館で閲覧できるはずである。また、考古学の遺跡発掘調査は、地面の近くの地盤を知ることに役立つ。地震の被害は地形や地盤によって異なるが、発掘現場で地層や地震の痕跡を見て、将来の地震による被害を推測できる。

確かに明治の地図なら近代の改変は余り入っていないので参考になるだろう。また、地名も古いまま残されている。近所の図書館の規模が小さい場合には、その自治体の通史(~市史通史編のようなもの)とか、郷土の歴史本を読んでみるといいかも知れない。

 

地震随想

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地震に関しての個人的体験を、何かの参考になる可能性もあると思い書き留めておく。

 

関東大震災

これは祖母に聞いた話。1923(大正12)年の9月1日、小田原の酒匂にいたという。たまたま、祖父とともに庭にいたところ、グラグラと横に揺れた。それが収まったと思った瞬間、縦に大きく身体を突き上げられたそうだ。勿論立ってなどいられず、転倒した後四つん這いになった。座敷の奥に乳児だった長男(私から見ると伯父)がいたので、祖母は何とか進もうとしたが、バウンドして前に行かない。転がるようにして祖父が力ずくで駆け込み、長男を抱えだしたという。「怖い」と思う余裕はなく、身体が撥ねて困ると考えたという。

祖父母宅は国道1号線沿い。【酒匂県営住宅入り口交差点】のすぐそばにあった。暫くすると海水がくるぶしより上に浸された。とはいえ酒匂はずっと平地だったので覚悟を決めていたところ、水はそれ以上来なかった。母屋は無事だったが、裏にあった蔵は横転していた。既に零落していたが往時は大地主だったので、祖母は蔵の敷地を掘ってみた。残念なことに、何も出なかったそうだ。

伊豆大島近海地震

私が実際に経験した地震1978年近辺に起きた。一番大きかったのは1月14日の震度5~6だが、その前後で何十回も地震があったことを記憶している。当時住んでいた箱根では、夜中だと地響きの音が微かに聞こえ、「来る!」と思った瞬間、軽く突き上げられた後に横揺れがかかった。最初の頃は家族が全員集まって様子を見ていたが、その後は回数が多いこともあって放置状態だった。最も大きく揺れた本震は土曜。放課後の体育館で横向きに揺ら揺ら来て、かなり長かった。震度は5だったように記憶している。

夜間が多かったように思うが、昼間でも何回か震度4程度はあり、友人と平均台に乗ったり徒競争をしたりで遊んでいた。今から考えると地震酔いもあったようだ。

ちなみに、それなりに揺れた体験だったので、東京に来てからもこれを基準に地震を判断している。今回の地震と比べると、同じくらいに感じた(間に33年も挟んでいるので定かではないが)。但し、3月11日の私は千代田区のビルの5階におり、それなりにしなったと思われる。8階では蛍光灯が落ち、キャビネットが倒れたという。地下の食堂にいた者の話を聞くと、ラーメン丼の中身が飛び散った程度。

1978年の経験から「揺れは何度も来る」と注意を促したが、その場にいた20~30代のメンバーは1度で収まると考えていたようだ。「このような揺れは初めて」と語る者が殆どだった。そう言われれば、2000年の三宅島噴火を除き、関東が震源地の地震は絶えている。