2018/09/19(水)寺社を焼くということ
寺社は戦国期によく焼かれたのか
漠然と、戦乱で寺や神社が焼かれたという認識を持っていたが、改めて史料から追ってみようと考えた。手持ちのデータから「焼」「放火」で検索し、ヒットしたものを分類してみる。
ちなみに、寺社への放火が禁制で明記されているのは、織田信長・羽柴秀吉・徳川家康。今川・後北条では見かけず、わずかに上田長則が天正9年に出した別当法禅坊宛ての禁制(戦北2237)があるのみ。
焼かれたのは何か
放火や焼き払いに関しての記述をまとめてみた。城や防御施設が対象のものが19例で最も多い。ついで、対象物は特に指定せず領域を指しているものが15例。明らかに民家を指すものが12例で続く。失火したり自ら焼いたりしたものは6例で少ない。調査対象となる、寺社を焼いたと明確な事例は5例。
城・防御施設 19例
- 新津のね小屋焼払候を
- 蕨地利、北新、去廿日夜、乗捕門橋焼落
- 殊厩橋焼候哉
- 本丸焼崩儀可有之候
- 上野国中在松井田根小屋悉焼払
- 二曲輪焼払候也
- 昨日者武州深谷城際迄放火
- 彼城中ニ有替衆、雖付火候
- 今六日蒲原之根小屋放火之処
- 抑去六日当城宿放火候キ
- 谷中不残一宇放火候
- 去廿日至中島相動、即及一戦切崩、数多討捕之、残党河へ追込、悉放火之由
- 昨日も至花熊相働、山下放火之一揆も罷出御忠節仕候
- 泊城押入、数多討捕之、悉令放火
- 其上小早川幸山候得共、毎日此方足軽申付、十町・十五町之内迄雖令放火候
- 去三日沼田東谷押替候、取出以不慮之行、打散悉放火
- 韮山下丸乗崩、令放火之由
- 小屋ゝゝニ火を掛
- 端城乗入、悉令放火
領域 15例
- 此表者焼動迄之事候条
- 四日ニ上京悉焼払候
- 万田より次ノ崎迄焼散被成候処ニ
- 就在所鳥波放火
- 佐野・新田領可放火候
- 彼庄内悉放火
- 今度津具郷へ相働悉放火
- 駿府へ被相働、悉放火候
- 今春向西上州相動、所々放火敵殺及討捕之由心地好候
- 既向滝山放火必然之由
- 江北中皆以放火候事
- 伊豆堺迄放火候
- 次伊豆浦処々放火
- 剰小田原之地ことゝゝく放火のよし
- 三浦渡海、如被存放火
民家 12例
- 家へ押籠被為焼殺候
- 彼山下焼払候旨
- 高遠町令調儀焼候由
- 素家之躰成共焼払所肝要候
- 洛外無残所令放火
- 近辺之郷村放火之由心地好候
- 臼井筋之郷村令放火
- 次白須賀之訳放火之事
- 在ゝ所ゝ民屋、不残一宇放火
- 御厨中之民家少ゝ放火
- 然而小泉・館林・新田領之民屋不残一宇放火
- 地下中令放火之間
失火・自焼 5例
- 頗社頭以下放火之条 ※宮司職富士氏の御家騒動なので自焼
- 去年於当府千灯院焼失云々
- 火電時令焼失云々
- 先判去年十二月令焼失云々
- 居所とも自焼仕候而
- 火電時令焼失云々
寺社 5例
- 就動乱、堂塔已上九炎焼
- 頭陀寺之儀者、云今度悉焼失
- 殊今度敵動之刻、令煙焼之由候条
- 廿三筑波へ乱入、知息院放火
- 清水と申くわんおんたう焼申時
寺社はどのような状況で焼かれたのか
飯尾豊前守が頭陀寺を焼いたのは、彼の反乱に加担しなかった住持の千手院が、敵対して頭陀寺城に籠城したのが契機。千手院は今川氏真に「頭陀寺城被相移以忠節」と評され、飯尾豊前守と戦闘状態になっている。
倉賀野淡路守の戦陣で清水観音堂を焼こうとした際、焼き手の富永清兵衛は、敵の反撃に遭って一旦攻めあぐねている。
後北条氏が筑波に乱入して知息院に放火した際も、捕虜が200人以上、死者は数え切れない程だと書かれており、ここで激しい戦闘があった可能性は高い。
武田晴信・松平次郎三郎の例は不明。
5例中3例が戦闘を伴って寺社が焼かれたことから見て、何れの場合も無防備の寺社を焼いたというより、戦闘拠点として攻撃したのではないか。
天文3 松平次郎三郎→猿投神社
天文三年[甲午]六月廿二[午剋]、就動乱、堂塔已上九炎焼、 焼手松平之二郎三郎殿、当国住人、
- 愛知県史資料編10_1186「八講諜裏書」(猿投神社文書)
永禄7 飯尾豊前守→頭陀寺
就今度飯尾豊前守赦免、頭陀寺城破却故、先至他之地可有居住之旨、任日瑜存分領掌了、然者寺屋敷被見立、重而可有言上、頭陀寺之儀者、云今度悉焼失、日瑜云居住于他所、以連々堂社寺家可有再興、次先院主并衆僧中、以如何様忠節、令失念訴訟之上、前後雖成判形、既豊前守逆心之刻、敵地江衆徒等悉雖令退散、日瑜一身同宿被官已下召連、不移時日頭陀寺城被相移以忠節、頭陀寺一円補任之上者、一切不可許容、兼亦彼衆徒等憑飯尾、頭陀寺領事、雖企競望、是又不可許容者也、仍如件、
永禄七年十月二日/上総介(花押)/千手院戦国遺文今川氏編2015「今川氏真判物」(頭陀寺文書)1564(永禄7)年比定
永禄12 武田晴信→須津八幡宮
駿河国須津之内八幡宮御修理之事。右、天沢寺殿本年貢之外、以段米之内弐拾俵、為新寄進被出置之処ニ、去従子之年已来、古槇淡路守申掠令押領之由、只今致言上之条、任先判形之旨領掌訖、殊今度敵動之刻、令煙焼之由候条、為彼造営所令寄進、不可有相違之者也、仍如件、
永禄十二己巳十二月十六日/文頭に(朱印「印文未詳」)/多門坊
- 戦国遺文今川氏編2433「今川氏真朱印状」(富士市中里・多門坊文書)1569(永禄12)年比定
天正16 後北条氏→筑波知息院
態啓上候、仍先日者家中候者、機合相違付而、不敢聞召、御尋過分至極奉存候、追日如存取直被申候、聞食可為御太悦候候、内々以使者此旨雖可申上候、却而可御六ヶ敷候間、無其儀候、然者南軍之模様去廿二小田領被打散、廿三筑波へ乱入、知息院放火、取籠候者二百余人、越度仁馬無際限被取候由申候、昨日廿五、陣替由候、于今承届不申候、様子重而可申上候、恐々謹言、
孟夏廿六日/笠間孫三郎綱家(花押)/烏山江
- 埼玉県史料叢書12_0852「笠間綱家書状」(滝田文書)1588(天正16)年比定
年未詳 倉賀野淡路守→清水観音堂
(抜粋)「加り金ノ城主くらかね淡路守殿、是へ働之時、清水と申くわんおんたう焼申時、我等参やき候へハ、敵くわんおんたう迄もち、為焼不申候時、せり合候て鑓ニ相たうをは焼はらい申候事」
- 群馬県史資料編3_3696「冨永清兵衛覚書」(東京大学史料編纂所所蔵猪俣文書)