2018/10/13(土)羽柴秀吉の宣戦布告状一覧
豊臣秀吉文書集2766「羽柴秀吉条々」(個人蔵『秀吉の宣戦布告状』)
(欠落ヵ)北条事、近年蔑 公儀、不能上洛、殊於関東任雅意狼藉条、不及是非、然間去年可被成御誅罰処、駿河大納言家康卿依為縁者、種々懇望候間、以条数被仰出候へハ、御請申付而被成御赦免、則美濃守罷上御礼申上候事
一、先年家康被相定条数、家康表裏様ニ申上候間、美濃守被成御対面上者、境目等之儀被聞召届、有様ニ可被仰候之間、家々郎従差越候へと被仰出候処、江雪差上訖、家康与北条国切之約諾儀如何と御尋候処、其意趣者、甲斐・信濃之中城々ハ家康手柄次第可被申付、上野中者北条可被申付之由相定、甲信両国者即家康被申付候、上野沼田之儀者北条不及自力、却而家康相違之様ニ申成、寄事於左右、北条出仕迷惑之旨申上かと被思食、於其儀者沼田可被下候、乍去上野のうち、真田持来候知行三分二沼田之城ニ相付、北条へ可被下候、三分一ハ真田ニ被仰付候条、其中ニ有之城をハ真田可相拘之由被仰定、右北条ニ被下候三分二之替地者、家康より真田ニ可相渡旨被成御究、北条上洛可仕との一札出候ハゝ、即被差遣御上使、沼田可被相渡と被仰出、江雪被返下候事
一、当年極月上旬、氏政可致出仕之旨、御請一札進上候、依之被差遣津田隼人正・富田左近将監、沼田被渡下候事
一、沼田要害請取候上者、右一札相任、即可罷上と被思召候処、真田相拘候なくるミの城を取、表裏仕候上者、使者ニ非可被成御対面儀候、彼使雖可及生害、助命返遣候事
一、秀吉若輩之時、孤と成て信長公属幕下、身を山野に捨、骨を海岸に砕、干戈を枕とし夜はに寝、夙におきて軍忠をつくし戦功をはけます、然而中比より蒙君恩、人に名をしらる、因茲西国征伐之儀被仰付、対大敵争雌雄刻、明智日向守光秀以無道之故、奉討信長公、此註進を聞届、弥彼表押詰任存分、不移時日令上洛、逆徒光秀伐頸、報恩恵雪会稽、其後柴田修理亮勝家、忘信長公之厚恩、国家を乱し叛逆之条、是又令退治畢、此外諸国叛者討之、降者近之、無不属麾下者、就中秀吉一言之表裏不可有之、以此故相叶天道者哉、予既挙登龍揚鷹之誉、成塩梅則闕之臣、関万機政、然処氏直背天道之正理、対 帝都企奸謀、何不蒙天罰哉、古諺云、巧訴不如拙誠、所詮普天下逆 勅命輩、早不可不加誅罰、来歳必携節旄令進発、可刎氏直首、不可廻踵者也、
天正十七年十一月廿四日/(羽柴秀吉朱印)/北条左京大夫とのへ
豊臣秀吉文書集2767「羽柴秀吉条々」(大坂青山短期大学)
条々
一、北条事、近年蔑 公儀、不能上洛、殊於関東任雅意狼藉条、不及是非、然間去年可被成御誅罰処、駿河大納言家康卿依為縁者、種々懇望之間、以条数被仰出候へハ、御請申付候て被成御赦免、則美濃守罷上御礼申上候事
一、先年家康被相定条数、家康表裏様ニ申上候間、美濃守被成御対面上ハ、境目等之儀被聞召届、有様ニ可被仰候之間、家々郎従差越候へと被仰出候処、江雪差上訖、家康与北条国切之約諾儀如何と御尋候処、其意趣者、甲斐・信濃之中城々ハ家康手柄次第可被申付、上野中者北条可被申付之由相定、甲信両国者即家康被申付候、上野沼田之儀者北条不及自力、却而家康相違之様ニ申成、寄事於左右、北条出仕迷惑之旨申上かと被思食、於其儀者沼田可被下候、乍去上野のうち、真田持来候知行三分二沼田之城ニ相付、北条へ可被下候、三分一ハ真田ニ被仰付候条、其中ニ有之城をハ真田可相拘之由被仰定、右北条ニ被下候三分二之替地者、家康より真田ニ可相渡旨被成御究、北条上洛可仕との一札出候ハゝ、即被差遣御上使、沼田可被相渡と被仰出、江雪被返下候事
一、当年極月上旬、氏政可致出仕旨、御請一札進上候、因茲被差遣津田隼人正・富田左近将監、沼田被渡下候事
一、沼田要害請取候上ハ、右一札ニ相任、則可罷上と被思召候処、真田相拘候なくるミの城を取、表裏仕候上者、使者ニ非可被成御対面儀候、彼使雖可及生害、助命返遣候事
一、秀吉若輩之時、孤と成て信長公属幕下、身を山野に捨、骨を海岸に砕、干戈を枕とし夜はに寝、夙におきて軍忠をつくし戦功をはけます、然而中比より蒙君恩、人に名をしらる、依之西国征伐之儀被仰付、対大敵争雌雄刻、明智日向守光秀以無道之故、奉討信長公、此注進を聞届、弥彼表押詰任存分、不移時日令上洛、逆徒光秀伐頸、報恩恵雪会稽、其後柴田修理亮勝家、信長公之厚恩を忘、国家を乱し叛逆之条、是又令退治畢、此外諸国叛者討之、降者近之、無不属麾下者、就中秀吉一言之表裏不可有之、以此故相叶天道者哉、予既挙登龍揚鷹之誉、成塩梅則闕之臣、関万機政、然処氏直背天道之正理、対帝都企奸謀、何不蒙天罰哉、古諺云、巧訴不如拙誠、所詮普天下逆勅命輩、早不可不加誅伐、来歳必携節旄令進発、可刎氏直首事、不可廻踵者也、
天正十七年十一月廿四日/(羽柴秀吉朱印)/北条左京大夫とのへ
豊臣秀吉文書集2768「羽柴秀吉条々」(真田家文書)
条々
一、北条事、近年蔑 公儀、不能上洛、殊於関東任雅意狼藉条、不及是非、然間去年可被成御誅罰処仁、駿河大納言家康卿依為縁者、種々懇望候間、以条数被仰出候へハ、御請申付而被成御赦免、則美濃守罷上御礼申上候事
一、先年家康被相定条数、家康表裏様仁申上候間、美濃守被成御対面上ハ、境目等之儀被聞召届、有様ニ可被仰付之間、家々郎従差越候へと被仰出候処ニ、江雪差上畢、家康与北条国切之約諾儀如何と御尋候処、其意趣者、甲斐・信濃之中城々ハ家康手柄次第可被申付、上野之中ハ北条可被申付之由相定、甲信両国者則家康被申付候、上野沼田儀者北条不及自力、却而家康相違之様ニ申成、寄事於左右、北条出仕迷惑之旨申上候歟と被思食、於其儀者沼田可被下候、乍去上野のうち、真田持来候知行三分二沼田之城ニ相付、北条ニ可被下候、三分一ハ真田ニ被仰付候条、其中ニ在之城をハ真田可相拘之由被仰定、右北条ニ被下候三分二之替地者、家康より真田ニ可相渡旨被成御究、北条可出仕との一札出候ハゝ、則被差遣御上使、沼田可被相渡と被仰出、江雪被返下候事
一、当年極月上旬、氏政可致出仕旨、御請一札進上候、因茲被差遣津田隼人正・富田左近将監、沼田被渡下候事
一、沼田要害請取候上ハ、右一札ニ相任、則可罷上と被思召候処、真田相拘候なくるミの城を取、表裏仕候上者、使者ニ非可被成御対面儀候、彼使雖可及生害、助命返遣候事
一、秀吉若輩之時、孤と成て信長公属幕下、身を山野に捨、骨を海岸に砕、干戈を枕とし夜ハに寝、夙におきて軍忠をつくし戦功をはけます、然而中比より蒙君恩、人に名を知らる、依之西国征伐之儀被仰付、対大敵争雌雄刻、明智日向守光秀以無道之故、奉討信長公、此注進を聞届、弥彼表押詰任存分、不移時日令上洛、逆徒光秀伐頸、報恩恵雪会稽、其後柴田修理亮勝家、信長公之厚恩を忘、国家を乱し叛逆之条、是又令退治畢、此外諸国叛者討之、降者近之、無不属麾下者、就中秀吉一言之表裏不可有之、以此故相叶天命者哉、予既挙登龍揚鷹之誉、成塩梅則闕之臣、関万機政、然処ニ氏直背天道之正理、対 帝都企奸謀、何不蒙天罰哉、古諺云、巧訴不如拙誠、所詮普天下逆 勅命輩、早不可不加誅伐、来歳必携節旄令進発、可刎氏直首事、不可廻踵者也、
天正十七年十一月廿四日/(羽柴秀吉朱印)/北条左京大夫とのへ
豊臣秀吉文書集2769「羽柴秀吉条々」(伊達家文書)
条々
一、北条事、近年蔑 公儀、不能上洛、殊於関東任雅意狼藉条、不及是非、然間去年可被加御誅罰処、駿河大納言家康卿依為縁者、種々懇望之間、以条数被仰出候へハ、御請申付而被成御赦免、即美濃守罷上御礼申上事
一、先年家康被相定条数、家康表裏様ニ申上候之間、美濃守被成御対面上者、境目等之儀被聞召届、有様ニ可被仰付間、家々郎従指越候へと被仰出之処、江雪差上訖、家康与北条国切之約諾之儀如何と御尋候之処、其意趣者、甲斐・信濃中城々ハ家康手柄次第可被申付、上野之中者北条可被申付之由相定、甲信両国者即家康被申付候、上野沼田之儀者北条不及自力、却而家康相違之様ニ申成、寄事於左右、北条出仕迷惑之旨申上歟与被思食、於其儀者沼田可被下候、乍去上野之中、真田持来候知行三分二沼田之城ニ相付、北条へ可被下候、三分一ハ真田ニ被仰付之条、其中ニ有之城をハ真田可相拘之由被仰定、右北条ニ被下候三分二之替地者、自家康真田ニ可相渡旨被成御究、北条上洛可仕との一札出候者、即被指遣御上使、沼田可被相渡与被仰出、江雪被返下候事
一、当年極月上旬、氏政可致出仕之旨、■請一札進上之候、因茲被差遣津田隼人正・富田左近将監、沼田被渡下候事
一、沼田要害請取候上者、右相任一札、即可罷上と被思食之処、真田相拘候なくるミの城を取、表裏仕候上者、使者ニ非可被成御対面儀候、彼使雖可及生害、助命返遣候事
一、秀吉若輩之時、孤と成て信長公属幕下、身を山野ニ捨、骨を海岸に砕、干戈を枕とし夜はに寝、夙におきて軍忠をつくし戦功をはけます、然而自中比蒙君恩、人に名をしらる、依之西国征伐之儀被仰付、対大敵争雌雄刻、明智日向守光秀以無道之故、奉討信長公、此注進を聞届、弥彼表押詰任存分、不移時日令上洛、逆徒光秀伐頸、報恩恵雪会稽、其後柴田修理亮勝家、信長公之厚恩を忘、国家を乱し叛逆之条、是又令退治畢、此外諸国叛者討之、降者近之、無不属麾下者、就中秀吉一言之表裏不可有之、以此故相叶天道者哉、予既挙登龍揚鷹之誉、成塩梅則闕之臣、関万機政、然処氏直背天道之正理、対帝都企奸謀、何不蒙天罰哉、古諺云、巧訴不如拙誠、所詮普天下逆勅命輩、早不可不加誅伐、来歳必携節旄令進発、可刎氏直首事、不可廻踵者也、 天正十七年十一月廿四日/(羽柴秀吉朱印)/北条左京大夫とのへ
豊臣秀吉文書集2770「羽柴秀吉条々」(早稲田大学図書館・毛利家旧蔵文書)
条々
一、北条事、近年蔑 公儀、不能上洛、殊於関東任雅意狼藉条、不及是非、然間去年可被加御誅罰処、駿河大納言家康卿依為縁者、種々懇望候間、以条数被仰出候へハ、御請申付而被成御赦免、則美濃守罷上御礼申上候事
一、先年家康被相定条数、家康表裏様ニ申上候間、美濃守被成御対面上ハ、堺目等之儀被聞召届、有様ニ可被仰付候之間、家々郎従差越候へと被仰出候之処、江雪差上訖、家康与北条国切之約諾儀如何と御尋候処、其意趣者、甲斐・信濃之中城々ハ家康手柄次第可被申付、上野之中ハ北条可被申付之由相定、甲信両国者則家康被申付候、上野沼田儀者北条不及自力、却而家康相違之様ニ申成、寄事於左右、北条出仕迷惑之旨申上かと被思召、於其儀者沼田可被下候、乍去上野のうち、真田持来候知行三分二沼田之城ニ相付、北条ニ可被下候、三分一ハ真田ニ被仰付候条、其中ニ有之城ハ真田可相拘由被仰定、右之北条ニ被下候三分二之替地ハ、家康より真田ニ可相渡旨被成御極、北条上洛可仕との一札出候者、則被差遣御上使、沼田可相渡与被仰出、江雪被返下候事
一、当年極月上旬、氏政可致出仕之旨、御請之一札進上候、依之被差遣津田隼人正・富田左近将監、沼田被渡下候事
一、沼田要害請取候上ハ、右一札ニ相任、則可罷上と被思食候処、真田相拘候なくるミの城を取、表裏仕候上者、使者ニ非可被成御対面儀候、彼使雖可及生害、助命返遣候事
一、秀吉若輩之時、孤と成て信長公属幕下、身を山野に捨、骨を海岸に砕、干戈を枕とし夜はに寝、夙におきて軍忠をつくし戦功をはけます、然而中比より蒙君恩、人に名をしらる、因茲西国征伐之儀被仰付、対大敵争雌雄刻、明智日向守光秀以無道之故、奉討信長公、此註進を聞届、弥彼表押詰任存分、不移時日令上洛、逆徒光秀伐頸、報恩恵雪会稽、其後柴田修理亮勝家、信長公之厚恩を忘、国家を乱し叛逆之条、是又令退治訖、此外諸国叛者討之、降者近之、無不属麾下者、就中秀吉一言之表裏不可有之、以此故相叶天命哉、予既挙登龍揚鷹之誉、成塩梅則闕之臣、関万機政、然処氏直背天道之正理、対帝都企奸謀、何不蒙天罰哉、古諺云、巧訴不如拙誠、所詮普天下逆勅命輩、早不可不加誅伐、来歳必携節旄令進発、可刎氏直首事、不可廻踵者也、 天正十七年十一月廿四日/(羽柴秀吉朱印)/北条左京大夫とのへ
豊臣秀吉文書集2771「羽柴秀吉条々」(言継卿記)
条々
一、北条事、近年蔑公儀、不能上洛、殊於関東任雅意狼藉之条、不及是非、而去年可被加御誅罰処、駿河大納言家康卿依為縁者、種々懇望候間、以条数被仰出候へハ、御請申付而被成御赦免、則美濃守罷上御礼申候事
一、先年家康被相定条数、家康表裏之様ニ申上候間、美濃守被成御対面上ハ、境目等之儀被聞召届、有様ニ可被仰付候之間、家之郎従差越候へと被仰出之処、江雪差上訖、家康与北条国切之約諾儀如何と御尋候処ニ、其意趣者、甲斐・信濃之中城々ハ家康手柄次第可被申付、上野之中ハ北条可被申付之由相定、甲信両国ハ則家康被申付候、上野沼田儀ハ北条不及自力、却而家康相違之様ニ申成、寄事於左右、北条出仕迷惑之旨申上かと被思食、於其儀者沼田可被下候、乍去上野のうち、真田持来候知行三分二沼田城仁相付、北条ニ可被下候、三分一ハ真田ニ被仰付候条、其中ニ有之城をハ真田可相拘之由被仰定、右之北条ニ被下候三分二之替地ハ、家康より真田ニ可相渡旨被成御究、北条上洛可仕との一札出之、則被差遣下御上使、沼田可被相渡旨被仰出、江雪被返下候事
一、当年極月上旬、氏政可致出仕之旨、御請之一札進上候、依之被差遣津田隼人正・富田左近将監、沼田被罷下候事
一、沼田要害請取候上ハ、右之一札ニ相任、則可罷上と被思食候処、真田相拘候なくるミの城を取、表裏仕上ハ、使者ニ非可被成御対面儀候、彼使雖可及生害、助命返遣候事
一、秀吉若輩之時、孤と成て信長公属幕下、身を山野に捨、骨を海岸に砕、干戈を枕とし夜ハにいね、夙におきて軍忠をつくし戦功をはけます、然而中比より蒙君恩、人に名をしらる、因茲西国征伐之儀被仰付、対大敵争雌雄刻、明智日向守光秀以無道之故、奉討信長公、此注進を聞届、弥彼表押詰任存分、不移時日令上洛、逆徒光秀伐頸、報恩恵雪会稽、其後柴田修理亮勝家、信長公之厚恩を忘、国家を乱し叛逆之条、是又令退治了、此外諸国叛者討之、降者近之、無不属麾下者、就中秀吉一言之表裏不可有之、以此故相叶天命哉、予既挙登龍揚鷹之誉、成塩梅則闕之臣、関万機政、然処氏直背天道之正理、対帝都企奸謀、何不蒙天罰哉、古諺云、巧詐不如拙誠、所詮普天下逆勅命輩、早不可不加誅伐、来歳必携節旄令進発、可刎氏直首事、不可廻踵者也、
天正十七年十一月廿四日/御朱印/北条左京大夫とのへ
豊臣秀吉文書集2765「羽柴秀吉条々」(皇室の至宝東山御文庫御物四)要検討
条々
一、氏直事、近年蔑 公儀、不能上洛、於関東任雅意狼藉条、不及是非次第也、然間去年可加御誅伐之処、駿河大納言家康卿依為縁者、種々懇望之間、以条数申出候き、其旨就申御請令赦免、則叔父美濃守罷上令対面事
一、先年家康被相定条数、家康表裏之様申上之間、美濃守見参之上者、境目等之儀聞合、有様可被仰付之間、家々郎従可上置之由申下之処、江雪上之畢、家康与北条国割領知約諾之趣相尋云々、甲斐・信濃内城々ハ家康手柄次第可被申付之、上野内ハ氏直可為進止之由相定之、即甲信両国ハ家康任存分、上野沼田之儀ハ氏直不及自力、却而家康相違之様申成候、寄事於左右、出仕迷惑之旨言上かと思食、於其儀者沼田城可被渡下、但上野内、真田持来知行三分二沼田城相付之、氏直ニ可被下、三分一ハ真田ニ被仰付之条、其中ニ有之城ハ真田ニ可相拘之由被仰定、右北条ニ被下三分二之替地ハ、家康より真田ニ可被渡之旨相究、北条可上洛之一札出之者、則差下上使、沼田城可渡之旨被仰含、江雪返下事
一、当年極月上旬、氏政可致出仕之旨、御請之一札進上候、因茲津田隼人正・富田左近将監差下、沼田城渡遣事
一、沼田要害請取之旨、右一札ニ相任、即可罷上と思食之処、差上使者、、結句真田相拘那具留見城将計取之条、彼使者不能対面、既雖可覃傷害、助命追下事
一、秀吉若年之時、孤となり信長公の属幕下、砕骨山野、捨身海岸、干戈を枕とし、軍忠を竭し戦功を励す、中ころより別而君恩を蒙り、人ニ名をしらる、仍先年西国征罰之儀被仰付、対大敵争雌雄之刻、明智日向守光秀以無道之故、奉討信長公、聞此注進、敵陣弥相固任存分、不移時日馳上、斬逆徒光秀之頸梟獄門、勿報恩恵、其後柴田修理亮勝頼、忘信長公之厚恩、乱国家叛逆之条、是亦令退治畢、此外諸国叛ハ退之、降ハ脱之、無不属指麾者、就中秀吉不可有一言之表裡、以此故相叶天命に、予既挙登龍揚鷹之誉、成塩梅則闕之官、関万機政、氏直事背天道之正理、向帝都企奸謀、逆心蓋蒙天罰哉、古諺云、巧詐不如拙誠、所詮普天下逆勅命之輩、不可不加刑罰、来歳必携節旄令進発、可刎氏直之首事、不可廻踵者也、
天正十七年十一月廿四日/(羽柴秀吉朱印)/北条左京大夫とのへ
2018/09/19(水)寺社を焼くということ
寺社は戦国期によく焼かれたのか
漠然と、戦乱で寺や神社が焼かれたという認識を持っていたが、改めて史料から追ってみようと考えた。手持ちのデータから「焼」「放火」で検索し、ヒットしたものを分類してみる。
ちなみに、寺社への放火が禁制で明記されているのは、織田信長・羽柴秀吉・徳川家康。今川・後北条では見かけず、わずかに上田長則が天正9年に出した別当法禅坊宛ての禁制(戦北2237)があるのみ。
焼かれたのは何か
放火や焼き払いに関しての記述をまとめてみた。城や防御施設が対象のものが19例で最も多い。ついで、対象物は特に指定せず領域を指しているものが15例。明らかに民家を指すものが12例で続く。失火したり自ら焼いたりしたものは6例で少ない。調査対象となる、寺社を焼いたと明確な事例は5例。
城・防御施設 19例
- 新津のね小屋焼払候を
- 蕨地利、北新、去廿日夜、乗捕門橋焼落
- 殊厩橋焼候哉
- 本丸焼崩儀可有之候
- 上野国中在松井田根小屋悉焼払
- 二曲輪焼払候也
- 昨日者武州深谷城際迄放火
- 彼城中ニ有替衆、雖付火候
- 今六日蒲原之根小屋放火之処
- 抑去六日当城宿放火候キ
- 谷中不残一宇放火候
- 去廿日至中島相動、即及一戦切崩、数多討捕之、残党河へ追込、悉放火之由
- 昨日も至花熊相働、山下放火之一揆も罷出御忠節仕候
- 泊城押入、数多討捕之、悉令放火
- 其上小早川幸山候得共、毎日此方足軽申付、十町・十五町之内迄雖令放火候
- 去三日沼田東谷押替候、取出以不慮之行、打散悉放火
- 韮山下丸乗崩、令放火之由
- 小屋ゝゝニ火を掛
- 端城乗入、悉令放火
領域 15例
- 此表者焼動迄之事候条
- 四日ニ上京悉焼払候
- 万田より次ノ崎迄焼散被成候処ニ
- 就在所鳥波放火
- 佐野・新田領可放火候
- 彼庄内悉放火
- 今度津具郷へ相働悉放火
- 駿府へ被相働、悉放火候
- 今春向西上州相動、所々放火敵殺及討捕之由心地好候
- 既向滝山放火必然之由
- 江北中皆以放火候事
- 伊豆堺迄放火候
- 次伊豆浦処々放火
- 剰小田原之地ことゝゝく放火のよし
- 三浦渡海、如被存放火
民家 12例
- 家へ押籠被為焼殺候
- 彼山下焼払候旨
- 高遠町令調儀焼候由
- 素家之躰成共焼払所肝要候
- 洛外無残所令放火
- 近辺之郷村放火之由心地好候
- 臼井筋之郷村令放火
- 次白須賀之訳放火之事
- 在ゝ所ゝ民屋、不残一宇放火
- 御厨中之民家少ゝ放火
- 然而小泉・館林・新田領之民屋不残一宇放火
- 地下中令放火之間
失火・自焼 5例
- 頗社頭以下放火之条 ※宮司職富士氏の御家騒動なので自焼
- 去年於当府千灯院焼失云々
- 火電時令焼失云々
- 先判去年十二月令焼失云々
- 居所とも自焼仕候而
- 火電時令焼失云々
寺社 5例
- 就動乱、堂塔已上九炎焼
- 頭陀寺之儀者、云今度悉焼失
- 殊今度敵動之刻、令煙焼之由候条
- 廿三筑波へ乱入、知息院放火
- 清水と申くわんおんたう焼申時
寺社はどのような状況で焼かれたのか
飯尾豊前守が頭陀寺を焼いたのは、彼の反乱に加担しなかった住持の千手院が、敵対して頭陀寺城に籠城したのが契機。千手院は今川氏真に「頭陀寺城被相移以忠節」と評され、飯尾豊前守と戦闘状態になっている。
倉賀野淡路守の戦陣で清水観音堂を焼こうとした際、焼き手の富永清兵衛は、敵の反撃に遭って一旦攻めあぐねている。
後北条氏が筑波に乱入して知息院に放火した際も、捕虜が200人以上、死者は数え切れない程だと書かれており、ここで激しい戦闘があった可能性は高い。
武田晴信・松平次郎三郎の例は不明。
5例中3例が戦闘を伴って寺社が焼かれたことから見て、何れの場合も無防備の寺社を焼いたというより、戦闘拠点として攻撃したのではないか。
天文3 松平次郎三郎→猿投神社
天文三年[甲午]六月廿二[午剋]、就動乱、堂塔已上九炎焼、 焼手松平之二郎三郎殿、当国住人、
- 愛知県史資料編10_1186「八講諜裏書」(猿投神社文書)
永禄7 飯尾豊前守→頭陀寺
就今度飯尾豊前守赦免、頭陀寺城破却故、先至他之地可有居住之旨、任日瑜存分領掌了、然者寺屋敷被見立、重而可有言上、頭陀寺之儀者、云今度悉焼失、日瑜云居住于他所、以連々堂社寺家可有再興、次先院主并衆僧中、以如何様忠節、令失念訴訟之上、前後雖成判形、既豊前守逆心之刻、敵地江衆徒等悉雖令退散、日瑜一身同宿被官已下召連、不移時日頭陀寺城被相移以忠節、頭陀寺一円補任之上者、一切不可許容、兼亦彼衆徒等憑飯尾、頭陀寺領事、雖企競望、是又不可許容者也、仍如件、
永禄七年十月二日/上総介(花押)/千手院戦国遺文今川氏編2015「今川氏真判物」(頭陀寺文書)1564(永禄7)年比定
永禄12 武田晴信→須津八幡宮
駿河国須津之内八幡宮御修理之事。右、天沢寺殿本年貢之外、以段米之内弐拾俵、為新寄進被出置之処ニ、去従子之年已来、古槇淡路守申掠令押領之由、只今致言上之条、任先判形之旨領掌訖、殊今度敵動之刻、令煙焼之由候条、為彼造営所令寄進、不可有相違之者也、仍如件、
永禄十二己巳十二月十六日/文頭に(朱印「印文未詳」)/多門坊
- 戦国遺文今川氏編2433「今川氏真朱印状」(富士市中里・多門坊文書)1569(永禄12)年比定
天正16 後北条氏→筑波知息院
態啓上候、仍先日者家中候者、機合相違付而、不敢聞召、御尋過分至極奉存候、追日如存取直被申候、聞食可為御太悦候候、内々以使者此旨雖可申上候、却而可御六ヶ敷候間、無其儀候、然者南軍之模様去廿二小田領被打散、廿三筑波へ乱入、知息院放火、取籠候者二百余人、越度仁馬無際限被取候由申候、昨日廿五、陣替由候、于今承届不申候、様子重而可申上候、恐々謹言、
孟夏廿六日/笠間孫三郎綱家(花押)/烏山江
- 埼玉県史料叢書12_0852「笠間綱家書状」(滝田文書)1588(天正16)年比定
年未詳 倉賀野淡路守→清水観音堂
(抜粋)「加り金ノ城主くらかね淡路守殿、是へ働之時、清水と申くわんおんたう焼申時、我等参やき候へハ、敵くわんおんたう迄もち、為焼不申候時、せり合候て鑓ニ相たうをは焼はらい申候事」
- 群馬県史資料編3_3696「冨永清兵衛覚書」(東京大学史料編纂所所蔵猪俣文書)
2018/08/06(月)「戸張」を含む文書
群馬県史資料編3_3692「北爪右馬助覚書」(岩手県・南部文書)。年欠
(後筆:北爪右馬助軍功書出、八月三日・紙数七枚)御尋ニ付而申上候、一、越国より新田へ御はたらきの時、田嶋ニおゐてくひ一ツ取申候、此請人本田豊後殿ニおり申候、長瀬伊賀、牧野殿ニ有之、あくさわ治部此両人存候事、一、新田の太田とはりきわニて、くひ壱ツとり申候、此請人右之両人之衆、又松平たんは殿ニおり申候、矢嶋三河存候、一、新田・ふちなニてくひ一ツ取申候、馬場二郎兵へ・千本木四郎兵へ存候事、是ハ越前へ御よひ候、被罷越候哉、おり所不存候、一、新田かなや口ニてくひ一ツ取申候、此請人まへはしさかい殿ニおり申候、石田ひこ・しけの内善存候事、一、新田ゆの入之よりいおしはらいあけはニてきつき申候処を、おしかへし田村と申者打、くひ取申候、此請人右之両人存候事、一、越国あしかゝへ御はたらきの時分、旦那ニ候五藤左京助、屋形様の御意ニそむきこはたおしほり申候時、あしかゝひかしとはりニおゐて、樋口主計おや両人共屋形さま御かんせんニてはしり廻、くひ一ツ取申候ニ付而、五藤こはたお其時ひらかせ申候、此請人長瀬伊賀、まへはしニ罷有石田・しけの内者ニ御尋可被成候、一、きりうさかくほの城ゑんこくより御せめ被成候時、竹はたのはさくまさしニいまい助之丞と申者、いまい与兵へと申者[我等]三人被仰付候時、御はなさき御がんせんニゐてくひ一ツとり申、此両人ハ其時うちしに仕申候、拙者もしかい同前のておい申処、やかた様御意おもつて御引取被下候、此御ほうひとしてくら内ニおいて御蔵米百石被下候、此請人本田豊後様ニおり申候長瀬伊賀存申候事、此外存候者共多候へ共、御家中ニ罷有者お申上候事、一、小見さかさ川の御陣之時、くひ一ツ取申候、請人まへはしニ罷有わたぬき甚内存候、一、ゑんこくよりはにう殿御引取被成候時、いゝの入小屋之衆ことゝゝくおし候て、人つき申候時、やかた様御ちしん五藤か衆をめしつられ、御かへし被成候時、御かんせんニてさいはいもちこち、くひ取申候間御はうひとして、御はをり一ツ被下候、此請人さのゝ太ふ殿ニおり申候、市川やと申者存候、一、あかほりニてくひ一ツ取申事、右之衆又内ゝ牧野殿ニおり申候あくさわ存候事、一、たるニ而くひ一ツ取申候事、此請人わたぬき甚内存候、一、新田江田ニてくひ一ツ取申事請人直江山城殿ニおり申候かぬまいなは存候事、一、きたちうあきのかミふたう山の城めおとし申候時、両日ニくひ二ツ取申候事、請人まへはしニ罷有しけの内善・ほしの賀兵へ存候、一、蔵内なかて取申候事、くひ一ツ取申事、此請人かたかい人や存候、松平たんは殿ニおり申候、一、小田原よりゑんこくへ三郎様への五つめとして御はたらきの時、上田ニてくひ一日ニ二ツ取申候、此請人まへはしニ罷有候わたぬき甚内、奥州ニかけかつニ罷有北条のと存候事、此ほうひとしてあきのかミ所より馬くれ被申候、一あきのかミいたての城かばのさわゑんこく衆せめ、二のまる迄せめあかり申候所ヲついておしいたし、三のまるニてくひ一ツ取申候、此請人わたぬき甚内・かたかい賀兵へ存候事、一、小田わらよりまへはしへ御はたらき之時しものてうとはりきわニて一人うち申候へ共、しかいとうせんのておい申候間、くひハ捨申候、請人北条能登守存候事、一、ゑんこくよりそうちや・いしくらおせめ被成候時、此五つめとして竹田しんけん様松井田迄御出候所ニ、御はたらきさきへ物見ニ罷越くひ一ツ取申候、此請人秋本越中かゝいニ候福田かけい左衛門尉存候事、此外はちかたへ罷うつり九年之内之事、一、おけかわいくさの時、くひ二ツ取申候事、此請人さかきはら殿罷有候つかさわ五郎兵へ、越前ニ罷有候岡谷隼人存候事、一、小田はらよりまへはしへ御はたらきの時分、たかはまとはりきわニてくひ一ツ取申候事、右之隼人被存候事、一、小田はらよりくらうちへ御はたらき之時、森下の城せめおとし被申候時、くひ一ツ取申候、請人かゝニおり被申候いのまた能登・とミなかかけいさへもん被存候事、一、ぬまたおかわニてくひ一ツ取申事、請人越前ニ罷有おゝこしへんの助・いのまた能登・とミなかかけいさへもん被存候事、一、くらうちかわはへのはたらきの時、くひ一ツ取申事、請人秋本越中かゝいニ候、小川主水存候、上泉主水存候へ共、老しに被申候、一、くらうちとはりきわニてくひ一ツ取申候事、請人三川様ニ罷有候本郷越前・岡谷はやと被存候事、小田原よりうつの宮へ御はたらきのとき、くひ十とり申たるよりもまし可申候間、いけ取いたし候へてきせつ御きゝ可申候間いけ取いたし候、則進上申候此請人御家ニ罷有大鷹七右衛門尉存候事、此外八ツハ御かんてう御座候、此内二つハやかた様かんてう、六ツハあわのかミ様御かんてうニ候、請人ニおよひ不申候事、此外奥州ニての走廻之事、一、川俣の城せめおとし申候時、くひ三ツとり申候事、請人御家ニ罷有候樋口主計、根岸主計存候事、一、もかミはたやニおゐて、さがいひせん二千斗ニて上申候処ニ、上泉主計おやこ召連ハしえきのりつめさがいひせんを十二やりつき申候へ共、ミへどをり不申候由申、さかいうちのさいはいもちつきおとし申候、御不しんニ候ハゝ、かミ殿御煩時分、さがいひせんニ御尋可被成候、てきよりもミたれ、ほしの・こはた・くまの・かわてたちハたれそと、かすか右衛門尉所へ尋被申候、いまニさがいひせんニハふちあんないニ候、已上、くひかす、卅九、此内いけとり一ツ、
八月三日/北爪右馬助/宛所欠
埼玉県史料叢書12_0275「上杉輝虎書状写」(三州寺社古文書三)注記、畠山下総守ヨリ謙信消息ノ写也。1564(永禄7)年比定
彼飛脚とくニも可返候へ共、爰元様見届さセ可越ためとめ置候、然者爰元様和田少地ニ候得共、晴信年を入いかにも堅固こしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、併馬を為寄候上者善悪ニ不及候間、無二セめへきそうふんにて、当月七日より取詰候へ共、れいしき国衆油断之様候つる間、越後之者共直ニ召連、惣体白井案内者にて、十一日ハとり入候、北条・箕輪・横瀬を始いつれの国衆もとはかり候しを、一つも取へす候へ共、涯分かセきそうしや・白井・越後衆者くるハにそのまゝのほりつめ置候、けつくよのてよりハてをいもこれなく候、うちのまるとはりへは五間とハ申度候へ共、十間のうちにて候、そこもとへも直ニこへ見つかり候間、いまゝてハ志内口よりハてきまへちかく候、又人数も味方者大くんニ候か、小地とハ申なからまへ五返に取まき候へ共、うつの宮・佐竹・あしかゝ衆者ひきはなし、陣取ニとんしやくなくおき候間、人数にふそくハこれなく候、併めい地にて候間、ほとのひ候てにん数すき候ハん時、両持の後詰あつてよこあいきうちのところをは、しられす候、ちやくはいなから身のうへもののふんハ、人数只今の分ニ候ハゝ後詰ハいかんあるましく候や、又両持後詰すくにおゐてハゝ国衆の事ハ佐・宮を始、弓矢かいなくわたられ候間、越後衆計ニていくさハかないかたく候、房州・太田いくさにまけ候時よりも、たゝいまハきうくつなんきニ候、とかくにこのたひハかたゝゝにあふへき事いかんあるへく候やと、心ほそく候間、はやくはかをやるへきために、一昨夜いちはんやりをとり、へいきハまてこへ候て、見かくしをゆわせ候へ者、めのまへの者ともハはらをたて候てうたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうになくゆたん候へ者、ことのひ候てきうしくちおしく候間、さてセいに入候、こさいかのきやくりきけんぶん、こさいにおよハす候、謹言。かいほつ又らう人衆のうちに一両人ておいし、さセるきなくうすてニ候、返々いつもよりかへりたく候間、このたひハおつとあるへく候やと心ほそく候、
三月十三日/虎(花押影)/金津新右兵衛尉殿・吉江中務少輔殿・本庄美作守殿
埼玉県史料叢書12_0284「簗田晴助書状写」(古簡雑纂五)。1565(永禄8)年比定
氏■当地江被取懸候附而、急度御札畏入存候、仍去二日巳刻被寄来候間、宿之外へ出人数候之処、太源為先勢打寄候間、懸野伏候処、氏康備前迄引退候、午刻氏康父子取手鑓被寄来候間、致行、宿之内へ引入、大戸張・小戸張・新曲輪、自三戸張切て出、新宿迄払出候、敵手負死人数多候条、用客廻ニ不得陣取、号中戸所、五里計引除陣取候間、翌日一行可令興行候由存候処、夜中退散無念此事候、何様御尋之御礼、自拙者可奉略候、恐々謹言、
三月七日/中務入道晴助(花押影)/佐竹次郎殿御報
埼玉県史料叢書12_0436「北条氏繁書状」(簗田家文書)。1574(天正2)年比定
依奥口所用有之、脚力差越候之処、被聞召届、貴札到来、并也三也令披読候、殊更御鷹一もと被懸芳意候、御厚志と云、地鷹と云、自愛無他事候、此等之趣、必々以使者可申入候、仍麦作為払捨可申越河、于今水海と申地簗田在戸張際ニ被陣取候、作毛悉壚ニ被致之候、当月中者、幸島口張陣可有之分ニ候、兼又其許御様子如何、承度被存候、節々氏政へ御通用可為専一候、対盛氏無二可申談心底逼塞被申候、猶以御鷹拝受本望、更以難尽筆舌候、令帰陣上、急度以使者可申述候、自陣中申入之間、抑先及尊答候、恐々謹言、
五月二日/北左氏繁(花押)/岩崎江貴報
小田原市郷土文化館研究報告No.50『小田原北条氏文書補遺二』p41「北条氏邦ヵ感状写」(酒井家史料十二)。1579(天正7)年比定
去廿六日きた条手切拠無処押返、於山之戸張際敵一人討捕候、高名之至無比類候、就走廻猶心懸者可及恩賞者也、仍如件、 卯拾月廿八日/差出人欠/北爪大学助殿
戦国遺文後北条氏編2145「北条氏邦感状」(北爪守雄氏所蔵文書)。1580(天正8)年比定
於山上戸張際、敵数多討捕之由、高名之至、無比類候、弥可抽戦功者也、仍如件、
辰二月廿七日/(北条氏邦花押)/北爪将監殿
埼玉県史料叢書12_0764「北条氏邦書状写」(赤見文書)。1585(天正13)年比定
今度沼田宿城於上戸張、両人高名、殊強敵ニ逢、鑓手数ヶ所被負、手柄之勝負、誠無比類候、御旗本御仁江茂、則猪俣を以申上候、中ニも其方走廻儀、及御披露ニ候処ニ、不浅御褒美之上意ニ候、追而御勘状可被下之由、被仰出候間、可被存過分候、恐々謹言、
九月廿九日/氏邦/矢野兵部右衛門殿
埼玉県史料叢書12_付183「北条氏直書状写」(小幡文書)。年欠
両種到来、祝着候、疾之模様如何、無心元候、好々養性専一ニ候、依而為慰労、金屏風一双、進入之候、乍序、昨日者於戸張際有仕合、敵押崩、百余人討捕、二曲輪焼払候也、恐々謹言、
月七日/氏直(花押)/小幡播磨守殿
埼玉県史料叢書12_付231「上杉憲政書状」(岡部忠勝家御文書)。年欠
先年当城相攻候時被疵、重而今度親子厳密令在陣、去六日於戸張際励戦功、数ヶ所負手候、忠信誠感悦候、当国本意之上可行忠賞候、然則不行歩之事候間、於向後者戦場之上、何時も以乗馬可走廻候、委曲倉賀野三河守可申遣候、謹言、
十二月十一日/憲政(花押)/岡部平次郎殿