2017/04/29(土)武田の滅亡は『悲劇』なのか
天正7年の動きを見ていると、武田と断交した後北条が徳川と結んだ際に、ちょっと徳川方の動きがバタバタしていて(信康事件とか)、やはり障害はあったんだろうと思う。ただ、氏真と氏規というパイプがあるから同盟に至るのは当然の流れ。ここを勝頼は読み違えて外交的な落とし所を失った。その後で「織田と結びたい」とか言ったって通じる筈もない。
永禄12年の時に、後北条と徳川が和睦して氏真を退去させることを晴信が想定できずにいたのと同じことをやっている。
ことここに至ったら、高天神開城交渉で「悃望」という詫びを入れて、それが受け入れられないなら覚悟を決めて決死の後詰をやるしかないと思うんだが、それもやらず駿東や西上州で「氏政は決戦に応じないなあ」とかやっている。
武田の滅亡での最大の悲劇は高天神落城で、援軍要請して断られ、開城交渉して断られ、最後は自殺的突撃で終わった。籠城衆は懸命に生きようとしたが、彼等を見捨てた勝頼と、それを周囲に宣伝したかった信長との一種の『合意』によって死ぬしかなくなったので、これは悲劇と言ってよいと思う。
松平家忠日記 1581(天正9)年4月22日
戌刻ニ敵城をきつて出候、伯耆、手前足助衆所ゝにて百三十うたれ候、相のこり所ゝにてうたれ候頸数六百余候
こんなことがあったから、勝頼は木曽・穴山に愛想をつかされた。というか木曽も穴山もむしろよく堪えた方じゃないかな。
勝頼の死を美化するためか、桂林院を悲劇の主人公にした近世編著があるが、跡部や曽根、土屋といった譜代は勝頼死後も存命だし、軍記で煽る程の虐殺があったとも思えない。勝頼に同行しなければ彼女が生き残った可能性は結構高いように思う。四面楚歌でどう考えても行く宛てなんてないのだから、置いていった方が存命率が高いという判断はあの時点でも可能だったと考えると、一緒に死にたかったのだろうかぐらいしか動機が見当たらないように思う
ちょっとした思い付きだけど、もしかしたら小山田が、既に後北条に寝返っていたという既成事実を作ってもらう見返りに「桂林院を小田原に返します」と申し出ていたとか。ただ氏政から見ると気の毒な妹は余計な外交カードでしかなくてむしろ死んでくれた方が都合が良かったのと、もし勝頼がくっついてきたら危険だと判断でして交渉を打ち切った。で、窮した小山田が勝頼を拒んだという筋書きも可能かな。全然裏づけはないけど。
2017/04/21(金)鳥の密猟を禁じる後北条氏
1579(天正7)年2月10日に「網をもって鳥がつくもの」を押収して申告した松田郷の北村三郎左衛門は後北条氏に賞されて太刀1腰と15俵(米?)の褒美を貰っている。北村が持ってきたのは霞網だろうと思われる。この時の褒章は手厚く、後北条氏が鳥の狩猟を強く禁止していた背景を窺わせる。
その翌年には北条氏舜による布告があり、あらゆる道具での狩猟を禁止し、北村のように狩猟道具を取り上げて提出することが求められている。但し、「提出してきた狩猟道具は勿論として、更に褒美を加える」としていて、せっかく押収した狩猟具を民間に戻してしまう奇妙な文言となっている。
- 天正7年(年は実記)
於西郡、背御法度、以網鳥つくもの相押申上候、神妙ニ候、御太刀一腰、拾五俵被下候、仍如件、
己卯二月十日/(虎朱印)遠山奉之/松田郷北村三郎左衛門
神奈川県史資料編三下0841「北条家朱印状写」(相州文書所収足柄上郡三郎左衛門所蔵文書)
- 天正8年(年は実記)
法度。右、於東郡中、以弓・鉄炮鳥を射事、并さしわな、もちつな、天網を以鳥取事、依 仰出、毎年堅令停止訖、違背之人有之者、其在所之者共出合、不撰侍・凡下、則道具を取、玉縄へ可申来候、若令用捨者、郷村之者可為越度候、取道具於持来人者、彼道具者勿論、猶可加褒美者也、仍如件、
天正八年八月日/左衛門大夫(花押)/東郡
戦国遺文後北条氏編2190「北条氏舜法度写」(相州文書所収高座郡平十郎所蔵文書)
2017/04/20(木)徳川家康の『息子』
信康事件についての、ちょっとした思い付き。史料を厳密に突き詰めた訳ではなく、妄想だけの覚書でほぼフィクションなのでご留意を。
松平元康を「後の東照神君」とか思わず、ただの三河国衆という視点に厳密に固定して考えてみる。今川に人質を出す直前、広忠が織田方になって紛争を起こした挙句に亡くなったのだとしたら、今川方はその遺児を岡崎(というか三河国内)に置こうとは思わないだろうなと思う。陣代や検使を置くにしてもリスキーだ。で、駿府にいたとしても父の失点からさほど好待遇ではなく、言継卿記に出てこない程度に「しんさう」とひっそり住んでいたのかなと。でもって弘治頃から三河にちょこちょこ行かせて貰えるようになって、現地妻と子を成したとか。
以前「築山殿」は大浜湊の地名に由来するのではと妄想したことがあるが、大浜領の支配を竹千代に安堵する判物を義元が天文19年に出していることから考えて、元康は大浜に滞在することがあっただろう。そこで年上の女性と同衾し、ある日懐胎を告げられる。若かった彼は思わず「俺の子か?」と騒いで家臣達に疑問を伝えたかも知れない。それが亀姫で、その後男子が生まれるも、通い婚だった元康は疑念を払拭できなかった。
独立してカリスマ的存在になるにつれ、今度は家臣の間で「信康は殿の子か? 疑問を持っていたぞ」という密やかな噂が駆け巡る。家康はこだわらず、長男として信長の婿にもした。だが、長じるにつれて容貌が家康とは異なってきて、ますます噂が激しくなる。
「誰だ、誰の子だ?」「殿の血ではなかろう」
信康自身も噂を聞いて素行不良になっていく。しかも弟が2人になり、自分は娘しか持てなかった。母や嫁とも軋轢が生じて家康が浜松から駆けつけるほど揉めた。最後には側近5名とクーデタを企てる……。さすがに家康も庇いきれず、信長に「わが子ではなかった」と断って処断を家臣に任せた。家臣からすれば築山殿も同罪だとばかりに断罪し、信康にも詰め腹を切らせる。
大事な娘婿とはいえ、家康から「父は自分ではなく誰か判らない」と言われれば、信長としても何ともいえないだろう。放置すればむしろ同盟に瑕疵が生じる恐れすらある。
ごく普通の国衆であったなら「信康の出生は怪しい」ぐらいで済んだ筈が、勝ち組確定の織田家の同盟者という良い地位と、家康の強力なカリスマが、出生の疑義を許さなかった。
家康はどう思っていたのだろう。信康が噂に押し潰されて変わってしまうまで「それでもお前は俺の息子だ」と思って同陣し、後詰を委ねていたのではと思う。彼が後年事あるごとにブツブツ呟くのは、信康の能力を高く買っていたのに殺されてしまったという密やかな恨みがあったからではないか。
もしそうなら、生物学的に限りなく秀吉の子ではない秀頼を見て、その時複雑な思いを抱きつつ、彼を引き立てようとしながらも最後は殺すことになったのは運命の皮肉以外の何物でもないだろう。
そしてまた「性格が良いから」と忠長を後継者にしたがった息子夫婦や家臣たちに対し、長子相続を命じた際にも「性格で選ぶならなぜ信康を殺したんだ」という怒りが籠められていたように思う。
酒井忠次に「お前でも『息子』が可愛いか」と嫌味を言った意味合いが、様々な色を帯びて感じられる。