2017/04/20(木)徳川家康の『息子』

信康事件についての、ちょっとした思い付き。史料を厳密に突き詰めた訳ではなく、妄想だけの覚書でほぼフィクションなのでご留意を。

松平元康を「後の東照神君」とか思わず、ただの三河国衆という視点に厳密に固定して考えてみる。今川に人質を出す直前、広忠が織田方になって紛争を起こした挙句に亡くなったのだとしたら、今川方はその遺児を岡崎(というか三河国内)に置こうとは思わないだろうなと思う。陣代や検使を置くにしてもリスキーだ。で、駿府にいたとしても父の失点からさほど好待遇ではなく、言継卿記に出てこない程度に「しんさう」とひっそり住んでいたのかなと。でもって弘治頃から三河にちょこちょこ行かせて貰えるようになって、現地妻と子を成したとか。

以前「築山殿」は大浜湊の地名に由来するのではと妄想したことがあるが、大浜領の支配を竹千代に安堵する判物を義元が天文19年に出していることから考えて、元康は大浜に滞在することがあっただろう。そこで年上の女性と同衾し、ある日懐胎を告げられる。若かった彼は思わず「俺の子か?」と騒いで家臣達に疑問を伝えたかも知れない。それが亀姫で、その後男子が生まれるも、通い婚だった元康は疑念を払拭できなかった。

独立してカリスマ的存在になるにつれ、今度は家臣の間で「信康は殿の子か? 疑問を持っていたぞ」という密やかな噂が駆け巡る。家康はこだわらず、長男として信長の婿にもした。だが、長じるにつれて容貌が家康とは異なってきて、ますます噂が激しくなる。

「誰だ、誰の子だ?」「殿の血ではなかろう」

信康自身も噂を聞いて素行不良になっていく。しかも弟が2人になり、自分は娘しか持てなかった。母や嫁とも軋轢が生じて家康が浜松から駆けつけるほど揉めた。最後には側近5名とクーデタを企てる……。さすがに家康も庇いきれず、信長に「わが子ではなかった」と断って処断を家臣に任せた。家臣からすれば築山殿も同罪だとばかりに断罪し、信康にも詰め腹を切らせる。

大事な娘婿とはいえ、家康から「父は自分ではなく誰か判らない」と言われれば、信長としても何ともいえないだろう。放置すればむしろ同盟に瑕疵が生じる恐れすらある。

ごく普通の国衆であったなら「信康の出生は怪しい」ぐらいで済んだ筈が、勝ち組確定の織田家の同盟者という良い地位と、家康の強力なカリスマが、出生の疑義を許さなかった。

家康はどう思っていたのだろう。信康が噂に押し潰されて変わってしまうまで「それでもお前は俺の息子だ」と思って同陣し、後詰を委ねていたのではと思う。彼が後年事あるごとにブツブツ呟くのは、信康の能力を高く買っていたのに殺されてしまったという密やかな恨みがあったからではないか。

もしそうなら、生物学的に限りなく秀吉の子ではない秀頼を見て、その時複雑な思いを抱きつつ、彼を引き立てようとしながらも最後は殺すことになったのは運命の皮肉以外の何物でもないだろう。

そしてまた「性格が良いから」と忠長を後継者にしたがった息子夫婦や家臣たちに対し、長子相続を命じた際にも「性格で選ぶならなぜ信康を殺したんだ」という怒りが籠められていたように思う。

酒井忠次に「お前でも『息子』が可愛いか」と嫌味を言った意味合いが、様々な色を帯びて感じられる。

2017/04/20(木)白読のすすめ

解釈が原文と乖離することがあって、それは比定というファジーなものが入っているからじゃないか。だったらその手前に比定を入れない白読を入れたらどう? という話。

古文書の解釈というのは、実は白読と比定に分かれると考えている。

<白読は「文の意味を深読みせずに文をストレートに読む」こととしてここでは述べる>

白読自体は、そんなに特殊技術じゃなくて、ある程度の経験をこなせば独学でも可能だ。どちらかというと、他の文書と語の使い方を比較して意味を追い詰めていく作業になる。

その後で、白読だけでは確定できない人名や地名と年月日を推測していく。これが比定。年が判らないから人物から追ったり、人物を決めるのに年を使ったり、地名も合わせて試行錯誤を繰り返していく。比定者の知識が問われるほか、確証バイアスがかかるから、人によってずれることもある。

方向性から見て両者は異なる。だからシンプルに考えて、白読と比定は分けた方がいいはずだが、この白読的な事柄は余り戦国史では表に出てこない。一気に比定して解釈に行き着いてしまう。

なぜ切り分けないかというと、比定を重視して白読自体を変えてしまうことがあるからだろうと思う。誤記や筆写誤解などもあるし偽文書だってある。だから文書群全体の整合性を優先して比定の流れを作っていくのは確かに有効だろう。

ただ比定を重視し過ぎるのはおかしくないだろうか。

今ちょうど調べている文書を例にして説明してみる。

飛札令披閲候、氏政上洛延引之儀、内証被申聞、喜悦之至ニ候、秀吉心底難量候上者、於氏政可為隔意候歟、猶期後慶時候、恐ゝ頓首
十二月八日/氏直(花押)/前田源六郎殿御宿所
小田原市史資料編後北条氏編1985「北条氏直書状写」(古文状)

白読「飛脚の書状を拝見しました。氏政上洛延期の件、内証で申し聞かせていただき、とても喜んでいます。秀吉の心底が測りがたい上は、氏政においては隔意をなすだろうというのでしょうか。さらに後の慶時を期します」(高村)

この解釈は下山治久氏監修の2書で分かれている。

「北条氏直が前田源六郎に、北条氏政の上洛の遅延について羽柴秀吉の内々の気持ちの情報提供に謝礼し、秀吉の本心を知らなければ氏政の心を動かせないと述べる」(『戦国時代年表後北条氏編、』以下『年表』と略す)

「前田源六郎に北条氏政の上洛が延期されて嬉しいと延べ豊臣秀吉の心底は計り知れないと伝えた」(『後北条氏家臣団人名辞典』以下『家臣団辞典』と略す)

年表の「秀吉の本心を知らなければ氏政の心を動かせない」という部分は解釈者の思惑が入り過ぎているように感じる。秀吉内心が測り難いに続く「上は」を重視して仮定文にしたのかも知れない。秀吉の本心が判らないならば→氏政は隔意を抱き続ける、という図式だろう。しかし、続く文が「歟」で終わる疑問文だから仮定とは考え難い。現代語でいう「上は」ではなく「上に」という文意だとすると「秀吉の本心が判らない上に、氏政が隔意をなすというのでしょうか」となって自然な流れになると思う。

私が見た文書では現代語「上に」も「上者」を用いていることがある。逆に「上ニ」「上仁」は見つけられず、この時代は「上者」が「上に・上は」を兼ねていたのかも知れない。

家臣団辞典の「氏政上洛が延期されて嬉しい」は明らかにおかしい。この前日付けの条書で氏直は、氏政上洛遅延を叱責し交戦状態に入ろうとしている羽柴方に釈明をしている。延期されていないのは氏直が承知している。

思うに「喜悦之至」言葉に引きずられ「であれば上洛延期交渉が成功した」と比定者は推測したのだろう。しかし氏直が喜んでいたのは「内証被申聞」という源六郎の内密の連絡に対してである。それは白読から見ても正しい繋がりだ。

こうして見ると、年表は後半が、家臣団辞典は前半が白読と乖離して比定者の予断を取り込んでしまっている。最終的な解釈に至る前に、文章本来の姿である白読部分を確定させると、こういった混乱は防げるのではないかと思う。

※両書ともに、なるべく同時代史料によって記述され文書番号も記載している手堅い内容なのだけれど、それでもこういった予断が入り込むことがある。というか、むしろ目立つからこそ私のような素人でも指摘し易い。そして、リファレンスを見たら必ず原史料を確認する必要があると改めて痛感する。