カテゴリー : 2009年 8月

オリバー・ツイスト(上)

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 4読目になる。この作品は『クリスマス・キャロル』の次に有名な作品で、映画化・アニメ化も何度かされている。しかも、ディケンズにしては短い作品となるために、ストーリーも割合忠実に映像化可能だ。
 前回読んでから5年ほど経過しているが、改めて自分の読み方が変わっていたことに気づいた。当時のイギリスには救貧院という生活保護施設が存在していた。産業革命によって世界最大の経済国家に成り上がろうとしていたイギリスは、急激な社会的変化に対応できず零落した人々を、この救貧院に収容し非人道的な扱いをしていた。この作品の訴求点はここにあり、前読までは私も義憤に駆られていた。ところが、前半を読み終えた段階では、義憤とまではいかないでいる。自分でも不思議だ。
 居丈高で何も考えていない役人や、救済金に群がる小悪党には怒りを感じるものの、ディケンズの筆致が少し青臭く感じてしまう。「震えている貧者にも実は裏があるんだよな」と思ってしまうのだ。私自身、変な経験を積み過ぎたのかも知れない。
 物語の冒頭で、行き倒れて救貧院に運ばれた若い女が男児を出産して死ぬ。この男児が適当につけられた名前が『オリバー・ツイスト』となる。オリバーは救貧院から葬儀屋に徒弟で出され、ここで騒動を起こして出奔する。その後ロンドンに出て盗賊団に入る。スリの現場で立ち尽くしてしまったところを逮捕されるが、人情味溢れるその被害者に保護されて幸せを手に入れた……ところが、使いに出たオリバーは昔の仲間に連れ去られ、今度は強盗のため他人の屋敷に忍び込むことに。そして家人が発砲、オリバーは致命傷を負う。
 ここまで、オリバーと作者の主観を除いて簡潔に筋を追ってみたが、こうやって見ると「小心で不運なゴロツキ」にしか見えない。勿論ディケンズはオリバーの純真な心を擁護して描写しているし、オリバー自身も精一杯運命に抵抗する。しかし、やはり世間が結果だけを見るならば彼はゴロツキに過ぎない。
 ここが、今回私がディケンズの筆致に乗り切れないでいる要因なのかも知れない。裏に何やら陰謀が見え隠れしているのだが、伏線が微弱で効いていないし。

デイヴィッド・コパフィールド(DVD)

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 ことのついでに、DVDも観てみた。映像になったのでストーリーを端折っているのは仕方ないとして、全体はよくできている。主演のデイヴィッド役が、物語の最後でものすごくディケンズに似てきたのが感動的。「なるほどそれでこの役者にしたのか」と得心するほどの出来栄え。左利きだったので、当初は「何でこの役者?」と疑問に思っていた(少年時代は右利き設定だったので)。
 メル先生もトラドルズも出てこないのと、ペゴティとディックがイメージより豊満過ぎなのが気がかりだったけど……。少年時代=ダニエル・ラドクリフのパートが長い。トラドルズが、泣くと髑髏の絵を書き散らすのは、ディックの筆写シーンにちょっとだけ織り込まれていた。伯母さんのロバ戦争は映像で見ると卑近に映るのは何だろうか。
 マードストンとジュリア・ミルズは、イメージそのままだった。マードストンが悪役ながらそれなりに傷ついたりする印象も映像化できていたのが素晴らしかった。ジュリアはちょい役で5秒も出ていなかった。原作を読んでいる人間だけが「なるほど、恋愛おたくっぽい」と頷ける仕掛けの模様。
 アグニスは地味なだけで、やはり映像と文章だと、言動が主となる人物描写は厳しい。ユライアも同様で、かなりの尺をとって描写しているものの、カマっぽいだけだし。
 不可解に思ったのは、スティアフォースがローザに恋愛感情を持っているという点。原作のスティアフォースはもっと複雑な人格で、ローザに甘えているような反発しているような、それでいて手玉にとっているような微妙な関係を持っていた。ここがどうも納得いかない。

デイヴィッド・コパフィールド(4)

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 いよいよ大団円となる最終巻だが、ちょっとご都合主義が目立つ。ミコーバー一家・ペゴティ一家をオーストラリア移民でハッピーにしてしまうのが強引だし、ユライア・ヒープとモティマーを珍妙な監獄に入れて披露しているのも微妙に違和感がある。とってつけた結末もまたディケンズの特徴ではあるのだが、それにしても手を抜きすぎているようだ。
 あえて意味を深くとって考える意義がありそうなのは、デイヴィッドとユライアの相似性。主人公である好漢デイヴィッドと陰湿な悪党ユライアは、正反対に位置するキャラクターと思われる。ところが、この二人は推理小説でいうところの『一人二役』のような補完関係をなしているのだ。
 第52章「爆発」では、ウィックフィールド家に関連するメンバーはほぼ全てがユライアに対峙する。大人しいアグニスや、ユライアの母親までがユライアを追い詰める側に回る。情報面からはミコーバー、法的処置はトラドルズ、感情表現はベッチー伯母、ユライアの母が「皆に謝れ」との泣き落とし、という具合だ。
 ところが、ユライアとの関係が最も悪い筈のデイヴィッドが一切発言をしていない。他の人間に任せたまま、無反応である。ユライアが攻撃するのはデイヴィッドだけなのに、自身は何の感想も漏らさず叙述に徹している不自然な描写が続く。ユライアが多弁であればあるほど、デイヴィッドは寡黙になっていく。デイヴィッドが反ユライアの盟主であるのは全員が理解しているにも関わらず、デイヴィッドは不可解な沈潜を維持しているのだ。
 これは作者のディケンズも理解しているようで、判る読者には判るように書いている気配がある。その他の場面でも、ユライアとデイヴィッドに葛藤がある場合、必ず2人っきりのシチュエーションになるのである。これは作者が仕組まないと実現できないプロットだ。
 カフカ・ドストエフスキーを経験した現代読者であれば、「ユライア・デイヴィッドは同一人物の2面性をキャラクター化したもの」と看破することは容易い。「人に取り入れる成り上がり」の明るい側面をデイヴィッド・暗い闇をヒープが担ったのだとすると、この小説はまた違った読み方を誘うことになる。
 詳細な検討が必要かも知れないが、デイヴィッドがドーラに夢中になると同時にヒープがアグニスを狙い始める筋立てもこの説を補強すると思われる。
 デイヴィッド主観で考えると、大人に成り切れない妻が自立する様子を描いたのが、ドーラの死とアグニスとの再婚になる。アグニス主観で考えると、成り上がるために悪も辞さなかった夫が周囲の吊るし上げで正気に返る様子がヒープの自滅劇となるだろう。成長を拒否する妻の人格ドーラ・社会的悪を内包した夫の人格ヒープは淘汰され、最終的な夫婦関係の形成がなされるという筋立てになる。
 その経過を描いたものが『デイヴィッド・コパフィールド』という読み方の可能性は非常に魅力的に見える。