2017/04/20(木)徳川家康の前室について
磯田道史氏コラム
いわゆる『築山殿』について、歴史学者磯田道史氏の新聞コラムで史料の誤読があり、伝承の推測ができたので書いてみた。
2015/3/25『読売新聞』「磯田道史の古今おちこち」
「築山殿は新婚時代には瀬名の御前とか「瀬名の御新造」(『言継卿記』)とよばれ、」
とあるが、これは誤りと言っていい。静岡県史資料編を読んでそのカラクリが判ったので記す。
徳川家康前室(俗に言う『築山殿』)の比定について。以下は全て『言継卿記』により、文書番号は静岡県史資料編7のもの。
弘治2年11月23日に
五郎殿女中江ヒイナハリコ以下一包、数十五、金竜丹五貝、送之
との記述がまずある(2429)。これは氏真室の蔵春院殿を指すだろう。この後、11月28日に
瀬名女中へ[号新造、太守之姉、中御門女中妹也]麝香丸、五貝、自老母取次遣之
とある(2423)。今川義元の長姉が中御門信綱室であり、次姉が瀬名女中(新造)という記述だ。言継は直接渡さず母を介している。ヒイナハリコ=雛人形(?)は別記述で中御門の姫御寮にも送っているから、五郎殿女中がまだ若く、瀬名女中は麝香を使う成人女性だったと推測できる。
翌弘治3年1月15日に駿府で火事があって大騒ぎとなる。山科言継は記す。
葛山近所ヨリ火事、片時ニ百余間焼失云々、東漸寺之寮社悉焼云々
そして彼は、大方(寿桂尼)と御黒木(中御門信綱)へは直接見舞いに行き、関口刑部少輔・瀬名御新造・斎藤佐渡守・同弾正へは使者として大沢左衛門大夫を送っている(2491)。
「瀬名御新造」は前出の「瀬名女中」と同一人物と見てよい。さらにこの後の2月2日に「次瀬名女中[大方女、中御門之妹]」とあるから、1月15日の「瀬名御新造」はどう考えても、義元次姉である。
静岡県史によるミスリード
では磯田氏は何故勘違いをしているのか。それは静岡県史の当該ページ構成によると考えられる。
同書では1月15日の火事直前の2490号で「松平元康(徳川家康)、駿河国関口氏広の娘と結婚するという」という『家忠日記増補追加』の記述を入れている(注記として『松平記』には弘治2年1月、他に弘治3年5月15日という記述があることも紹介、この真偽は不明)。想像でしかないが、磯田氏は2490号の記述を(後世編著史料であるにも関わらず)絶対視して、更に言継卿記の前後を確認することなく「関口刑部少輔・瀬名御新造」の記述だけに囚われてしまったのだろう。
そもそも、山科言継滞在中の駿府で義元姪の婚儀があったら記述がない筈がない訳で、そこからしておかしい(伊豆若子=氏規の祝言は記載されている)。
注記
静岡県史資料編が、家康婚姻について、それを1月15日と記す『家忠日記増補追加』で立項し、日付が異なる編著を参考情報としている点から考えると、同書も言継卿記をご解釈し、その同日記述を家康婚姻の傍証とする意図があったと当初考えていた。しかし、その意図は明確に記述されていないため、確定はできない。矛盾する史料を併記してその課題点を指摘しようとした意図も考えられなくもない。静岡県史の判断は通史編を参照する必要があるだろう。
後世編著への影響
さらに穿った考え方をすると、磯田氏と同じ勘違いを、近世御用学者もまたしたのではないか。そもそも、いくら同門とはいえ、瀬名と関口を混同することは今川家の視点からするとあり得ない。言継卿記でもきちんと使い分けており、「瀬名殿」と呼ばれる存在と「関口刑部少輔」では貫目が違う。
とすれば、家康前室には出自が全く残っておらず、近世の編纂者が必死にこじつけたのではと思えてくる。戦今1455の松平元康定書に「一、万事各令分別事、元康縦雖相紛、達而一烈而可申、其上不承引者、関刑・朝丹へ其理可申事」とあるので、そこから関口刑部少輔を舅としたが実名が判らず、親永・氏広と名づけたような感触がある。そして、その関口刑部少輔が出てくる言継卿記の1月15日項を読んで「関口刑部少輔・瀬名御新造」を父娘にし、同日を婚姻日としたのではないか。だから「関口の娘で瀬名を名乗る」奇妙な存在が生まれたのかと。
「とにかく家康前室の出自を確認したい」と熱望して史料を見れば、磯田氏のようにここに焦点が合ってくるように見える。史料は幅広い視点で注意深く見ることが大事だと、改めて肝に銘じなければならない。
参考:言継卿記に登場する松平氏
同書には大給松平の親乗が「和泉守」として登場。また、引馬の飯尾善四郎が岡崎城番となって赴いている。
1557(弘治3)年
1月8日「松平和泉守来」
1月9日「松平菱食一送之」
1月12日「松平和泉守来、一盃勧了」
<1月13日氏真歌会始。出席者に松平の名はなし>
1月14日 「早旦自住持白粥に被呼之間罷向、松平和泉守、同与力両人、隼人、寺僧両三人等相伴也」
3月9日 「着引馬、宿之事宗右衛門申付、当所之飯尾善四郎、三州岡崎之番也、留守云々」