2019/09/11(水)上杉輝虎と今川氏真の交渉年次を再比定してみる

1)「尾崎妙忍」という商人

永禄10年の駿河国。茜の売買を巡って一つの訴訟が結審する。

  • 戦国遺文今川氏編2155「三浦元政等連署証文写」(駿河志料巻七十八友野文書)

就茜之儀、尾崎妙忍ニ 御判形雖被下之、無前々筋目、自他国之商人御訴訟之旨言上之処、被聞食分、各に御判形被下之畢、然者為其御礼段子拾段・金襴拾巻・虎皮二枚進上、即令披露候、縦重而加様之新役雖有競望之輩、一切不可有御許容旨、所被 仰出也、仍為向後一筆如件、
永禄十年十一月五日/三左元政花押・金遊芳線・伊左元慶・由内匠頭光綱/友野次郎兵衛とのへ・松木与三左衛門とのへ・他国商人中

今川氏真が茜座の利権を尾崎妙忍という人物に渡したが、他国の商人が提訴したという。この結果として、各々に許諾状が渡される。これを告知したのは三浦・朝比奈・伊東・由比という今川家被官たちで、宛先は松木・友野という馴染みの商人のほかに、他国商人。

これによると、氏真は尾崎妙忍という商人に独占権を与えていたことが判る。この尾崎妙忍とは何者か。

2)京都の「尾崎」

戦国遺文今川氏編の索引を見ると「尾崎」はこの他に1件しか登場していない。それが、在京被官の宗是が言及した「尾崎かたへ尊書、於当地拝見仕候、彼御縁之儀、於被仰調者、尤存候」という部分。

  • 戦国遺文今川氏編2176「宗是書状」(上杉文書)

御上洛以後不申上候、慮外之至候、仍従屋形以書状被申入候、将又、尾崎かたへ尊書、於当地拝見仕候、彼御縁之儀、於被仰調者、尤存候、依此御返事、家老之仁一両人以書状可被申入候、就中貴国与相甲和与之御扱之旨、風聞候、於事実者、当国を証人仁被成之様、御馳走候者、祝着可被申候、委細様躰永順ニ申含候間、令省略候、此等之趣、可預御披露候、恐惶謹言、
四月廿四日/宗是(花押)/進上今林寺方丈衣鉢禅師

ここから判るのは、上杉と今川を繋ぐルートが、京を介していたという点。

(越後:輝虎→今林寺住持)→(京都:尾崎→宗是)→(駿河:今川家中)

この、宗是に今林寺住持からの書状を取り次いだ「尾崎」が尾崎妙忍だとすると、越後との外交関係から尾崎を優遇する措置を氏真が講じた可能性が出てくる。それに反発した既存勢力によって覆されたのが永禄10年11月5日だとすれば、外交関係は茜座一件の前にある程度進展していると見るべきだ。

比定し直すと、宗是書状は永禄8年比定に繰り上がる。また、義信室の帰国顛末に触れた今川被官の書状と、年欠で氏政が義信室の受け入れ準備を急いでいる書状の方は永禄9年になる。

もう一点、この文書で注意が必要。文中の「仍従屋形以書状被申入候」の「屋形」を氏真とするか、輝虎とするかで意味がかなり異なってくる。

正規ルートとして要明寺住持が持参した「屋形より書状を申し入れられ候」という状況がまずある。一方で、今林寺住持の私信「尾崎かたへ尊書」がある。少なくとも今林寺書状は宗是宛てなので、彼が「当地において拝見仕り候」の大将には入っている。但し、屋形書状について宗是は見ていないだろう。

というのは、「あの御縁の儀、仰せ調えられるにおいては、もっともに存じ候」という意見を述べているからだ。「彼御縁」であって「此御縁」でないのは、宗是は屋形書状を実際に見ていないため。ただ今林寺書状によって、それが越駿親交提案書であると把握している。

3)比定年はどう動くか

2での検討を反映させて、従来の比定と比較してみる。■は年記載ありの確定史料

従来比定

永禄10年

  • 2月21日:義信室の三島居所準備を急ぐ
  • <諸商人より異議申し立て、審議>
  • ■11月5日:尾崎の茜座独占を解消(年記載あり)
  • 12月21日:氏真初信(返信)「義元からの筋目で使僧があり光栄、交流を受諾する」

永禄11年

  • 4月15日:三浦氏満・朝比奈泰朝書状、永順書状(旧冬連絡の返信)
  • 4月24日:宗是書状「尾崎から書状を見せてもらった。御縁の準備で家老から返信するだろう」

今回比定

永禄8年

  • 3月12日:今川方が三河を完全に失う
  • 4月24日:宗是書状「尾崎から書状を見せてもらった。御縁の準備で家老から返信するだろう」
  • <この間の家老書状は逸失?>
  • 5月1日:義信室が大般若を真読
  • 12月21日:氏真初信(返信)「義元からの筋目で使僧があり光栄、交流を受諾する」

永禄9年

  • 2月21日:義信室の三島居所準備を急ぐ
  • ■4月3日:富士大宮での楽市規定で、諸税や通関を停止するよう通知
  • <越後外交成立を受け尾崎に茜座独占を許可>
  • 4月15日:三浦氏満・朝比奈泰朝書状、永順書状(旧冬連絡の返信)

永禄10年

  • <独占が露見し、諸商人より異議申し立て、審議>
  • ■11月5日:尾崎の茜座独占を解消

従来比定では宗是書状が最後尾に位置するため、申し入れた「屋形」は氏真に比定されていたが、今回試みている比定では最初の接触に当たるので「屋形」は輝虎になる。上杉家当主からの正規書状と並行して、宗是と面識のある今林寺住持による縁辺の申し込み、という2段仕掛けになっている。

従来比定では最後に来た宗是書状がどこか的外れな印象だったが、今回の比定だと自然に解釈できる。

4)義信室帰国案件との相関性

新比定では、義信室の帰国と同時期に従来型商人(甲斐とも繋がる松木・友野)を抑制して、新興商人の呼び込みをする政策が始まることになる。また、武田への不信感を露骨に表明した今川被官たちの書状もこの時期。

では、義信室の帰国は比定を1年繰り上げて問題ないだろうか。

武田義信の失脚と死がいつかは確実な史料がないため、ここからの逆算はできない。鍵になるのは、義信室が大般若の真読を行ったという武田晴信の書状。

  • 静岡県史資料編8_補遺0240「武田晴信書状」(比毛関氏所蔵文書)

急度染一筆候、和田辺麦毛純■■■、頻而告来候条、来■日■井田■、四日■和田■移陣候、然者人数一向不調候、苻内可被相触候、次駿州江信虎様御越候哉否、節々彼国之模様被聞、註進待入候、随而於于旗屋之祈念之事、無疎略御勤行尤之由、不閣可有催促候、恐々謹言、
追而、新造御祈祷真読大般若之事、駿州江被聞候条、無疎意可被申付候、
五月一日/信玄(花押)/高白斎殿・市川七郎右衛門尉殿

この追伸では「新造がご祈祷で大般若を真読すること、駿河へ聞こえるだろうから粗意のないように」とある。義信室は何を祈るために大般若を真読したのか? 般若経は氏輝死去・氏康危篤で持ち出されている大掛かりな行事。なおかつ、真読となれば相当長い時間がかかる。夫の生死に関わることとしか考えられないところだが、少し深読みしてみる。

この段階で今川から帰国要望は出ていたのだろうか。三浦氏満と朝比奈泰朝連署書状を見てみる。

  • 戦国遺文今川氏編2174「朝比奈泰朝・三浦氏満連署書状案写」(歴代古案二)

態可申入之処、此方使ニ被相添使者之間、令啓候、仍甲州新蔵帰国之儀、氏康父子被申扱候処、氏真誓詞無之候者、不及覚悟之由、信玄被申放候条、非可被捨置義之間、被任其意候、要明寺被指越候時分、相互打抜有間鋪之旨、堅被申合候条、有様申候、雖如此申候、信玄表裏候ハゝ、則可申入候、猶委細遊雲斎可申宣候、恐々謹言、
四月十五日/三浦次郎左衛門氏満・朝比奈備中守泰朝/直江大和守殿・柿崎和泉守殿御宿所

これによれば、彼女の帰国は氏康父子が仲介したという。この仲介に答えて晴信が「氏真の起請文がないのは問題だ」と言い立てている。状況を考えると、その前段で義信室の帰国が拒絶されており、やむを得ず後北条に声をかけたのが想起される。但し、後北条の仲介で初めて起請文と言い出したことから、晴信は当初、別の理由で帰国回避していたのだろう。

上記を合わせて考えると、今川からの帰国要請を回避するために「大般若真読」を持ち出したと考えられる。これだと「駿河にも聞こえるだろうか」という文面とも馴染む。

上記の諸要素をまとめると、永禄8年5月の段階で既に駿甲は緊張関係に突入している。そして、その裏には義信死去を察知した輝虎の素早い工作があったようだ。

但し、この緊張関係から後北条氏は距離を置いていたようで、永禄11年8月に至っても小田原海蔵寺のために武田氏は伝馬を出している( http://www.rek.jp/0134 )。また、北条氏政が義信室を伊豆三島に引き取る際の文書解釈で専門各書に混乱があるので要注意( http://www.rek.jp/096 )。

蛇足

それにしても、義信室の様子は痛ましく思える。夫を奪われた挙げ句、実家に戻さないために長時間の祈祷を強要されているし、やっと戻ったと思ったら追い立てるように実家を焼かれてしまう。義忠室から始まって氏親室・晴信室・氏康室が繋ぎ、三国の娘たちに引き継がれる筈だった閨閥政治が、最も大きな影響力を行使した氏親室の死去を待ちかねたように崩れ去った。そんな中でも、死に至ったのは北条氏政室(晴信娘)と葛山氏元室(氏綱娘)。意外にも、義信室(義元娘)と氏真室(氏康娘)は近世まで生き延びている。

2019/03/31(日)伊達房実生存説について

全滅した岩付籠城衆

1590(天正18)年5月21日に、武蔵岩付城は羽柴方によって攻め落とされる。城主の北条氏房は小田原に籠城していたため、城代の伊達房実が守備していた。

惣構が破られたのは5月19日。その翌日、城内にいた松浦康成が、援軍として入っていた戦闘経験豊富な山本正次に書状を出して戦況を確認している(埼玉県史料叢書12_0921「松浦康成書状写」越前史料所収山本文書)。この文書が残っていることから判るように、正次は岩付から脱出している。

但し生還できたのは正次しか確認できておらず、伊達房実・松浦康成は史料から姿を消す。後に氏房が肥前で死去した際に家臣として細谷三河守の名が出てくるが、細谷は氏房に随従して小田原にいたものと思われる。

岩付の武家被官が全滅したのは、落城後に出された書状からも確認できる。

5月27日、羽柴方被官たちが岩付落城を北条氏直に伝えた書状に、

抜粋

本丸よりも坊守を出し、何も役にも立候者ハ、はや皆致計死候、城のうちニハ町人・百姓・女以下より外ハ無御座候条、命之儀被成御助候様と申ニ付て、百姓・町人・女以下一定ニおゐてハ、可助ためニ、責衆より検使を遣し、たすけ、城を請取候後

  • 小田原市史小田原北条4541「長岡忠興等連署書状写」(北徴遺文六)

とある。本丸に敵が入る前に、坊守が出てきて「戦闘可能な者は全員戦死した」と降伏している。この状況は寄手から検使が入って確認しているので確実だろう。

更にこの後、氏政妹と氏房室を保護したことが記述されるが、彼女たちの引き取り手がなく、開戦前に拘禁した石巻康敬を派遣して対応したとある。城代である伊達房実がいれば、身元確認や事後対応を彼と協議したはずなので、やはり戦死したものと思われる。

伊達房実が生き残ったという記述

一方で家臣団辞典では、伊達房実は降伏して助命されたと記載する。これは寛政譜を元にしつつ、下記文書を根拠とする。

岩付太田備中守・伊達与兵衛・野本将監妻子之事、何方ニ来共、有度方ニ居住不可有異儀候、恐ゝ謹言、
七月十四日/御名乗御判/羽柴下総守殿・黒田官兵衛殿

  • 記録御用所本古文書0780「徳川家康書状写」(伊達家文書)1590(天正18)年比定

しかしこの内容は、伊達与兵衛(房実)の妻子が生き残ったことしか示さない。太田・伊達・野本が生存していれば、彼らに宛てて妻子の保証をするはずだ。

よく似た文言の文書は織田信長も出しているが、この場合も山口孫八郎は既に存在しておらず、孫八郎妻子の居住の自由を加藤図書助に保証している。

山口孫八郎後家子共事、其方依理被申候、国安堵之義、令宥免之上者、有所事、何方にても後家可任存分候、猶両人可申候、恐々謹言、
十月廿日/信長(花押)/加藤図書助殿進之候、

  • 愛知県史資料編10_1942「織田信長書状」(加藤景美氏文書)1554(天文23)年比定

同時代史料を見る限りでは、やはり房実は戦死したと判断せざるを得ない。

生存説構築の動機

ではなぜ房実生存を、子孫と称する大和田村伊達家が主張するのか。この伊達家に、妻子の居住を保証した上掲文書が伝来するから、房実と関わりがあるのは確実である。

寛政譜によると、系図で最初に「房実」とあったものは、実は「房成」だと訂正している。ところが、同時代史料では全て「房実」であり、何らかの意図をもって伝承を改変した痕跡が窺われる。また、房実の子を「房次」とするが、仮名は「庄兵衛」となり、以後代々の仮名でも「与兵衛」よりも「庄兵衛」が強く出されていく。

伊達「与右兵衛」は今川家文書でも確認され、房実が今川被官の由来を持つことの証左ともなっているほどの象徴で、そう容易に変えるものとは考えづらい。とすると、岩付で助命された与兵衛の子は娘で、婿に入った庄兵衛がいたのかも知れない。

史料を追いきれていないところなので、ひとまずこの仮説で止めておこうと思う。

2019/03/30(土)足利政知死後の北条御所

円満院殿の実像が垣間見える史料

 下記は『拾遺京花集』に収められた円満院殿・潤童子の三回忌法語。著者は相国寺の横川景三(播磨出身の僧侶)。

足利政知後室の三回忌の法会(拾遺京花集・韮山町史中巻552ページ)

円満院殿拈香法語
延徳三年、円満院殿拈香、相公弟潤童子、相公母円満院殿、同日逢害、女中有、大丈夫出任姒興周、如昨日、君不見豆駿以東、冨士烟、挙香云、紅爐手練天雪、大日本国山城州京師位大功徳源朝臣義高、明応二年歳舎癸丑七月一日、伏値皇姒円満院殿月岩大禅定尼大祥忌之辰、就于当院設大斎会、造仏像金之木之、抽経王、書者印者、修慈懺摩法

「女中」は女性配偶者を指す。この場合は「女中=円満院殿」「大丈夫=政知」と思われる。

「興」は「輿(こし)」の誤記ではないか。とすれば意味が通る。

「奥方様がいた。夫の鎌倉公方就任でで出立する時の姒<=彼女o姉>の輿周りの様子は、昨日のようだ」

「紅爐」は燃えている炉で「紅爐一点雪」の禅語と懸けている。噴煙を挙げる富士山を紅爐に見立たもの。

「伊豆・駿河より東を見ることがなかったものの、彼女は一心不乱だった。それは富士の様子が紅爐一点雪を体現しているようなものだ」

「皇姒」は不明。「姒」を姉と読むならば「武者小路種光の姉」となろうが、「皇」の字に違和感を覚えるし、その前の方の文にある「姒輿周」の「姒」は「彼女」と読むのが適しているように見える。こう捉えるならば、円満院殿は内親王という扱いになる。政知に嫁す際に天皇猶子となったか。

「潤童子」は戒名。幼名は他にあった。「童子」を伴う幼名は他例なし。

「円満院殿」は戒名で、生前の呼び名ではない。

足利義澄は母と弟の死亡日を把握しており三回忌を行なった。

後に駿河から京に送られた娘もいた筈だが、ここでは言及がない。

推論

 史料の整理前ではあるが、ひとまず思い浮かんだことを書き留めておく。

周辺状況

  • 1482(文明14)年の都鄙一和によって政知が鎌倉殿になる可能性はなくなり、伊豆を堪忍分として確保した矮小化された存在になっている。これを受けて政知は息子の清晃を京の香厳院に送った。香厳院は政知が還俗前にいた寺院で、政知としては息子を戻してリセット、自身は伊豆に留まる判断をしている。
  • 政知の跡目を巡って異母兄弟で係争があったとする後世編著は、伊豆を起点に関東に広がった後北条の事績と、明応政変による義澄将軍任官を前提に案出されたものと見られる。
  • 都鄙一和によって行き場がなくなった挙げ句に死去した政知の跡目は、政知死去直後だとさほどの魅力を持たないのではないか。

政元室の動き

  • 残された政知室は京にいる長男の元に行こうとし、忌明けに出立する予定だった可能性がある。
  • 足利政知が1491(延徳3)年4月3日に死去したのは同時代の複数史料で確認できるため、確実。1497(明応6)年7月2日付けの富士浅間物忌令(戦今106)によると、父母の物忌みは120日とされる。
  • 母子が殺されたのは政知死去87日後、百ヶ日の13日前で初盂蘭盆会の14日前。この盂蘭盆が一つの目安かも知れない。
  • 120日の忌明けまでは盂蘭盆会から19日あるが、路次準備を考えると、帰京の本格準備にかかる辺りか。
  • 「逢害」とあることから、政知室と二男は殺害されたことが判る。とすると、二人の京行きに反対する者が、両名を殺害した。

殺害者

  • 関東勢には動機がなく、今川は当主空位で動けない。上杉政憲が怪しいかも知れない。犬懸は今更関東には戻れないし、京にコネもない。
  • 政知妻子の帰京に伴い伊豆を山内に返還となれば政憲の行き場はなくなる。これに加えて、政憲の姉妹か娘が政知の子を生んだとすれば、この子を担いで独立を図ったか。これが「茶々丸」で、実名を持たないのは幼児だったからかも知れない。
  • 後に駿府から京に送られた義澄妹は上洛後に消息を絶つ不可解な動きをするが、この妹は「茶々丸」と同じ母を持っていたとすれば、後に追放となったと考えられ筋は繋がる。

その後

  • 政憲の計画では、母子病死とし北条御所の外戚となること。暫くは問題にならなかったが、その後義澄が将軍になり、政憲追討を企図する。対立した上杉は動けなかったため、今川にいた伊勢宗瑞が伊豆に入り政憲を追い出す。宗瑞はそのまま伊豆での在国奉公衆となる。
  • 伊豆が元々山内の分国だったことから、扇谷は宗瑞の伊豆入りを容認し、対する山内は政憲を引き取る。但し、政憲は将軍生母と弟を討っているので正式には受け入れられず、更に甲斐に逃げ行き場を失った。