カテゴリー : 2011年 1月

2人の義氏

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鎌倉期と戦国末期に、2人の足利義氏が存在していた。それぞれが足利家の始点と終点を体現しており、『義氏』とはある意味究極の名前であることを示していた。
足利氏は、もともとは上野国在地の源氏に過ぎなかった。ところが、鎌倉政権が出来る際に初代義康が頼朝の従兄弟である点を活かし、義康の嫡男義兼の正室に北条時政の娘を迎える。その意図は源家将軍外戚との連携を図ったものだが、3代で源家が途絶えて北条氏が執権として台頭した辺りから風向きが変わってくる。
足利と北条両方の血を引く義氏(義兼の嫡男)は、執権泰氏の娘を娶り嫡男を儲ける。この息子にも、義家以来足利家が名乗っていた通字『義』を与えたかったのだろうが、既に源家が滅亡しており、ここで源氏色を出すのは危険という判断を下したと思われる。嫡男は泰氏の『泰』と義氏の『氏』をもらって泰氏と名乗る。正室は父と同じく北条一族の出身。
その後、時頼から偏諱を受けた頼氏につながるが、その息子は家時という特殊な名乗りである。本来であれば時宗から偏諱を受けて『宗氏』とでも名乗れば規定の路線だが、家時の母は頼氏正室の北条氏ではなく上杉重房(将軍宗尊親王の補佐役)娘であることから、嫡男として想定されていなかった節がある。家時は北条政権に批判的だったと伝わり、最期は詰め腹を切らされたとの説もある。「母が上杉氏の異端児」という点は尊氏につながっていく。
家時の正室も北条一族だが、またしても子がなく新田氏出身の側室が貞氏を産む。貞氏は北条貞時の偏諱を受けたもので、『執権からの偏諱+氏』というパターンが復活する。そして重なることは再三に及び、貞氏の正室北条氏も子がなく、側室上杉氏が産んだのが尊氏(当初は高時偏諱で高氏)だった。
尊氏は源家政権を復活させ、嫡男には北条氏への気兼ねもなく義詮と名乗らせる。皮肉なことに、義詮は尊氏正室北条氏の産である。以降、義昭に至るまで足利惣領家は『義』の通字を徹底させることとなる。
  1. 義康 足利初代
  2. 義兼 頼朝が母方の従兄弟
  3. 義氏 母は北条時政の娘
  4. 泰氏 母は北条泰時の娘
  5. 頼氏 母は北条時氏の娘
  6. 家時 母は上杉重房の娘
  7. 貞氏 母は新田政氏の娘
  8. 尊氏 母は上杉頼重の娘
  9. 義詮 母は北条久時の娘
その一方で、義詮の同母弟が関東公方として別系統を立てる。尊氏はこの次男に『氏』を与えて基氏と名乗らせる。その嫡男氏満は、父の『氏』を先頭にして、京公方義満の『満』を後ろにつけている。関東と京が対等と見るならば妥当な名だが、関東は臣下と考えていた義満は面白くなかっただろう。その嫡男は満兼で、一見義満の『満』を頭にいただいているようにも見えるが、氏満の名ともかぶるために微妙なニュアンスである。
その次の持氏は京の義持の偏諱をしっかり取り込んだ形になっており、一応京の臣下に立ったことが判る。ところが持氏はその扱いに不満で、嫡男に義久と名乗らせた挙句、永享の乱によって義久ともども切腹させられる。
鎮圧後は成氏(義成=義政初名からの偏諱)、政氏(義政からの偏諱)と続いて名乗りの上からは平穏に見えるが、両者ともに徹底して京政権に反旗を翻している。とはいえ、『義』を名乗ることはなかった。父政氏と折り合いが悪かった嫡男は、高(義高=義澄の2番目の名からの偏諱)+基(基氏から引く)と名乗って『氏』を捨てている。
その後晴氏(義晴からの偏諱)、藤氏(義藤=義輝初名からの偏諱)と妥当な名乗りに落ち着いていた。藤氏は後北条氏によって廃され、後北条一族の血を引く梅千代王丸が最期の関東公方となる。その名乗りは、京の『義』と関東の『氏』を合わせた最強のものとなった。京公方家の衰退と、後北条氏の強力なバックアップにより、強い名乗りが可能になったものの、それは皮肉なことに足利家の傀儡化完了を意味していた。最も完成された名前を与えることで、後北条氏は「これで終了」と意図していたのかも知れない。
  1. 基氏 関東公方初代
  2. 氏満 母は畠山家国の娘
  3. 満兼 母は不明
  4. 持氏 母は一色氏
  5. (義久) 母は不明(簗田氏?)
  6. 成氏 母は不明(簗田氏?)
  7. 政氏 母は簗田直助の娘
  8. 高基 母は不明
  9. 晴氏 母は宇都宮成綱の娘
  10. (藤氏) 母は簗田高助の娘
  11. 義氏 母は北条氏綱の娘
「義氏」から『義』と『氏』の分裂の遠因を作ったのも、2つを統合させたのも「北条氏」という点はどこか因縁めいている。

鎌倉期と戦国末期に、2人の足利義氏が存在していた。それぞれが足利家の始点と終点を体現しており、『義氏』とはある意味究極の名前であることを示していた。
足利氏は、もともとは上野国在地の源氏に過ぎなかった。ところが、鎌倉政権が出来る際に初代義康が頼朝の従兄弟である点を活かし、義康の嫡男義兼の正室に北条時政の娘を迎える。その意図は源家将軍外戚との連携を図ったものだが、3代で源家が途絶えて北条氏が執権として台頭した辺りから風向きが変わってくる。
足利と北条両方の血を引く義氏(義兼の嫡男)は、執権泰氏の娘を娶り嫡男を儲ける。この息子にも、義家以来足利家が名乗っていた通字『義』を与えたかったのだろうが、既に源家が滅亡しており、ここで源氏色を出すのは危険という判断を下したと思われる。嫡男は泰氏の『泰』と義氏の『氏』をもらって泰氏と名乗る。正室は父と同じく北条一族の出身。
その後、時頼から偏諱を受けた頼氏につながるが、その息子は家時という特殊な名乗りである。本来であれば時宗から偏諱を受けて『宗氏』とでも名乗れば規定の路線だが、家時の母は頼氏正室の北条氏ではなく上杉重房(将軍宗尊親王の補佐役)娘であることから、嫡男として想定されていなかった節がある。家時は北条政権に批判的だったと伝わり、最期は詰め腹を切らされたとの説もある。「母が上杉氏の異端児」という点は尊氏につながっていく。
家時の正室も北条一族だが、またしても子がなく新田氏出身の側室が貞氏を産む。貞氏は北条貞時の偏諱を受けたもので、『執権からの偏諱+氏』というパターンが復活する。そして重なることは再三に及び、貞氏の正室北条氏も子がなく、側室上杉氏が産んだのが尊氏(当初は高時偏諱で高氏)だった。
尊氏は源家政権を復活させ、嫡男には北条氏への気兼ねもなく義詮と名乗らせる。皮肉なことに、義詮は尊氏正室北条氏の産である。以降、義昭に至るまで足利惣領家は『義』の通字を徹底させることとなる。
義康 足利初代義兼 頼朝が母方の従兄弟義氏 母は北条時政の娘泰氏 母は北条泰時の娘頼氏 母は北条時氏の娘家時 母は上杉重房の娘貞氏 母は新田政氏の娘尊氏 母は上杉頼重の娘義詮 母は北条久時の娘
その一方で、義詮の同母弟が関東公方として別系統を立てる。尊氏はこの次男に『氏』を与えて基氏と名乗らせる。その嫡男氏満は、父の『氏』を先頭にして、京公方義満の『満』を後ろにつけている。関東と京が対等と見るならば妥当な名だが、関東は臣下と考えていた義満は面白くなかっただろう。その嫡男は満兼で、一見義満の『満』を頭にいただいているようにも見えるが、氏満の名ともかぶるために微妙なニュアンスである。
その次の持氏は京の義持の偏諱をしっかり取り込んだ形になっており、一応京の臣下に立ったことが判る。ところが持氏はその扱いに不満で、嫡男に義久と名乗らせた挙句、永享の乱によって義久ともども切腹させられる。
鎮圧後は成氏(義成=義政初名からの偏諱)、政氏(義政からの偏諱)と続いて名乗りの上からは平穏に見えるが、両者ともに徹底して京政権に反旗を翻している。とはいえ、『義』を名乗ることはなかった。父政氏と折り合いが悪かった嫡男は、高(義高=義澄の2番目の名からの偏諱)+基(基氏から引く)と名乗って『氏』を捨てている。
その後晴氏(義晴からの偏諱)、藤氏(義藤=義輝初名からの偏諱)と妥当な名乗りに落ち着いていた。藤氏は後北条氏によって廃され、後北条一族の血を引く梅千代王丸が最期の関東公方となる。その名乗りは、京の『義』と関東の『氏』を合わせた最強のものとなった。京公方家の衰退と、後北条氏の強力なバックアップにより、強い名乗りが可能になったものの、それは皮肉なことに足利家の傀儡化完了を意味していた。最も完成された名前を与えることで、後北条氏は「これで終了」と意図していたのかも知れない。
基氏 関東公方初代氏満 母は畠山家国の娘満兼 母は不明持氏 母は一色氏(義久) 母は不明(簗田氏?)成氏 母は不明(簗田氏?)政氏 母は簗田直助の娘高基 母は不明晴氏 母は宇都宮成綱の娘(藤氏) 母は簗田高助の娘義氏 母は北条氏綱の娘
「義氏」から『義』と『氏』の分裂の遠因を作ったのも、2つを統合させたのも「北条氏」という点はどこか因縁めいている。

月代とお歯黒と烏帽子と

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最近の戦国物のゲーム・ドラマを観ていると、大名なのに身なりが異常な人間が常態になりつつある。現代風の髪型と面貌で、着衣は辛うじて昔風という :shock:

各種史料が揃って、本格的な歴史研究が進んでいる昨今に逆行するようで不思議な現象だと、個人的には思う。

一般に、月代を剃っていない武士は失業が長いか元服できていない可能性が高い。また、「お歯黒は今川義元と公家のもの」という変な現代常識があるが、身分が一定以上の武士はお歯黒を染めていた。『おあむ物語』の、首級のランクを上げるために死後お歯黒を塗るという記述がそれを裏付けている。
烏帽子については、着装必須かは微妙だ。室町中期以前であれば、たとえ全裸になっても烏帽子だけは外したくないという意識が強かったのだが、戦国期後半になると頭頂部を晒した肖像画も出てくる。ここは誤差だと見てよい。

戦国でも現代でも変わらない事柄(親子の情や義理人情など)はあるものの、外見を不必要に現代人の感覚に引き寄せるのもいかがなものかと思う。キャラクタービジネスとしてはそれでいいのかも知れないが、「ゲームメーカーやマスコミが研究を踏まえて採用している」と思い込む人が増える…… :roll:

シリアスな戦争をチャンバラ活劇にしてしまった近世の軍記ものと同じ現象が繰り返されるということで、これはこれで歴史の一部と認識するのが正しいような気もするが、どこか釈然としないのも事実である。

篠原城探訪

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新横浜駅から歩いて5分程度の丘に存在する、小規模な城跡。小机城と関係すると見られている。新横浜駅の篠原口から出て、東海道新幹線の線路に沿って東京方面に歩く。間もなく右手に下の山が見えたら行き過ぎなので、もう1つ下の写真にある曲がり角から正覚院に入る。

西から城跡を見上げる。右手が正覚院墓地につながる。

西から城跡を見上げる。右手が正覚院墓地につながる。

自販機の角を右に曲がると正覚院となる。裏手の墓地を上り切ると城に行ける。

自販機の角を右に曲がると正覚院となる。裏手の墓地を上り切ると城に行ける。

正覚院の墓地が聳え立っているので、迷わず登る。最上層に行くと、下記石仏があって地続きで藪が広がる。この藪が篠原城である。

正覚院墓地の最高地点に行くと、近世の仏像が立っている。ここから城跡に入れる。

正覚院墓地の最高地点に行くと、近世の仏像が立っている。ここから城跡に入れる。

西空堀の外側にある土塁。全く手入れされていないようだが、形が良好に残っている。

西空堀の外側にある土塁。全く手入れされていないようだが、形が良好に残っている。

意外と深い、主郭西の空堀。往時は鋭い角度を持っていたのかも知れない。

意外と深い、主郭西の空堀。往時は鋭い角度を持っていたのかも知れない。

主郭西側に横たわる竪堀。うっすらだが確実に残っている。

主郭西側に横たわる竪堀。うっすらだが確実に残っている。

3月でもこの藪。みっしり生えていて、軽装では突入不能。

3月でもこの藪。みっしり生えていて、軽装では突入不能。

写真で判るように、主郭突入はかなりの重装備が必要となる。「新横浜にある城だから」と気軽に訪れると引き返す羽目になるだろう。

主郭から西の空堀にごく小規模な虎口があった。写真では判りにくいが、奥が主郭。

主郭から西の空堀にごく小規模な虎口があった。写真では判りにくいが、奥が主郭。

この虎口を見つけた時は溜め息が出た。北の大手から西の空堀底を進むと、小さな土橋に行き当たる。この土橋はバンクを描きながら主郭へつながる。つまり、空堀を進んできた敵は土橋を土塁代わりにした攻撃を受ける。ここをしのいでも、横の主郭からも攻撃されることとなる。

滝山城や小机城といった支城クラスならともかく、地元に「金子某の城」ぐらいしか伝わっていない城跡で見かけるとは思わなかった。「自然地形か後世の改変では?」と思いよく調べたが、土橋は対岸まで明確に残っていた上、バンクがあるため後世の便宜改変とも思えなかった。そもそも、主郭が藪で覆われれていることから用地として使われているとも思えない。

主郭から北に大手らしい道が下っていく。民家と畑、庭が連なる。

主郭から北に大手らしい道が下っていく。民家と畑、庭が連なる。

意外なほどちゃんと残っている史跡で、茅ヶ崎城と同じく今後調査と公開が望まれる。正覚院側の高地は住宅街がすぐそばまで迫っており、そちらの遺構はもう判らない。

どこからがマニアなのか

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以前テレビ番組で、城が好きな芸人が「こいつ、天守閣を見たら何城か判るんだって 8O 」と揶揄されていた。そしていきなりクイズが出た。表示される天守閣を見て城の名前を当てろということだったが、モニターに出てきたのは熊本城。どこからどう見ても熊本城。宇土櫓の辺りから仰角で撮影し、向かって左に大天守という周知のアングル。

その芸人は暫く視線が動いていた。その気持ちは判る。「 :roll: さあこの写真で判るか!」と大上段に構えたクイズである。高知城か掛川城、犬山城か清洲城みたいなひっかけや、名もない復興天守が来るかなと思いきや……熊本城である。どんな罠があるのかと、彼が半分疑問文で「熊本城?」と答えると、スタジオ全体が「ええー」というか「おおー」というか不思議な反応をしていた。その後の司会者が「正解! でもなんで判るんだ?」と訊いて来る。

城好き芸人が困っていた。もし私が訊かれても困るだろうと思う。熊本城天守と何を間違えろというのか。下見板張りが黒いから松本城か岡山城……いやいや、さすがにそれは間違えない。この後、「こんなマニアックな知識をどこで手に入れるのか」とか「『おたく』やマニアは恐ろしい」という展開になったのが印象的だった。

この程度でマニアなのだろうか。姫路城・名古屋城・熊本城・大阪城は国民的常識として天守の形状を覚えているのではないか。それに準じて、弘前・松本・丸岡・犬山・彦根・丸亀・伊予松山・備中松山・高知・宇和島・松江はぼんやりでも判るのではないか。これまではそう考えていた。しかし、いわゆる歴史ブームと呼ばれる昨今であっても、知識は浸透していないようだ。

寺院建築だと見分けがつかないのも止むを得ない気がする。私も多数ある五重塔はごっちゃだ。浅草寺も法隆寺もはっきりとは判らない。しかし、破風や層数、瓦や窓が明快に異なる天守で間違いが生じるとすると、歴史に興味のない人(いわゆる一般人)は地元の天守ですら形を覚えていないのかも知れない。そして覚えている人間のことは強烈な城マニアと受け取るようだ。彼らは天守がないことを指して「城がない」という。逆に、歴史根拠のない模造天守であっても気にしていない。

稜線を歩いていて急に立ち止まり「これ、堀切じゃない?」と縄張りを妄想し出す御仁はマニアと言っていいだろうが、その場合一般人はどう受け取るのだろうか。興味がわきつつもまだ試したことはない。