2019/04/10(水)今川方の笠寺籠城はあったのか

要検討文書

「桶狭間」を巡る仮説はあれこれ出ているが、その2年前、既に今川方が笠寺城に籠城し、織田信長から攻撃されていたという前提はいまだに続いている。ところが、この根拠となる文書には疑惑があり、戦国遺文今川氏編でも「要検討」となっている。

要検討史料については下記で一度考察してみたが、なかなか難しい。

要検討史料の例

そこで改めて、永禄元年3月3日に今川義元が笠寺城中に出したとされる文書について、どこがおかしいのかをまとめてみた。

文書A 戦国遺文今川氏編1384「今川義元書状」(真田宝物館所蔵文書)

去晦之状令披見候、廿八日之夜、織弾人数令夜込候処ニ早々被追払、首少々討取候由、神妙候、猶々堅固ニ可被相守也、謹言、
永禄元年三月三日/義元(花押)/浅井小四郎殿・飯尾豊前守殿・三浦左馬助殿・葛山播磨守殿・笠寺城中

最大の疑問点:花押形

この文書は差出人「義元」の下に太原崇孚の花押形が入っているが、崇孚はこの3年前に亡くなっている。事実だと押し切るならば、義元がこの時だけ崇孚花押を模したものを据えて、その後は花押を戻したということになる。しかし、そうした例はなく、明らかにおかしい。

では、改竄・創作したとして、なぜ作成者は崇孚没年に気づけなかったか。

そこで想起されるのが、差出人の偽造内容が全く同じものがあるという点。それは天文18年の御宿藤七郎宛ての2件。

文書B 戦国遺文今川氏編0927「今川義元感状写」(白根桃源美術館所蔵御宿文書)

去月廿三日上野端城之釼先、敵堅固ニ相踏候之刻、最先乗入数刻刀勝負ニ合戦、城戸四重切破抜群之動感悦也、因茲諸軍本端城乗崩、即遂本意候之条、併依得勲功故也、弥可抽忠信之状如件、
天文十八十二月廿三日/義元(花押影)/御宿藤七郎殿

文書C 戦国遺文今川氏編0928「今川義元感状写」(白根桃源美術館所蔵御宿文書)

於今度安城度々高名無比類動也、殊十月廿三日夜抽諸軍忍城、着大手釼先蒙鑓手、塀ニ三間引破粉骨感悦至也、同十一月八日自辰刻至于酉刻、終日於土居際互被中弩石走等門焼崩、因茲捨敵小口、翌日城中計策相調遂本意之条甚以神妙之至也、弥可励忠懃之状如件、
天文十八十二月廿三日/義元(花押影)/御宿藤七郎殿

この年は崇孚が三河に出兵しているのは確実なため、後世の改竄者が花押は崇孚のまま、箔をつけるために上の名乗りを「義元」に書き換えたという可能性がある。但し、B/C文書には文言にも不審な点があり、改竄は本文にも及んでいたか可能性の方が高い。

このB/C文書を見た者が花押形を勘違いしてA文書を作成したと考えると、死者である崇孚の花押が永禄元年に突如出現した理由が判明する。

伝来が同じであることから、BとCの文書は同じ者が関わったと見てよいと思う。では、B/Cに関わった者がAにもまた関わったのだろうか。私にはどうも、別人の確率が高いように思える。

まず、伝来が別であること。そして、B/C関与者は差出人名乗りの「崇孚」もしくは「雪斎崇孚」を「義元」に変更した自覚があったはずで、崇孚死去後のAにわざわざ用いないだろうということ。

但し、崇孚死去年を知らずに永禄元年文書を作成した可能性もあり、完全に別人とは断言できない。とはいえややこしいので、ここでは別人として推測を進める。

発給目的が判らなくなる宛所

では永禄元年の要検討文書に真正の部分が残されているだろうか。

まず、被官連名+「城衆・城衆中」という宛所が奇妙だ。在城衆宛てにするのは、情報共有・規則告示で、例外的に下田城衆に宛てた開城後の安全保障起請文がある。このように武功を顕彰する内容は例がない。

さらに、武功を顕彰する感状は本来個人宛てで出すもので、連名にするのは親子・兄弟などに限られる。たとえばこの文書だと、浅井・飯尾・三浦・葛山それぞれに出すのが通例だ。

というのは、それぞれの家で文書を保管する際に、正本が各家に必要になる。家が同じ親子・兄弟はまとめても大丈夫だが、ここにある名は別個の家で、少なくとも飯尾・三浦・葛山は大きな譜代衆だから、まとめて出されても困惑するだけだろう。また、各人の被官が手柄をあげた場合でも、主人名義であるにせよ、名を記して感状にする。

本文の検証

もし真正部分があるとすれば、個人宛て感状としての本文に複数の宛所を追記したと考えるしかない。そこで、本文の文言を他例から検証する。

「織弾」

違和感がある。「織弾」は長井秀元書状で出てくるが、これは織田信秀を指している。今川義元は天文18年に信秀を「織備」と呼んでいて、弘治2年の感状では織田信長を「織田上総介」と呼んでいる。

文書D 戦国遺文今川氏編1303「今川義元感状」(東条松平文書)

去三月、織田上総介荒河江相動之処、於野馬原遂一戦、頸一討捕之神妙也、度々粉骨感悦也、猶可励忠節者也、仍如件、弘治弐年九月四日/義元(花押)/松井左近尉殿

「夜込」

恐らく「夜襲・夜討」の意味だろう。使用例は1つあるが、かなり後の年で使用者も北条氏政。弱い違和感を感じるが「夜込」の用例が少なく、特定の状況で使用した可能性もあるので否定するには至らない。

文書E 戦国遺文後北条氏編3415「北条氏政書状写」(浅草文庫本古文書)花押形より天正17年比定

今度牛久夜込之節、岡見甚内被致高名候儀、忠信尤ニ候、乍去以来若武者之儀候得者、勝乗無理之働可有之存候間、無打死様、其方異見指引専一候、替儀於有之者、可被申遣候、恐ゝ謹言、
正月十八日/氏政(花押)/井田因幡殿

「首少々」

決定的に違和感がある。首級を挙げた場合その数は必ず記載する。「少々」のような婉曲表現が使われた例はない。

「堅固ニ可被相守」

これもおかしい。「堅固」に動詞が続く場合は「相拘」「相踏」となる。1点だけ「相守」が来るものがあるが、これがまた白根桃源美術館の御宿文書(こちらも要検討文書)。「堀内要害堅固ニ相守」とある。

文書F 戦国遺文今川氏編2129「武田信玄判物写」(白根桃源美術館所蔵御宿文書)

兄元氏不儀之体、不及是非加退治之処ニ、其方以忠義之好不被与悪意之段令感候、仍葛山本領処々[目録別紙有之]、任置候、信貞為名跡之上者、幼少之間軍代被相勤、堀内要害堅固ニ相守、猶以忠勤之覚悟専肝候也、仍如件、
永禄十年三月七日/信玄(花押影)/御宿左衛門次郎殿

もうここまで来れば、真正部分が残されている可能性はほぼないと言ってよい。A文書は何者かによって創作された。この人物は戦国期文書の知識が浅く、白根桃源美術館の御宿文書(B/C/F)を見習ったが、対象文書が偽造もしくは改竄されたものだったため、他文書コーパスから見て違和感が強いものになってしまった。ということだろう。

以上により、永禄元年2~3月に今川方が尾張国笠寺に籠城し、織田信長が攻撃したという証左はなくなったと考えられる。

備考

Aの創作意図は不明だが、要検討によく見られるように、自身か依頼者かの先祖を顕彰したかった。そして、今川義元戦死に直接関わりたくはないものの、戦国期有名ブランドである「桶狭間」に関与はしたかったのかも知れない。

宛所がその意図を示唆するように見える。

  • 浅井小四郎は見当たらない。「小四郎」は北遠天野の当主に見られる仮名。
  • 飯尾豊前守は他史料で存在が確認できる。氏真を裏切ったことで軍記ものに登場。
  • 三浦左京亮は存在するが、三浦左馬助は見当たらない。「左馬助」は新野某・北条氏規が名乗っている。
  • 葛山播磨守は見当たらない。葛山氏元は「備中守」。

上記で見たように、創作者は同時代史料に疎い。飯尾豊前守は軍記で有名なので出したとして、浅井小四郎は「天野小四郎」の間違い、三浦左馬助は「三浦左京亮」の間違いだと考えるのが真相に近いのではないか。

  • 天野小四郎
  • 飯尾豊前守
  • 三浦左京亮

こう並ぶと、今川被官でも有力者が並んだ感がある。

となると、残りの葛山播磨守が懸案となる。備中守と播磨守を間違うかは判断がつかないが、Aが参照した御宿文書の御宿氏は、後世編著で葛山氏の一門と自称している。そこで軍記類を見てみると、同時代史料では一切名が出てこない「葛山備中守」がざくざく出てくる。何れも、御宿勘兵衛の養父として名がある。御宿勘兵衛は大坂の陣で真田信繁と共に籠城し戦死したらしいので、A文書が真田文書となった経緯もうっすら窺える。

2019/03/31(日)伊達房実生存説について

全滅した岩付籠城衆

1590(天正18)年5月21日に、武蔵岩付城は羽柴方によって攻め落とされる。城主の北条氏房は小田原に籠城していたため、城代の伊達房実が守備していた。

惣構が破られたのは5月19日。その翌日、城内にいた松浦康成が、援軍として入っていた戦闘経験豊富な山本正次に書状を出して戦況を確認している(埼玉県史料叢書12_0921「松浦康成書状写」越前史料所収山本文書)。この文書が残っていることから判るように、正次は岩付から脱出している。

但し生還できたのは正次しか確認できておらず、伊達房実・松浦康成は史料から姿を消す。後に氏房が肥前で死去した際に家臣として細谷三河守の名が出てくるが、細谷は氏房に随従して小田原にいたものと思われる。

岩付の武家被官が全滅したのは、落城後に出された書状からも確認できる。

5月27日、羽柴方被官たちが岩付落城を北条氏直に伝えた書状に、

抜粋

本丸よりも坊守を出し、何も役にも立候者ハ、はや皆致計死候、城のうちニハ町人・百姓・女以下より外ハ無御座候条、命之儀被成御助候様と申ニ付て、百姓・町人・女以下一定ニおゐてハ、可助ためニ、責衆より検使を遣し、たすけ、城を請取候後

  • 小田原市史小田原北条4541「長岡忠興等連署書状写」(北徴遺文六)

とある。本丸に敵が入る前に、坊守が出てきて「戦闘可能な者は全員戦死した」と降伏している。この状況は寄手から検使が入って確認しているので確実だろう。

更にこの後、氏政妹と氏房室を保護したことが記述されるが、彼女たちの引き取り手がなく、開戦前に拘禁した石巻康敬を派遣して対応したとある。城代である伊達房実がいれば、身元確認や事後対応を彼と協議したはずなので、やはり戦死したものと思われる。

伊達房実が生き残ったという記述

一方で家臣団辞典では、伊達房実は降伏して助命されたと記載する。これは寛政譜を元にしつつ、下記文書を根拠とする。

岩付太田備中守・伊達与兵衛・野本将監妻子之事、何方ニ来共、有度方ニ居住不可有異儀候、恐ゝ謹言、
七月十四日/御名乗御判/羽柴下総守殿・黒田官兵衛殿

  • 記録御用所本古文書0780「徳川家康書状写」(伊達家文書)1590(天正18)年比定

しかしこの内容は、伊達与兵衛(房実)の妻子が生き残ったことしか示さない。太田・伊達・野本が生存していれば、彼らに宛てて妻子の保証をするはずだ。

よく似た文言の文書は織田信長も出しているが、この場合も山口孫八郎は既に存在しておらず、孫八郎妻子の居住の自由を加藤図書助に保証している。

山口孫八郎後家子共事、其方依理被申候、国安堵之義、令宥免之上者、有所事、何方にても後家可任存分候、猶両人可申候、恐々謹言、
十月廿日/信長(花押)/加藤図書助殿進之候、

  • 愛知県史資料編10_1942「織田信長書状」(加藤景美氏文書)1554(天文23)年比定

同時代史料を見る限りでは、やはり房実は戦死したと判断せざるを得ない。

生存説構築の動機

ではなぜ房実生存を、子孫と称する大和田村伊達家が主張するのか。この伊達家に、妻子の居住を保証した上掲文書が伝来するから、房実と関わりがあるのは確実である。

寛政譜によると、系図で最初に「房実」とあったものは、実は「房成」だと訂正している。ところが、同時代史料では全て「房実」であり、何らかの意図をもって伝承を改変した痕跡が窺われる。また、房実の子を「房次」とするが、仮名は「庄兵衛」となり、以後代々の仮名でも「与兵衛」よりも「庄兵衛」が強く出されていく。

伊達「与右兵衛」は今川家文書でも確認され、房実が今川被官の由来を持つことの証左ともなっているほどの象徴で、そう容易に変えるものとは考えづらい。とすると、岩付で助命された与兵衛の子は娘で、婿に入った庄兵衛がいたのかも知れない。

史料を追いきれていないところなので、ひとまずこの仮説で止めておこうと思う。

2019/03/30(土)足利政知死後の北条御所

円満院殿の実像が垣間見える史料

 下記は『拾遺京花集』に収められた円満院殿・潤童子の三回忌法語。著者は相国寺の横川景三(播磨出身の僧侶)。

足利政知後室の三回忌の法会(拾遺京花集・韮山町史中巻552ページ)

円満院殿拈香法語
延徳三年、円満院殿拈香、相公弟潤童子、相公母円満院殿、同日逢害、女中有、大丈夫出任姒興周、如昨日、君不見豆駿以東、冨士烟、挙香云、紅爐手練天雪、大日本国山城州京師位大功徳源朝臣義高、明応二年歳舎癸丑七月一日、伏値皇姒円満院殿月岩大禅定尼大祥忌之辰、就于当院設大斎会、造仏像金之木之、抽経王、書者印者、修慈懺摩法

「女中」は女性配偶者を指す。この場合は「女中=円満院殿」「大丈夫=政知」と思われる。

「興」は「輿(こし)」の誤記ではないか。とすれば意味が通る。

「奥方様がいた。夫の鎌倉公方就任でで出立する時の姒<=彼女o姉>の輿周りの様子は、昨日のようだ」

「紅爐」は燃えている炉で「紅爐一点雪」の禅語と懸けている。噴煙を挙げる富士山を紅爐に見立たもの。

「伊豆・駿河より東を見ることがなかったものの、彼女は一心不乱だった。それは富士の様子が紅爐一点雪を体現しているようなものだ」

「皇姒」は不明。「姒」を姉と読むならば「武者小路種光の姉」となろうが、「皇」の字に違和感を覚えるし、その前の方の文にある「姒輿周」の「姒」は「彼女」と読むのが適しているように見える。こう捉えるならば、円満院殿は内親王という扱いになる。政知に嫁す際に天皇猶子となったか。

「潤童子」は戒名。幼名は他にあった。「童子」を伴う幼名は他例なし。

「円満院殿」は戒名で、生前の呼び名ではない。

足利義澄は母と弟の死亡日を把握しており三回忌を行なった。

後に駿河から京に送られた娘もいた筈だが、ここでは言及がない。

推論

 史料の整理前ではあるが、ひとまず思い浮かんだことを書き留めておく。

周辺状況

  • 1482(文明14)年の都鄙一和によって政知が鎌倉殿になる可能性はなくなり、伊豆を堪忍分として確保した矮小化された存在になっている。これを受けて政知は息子の清晃を京の香厳院に送った。香厳院は政知が還俗前にいた寺院で、政知としては息子を戻してリセット、自身は伊豆に留まる判断をしている。
  • 政知の跡目を巡って異母兄弟で係争があったとする後世編著は、伊豆を起点に関東に広がった後北条の事績と、明応政変による義澄将軍任官を前提に案出されたものと見られる。
  • 都鄙一和によって行き場がなくなった挙げ句に死去した政知の跡目は、政知死去直後だとさほどの魅力を持たないのではないか。

政元室の動き

  • 残された政知室は京にいる長男の元に行こうとし、忌明けに出立する予定だった可能性がある。
  • 足利政知が1491(延徳3)年4月3日に死去したのは同時代の複数史料で確認できるため、確実。1497(明応6)年7月2日付けの富士浅間物忌令(戦今106)によると、父母の物忌みは120日とされる。
  • 母子が殺されたのは政知死去87日後、百ヶ日の13日前で初盂蘭盆会の14日前。この盂蘭盆が一つの目安かも知れない。
  • 120日の忌明けまでは盂蘭盆会から19日あるが、路次準備を考えると、帰京の本格準備にかかる辺りか。
  • 「逢害」とあることから、政知室と二男は殺害されたことが判る。とすると、二人の京行きに反対する者が、両名を殺害した。

殺害者

  • 関東勢には動機がなく、今川は当主空位で動けない。上杉政憲が怪しいかも知れない。犬懸は今更関東には戻れないし、京にコネもない。
  • 政知妻子の帰京に伴い伊豆を山内に返還となれば政憲の行き場はなくなる。これに加えて、政憲の姉妹か娘が政知の子を生んだとすれば、この子を担いで独立を図ったか。これが「茶々丸」で、実名を持たないのは幼児だったからかも知れない。
  • 後に駿府から京に送られた義澄妹は上洛後に消息を絶つ不可解な動きをするが、この妹は「茶々丸」と同じ母を持っていたとすれば、後に追放となったと考えられ筋は繋がる。

その後

  • 政憲の計画では、母子病死とし北条御所の外戚となること。暫くは問題にならなかったが、その後義澄が将軍になり、政憲追討を企図する。対立した上杉は動けなかったため、今川にいた伊勢宗瑞が伊豆に入り政憲を追い出す。宗瑞はそのまま伊豆での在国奉公衆となる。
  • 伊豆が元々山内の分国だったことから、扇谷は宗瑞の伊豆入りを容認し、対する山内は政憲を引き取る。但し、政憲は将軍生母と弟を討っているので正式には受け入れられず、更に甲斐に逃げ行き場を失った。