カテゴリー : 2011年 2月

検索方式の変更

Facebook にシェア
[`yahoo` not found]
このエントリーをはてなブックマークに追加
[`fc2` not found]
[`livedoor` not found]
[`friendfeed` not found]

WordPressの検索機能が拙劣だったため、以下の点を変更した。

  • Googleサーバを使った検索『GoogleCustomSearch』を導入
  • WordPressの検索で結果に該当部分の引用を表示

WordPressオリジナルの検索は、厳密に「この言葉」と決まっている場合に重宝する。Googleだと、「事」と入れても「事」と「こと」を両方調べてしまうためだ。

逆に、どのように読めばいいか不明な場合や、記憶が曖昧な場合にはGoogle検索のほうが優れている。Google検索の場合は以下のルールがあるのでご参考まで。

  1. 単語の前に「-」(半角マイナス)を入れるとその単語が含まれない候補に絞られる。
  2. 単語の前に「+」(半角プラス)を入れるか、「”」(半角引用符)で単語を括るとその単語は分割されない。
  3. 単語と単語の間に「 OR 」(半角空白とOR、半角空白)を入れると、その前後の単語の片方のみが対象となる。

判りにくいので具体的な例を出そう。

氏真  +氏政 OR “氏康” -氏直

「氏真」はなるべく一括りで候補に上がるが、「氏」と「真」が分割されても候補にはなり得る。その後ろの氏政は+が直前にあるので、「氏政」が連続した文字列のみが対象となる。「”」で括られた「氏康」も同様。そして、ORでつながれた「氏政」と「氏康」は、どちらか一方が含まれる場合のみ対象となる(氏政と氏康両方がいる場合、両方いない場合は対象にならない)。最後の氏直は「-」があるため除外対象となる。

詳しくは以下のリンクをご参照あれ。

Google 検索の基本: その他の検索のヘルプ

歴史を調べる意義

Facebook にシェア
[`yahoo` not found]
このエントリーをはてなブックマークに追加
[`fc2` not found]
[`livedoor` not found]
[`friendfeed` not found]

『クビライの挑戦 モンゴルによる世界史の大転回』(杉山正明著・講談社学芸文庫)を読んで、考え込んでしまった。

この本は丁寧な解説でモンゴル帝国の成り立ちと限界点が紹介されている良著で、世界史の授業でよく言われる「モンゴルの破壊」についてもそれがイデオロギーによる虚説であると証明している。南宋、アラブ諸国、中央アジア諸国いずれもが、モンゴルの介入によって文化・文明が破壊された事実はなく、むしろ都市は発展すらしているという。史料や統計で明らかになっているそうだ。

では何故通説はなくならないのか。モンゴルはヨーロッパ・アラブ・アジアをまたいだ大帝国のため、様々な国で少しずつ研究は進んでいるものの、統合された史論にはなっていない。このことが原因で、国ごとのローカルな通説を修正できていないようだ。詳細は本書を見てもらえれば納得できるが、ロシア・中国・ペルシャの通説固執例を詳しく出している。

もう1点気になる指摘があった。初版(1995年)当時隆盛していたウォーラステイン氏による「世界システム論」を軸にした、現在の社会システムを遡って主な歴史を決めていく欧米流の『グローバルな歴史』が築かれつつあるという。たしかに、大航海時代以降、西欧を根拠地とする文明は世界を席巻した。それは現代も継続している。この欧米が自らの覇権を振り返ったのが『グローバルな歴史』である。そのような史観自体は否定していないが、杉山氏が問題としているのは、世界システム論でアジア・アフリカも含んだ全ての歴史を語れると信じ込んでいる点。そしてその史論を欧米の知識層が多数支持している点なのだ。

西欧が火器によってアジア・アフリカに侵攻するのは19世紀以降であり、たかだか200年の歴史でしかない。それ以前の世界史も存在するということを、欧米以外の各国史家が発言していかなければならないだろう。その意味では、西洋植民地時代に先駆けて独自の世界帝国を形成したモンゴルは、現代の欧米覇権主義に対抗し得る歴史的題材である、と語られている。

このくだりを読むと、「別の目的を持つ歴史論」の危険性に改めて気づく。歴史は国内統治や外交、詐欺に巻き込まれやすい。たとえば日本の戦国代であれば、江戸初期に書かれた軍記の多くは、作者の宣伝に使われたり、遺族からの要望でいもしない人物が加筆されたりしていた。現代から見るとどうでもいいような理由で歴史が変えられていったし、それは現代でも続いている。

別目的や主観を排除するには、史料だけを見つめて、推論の上に推論を重ねない注意を払って仮説を組み立てていくしかない。しかし、史料は事実を語ってくれるのだろうか……。最近疑問に思っている。歴史学は再現性を全く担保できない。史料第一主義の立場からすると、これは絶望的な欠陥だといえる。

中津城探訪

Facebook にシェア
[`yahoo` not found]
このエントリーをはてなブックマークに追加
[`fc2` not found]
[`livedoor` not found]
[`friendfeed` not found]

昨年(2010年)夏に中津へ立ち寄ることがあり、中津城に行ってみた。

本丸に作られた大天守を望む。高さから言うと、5層で過不足はないと思うが、建坪が少ないので異様な感じがする。松本城天守が上層の逓減率が低く頭でっかちなため、実見した際、写真よりも威圧感があって驚くが、ちょうどその逆パターン。

本丸の石垣は野面積みっぽかった。この写真は、後世組み直されたエッジ部分だと思われる。石垣は角をしっかり組まないと崩れやすいのだが……。

管理事務所、小天守、大天守が重なるように撮影(岡山城っぽく)。左手には奥平神社があるが、どちらも後世の築造物。江戸期に天守や神社があった記録はない。ちなみに、手前の車庫は標準的な大きさのもの。若干パースがかかるとはいえ、天守が5層であることが不自然なのが判ると思う。

奥平神社の側面から撮影。屋根瓦に雑草が生えている……かなりの財政難かと。

大天守最上階からの眺望。左手が山国川で、手前の建物が中津大神宮。山その向こうの奥にあるのがその社務所で、さらに奥の木立には中津神社がある。また、社務所右側に金比羅神社があるが、ここの櫓が天守代わりだったという。

この画面の右手には、黒田氏入部に抵抗して騙まし討ちで滅亡させられた宇都宮氏を祀った城井神社がある。城跡に神社はつきものだが、これだけ密集しているのも珍しい。

城井神社の表札が、何だかマジックっぽいインクで書かれていた驚いた。下の画像は金比羅社内に安置されていた魚のお神輿。これも初めて見た代物でびっくり。

城下の寺町にある合元寺。赤い壁は、騙まし討ちにあった宇都宮家臣のもので、何度塗り替えても赤く浮かび上がることから、赤く塗って目立たなくさせたという。中津城の寺町は道路が狭く、かなりの密集状態にある。自動車は1台ぎりぎり通れる道で、なおかつ曲がりくねっている。往時の面影は忠実に伝えられている。

中津城のそばには福沢諭吉旧居記念館もあって、明治時代の中津についての展示も見られる。福沢諭吉が勉学に励んだという土蔵の2階には、ご覧のようなフィギュアが安置されている。

中津城の天守は2010年10月に埼玉の福祉事業会社『千雅』が買い取っており、内装工事で行なっていたようだ。2011(平成23)年2月26~27日には天守前に特設雛壇を設置し、「人間ひな飾り」を開催するという。

夫婦別姓の歴史的経過

Facebook にシェア
[`yahoo` not found]
このエントリーをはてなブックマークに追加
[`fc2` not found]
[`livedoor` not found]
[`friendfeed` not found]

『戦国を生きた公家の妻たち』 (後藤みち子著・歴史文化ライブラリー)を読んだところ、最近の日本で取り沙汰されている夫婦別姓に関して考察されていたのが面白かった。戦国時代になるまでの公家では、女性の地位が低く夫や子供と同じ姓を名乗れなかったという。現代とは逆で『別姓から同姓へ』という流れがあったのだ。夫婦同姓を可能にしたのが『正妻』という概念であり、政略結婚という手法だった。

『家』が現代でいう企業体を意味し始めていた戦国期。武家も公家も、変則的な末子相続から嫡長子相続が一般的になってくるが、嫡子は正妻が産むのが原則というスタイルを作り出すことで、嫡子には正妻の実家の支援も受けられるようになる。実際に文献に当たってみても、女性を介したつながりで活動していることが多い。

上掲書では例として、この頃普及し始めた風呂の風習を挙げていた。男性だけが行なっていた時は、気心の知れた2~3人の友人だけで月を見ながら適当に集まってダラダラ飲んでいた。そこに女性が入ったことで、実家の兄弟や姉妹を通じた縁戚なども多数呼んで定時開催するようになり、政治サロンとして機能するようになったという。何だか現代でもそのまま当てはまりそうな風景である。

外交に参加できる政略結婚は女性にとって一種の参政権であり、そのためには婚家の苗字を称す唯一の嫁=正妻であるという地位が必要だ。それまでの妻たちは単に子を産む道具とされていて、正妻も妾も区別がなかったという。この時、『正妻』というこれまでなかった存在を作るため、嫁と姑が団結して事に臨んでいる。正妻は当主と同等の地位を持ち、姑から嫁へ代々継承されるものである。そして、実家と婚家を政治的に結ぶ外交機能を担うという定義が徐々になされていく様子は興味深かった。

ここでは公家を扱っていたが、武家のほうが早く正妻システムを導入していたように思う。きっちり史料に当たった訳ではないものの、鎌倉後期には正妻と嫡男は確立されており、執権北条氏が有力御家人の正妻に自身の一族を送り込んでいたと理解できる。

ちなみに、現代の日本社会では恋愛結婚が至上であるため、「政略結婚は非人道的」という認識があるように思う。いわく「女性は政治の道具に過ぎない」と。ところが、恋愛結婚が見合い結婚を上回った1970年代以降、離婚率・未婚率が上昇している(見合い結婚の方が離婚率が低い)ことから考えて、恋愛結婚が日本人にとって自然で合理的な婚姻手法とは考えがたい。

16世紀に導入された夫婦同姓は、21世紀に入って新たな議論を呼んでいる。最早『家』は法人と同義ではなく、個人が大きな権限を持つ時代に突入した。家のシステムが変革される場に居合わせることが出来るならば歴史を調べる者として至福の限りである。