2018/05/06(日)駿河・伊豆・相模にいた朝倉氏
今川・後北条の家中に存在した朝倉氏はどこから来たか
名字からいって、斯波家守護代だった朝倉氏からの分流なのは確実だと思われる。
1549(天文18)年9月18日の朝倉氏像銘(戦北355)によると、北条氏綱の次男である為昌の室は朝倉氏の出身で「彼施主古郷豆州之住呂、名字朝倉」と書かれる養勝院殿。この縁で、初期の玉縄衆として朝倉氏が活躍している。
もう1つ、朝倉義景と後北条氏が直接交流した書状が残されている。これは相模海蔵寺住持が越前永平寺を訪れた際のもの(戦北4561)。しかし、氏康・氏政父子に次いで名が出たのは「松田殿・中村殿」であり、同族としての繋がりは見られない。
下山治久氏による朝倉氏出自の説明
一貫して、今川氏親の被官だった人物が、後北条家に来たという説明になっている。石巻・関・福島といった、今川被官からの転出集団に帰属すると考えているようだ。
『北条早雲と家臣団』(下山治久)p169
朝倉氏は、もと今川氏親の家臣で、早雲に仕えたのち、朝倉氏の娘が為昌の室になったために、氏綱の側近から為昌の側近家臣になった人である。
『家臣団人名辞典』p11 朝倉氏項
越前国の守護職朝倉義景から朝倉景徳を通して相模国海蔵寺に年未詳八月八日朝倉景徳書状写(相州文書・4561)が来ており、朝倉氏と北条氏が近しい関係にあることを示している。『寛政譜』巻六六六~七に朝倉氏系図を載せ、越前国守護職の朝倉敏景の次男秀景の嫡男玄景が伯父氏景と不和になり、玄景は駿河国の今川氏親の許に行き天文二年十一月に死去した。その一族が北条氏に仕えたものと思われ、朝倉播磨守某が伊勢宗瑞に仕えたと推定される。
初めて朝倉氏が登場する文書を比較
後北条側では、享禄4年という早い段階で既に、朝倉右京が祖父「古播磨」の小田原香林寺寄進に言及しており、伊勢盛時と同時に相模入りしたか、もしくはそれ以前により早く小田原にいた可能性すらある。
それに対して、今川側では天文17年とかなり後での登場。駿河長津俣の所領を、破産した浦田又三郎から買い取ったところから始まる。待遇にしても、当主次男に嫁いだ後北条側と比較すると、かなり低いところに見える。
後北条氏での初出
1531(享禄4)年12月5日
香林寺開山以来祖父古播磨代寄進申分。拾貫文、西谷畠、大窪分。壱貫弐百文、南面田、同分施餓鬼免。弐貫四百文、織殿小路、同分本尊仏供免。壱貫弐百文、城下屋敷一間、古播磨同霊供。以上拾四貫文八百文。右、前ゝ寄進分書立、進之候、仍如件、
辛卯十二月五日/朝倉右京(花押)/香林寺御納所
- 戦国遺文後北条氏編0098「朝倉右京寄進書立写」(相州文書所収足柄下郡香林寺文書)
今川氏での初出
1548(天文17)年11月24日
駿河国中河内長津俣五ヶ村預職之事。右、去年補任于浦田又三郎之処、借物過分之条、依困窮売渡于朝倉弥三郎云々、然者、任証文之旨、彼職如先例可取沙汰之旨、所令領掌如件、
天文十七十一月廿四日/治部大輔(花押影)/朝倉弥三郎殿
- 戦国遺文今川氏編0881「今川義元判物写」(国立公文書館所蔵判物証文写今川二)
とりあえずの推測
武蔵遠山氏が堀越の足利政知配下から伊勢盛時に合流したと推測されているように、朝倉氏も堀越からの合流組ではないか。
足利政知は、関東へ入るために斯波氏の援軍を計画していた時期がある。この時に斯波家の守護代である甲斐・朝倉の両氏が関係しているのは確実なので、その時期に朝倉氏が一族の誰かを伊豆に置いた可能性がある。これが1460(寛正元)年頃で、この直後に斯波家は大規模な御家騒動に見舞われている。この騒動に紛れたり、時間が経ち過ぎたりで越前との関係性が途切れたのではないか。
また、文書として登場順からすれば後北条に最初に仕え、その後に駿河へ進出したように見える。