2025/01/10(金)北条氏規と無関係な文書
北条氏規の関係文書をまとめているが、その中で北条氏規には該当しないと判断した文書があったので記しておく。
尚ゝ、馳走通富田懇申聞候、今度者、美濃守為名代差下候処ニ、別而馳走候由、誠被入念、返給候へく候、近日三介殿可有御上洛候間、其時可申候、尚此両人可被申候、謹言、正月甘八日/秀吉(朱印)/飯田半兵衛尉殿 -- 埼玉県史資料編6_2_1453「羽柴秀吉朱印状」(根岸文書)
埼玉県史では美濃守を北条氏規と比定して天正17年とするが、美濃守は羽柴秀長も名乗っており、秀吉の名代として下向するならば秀長が妥当。
追而鏑木へ書状遣之候、それより即指越被申候、少も遅ゝしかるへからす候、夜中たるへく候間、与六丞と助五郎両人にさしこし申されへく候、返ゝ六日ニ大かた之雨ニ候共、必ゝ可罷立候。氏政今日三日、小田原を被打出、六日ニ金まて可為着陣之由、夜前書状候、然間、其地之衆、六日ニ罷立、ひし田辺ニ陣取、七日ニ者、印西へとりこし候之様ニ尤候、内ゝ六日ニ当地まてと可被仰付候へ共、去年各たてさせられ候時分、伝馬をおひやつし、当地に捨置候由候間、伝馬之ためニ候之条、六日ニ(後欠) -- 神奈川県史資料編3下7561「北条氏康ヵ書状」(原文書)
「与六丞」と並んで記された「助五郎」は、使者として扱われているため、北条氏規には該当しない。後北条家中の主な被官には「与六丞」はいない。
2023/04/07(金)駿府にいた賀永の正体
賀永と氏規は別人か?
『言継卿記』に出てくる「賀永」は北条氏規と考えていたが、専門家から別人との仮説が出された。言われてみると「賀永=氏規」という記載はないから、検討が必要だろう。改めて記載を追ってみよう。
賀永関連記述の時系列
◎は寿桂(今川氏親の妻)と同伴している記載。※は参考用記載
◎「大方之孫」10月2日
湯山(伝聞):寿桂とその娘(中御門宣綱の妻)と共に湯治。「大方之孫、相州北条次男也」と説明している。
◎「孫がいえい若子」10月28日
寿桂宅:寿桂の他に賀永と上臈(冷泉)・奥殿(元上臈)・中臈頭(小宰相)が在宅している。
「伊豆之若子」12月18日
伝聞:賀永の祝言があったと言継が聞く。
◎「伊豆之若子」12月23日
寿桂宅:寿桂へ小鬼子を贈り、同時に賀永へも「矢、車字」を贈る。寿桂から「はつり一包、雉之羽十一具」を、賀永から「羽三具」を贈られる。
「若子」12月24日 単独で言継を訪問
言継宿所:昨日の大方・若子へ贈った小鬼子を取り寄せ、「木れん子」を「すけ薄」を置く。若子が来て「晩飡」を共にする。
「伊豆之若子賀永」1月2日 単独で破魔矢を贈与
賀永に依頼していた破魔矢が到着する。
◎「若子賀永」1月3日
寿桂宅:寿桂へ「薫物十貝」を、賀永へ「五貝」を贈る。三献があり賀永、奥殿・御黒木(言継の養母)が相伴する。
◎「賀永」2月9日
御黒木宅:十炷香を張行。参加者は御黒木・寿桂・言継・賀永・御まん・奥殿・山宰相・中将・小少将・賀永乳母・あこう・客人・あち・こち・城桶検校。
※「中御門息之喝食」2月22日 再延期された浅間宮廿日会の桟敷で同席
冷泉弟の子・各和式部少輔・牟礼備前守・朝比奈泰朝・蒲原元賢、由比光綱・光綱弟の十郎兵衛・神尾対馬入道・観世大夫が既に桟敷にいた面々。
- ◎「賀永」2月29日
言継宿所:甘利佐渡守が使者として来訪。寿桂から「黄金二両、島つむき三端、紙一束」、賀永から「段子一端、紙一束」、冷泉局から「紙二束」、奥殿から「紙一束、引物二、師子皮こ一対」、小宰相から「香箸、紙一束」が贈られる(その後言継は寿桂宅を訪れるが賀永の名は出てこない)。
従来の通説では「孫」とある繋がりから氏規=賀永とされていた。これに対して「孫は何人もいたはず」としたのが別人説で、更に踏み込んで中御門宣綱の息子を賀永とする説もある。それぞれ、検討してみる。
賀永は中御門信綱の息子か?
まず、中御門宣綱の息子が賀永というのは否定できる。上の一覧で判るように、賀永が中御門息だとすると、名前の呼び方が不自然になってしまう。親交を重ねた言継は2月9日に「賀永」と名のみ記すようになったのに、2月22日にいきなり「中御門息之喝食」と他人行儀になり、2月29日に再び「賀永」呼びになる。これはさすがに不自然だ。
一方、12月19日の賀永祝言に続けて宣綱の行動が記述され「賀永と宣綱は近しい存在」という指摘もある。しかし、記述内容をきちんと読むとおかしい点に気づく。賀永祝言に続けて、宣綱は「無興=不満」だったと書かれている。息子の祝言に不満を持つというのもまた不自然だろう。
元服前の氏規が喝食っぽい名を持っているのを不審に思っての比定かもしれない。しかし、上記のように言継卿記を素直に読む限りでは別人だろう。
賀永と氏規は別人か?
どちらも寿桂の孫と記述されている氏規と賀永は別人だろうか。別人説では、賀永は寿桂孫の一人ではあるものの、相模ではなく「伊豆之若子」と呼ばれたことから後北条との関係者ではないと推測している。
寿桂の孫となると、言継卿記には実に6人も登場する。北条氏康に嫁した娘が産んだと思われる氏規・氏真妻、中御門宣綱に嫁した娘が産んだと思われる娘と息子、義元の息子である氏真、瀬名貞綱に嫁した娘が産んだと思われる虎王。これに対して「孫」として説明されているのは氏規と賀永しかいない。
これは、氏規・賀永が寿桂と同居して孫として扱われていたからだろう。氏規は寿桂の湯治に同行しているし、賀永は8回登場するうちで5回は寿桂同伴である。他の孫達は寿桂と別の生活圏に居住していたため、その関係から説明されたものと思われる。
更に「若子」という尊称がつくのは賀永のみであり、周囲に敬されていたと考えられる。こうした敬称は宣綱の娘に付されていて「姫御料人」と呼ばれているものの、貞綱息子の虎王には付いていない。権大納言である宣綱と、一門とはいえ義元被官である貞綱とで待遇を分けているのだとすれば、賀永は太守氏康の次男だから尊称を付けられたと考えられる。
※興味深いのが宣綱の息子である喝食に尊称がない点。寺に入った者として距離を置いているように見える。であれば喝食風な名を持つ賀永は実態としては寿桂宅にいたため俗人として扱われ「若子」と呼ばれたのだろう。
まとめると、以下の項目から氏規と賀永は同一人物と考えられる。
- 寿桂と極めて親しい関係にある氏規が、言継卿記では1回の伝聞にしか登場しないのは不可解
- 寿桂孫として敬され言継卿記で多数登場する賀永が、同時代史料で一切見えないのは不可解
- 寿桂と常に同行した孫で「若子」の尊称という条件を満たすのは氏規
- 氏規と全く同条件の人物の存在を比定するよりも、氏規=賀永とした方が自然
相模ではなく伊豆の若子と記されるから後北条とは無縁という推測も、よくよく考えると筋が通っていない(伊豆国は後北条分国)。後北条と無関係でありながら、伊豆と関わりを持った寿桂孫の存在を想定するほうが無理があるのではないか。
伊豆や喝食との関連性
では、氏規はなぜ「伊豆之若子」と呼ばれたり、喝食のような名前「賀永(がえい)」を名乗ったりしたのか。
「伊豆」と「祝言」
私は、「伊豆」が使われるようになった鍵は12月19日の「祝言」にあると考えている。言継はこの祝言を記した後に「中御門無興」と付け加えている(どちらも伝聞)。「無興」は「気に食わない」とか「不満」を指すが、言継卿記では直近の12月5日に登場している。
次中御門へ罷向暫雑談、今日隠居之事、使四人有之云々、無興至極痛入者也
とあり、「隠居」について使者4人が来て宣綱が憤懣やる方ない状況になったと書かれている。14日にも宣綱は「隠居之儀事破云々、種々雖加意見無同心之間罷帰了」とあり、その憤激を言継が宥めようとして諦めた記載もある。その5日後の祝言で宣綱が「無興」というのであれば、賀永の祝言が宣綱隠居と密接に関わっていると考えていいだろう。
宣綱が登場する12月分記載を全て列挙してみた(※11月末に濃密な接触もあったので参考記載)。
- ※11月28日:中御門宅にて酒宴。
- ※11月30日:中御門宅にて風呂に入る。
- 12月01日:宣綱が留守中に来訪したと聞く。
- 12月03日:中御門宅にて宣綱と雑談。
- 12月05日:中御門宅に行き「隠居の件で使者4人が来訪し、強い不満を抱いた」と宣綱から聞く。
- 12月07日:宣綱から筆が返却される。
- 12月11日:宣綱が留守中に来訪したと聞く。
- 12月13日:中御門宅にて宣綱と雑談。
- 12月14日:早朝に宣綱から呼び出しがあり、隠居の件が破綻したと激怒される。説得を試みるが効果なし。
- 12月19日:言継が、伊豆の若子の祝言と、宣綱の不満を伝え聞く。
- 12月26日:言継が、宣綱から借りていた鏡を返却し、同時に姫御料人へ物を贈る(姫御料人の記載終見)。
宣綱が「無興」になったのは、氏規を姫御料人の婿に迎えて中御門家を継がせたかったのではないか。駿河の今川、遠江の朝比奈に娘を送り込んだ中御門家だから、その計策を練ったとしても突飛な話ではない。何より、政略結婚の画策だと考えると、宣綱の行動のあれこれが腑に落ちる。彼を憤激させた使者4人は後北条氏から来て中御門家との婚姻を謝絶したものだと思われる。
※宣綱には子がいなかったと思われる一方で、異母兄弟とされる宣治には男子(宣教)と女子(宣胤の妻)がいた。宣治は1555(弘治元)年に死去しており、言継が駿府に滞在した弘治2~3年の前に遺児達を引き取って養子にしていた可能性がある。但し、この女子が宣胤の妻となるかは年代的に疑問が残る。宣胤は1569(永禄12)年生まれだから、宣胤の妻はこの女子の娘である可能性の方が高いように思う。
そして、この祝言から「伊豆」が賀永に付されるようになる。これは、北条綱成の娘との婚姻が成立して伊豆に知行を得たからではないか。この時点で氏規知行が伊豆にあったという史料はないが、1565(永禄8)年に伊豆奥郡の手石郷へ朱印状を発給している(戦北891)。また、更に後年になるが氏規の妻は伊豆仁科郷の地頭として名を残している(戦北4969)。結婚を機に伊豆の知行を与えられる可能性は高い。
ちなみに、元服前の婚姻は他に井出千熊・馬淵金千代の婚姻契約があるので問題はない(戦今1667)。むしろ、祝言が元服だとするなら、その後も若子・賀永と呼び続けた理由が判らなくなるから、婚姻と考えるべきだろう。
氏規は喝食だったか?
ここから先は推測・憶測の上に仮説を進める形になるため、一つの仮構として捉えていただきたい。
氏規が喝食のような「賀永」を名乗ったことについて。彼は実際に喝食だったのだろうと考えている。というのも、氏規は後北条一門の中で唯一浄土宗の戒名を持っている。とすれば、臨済宗大徳寺派で占められる後北条一門から離れた場所で浄土宗に帰依する出来事があったと推測される。
今川一門もまた義元以降は臨済宗(妙心寺派)なのだが、義元には氏規を浄土宗に帰依させる動機がある。それが対三河政策で、当時の三河には日蓮宗や浄土真宗、曹洞宗もあったのだが、義元が橋頭堡にしようとした松平一族は浄土宗を信仰していた。恐らくだが、義元は氏規を養子にして三河進出の中心に据えようとしていたのではないか。その足がかりとなる松平氏と同じ宗派にするため、氏規を浄土宗寺院に喝食として入れた。
氏規は終生浄土宗に帰依しており、当時駿府にいなかったと思われる徳川家康となぜか親しかったのは、同じ宗派を信仰しているためだろう(家康の駿府不在は徳川家康登場初期の考察、家康との関係性については北条氏規への偏見についてを参照)。
しかしながら言継卿記の賀永は寿桂宅に起居しているし、当時の駿府で最も有力だった浄土宗寺院(新光明寺)に寄宿していた言継の記述でも寺院関係者としては出てこない。
これは、義元の意図を危ぶんだ寿桂が氏規を引き取って身柄を担保していたのだろう。そしてそれを横からかっさらおうとしたのが宣綱で、亡くなった弟の娘を充てがって中御門家を継がせようと画策していた。
この駿府での騒動に慌てた氏康は綱成の娘との婚姻を強行し、元服前とはいえ伊豆で知行を与えた。このために「伊豆之若子」と呼ばれるようになったのだろう。
しかし、1556(弘治2)年5月2日に座間鈴鹿明神社の棟札銘に「北条藤菊丸」と名を残した氏規が、僅か5ヶ月後の同年10月2日に言継卿記で「賀永」という名乗りになっていたことから考えると、氏規の争奪戦はこの年に相当な速度で進んだようだ。
氏康と同盟した後の義元は西へ一気に勢力を広げており、天文19~22年頃には尾張東部(知多・岩崎)にまで達している。この勢いに乗った義元は、氏康の息子を得たのだろう。義元の後継者は氏真しかおらず、その妻に氏康娘を迎えたとしても縁戚関係は不安定だった。
1545(天文14)年11月9日に実績がある(戦国遺文今川氏編783)ことから、この時も寿桂が氏康と義元を仲介して、氏康次男の藤菊丸を氏真予備として養子にする決定がなされた。その後、1556(弘治2)年から三河国で反乱がが相次ぎ、三河の政情が悪化。この対応に苦慮した義元が、一刻も早くという要請を出し、今川家の将来を憂慮した寿桂が口添えしたのかもしれない。
2022/11/28(月)花木集団 浄土宗と臨済宗
この記事は下記の考察を元に行なっているため、事前のご一読をお薦めする。
玉縄と花木
それぞれの役割分担
新参者の福島為昌に異例の抜擢がされた理由として、その妻である花木隠居(養勝院殿)の資金力がありそうだ。彼女自身が資産家の側面を持っているほか、その実家である伊豆朝倉氏は、相模・伊豆で資産家として活動している。
- 花木隠居:役帳に買得地だけで名が載っているのは彼女だけ
- 相模朝倉氏:伝肇寺との土地売買で係争、文官として名が見える
- 駿河朝倉氏:長津俣の地を浦田又三郎から借金の見返りとして入手
後北条氏としては、この朝倉一族を取り込む意図があり、為昌を氏綱養子に取り立てて北条の名字を与えて一門扱いした。ただ一方で、実名での通字「氏」を許可することはなかった。これは為昌が比較的早く死去した要因もあるものの、遠江福島氏出身で妻も相模朝倉氏で血縁が薄かった異分子だったのが大きいだろう。息子の綱成が氏綱娘を娶ってようやく氏綱の偏諱を受け、孫の康成が氏康娘を娶るに至ってようやく「氏繁」の名を名乗れた。為昌一族が後北条一門に正式に認められるまでには、かなり長い年月がかかっている。
為昌は小田原の本光寺に葬られるが、この寺は臨済宗で為昌戒名は後北条一門と同じ「宗」が使われている。この本光寺を中心にした集団は所領役帳でも見られる。御家門衆の中に「本光院殿衆」が3名残っており、それなりの規模の家臣団だったことが推察できる。
- 山中彦十郎(知行168貫文)
- 仙波藤四郎(知行90貫文)
- 山本太郎左衛門(135貫文)
本光寺の所在地は不明だが、為昌妻が「花木隠居」、綱成妻が「花木殿」、氏繁が「花之木」と呼称されたことを踏まえると、小田原の花ノ木に所在したと見てよいだろう。花ノ木の蓮上院は宗哲率いる久野北条家と関わりがあるが、その宗哲妻が開基となった「栖徳寺」が本光寺住持職継承に関与している文書がある。この関連性から見ても、為昌菩提寺は花ノ木で蓮上院を介して久野北条と繋がっていたと思われる。
- 小田原市史資料編小田原北条0428「北条家虎朱印状写」(本光寺文章)1560(永禄3)年
本光寺住持職之事、任和尚御遺言筋目、初首座可有住、其外寺内之仕置等、長老被仰置如筋目、万事栖徳寺可有異見、然者、衆中一人モ無異儀、在寺肝要候、是則被対檀那申、各被重可為意趣状如件、
永禄三年二月九日/「虎印」/本光寺僧衆中栖徳寺
浄土宗との関わり
死後は後北条一門と同じ臨済宗の戒名がつけられた為昌だが、彼の周囲を見ると、浄土宗の関係者が多いことに気づく。
玉縄北条・為昌近辺の浄土宗
- 氏時の位牌が伝わる二伝寺は浄土宗寺院
- 養勝院殿の木像、大頂院殿の位牌が伝わる大長寺は浄土宗寺院
- 養庄院殿木像で菩提を弔ったのは浄土宗の高僧(安養院住持第十六代高蓮社山誉大和尚)
- 朝倉氏は当初曹洞宗で、能登守から浄土宗へ転出した痕跡あり
- 吉良頼康、朝倉能登守は熱心な浄土宗徒
- 大道寺氏は河越蓮馨寺の創建に関わり、一門から浄土宗の僧を輩出
- 小田原伝肇寺の移転で朝倉右京が関与
為昌が最初に発した文書(朱印状)は鎌倉光明寺への優遇策
為昌初見文書は、三浦郡の全域の一向衆を全て鎌倉光明寺に所属させるというもの。鎌倉光明寺はこの時点で関東最大の浄土宗寺院で、同宗白旗派の中心となっていた。
- 戦国遺文後北条氏編0102「北条為昌朱印状」(光明寺文書)
三浦郡南北一向衆之檀那、悉鎌倉光明寺之可参檀那者也、仍如件、
享禄五壬辰七月廿三日/日付に(朱印「新」)/光明寺
後北条氏が一向宗の拡大を禁じていたのは下記の文書でも見られる。
- 小田原市史資料編小田原北条0664「北条家掟書」(港区・善福寺所蔵)
掟
一、去今両年、一向宗、対他宗度ゝ宗師問答出来、自今以後被停止了、既一向宗被絶以来及六十年由候処、以古之筋目、至于探題他宗者、公事不可有際限、造意基也、一人成共就招入他宗者、可為罪科事
一、庚申歳長尾景虎出張、依之、大坂へ度ゝ如頼入者、越国へ加賀衆就乱入者、分国中一向宗、改先規可建立旨申届処、彼行一円無之候、誠無曲次第候、雖然申合上者、当国対一向宗不可有異儀事
右、門徒中へ此趣為申聞、可被存其旨状如件、
永禄九年丙寅十月二日/日付に(虎朱印)/阿佐布
1566(永禄9)年の60年前というと1506(永正3)年で、為昌が三浦郡一向宗を鎌倉光明寺に帰属させたのは時間軸からして合ってはいる。しかし、鳥居和郎氏の下記論文の史料解釈を見る限り、為昌のこの朱印状には単に一向宗禁圧の方針からの発給ではないようだ。
『戦国大名北条氏と本願寺―「禁教」関係史料の再検討とその背景―』
この論文によると、後北条氏の禁教は政治的宣伝が主目的で、実際に抑圧した確証はないという。氏康は永禄4年の上杉輝虎侵攻を受けて、越中の一向宗門徒を活発化させるため本願寺に恩を着せたかったようだ。浄土真宗の動向としては、むしろ甲斐との関係性・日蓮宗との対立の方が要素として大きいという。確かに、上杉侵攻時に本願寺と氏康を仲介したのは武田晴信だし、晴信の駿河侵攻で氏康と敵対した際に、相模・伊豆の浄土真宗寺院を氏康は警戒している。
とすると為昌が鎌倉光明寺に便宜を図ったのは独自判断によるもので、為昌もまた浄土宗に帰依していた。もしくは、浄土宗徒であることが確実な妻の懇願によって自身が影響力を行使できる三浦郡へ浄土宗拡大の指示を出したものと思われる。
ただし、既に記述したように為昌は死後に小田原の臨済宗本光寺に菩提を持っているから、北条養子入りを機に臨済宗へ転身したと思われる。
花木集団 浄土宗と臨済宗の混淆
後北条一門に列した為昌の菩提寺本光寺(臨済宗)が、花木集団の象徴になったことは確実だろうと思われるが、その一方で浄土宗と連携した相模朝倉氏が集団の母体になっており、それが集団の捻れた二重構造に繋がったのではないか。その点を少し検討してみる。
宗派を継承すること
良正院殿が息子の松千代(照澄)の初お目見えの際に、父である家康に願い出て、松平姓を願い出て許された件。記録では良正院が「母である西郡殿の日蓮宗を受け継いだが、自分は家康と同じ浄土宗に改修するので、日蓮宗を松千代に継がせたい」と願い、家康が「であれば西郡殿の宗派を受け継ぐのだから、松千代には松平を名乗らせよう」と受諾したという。
これはかなり奇妙な話だ。徳川・松平は浄土宗徒だから、普通に考えれば「祖母も母も日蓮宗だが、松千代は浄土宗にする」と良正院が願い出た結果として、松平姓を名乗らせる方が自然に見える。
また、鵜殿氏系譜の西郷殿が日蓮宗であるのは確度の高い話だが、彼女は駿府の宝台院に葬られており、最終的に浄土宗に改宗したことは確実。
この話には裏があったと考えて解釈すると、良正院殿は自らも母と同じく改宗するので、息子の松平改姓と日蓮宗信仰を保証してもらったのではないかと気づく。
つまり、家康の子女は全て浄土宗に統一しようという政策がまずあった。しかし、鵜殿氏の頃から熱烈な日蓮宗徒だった良正院は、自らの改宗に交換条件をつけた。それが、息子の松千代の日蓮宗信仰保証と、松平を賜姓されることだったのだろう。譜牒余録の記録は、それを受けた小芝居だろうと思われる。
このことから、母から娘・息子に向けて宗派の継承がなされていたこと。それは家長の意向というよりは、個人的な嗜好によるものだったことが判る。
上記より、以下が推察される。
- 自然な状態では、太守家中でどの宗派を信仰するかは自由だった
- 個人が持つ宗派は、母系で継承される例があった
- 太守の体面を保つために、一門が宗派を当主と合わせる必要があった
これらの要件が後北条家でも適用される前提で、引き続き浄土宗からの観点で俯瞰してみる。
誉号を巡る課題点
誉号とは、浄土宗の戒名で用いられる名称で、五重相伝を授けられた者だけに与えられる名誉称号。これを持っていれば浄土宗徒であることは確実だと思われる。玉縄北条家の面々を調べてみると……
誉号を持たない者為昌・為昌妻・綱成・氏繁・氏繁妻・氏秀・氏勝・直重
誉号持ち大頂院(為昌母ヵ)・綱成妻・氏規・氏盛
- 戒名不明氏規妻・氏盛妻
為昌妻の戒名は「養勝院殿華江理忠大姉」で誉号はない。とはいえ、高蓮社山誉が逆修を執り行っているし大長寺も浄土宗。これは夫が臨済宗となったため、露骨に浄土宗と判る誉号を回避した可能性が高いだろう。
※ちなみに、戒名に「誉」があるのが浄土宗戒名かと思いきや、大磯地福寺の僧に「良誉」がいた。高室院月牌帳に「権大僧都法印良誉」と記されているこの人物は、相模国中郡大磯の在所となっており、「地福寺為菩提也」と補記されている。地福寺は真言宗なので、たまたま法名に「誉」が入ったのだろうか。
花木集団のその後
為昌妻、綱成妻、氏規妻が北条家過去帳に現れないのはなぜか。為昌妻はともかく、綱成妻は氏綱の娘だろうし、氏規妻は狭山藩祖の妻でもある。この要因を考えてみると、小田原開城後に花木集団は氏直・氏規・氏勝と袂を分かったのではないかと推測できる。
1595(文禄4)年10月27日付けの「京大坂之御道者之賦日記」(埼玉県史料叢書12_参12)で氏規・氏盛の一家が登場するが、その記述で「美濃守御前さま」を通説では氏規妻と比定している。
北条一睡入道様
北条助五郎殿様
北条御辰様
美濃守御前さま
同御つほねさま
しかし、この当時氏規は隠居しているから「美濃守御前さま」は氏盛妻(寛政譜によると船越景直の娘)。また、従来の通説だった高源院殿(北条家過去帳で氏宗曾祖母を記される人物)が氏規妻ではないという考察(北条氏規妻の実体)も合わせて考えると、氏規妻は過去帳類の記録に登場しなかったのだろう。とはいえ「北条美濃守御前」が1589(天正17)年11月に存命であるのは確実でもある(戦北4969)。
してみると、氏規妻は後北条滅亡を契機に独自の行動をとっていたと考えるのが妥当なように見える。夫の子息(氏盛・勘十郎)の実母ではなかったのかもしれない。独自行動をとったとすれば、その際、こちらも恐らく存命だったろう母(花木殿・綱成妻)と共に行動した可能性が高い。
ここで気づくのが、江戸の種徳寺。為昌の菩提寺である小田原本光寺を移設したものとされている。この寺は小笠原康広に嫁したといわれる氏康娘「種徳寺殿恵光宗智大姉」が開基となっている。種徳寺殿は他の史料に一切出てこないためその実態は判らないのだが、本光寺を移設して継承したことから、為昌娘ではないかという指摘もある。ただし、種徳寺殿は死去が1625(寛永2)年6月5日(御府内備考続編)なので氏康世代だと100歳を超えてしまう。
※夫とされる康広死去は1597(慶長2)年12月8日で享年67歳(寛永諸家系図伝)。
没年から考えると、種徳寺殿は旧新小笠原康広に奉じられた氏規妻(綱成娘)の方が可能性が高くないだろうか。その所伝が後に粉飾され氏康娘・康広妻となったとすれば、年齢的な矛盾は回避される。
種徳寺殿が氏規妻の後身だったとするなら、氏康娘でありながら一門とは違う誉号の戒名を持った母とは異なり、本光寺の為昌菩提を継承するために臨済宗の後北条一門流の戒名を選んだことになる。この点は更に検討の余地がありそうに思う。