カテゴリー : 2010年 11月

12月の更新

Facebook にシェア
[`yahoo` not found]
このエントリーをはてなブックマークに追加
[`fc2` not found]
[`livedoor` not found]
[`friendfeed` not found]

12月1日からのエントリーでは、古文書のアップを優先する。これは2月に刊行予定の『戦国遺文 今川氏編2』によって今川氏関連文書が増える予想に備えるものであり、また、様々な論の展開に必要な文書を補充する目的もある。

いつもより堅苦しい内容になりがちだが、解釈への疑問点・意見などあれば、コメントなどでお知らせを。

時事情報になるが、11月27日に山形城本丸から戦国期(最上氏時代)のものと見られる建物跡が見つかったという。火災で焼けた跡が最上義光書状の「本丸が焼けた」の記述と合うそうで、根石を置く形式と掘っ立て式の混在、焼けた瓦の存在により、戦国末期の姿がこれから明らかにされるだろう。

一方、近江八幡市ではシンポジウム「安土 信長の城と城下町」が同じ11月27日に開催された。安土城内の清涼殿存在有無が議論されたようで、その成果の発表が待たれる。

その他、ようやく国史跡となった岐阜城では金箔瓦、金沢城兼六園成立以前の城内庭園『玉泉院丸』で階段状の滝、甲府城では羽柴氏時代の石垣が見つかっている。

松本城は幕末期の景観を取り戻すべく、2018年度完成を目指して外堀復元計画が開示された。恐らくここでも貴重な遺構が見つかることだろう。

岩槻城跡で11月20日に開かれた見学会では、近世・戦国期と共に縄文期の遺物も公開された。それぞれの時代でどのように場所が使われたかは、文献だけでは知りえない。

このような発掘調査によって史料解釈は精度が高くなり、大きく前進する。史料を読む際の留意事項が増えるが、とても嬉しい作業増だ。

小田原 2

Facebook にシェア
[`yahoo` not found]
このエントリーをはてなブックマークに追加
[`fc2` not found]
[`livedoor` not found]
[`friendfeed` not found]

※本エントリは1998年と2010年の小田原を比較した個人的な覚書である。

前のエントリ「小田原1」の続き……。

幸田門を更に進む。ナック中村屋は外見そのままで健在にも思えるが、内部を見ていないので判らない。ここは古いデパートだった。そのはす向かいにあった志沢も老舗のデパートで、山下清のサイン会を行なうなど、一時期は地域の文化振興も担っていた。現在はスーパー銭湯になっている模様。手前を右に折れて栄町1丁目の交差点に出る。直進して大工町に行くと、かなりシャッター街っぽくなっていた。ここは1980年代から怪しかったので、ゆっくりと退潮しているのかも知れない。伊勢治書店は残っていたが、向かいのオービックビルに八小堂書店はなかった。ここの八小堂オービック店で、1981(昭和56)年に刊行されたばかりの『日本城郭大系第6巻 神奈川・千葉』を購入したことを今でも覚えている(何故か平山郁夫の版画が付いてきた)。平凡社の『QA』と出会って雑誌編集の魅力を知ったのもここ。ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』もここで入手した。翌年、2階奥のPCショップ(これももうない)で、当時はマイコンと呼ばれていた『MZ-80K2E』を買った。このどれもが、現在に至るまで私の人生の基礎となっていることを思うと、何ともやるせない気持ちになった。ちなみに、伊勢治のことを小田原人は「いせぇじ」と呼んでいた。「御幸の浜」を何故だか「みゆきがはま」とも呼んでいた。

そのまま大工町を直進して高野書店に行き、無事に『小田原市史 史料編中世2 後北条氏1』を購入。伊勢治まで戻ったら右に折れる。茶半家具でも見に行こうかと思ったが、時間も押しているので『旧ニチイ』と思しきビルを通り抜けてダイヤ街に向かう。その際に「おもちゃのあさひ屋」の濃緑の看板を発見。物心ついた頃から、ニチイの上にこの看板はあった。そして、あさひ屋の濃緑の包装紙の匂いが思い出される。あの紙包みを空ける時の胸の高鳴りと共に……。

ニチイの面影を全く留めていないビルを抜ける。昔、ニチイの地下には何故か『寿がきや』があって、そこのうどんが100円なのに美味だった。高校生の頃はやたらと行っていたものだ。抜けるとそこは旧長崎屋のビル。ドン・キホーテか何かが入っていたがスルー。右手に『魚國』・『岡西』が健在なのを見つけてほっとするも、東映だった場所は『ラーメン宿場町』という変な空間になっていた。

左手に向かう。「仲見世は多分ないだろうが、何かの痕跡がないか」と仄かな期待を抱くも、全くもって消されていた。仲見世とは屋根がついた商店街なのだが、何故か曲がりくねっていて天井も低かった。食料品店を中心にした、戦後ヤミ市っぽい猥雑さを持った空間であった。ここの鰻屋『正直屋』の鰻が大好きだったし、目の前で鰻を捌いているのを眺めるのも乙なものだった。親類の間では三島の『うなよし』が最高評価だったが、私は心中で正直屋に勝るものはないと確信していたものだ。

ダイヤ街を南下する。『十字屋』はもうないだろうけど、同じビルなら通り抜けしたいと考えていたが、建物ごとなくなっていたようで断念(ビルの横の隙間もなくなっていた)。あのビルは階段や踊り場が奇妙な配置で面白かった(販売物は女性用衣類だったので物を買ったことはない)。

再び栄町の通りに出て、駅に向かう。通りの向かいに、釜飯をよく食べに行った『鳥ぎん』を確認。スズメを頼んだら、骨っぽくて食べれなかったのもついでに思い出した。鳥ぎんの隣には『日栄楼』も、ここだけ時間が止まったかのように完全に同じ形で存在していた。ここはサンマー麺と焼き飯が絶品だ。

駅に向って蕎麦屋『寿庵』の健在を確認できたのも嬉しかったが、その前の三角ビルは公園になっていた。このビルは確か、地上2階・地下1階で、地下には飲食店があったように記憶している。地上は銀行系の何かだった。

奇妙な雰囲気は相変わらずの『おしゃれ横丁』に入り、殺風景な路地裏を辿っていくと、北条氏政・氏照の墓が現われる。昔と比べてきちんと整備されていたものの、目立たない点では高レベルを維持している。墓の前を直進してから曲がり、守屋のパンがあるかを確認。休みだったものの、甘食で著名な名店はしっかり残っていてひと安心。

『ラスカ』と呼ばれる駅ビルに戻る。ビル内には『有隣堂』があって八小堂の不在をまた思い出した。伊勢治・『平井』の各書店はあるものの、駅前・オービックに展開した八小堂の存在が、有隣堂の小田原進出を防いでいたように思う。『小田原市史後北条2』を購入したのが、この書店との別れになった。文庫を買った際に書店の紙カバーをつけてくれるが、その折り込みが独特で、本を優しく包みながら外れない仕様になっていた。鰻の話とかぶるが、昔の年寄りは「本屋と言えば平井」と主張して譲らなかったものだが、私は八小堂に敵う書店はないと確信していた。

ちなみに、帰路に鯛めし弁当を購入するが、昔の6角形の箱ではなく、内容も違っていた。たまたま買ったのが小田急系の店だったからかも知れない……。

遺構保存の課題 小田原城跡樹木伐採 2

Facebook にシェア
[`yahoo` not found]
このエントリーをはてなブックマークに追加
[`fc2` not found]
[`livedoor` not found]
[`friendfeed` not found]

小田原城内の樹木伐採で出てくるかも知れない遺構については、下記にある既存の事例が参考になるだろう。

『小田原市史 別編 城郭』(小笠原清編・小田原市)による推測

  1. 小田原城の始原(大森氏以前)は御前曲輪東にある異質な構造物にある。
  2. 現在の本丸が城地になった当初、現・御用米曲輪は二の丸、蓮池が正面の堀だった。
  3. 「氏康の居館は大池3つに囲まれている」という天文20年の文献から、蓮池・二の丸前の池・南曲輪前の池が個別に存在しており、これをつなぐことで二の丸外郭が構成された。
  4. 弁財天曲輪は攻撃的な大手門で、上杉輝虎・武田晴信攻撃時の幸田口(四ツ門・蓮池の門・蓮池口の四ツ門・四ツ門蓮池)はここ。
  5. 焔硝曲輪は弁財天曲輪を避けた敵を呼び込むトラップ。
  6. 馬屋曲輪は後北条時代に防御的構造物として作られた。
  7. 三の丸外郭も後北条時代に遡れる可能性があるが、遺構が完全に重なっているため畝堀の検出は難しい。
  8. 石垣山城から1591(天正19)年銘の瓦が出土しており、小田原合戦後も石垣山城が築造されていたことが確定している。
  9. 御用米曲輪にあったと思われる米・焔硝曲輪にあった小田原石の構造物については後北条からの伝承が絡んでいる。

上記を受けて、発掘があった場合の成果予想を挙げてみる。

蓮池近辺からは、1561(永禄4)年の上杉・1569(永禄12)年の武田氏の小田原攻城時の遺物が出てくる可能性がある(永禄4年と比定される幻庵書状には鉄炮500挺とある)。うまくいけば、後北条氏だけでなく、上杉・武田各氏の遺物も見つかるだろう。また、1590(天正18)年小田原開城時に後北条氏保管文書が全てなくなったことを考えると、何らかの形で近世の本丸・二の丸・三の丸に埋蔵されている可能性もごく僅かだが残されている(既に出土された遺物には木簡が含まれる)。

このほか、東国で最も築城技術が発達した後北条の縄張りに、徳川の石塁技術がどう組み合わさったのかを検証できる点も重要だ。井戸・堀の位置が後北条時代・大久保前期・稲葉期では異なるとの事例が住吉堀の発掘で明かされた。さらには、築城が続いていた石垣山城との関連も気にかかる。羽柴秀吉が徳川家康を後北条旧領に封じた際、小田原城主とともに石垣山城主にも大久保氏を任命したという説があるという。そうなると、石垣山城がどこかで廃城となって小田原に資材が移った可能性が大きい。この実態も、発掘で解明されるだろう。

そして最も重要な点は、大森氏時代と思われる遺構が絡んでいるという点である。このことは、二の丸を含む本丸周辺の地下には、1417(応永24)年~1871(明治4)年までの454年に亘る日本城郭の変遷が含まれている可能性を示唆する。関東においてはこれに比肩するものは江戸城しかないが、首都であり皇居となっているこの城を徹底的に発掘することは難しい。鉢形・岩槻も価値が高いと思われるが、近世への変遷で中心拠点ではあり得ない。

城跡内で最も貴重だとされているのは本丸の松で樹齢400年だという。しかし、500年と推測される松は国内に複数存在しており、生態上唯一の存在ではない。一方、中世城郭を極限まで巨大化したり、近世将軍家の出城となったりした城は小田原城しかない。学術から見るならば、どちらを取るかは比べるまでもない。むしろ、伐採によって400年間の気候を把握できるだろう。

このように考えると、城跡公園の植栽全てを伐採して非破壊調査を行ない、その後は遺構を全て埋め戻して後世の精査を待つべきと結論付けられる。

遺構保存の課題 小田原城跡樹木伐採 1

Facebook にシェア
[`yahoo` not found]
このエントリーをはてなブックマークに追加
[`fc2` not found]
[`livedoor` not found]
[`friendfeed` not found]

小田原城跡公園の本丸・二の丸の景観を江戸期のものにするプロジェクトが、小田原市とTBSの間で紛争となっている。TBS著作の番組『噂の!東京マガジン』内で、小田原市が予定している公園内樹木の伐採を揶揄する内容を放映したためである。この伐採は、天守を見通せる8つのビューポイントを用意するためのものだという。

現在進行している案件に対して当サイトは検証しない。ただ、城郭遺構の保存についての興味深い事例だと考えるので、以下の2点について論じてみたい。

1)江戸期の小田原城景観はどうだったか(天守の景観を阻害するほど樹木が高かったか)
2)伐採により可能になる発掘調査で何が判るか

まず1の景観について考える(2については別エントリとする)。

銅門から本丸を見た際、確かに天守は見づらい。上の写真では銅門渡櫓入母屋の左に微かに見えている程度。何度も再建・修築した徳川家の意図や、東海道で参勤交代の大名に睨みを利かせたであろう事を考えると、天守はもっとよく見えたほうが「江戸時代の小田原城」としては正しいと思う。

詳しく解説された『小田原市史 別編 城郭』を元に江戸期小田原城の様子を箇条書きで挙げてみる。

『小田原市史 別編 城郭』(小笠原清編・小田原市)での推測

  1. 近世小田原城は、徳川家の所有であるという前提が存在。
  2. 御用米曲輪の米は徳川家のもので、大久保家の蔵は最初旭丘高校前、次いで小田原駅近辺にあった。本丸御殿・天守は徳川家当主が利用するものなので、大久保家当主は二の丸に居住。その本丸御殿は1703(元禄16)年に焼失していたので、幕末に徳川関係者が東海道を通過する際は、二の丸を開放した。御茶壷曲輪は徳川家に献上する茶を置いたという。
  3. 1590(天正18)年の開城で数十万石の米が後北条氏から徳川氏に付与されたということなので、後北条時代から御用米曲輪は保管庫として使われていた。
  4. 天守は3代
    • 初代[加藤図] 3層入母屋で2重櫓の上に望楼を載せる・1633(寛永10)年地震により倒壊か
    • 2代[正保図] 3層で最上階のみ入母屋で他は寄棟、最上階と第2層に勾欄・1703(元禄16)年に地震で倒壊
    • 3代[宝永天守] 復興天守と同じだが、上層への低減率が2つの模型で異なる。これは災害による修復時の度に上層階を小さくしたものと考えられる・1870(明治3)年民間に払い下げられ解体
  5. 2度の再建と度重なる修復によってでも天守を維持しているのは、江戸の出城という意識があったため。初期の本丸・天守は建築費が徳川家から拠出されていた。
  6. 江戸期は大久保前期・城番期(含む阿部期)・稲葉期・大久保後期に分けられる。
    • ~1614(慶長19)年 大久保前期・24年
    • ~1632(寛永9)年 城番期・18年
    • ~1686(貞享3)年 稲葉期・54年
    • ~1871(明治4)年 大久保後期・185年
  7. 大久保前期では後北条時代の構造を近世化していた。本丸・二の丸・馬屋曲輪・三の丸が石垣で構成されて本格整備されたのは稲葉期。
  8. 小峰曲輪・御用米曲輪の補修願いが大久保後期に出されているが、石垣にした形跡はない。
  9. 古写真で常盤木門の近辺は樹木が鬱蒼としている上、橋の欄干も破損したまま。
  10. 古写真で南曲輪の石垣上には松が生い茂って塀の代わりをしていた(2重櫓も漆喰が剥がれている状態)。
  11. 発掘により、幸田門跡からは大森時代とも思われる遺構が出た(後世築造による破損がひどかった)。
  12. 焔硝曲輪・弁財天曲輪・御用米曲輪に関して発掘調査は余り進んでいない。屏風岩は殆ど調査していない。
  13. 住吉堀の復元過程で、後北条時代の畝堀や井戸、溝が出て当時の縄張りが推測可能になった。
  14. 馬屋曲輪内には氏康の頃からと伝わる松の古木『住吉松』があった。
  15. 二の丸と小峰曲輪の間にある矢来門前に『頸塚松』があった。宝永年間の石垣築造で城内から大量の頭蓋骨が出土したので頸塚を作って松を植えたという。
  16. 本丸には後北条時代からと伝わる『七本松』があった。
  17. 古写真の植生は現在の城跡に近い印象がある。

■その他書籍による景観の推測

  • 松は篝火・松明・松脂などの軍事用照明・燃料として乱獲されたため、植栽例が多い。
  • その他に杉・竹・サイカチが多かったという。

上記は『軍需物資から見た戦国合戦』(盛本昌広著・洋泉社新書y)より

  • 1854(安政元)年築造の松前城を明治中期に撮影した写真には曲輪内で樹木が多く見られる。
  • 植栽が見られた全ての城では、杉か松が植栽されている。松は石垣の上に並木にして塀代わりにしている模様。
  • 保全費が足りず、石垣の隙間から雑草が生えている。
  • 但し、石垣を膨らませるような事例はないので、ある程度育った木は伐採していたのではないか。
  • 広島・大洲・熊本は天守の隣に大樹があって視界を遮っている。
  • 小田原城は漆喰も剥がれているひどい状態。明治の古写真を見ても、整備されている城とそうでない城の落差があるが、小田原は徳川系城郭(江戸・名古屋・彦根・大坂・二条)の中では整備不良の最右翼というポジション。

上記は『日本の名城《古写真大図鑑》』(森山英一編著・講談社+α文庫)を見ての所見

馬屋曲輪の松並木を観望。左は銅門。古写真と比較しても、松の高さは幕末と同じ程度。

上記から、幕末の古写真から推測すると伐採することで却って原型から遠ざかると結論できる。但し、古写真の城でもきちんと植栽が整備されている城(大坂・岡山・姫路など)があったため、大久保後期以前の景観を採用するならば、伐採を行なうべきだろう。

『小田原市史 別編 城郭』は絶版となって入手が難しく、ネット上でも公開されていない。このために小田原城に対する説明が行き届かない可能性が高い。小田原市は今後の城跡公園整備に合わせて復刊、もしくは入門書刊行、電子化による公開を行なうべきではないか。また、江戸期小田原城といっても、いつの段階かを小田原市は明示していない。近世の時期によって小田原城は全く違う状態になるため、説明すべきと考える。

小田原 1

Facebook にシェア
[`yahoo` not found]
このエントリーをはてなブックマークに追加
[`fc2` not found]
[`livedoor` not found]
[`friendfeed` not found]

過日、高野書店で『小田原市史 後北条氏1』を購入するため、10年ぶりに小田原へ行った。さすがに町並みも変わっており、昔日の面影はなかった。そこで、私が知っている1976~86年頃の小田原と比べた所感を残しておこうと思う。

駅舎が三角屋根ではなくなり、大きな駅ビル内には様々な店が立ち並んでいた。それと、東口からだとJRの改札を抜けて地下に潜ってから今度は小田急線の改札があるという、浸水に弱い半地下みたいな駅だった。そして東と西の改札は通り抜け不可だった。それも駅ビル内に吸収され、とても普通の駅になった。急いでいたので気づかなかったが、大雄山線の改札はどこにあるのだろう……。

駅の東口に出ると、空中歩道がある。丸井デパートだった建物はものの見事に雑居ビルになっていたが、その昔『箱根登山デパート』だった『ベルジュ』は看板を掲げて頑張っていた(1階がファーストキッチンだったのは驚き。昔は女性用の洋服屋がマネキンを置いていて華やかだった)。

ネットで廃墟の噂を聞いていた小田原地下街『アミーおだちか』は、本当に地下通路とシャッター街になり果てていた。1980年代には、飲食・アパレルは当然として、ファストフード・レコード店・玩具店・文具店も完備しており、かなりの人出があったと思う。今は薄暗く静かな空間に人影も殆どなく、余りの落差に衝撃を受けた。

タクシー乗り場はそのままだったので、南町の小田原文学館まで移動。市民会館前で国道1号線と合流したが、国際通にも何となく寂れた感がある。映画館の「オリオン座」がなくなっていた。

文学館を軽く見て箱根口まで移動。南町が閑静な住宅街なのは変わらなかったが、1号線沿いの商家は空き地が目立った。建物の老朽化が進んでいるのかも知れない。1号線を渡ると、ものすごく古い本屋がまだやっていて驚いた。戦後すぐに開業したような、民家の間口を開放して本を並べただけの代物である。

後北条時代は大手だったと言われる箱根口の石垣を抜けると、左手に小田原スポーツ会館と御感の藤、これは前と同じ眺め。右手に見慣れない巨大建造物があったが、これは城内小学校と本町小学校が合併してできたものらしい。

昔と変わらぬ藤棚で一休みして、馬出に向かう。これまで常盤木門しか馴染みがなかったせいか、銅門の大きさに一驚。ただ、下見板張りじゃないのが残念なのと、組み上げた石垣の角が切り込みハギ過ぎて違和感があった。古写真を見ても普通の打ち込みハギだと思うが……。この傾向は現在の小田原城のあちこちに見られるが、大震災後に組み直した際にそうなってしまったのかも知れない。

復元された銅門を西から

復元された銅門を西から

その後郷土資料館へ。料金無料(昔は違ったような)。館内はとても古臭い資料館で、子供の頃に社会科見学で訪れた際の印象とのギャップを感じた。それなりに頑張っているのは感じるが、東京からの観光客を迎えるには正直厳しいだろう。

資料館から常盤木門には行かず、本丸脇を抜ける。関東大震災で崩れた本丸石垣が転がっている。この傾斜地には、本丸動物園であぶれた動物が狭い檻に入れられて点々と配置されていたことがある。ヤギやアライグマ、タヌキなどが寂しそうにしていた。動物園がいかに残酷なものであるかを学ばせてくれた場所だ。

道を直進すると遊園地に至る。ここが健在なのは嬉しかった。入ってすぐに豆汽車がお出迎え。左手に券売機があり、その手前に『コーヒーカップ』も健在。こいつを回し過ぎていつも係員に叱責されていたのを思い出した。右手の階段を登った辺りにはアームで上下しながら回転するボートみたいな乗り物があったのだが、既に撤去されていた。

『コーヒーカップ』と呼んでいた遊具

『コーヒーカップ』と呼んでいた遊具

正面を進むと豆汽車ホームと、電動の乗り物(移動はせずにその場で動くタイプ)がある。そして、鉄製の馬が2頭、残されていた。これは、私が幼い頃によく座らされていたものだ。本当は電動に乗りたかったがそう何度も乗れるものではなく、これで気を紛らわせていた。まだ残っていたのかと感慨深かった。

鉄馬君1号

鉄馬君1号

鉄馬君2号

鉄馬君2号

その奥には観覧車跡地への階段。独特の小ぶりな観覧車はもうない。右に折れて踏み切りを渡り、土塁をくり抜いたトンネルを抜ける。左手に、滅多に乗らせてもらえなかった豆自動車のサーキットが現われた。幼いレーサーたちがハンドルを握り締めている。サーキットも小さく、電動自動車が信じられない遅さで動いているのに驚く。

豆汽車と豆自動車
豆汽車と豆自動車
遊園地看板と天守台石垣

遊園地看板と天守台石垣

上の写真で背景にあるのは天守台の石垣だが、よく見ると打ち込みハギというよりは切り込みハギに近い。中途半端なのは、大震災後に近代の技術で組み上げたからかも知れない。

豆汽車の子供たちに手を振りながら、再び踏み切りを渡って左手に折れると本丸に辿り着く。ここまででかなり時間を消費してしまったため、天守はスルーして象舎へ。ここは来年取り壊される前に見ておきたかった。遊園地と同じく、記憶より遥かに小さな建物だった。やはり梅子はいないのだと実感して、象舎を記憶につなぎ止めた。

ちなみに、本丸内にあるゴミ箱に「燃せるゴミ」と書かれていたのを発見。誤植ではなく方言である。「燃やせる=もせる」が小田原周辺の言葉。語尾に「~け?」「~だべ」「~べよ」を付けたり、走ることを「跳ぶ」というのも独特。最大の特徴は、言葉と言葉の間に強調表現として「おめ」を入れる点だ。これは「お前」を約めた言い方で、第二人称を常に挟むことで相手をロックオンさせる狙いがあると考えられる。特に西国の方々からすると、汚い上に絡まれた感じに受け取るらしい。そして今回の小田原行での最大の驚きは、この小田原弁を全く耳にしなくなったことだ。東京生活が長くなるにつれて、小田原に行った際の訛りには敏感になったものだが、全くの標準語ばかりが耳に入ってきた。それだけテレビやネットなどのメディアが強いのだろう。

常盤木門から降りて歴史見聞館に入る。変なマルチメディア展示をするよりも、きちんと古文書や図表を使ったほうが面白いのではないかという実例を見た。昔の観光客用施設に過ぎるのではないか。

なくなってしまった城内小学校跡地を抜け、学端からお堀端へ。左に折れて幸田門に向かうが、その途次、道端の小公園で小田原城天守の古写真を見つけた。

天守台と大久保神社

天守台と大久保神社

天守台と観覧車

天守台と観覧車

解体中→大久保神社が乗っている→観覧車が載っている→復興天守が乗っている

という、歴史ファンからすると小田原市に「昔自分はワルだった」と告白されているように感じられるシュールな風景だった。ただ、小田原はその愛すべきシュールさは失わないでほしいとも思う。