2019/03/29(金)野口豊前の武功覚書

戦功覚書の概要

この文書は『岩槻市史古代・中世史料編2』に所収されている「野口豊前戦功覚書写」(文書番号19号・常総遺文所収)。原文をテキスト化して、岩槻市史の注釈を元にして仮名を漢字に比定してみた。

原文

覚、野口豊前(黒印影)

  1. 一、越後てるとら様小山之地へ御取つめ被成時、せんけんつかの北にて夜かけの時、ちん所幕きハにて鑓合申候、つれ合申候物あつきわかさ・東郷ぬいのてうそんし申事
  2. 一、(異筆「永禄」)太田ミのゝ守榎本之城をもち申候時、戸はりのほりおとりこし、中つゝミへ上り、それより木戸へ懸候時■■、鑓合候て、やりておひ申候、つれ合候衆石山越後・あつきわかさそんし申候事
  3. 一、同頃自榎本北戸はりにて、へいに付申候て、はしり廻申候、つれ合候衆亀田ちから・あつきわかさそんし申候事
  4. 一、佐竹殿久下田・ひとつ木のたいと申所へ動御座候時、そないのさきへ物すきの物出合申所ニ、味方おくれニ成申候所ニ、ふミこたへやり合申候、走廻つれ合候衆長田助三郎・厚木わかさそんし申候、その外あまた死申候事
  5. 一、(異筆「天正十一」)九月八日ニうしゆくより谷田部之地へ働候て、うしゆくの衆のけ申候所ニ、我等只壱き跡そないへ乗かけ申候て、岡見五郎右衛門ニ言をかけ申候ニ、てつほう五六丁にて、われらおねらい打申候へ共、はつれ申候、そのてつほうの音おきゝ申候て、跡ニひかへ候味方共皆々乗かけ申候所ニ、てきくつれ三百八十くひおとり申候、此キ我等一人の見当にてかち申候、其日我等もくび三つ取申候、鑓手一ヶ所おひ申候、つれ合候衆飯村新左衛門・ひろせふせんそんし申候事
  6. 一、三川こほりへ結城より動候時、てき出合候、走廻くび一つ取申候、つれ合候衆貫助兵へ・秋本与三兵へそんし申候事
  7. 一、申之年、結城清水はたと申所ニ而、浜野新四郎と申物、切手おひ申候而、くひをとられ申候所お、我等すけ申候てたすけのけさせ申候、つれ合候衆あら井主水・国崎しやうけんそんし申候事
  8. 一、酉之年、同清水はたにて我等鑓はしめ仕候時、つれ合候衆川崎式部・かと井や三郎・あつきわかさそんし申候事
  9. 一、幸島大田と申在所を責申候時、てき出合申候お、やり仕てきおひ入申候、つれ合候衆あつきわかさ・くろすふせん・川崎式部・磯くらそんし申候事
  10. 一、結城かのくほと申所ニ而、小田原衆と出合申候時、我等てつほう壱丁ニ而、つゝミおもちかち申候、つれ合衆たちミの・東郷あわち・卯木しなのそんし申候事
  11. 一、結城高はし一本杉と申所ニ而、小田原衆とやり御座候ニ、秋本与三兵へやりさきお乗りわけ申候時、我等やりを合申候、つれ合候衆秋本与三兵へ・石山越後・あつきわかさそんし申候事
  12. 一、(異筆「天正五ノ七月十日」)下妻わかと申所ニ而、山川衆とつれ合鑓御座候時、古沢越前おや子のくひ山川へ取り申候、其時我等走廻申候、つれ合候衆おひ沼けんは・うすき八右衛門・大黒与右衛門そんし申候事
  13. 一、小山元のつこ橋と申所ニ而、一日の内やり二度合申候、つれ合候衆ひかの蔵人・かすや彦四郎・高徳主計・たかや右京そんし申候事
  14. 一、小山あまかいと申所之東ニ而、小山衆と鑓御座候ニ、我等馬にて乗わけ申候、つれ合候衆飯塚六兵へ・高徳主計存申候事
  15. 一、小山きりとをしと申所ニ而、ひさきと申物人衆引連打出候を、我等馬出出合乗くつし申候、つれ合候衆山内大炒亮・塚原ぬいの助そんし申候事
  16. 一、同夏と正月廿九日ニあひの田申所ニ而、やり合御座候ニ、つれ合候衆卯木しなの・長田四郎兵へ存候事
  17. 一、小山四日市と申所ニ而我等初馬ニ入、てきおおしミたし候て、てきに荒巻弥左衛門と申物のさし物・てつほうなとお取申候、その時そないお罷出候衆、晴朝前をそむき下妻へ牢人仕候、つれ合候衆秋本与三兵へ・高徳主計存候事
  18. 一、結城西面てこじきか前と申所ニ而走廻申候、つれ合候衆高徳主計・あつきわかさ・飯塚六兵へ存候事
  19. 一、小山泉崎と申所ニ而、田中源次郎と申物の手おひ申候時ニ、我等走廻申候、高徳主計・ゑひ原右京・やな二郎左衛門・石上平右衛門・加の民部つれ合ついてかへし申候て、源二郎たすけ申候事
  20. 一、榎本ほんさわの町にして我等走廻候時、河崎尾張と申物鑓手おおい申候お、我等すけのけさせ申候所ニ、てきおしつめ我等やりにて三ヶ所つかれ申候、てきにて見申候衆大戸大学そんし候事
  21. 一、結城より小山ひさきくるわと申所ヲせめ申候時、我等走廻鑓手矢手ニ三ヶ所おい申候、つれ合候衆長田四郎兵へそんし候事
  22. 一、壬生領藤井と申所へ乗こミ御座候時、くひ一つ取申候、つれ合候衆人見伝内そんし候事
  23. 一、結城よりさかいちんの時、おいこ申所へのりこミいたし候、一日ニくひ弐つ取申候、つれ合候衆青沼治部・たてのふんこと申物のそんし申候事
  24. 一、結城より下妻へてたてヲ被成候時、下妻の衆かけ合、味方おくれ申候所ヲ、跡ヲ仕しんらう申候、つれ合候衆卯木しなの・あつきわかさそんし申候事
  25. 一、小山・壬生一味之時、ミふ衆小山へわうきやうの物とめ可申ために、結城よりいつてい村と申所へ、手たて被成候所ニ、壬生衆出合やり仕候、つれ合候衆高徳主計そん候事
  26. 一、古河領さし間茂そりと申所へ、結城より乗こミ御座候ニ、てき出合やり御座候而、味方おくれ申候所ニ、ひらか彦十郎と申仁打死被申候時、我等あと仕候、つれ合候衆卯木しなの・秋本九郎兵へ・東郷淡路そんし候事
  27. 一、(異筆「天正十七」)下妻谷田部の城ニい申候内、しらはさまと申所ニ而、うしゆく衆と出合、やり御座候ニ、味方おくれの所にて、我等走廻てつほう手おい申候、つれ合候衆たかやさこん内衆ひろせふせんそんし候事
  28. 一、(異筆「天正十四」)九月廿四日あたかにて、町さし入のはしお、内よりはしいたお引おとし申所を、我等参■て、はしいたおとりあけさせ、やり下ニ而はしいた二まいかけ申候、つれ合候衆木内源兵へ、又ハたかや大夫使として、ミのへ日向参候て存候事
  29. 一、(異筆「天正八」)下妻谷田部の城を小田原衆取つめ申候時分、岡見五郎右衛門さい取にて、おしよせ申候ニ、味方おくれ候て、はしおふミおとし、皆々ほりそこへおち入申候所ニ、我等子に治部・ゆきへ同与力ニ相沢・北条なとゝ申物、六七人たちこらへ、跡おいたし候、皆々たすけのけさせ申候、つれ合候衆江戸甚内・飯村新左衛門そんし候事
  30. 一、うしゆく東輪寺と申候所ニて、景賀大くら鑓ニてつきおとされ、打たれ申候所ニ、我等わきより馬ヲ入、てきのやりヲけおとし申候て、大くらたすけ申候、我等やりけおとし申物お、小貫ぬいの助と申物、打申候事
  31. 一、(異筆「天正十六」)極月廿八日、東輪寺の城戸はりそへつめ、我等木戸へ取つき申候所ニ、てきわきより罷出候間、そこを少のけ申候ニ、やり下ニ而、飯付ふんこ、馬より落候て、のけかね申候所ヲ、大木治部我等両人馬をかへし申候故、てきおおしとめふんこたすけ申候、同日おくきの堀のきわニ而、てきをそい参候ヲ、大木治部と我等初馬にかへし申候ゆへ、くひ七つ取り申候事
  32. 一、(異筆「天正十六」)谷田部坊地と申所へ、てきふねにて川ヲ取こし申候所ニ、ふねかすなにほとおも見い申物無之ニ付而、我等一キはう地の山へ罷こし申候所へ、てきおり申候ニ、のりくつし候て、おい入候、それヲ見申候て、わきてきやくつりと申所ニ、てきい候もくつれ申候、その時くひ七つ取申候き、此始ニ我等一キにて、おうちの山へおい入申候ニ付而、てきおくれ申候、つれ合候衆そめやふせん・飯付新左衛門、又てきにハ松島ミのそんし申候事
  33. 一、(異筆「天正十五」)あたかと申所ニ而、つゝミお切申候処ニ、あれか衆と出合、やり御座候ニ、味方おくれニ成申候て、たかやしなのと申物、とミた・横島・小松・窪谷・その以上七人うたれ申候時、我等跡お仕り候て、馬おかへしてきのくひ七つ取申候、内我等一つとり申候、たかやよろこひ被申候、我等方■れい状御座候
  34. 一、こか・こうのすと申所へ動之所、てき出合申候お、おしかへし申候所ニ、てき沼へとひこミのけ申候ヲ、我等も則ぬまおおよき候て、沼の内にてくひ一つ取申候、つれ合候衆いハ上ぬいの介そんし候事
  35. 一、佐竹より結城へ働之時、ふしのこしにて、やり仕候、てきにハ斎藤はりま・小窪刑部出合申候、味方つれ合候衆野口けんは・たかや将監厚木若狭存候
  36. 一、結城よりとちきへ動之時、内より出申候所ニ、川島主税・たかや采女我等同前ニ馬をかへし走廻申候、つれ合候太木信濃存候事
  37. 一、結城より鹿沼へ動候時、内より田宿と申所へおし入、内の戸はり迄おしつけ申候、その時走廻申候たかや采女手おおひちんやにてつれ申候、つれ合候衆あつきわかさ存申候事
  38. 一、くじらと申所ヲ、下妻よりせめ申候時、我等おや子白井縫殿之助と申物つれ合走廻申候事
    以上三拾八ヶ条也、
    慶長八年丑六月廿日/の■ふせん(黒印影)/宛所欠

比定・解釈

  1. 一、越後輝虎様小山之地へお取り詰めなされ時、『せんけんつか』の北にて夜懸けの時、陣所幕際にて鑓合を申し候、つれ合申候は、厚木若狭・東郷縫之丞が存し申し事
  2. 一、(異筆「永禄」)太田美濃守榎本之城を持ち申し候時、戸張の堀を取り越し、中堤へ上り、それより木戸へ懸かり候時にて、鑓合候て、鑓手負ひ申候、つれ合候衆、石山越後・厚木若狭が存し申し候事
  3. 一、同頃、榎本より北戸張にて、塀に付き申し候て、走り廻り申し候、つれ合候衆、亀田主税・厚木若狭存じ申し候事
  4. 一、佐竹殿が久下田・一ツ木の台と申す所へ働き御座候時、備えの先へ物数奇の者出合申所ニ、味方遅れになり申し候所に、踏みこたへ鑓合を申し候、走り廻りのつれ合候衆、長田助三郎・厚木若狭、存じ申し候、そのほか数多死に申し候事
  5. 一、(異筆「天正十一」)九月八日に牛久より谷田部の地へ働き候て、牛久の衆退け申し候所に、我等ただ一騎、後ろ備えへ乗り懸け申し候て、岡見五郎右衛門に言を懸け申し候に、鉄炮五~六丁にて、我等を狙い撃ち申し候へども、外れ申し候、その鉄炮の音を聞き申し候て、後に控え候味方共、皆々乗り懸け申候ところに、敵崩れ三百八十の首を取り申し候、この儀、我等一人の見当にて勝ち申し候、その日我等も首三つ取り申し候、鑓手を一ヶ所負い申し候、つれ合候衆、飯村新左衛門・広瀬豊前、存じ申し候事
  6. 一、寒川郡へ結城より動候時、敵出合い候、走り廻り首一つ取り申し候、つれ合候衆、貫助兵衛・秋本与三兵衛、存じ申候事
  7. 一、申の年、結城『清水はた』と申すところにて、浜野新四郎と申す者、手を切り負い申し候て、首を取られ申し候ところを、我等助け申し候て、助け退けさせ申し候、つれ合候衆、新井主水・国崎将監、存じ申し候事
  8. 一、酉之年、同『清水はた』にて我等鑓始め仕候時、つれ合候衆、川崎式部・門井弥三郎・厚木若狭、存じ申し候事
  9. 一、猿島郡大田と申す在所を攻め申し候時、敵と出合い申し候を、鑓を仕り敵追い入れ申し候、つれ合候衆、厚木若狭・黒須豊前・川崎式部・磯蔵、存じ申し候事
  10. 一、結城鹿窪と申す所にて、小田原衆と出合い申し候時、我等鉄炮一丁にて、堤を持ち勝ち申し候、つれ合衆、館美濃・東郷淡路・卯木信濃、存じ申し候事
  11. 一、結城高橋一本杉と申す所にて、小田原衆と鑓を御座候に、秋本与三兵衛、鑓先を乗り分け申し候時、我等鑓を合わせ申し候、つれ合候衆、秋本与三兵衛・石山越後・厚木若狭、存じ申し候事
  12. 一、(異筆「天正五ノ七月十日」)下妻和歌と申す所にて、山川衆とつれ合い、鑓を御座候時、古沢越前親子の首、山川へ取り申し候、その時我等走り廻り申し候、つれ合候衆、生沼玄蕃・薄木八右衛門・大黒与右衛門、存じ申し候事
  13. 一、小山『元のつこ橋』と申す所にて、一日のうち鑓二度合わせ申し候、つれ合候衆、日向野蔵人・粕谷彦四郎・高徳主計・多賀谷右京、存じ申し候事
  14. 一、小山雨谷と申す所の東にて、小山衆と鑓を御座候に、我等馬にて乗り分け申し候、つれ合候衆、飯塚六兵衛・高徳主計、存じ申し候事
  15. 一、小山切り通しと申す所にて、『ひさき』と申す者、人衆引き連れ打ち出し候を、我等馬出に出合い乗り崩し申し候、つれ合候衆、山内大炒亮・塚原縫殿助、存じ申し候事
  16. 一、同夏と正月廿九日に『あひの田』と申す所にて、鑓合せ御座候に、つれ合候衆、卯木信濃・長田四郎兵衛、存じ候事
  17. 一、小山四日市と申す所にて我等初馬に入れ、敵を押し乱し候て、敵の荒巻弥左衛門と申す者物の指物・鉄炮などを取り申し候、その時備えを罷り出て候衆、晴朝前を背き下妻へ牢人仕り候、つれ合候衆、秋本与三兵衛・高徳主計、存じ候事
  18. 一、結城『西面てこじきか前』と申す所にて走り廻り申し候、つれ合候衆、高徳主計・厚木若狭・飯塚六兵衛、存じ候事
  19. 一、小山泉崎と申す所にて、田中源次郎と申す者の手負い申し候時に、我等走り廻り申候、高徳主計・海老原右京・簗二郎左衛門・石上平右衛門・加野民部、つれ合いついて返し申し候て、源二郎を助け申し候事
  20. 一、榎本ほんさわの町、西手、我等走り廻り候時、河崎尾張と申す者、鑓手を負い申し候を、我等助け退けさせ申し候ところに、敵を押し詰め、我等鑓にて三ヶ所突かれ申し候、敵にて見申し候衆、大戸大学、存じ候事
  21. 一、結城より小山『ひさき』曲輪と申し所を攻め申し候時、我等走り廻り、鑓手・矢手に三ヶ所負い申し候、つれ合候衆、長田四郎兵衛、存じ候事
  22. 一、壬生領藤井と申す所へ乗り込み御座候時、首一つ取り申し候、つれ合候衆、人見伝内、存じ候事
  23. 一、結城より境陣の時、『おいこ』と申す所へ乗り込みいたし候、一日に首二つ取り申し候、つれ合候衆、青沼治部・舘野豊後と申者の存じ申し候事
  24. 一、結城より下妻へ行をなされ候時、下妻の衆懸け合い、味方遅れ申し候ところを、後を仕り、辛労申し候、つれ合候衆、卯木信濃・厚木若狭、存じ申し候事
  25. 一、小山・壬生一味の時、壬生衆、小山へ往行の物留を申すべきために、結城より『いつてい』村と申す所へ、行なされ候ところに、壬生衆に出合い鑓仕り候、つれ合候衆、高徳主計存じ候事
  26. 一、古河領猿島『茂そり』と申す所へ、結城より乗り込み御座候に、敵出合い鑓を御座候て、味方遅れ申し候所に、平賀彦十郎と申す仁、討ち死に申され候時、我等が後に仕り候、つれ合候衆、卯木信濃・秋本九郎兵衛・東郷淡路、存じ候事
  27. 一、(異筆「天正十七」)下妻谷田部の城に居申し候うち、『しらはさま』と申す所にて、牛久衆と出合い、鑓を御座候に、味方遅れの所にて、我等走り廻り鉄炮手を負い申し候、つれ合候衆、多賀谷左近内衆広瀬豊前、存じ候事
  28. 一、(異筆「天正十四」)九月廿四日『あたか』にて、町にさし入る橋を、内より橋板を引き落とし申しところを、我等参りて、橋板を取り上げさせ、鑓下にて橋板二枚かけ申し候、つれ合候衆、木内源兵衛、又多賀谷大夫、使として、美濃部日向参り候て存じ候事
  29. 一、(異筆「天正八」)下妻谷田部の城を小田原衆取り詰め申し候時分、岡見五郎右衛門が采を取って押し寄せ申し候に、味方遅れ候て、橋を踏み落とし、皆々堀底へ落ち入り申し候ところに、我等の子の治部・靱負、同与力の相沢・北条等々の者が、六~七人立ちこらえ、後を致し候、皆々を助け退けさせ申し候、つれ合候衆、江戸甚内・飯村新左衛門存じ候事
  30. 一、牛久東輪寺と申し候所にて、景賀大蔵が鑓で突き落とされ、討たれ申し候ところに、我等が脇より馬を入れ、敵の鑓を蹴落とし申し候ところに、大蔵が助け申し候、我等が鑓を蹴落とし申し者を、小貫縫殿助と申す者、討ち申し候事
  31. 一、(異筆「天正十六」)極月廿八日、東輪寺の城戸張へ添え詰め、我等木戸へ取つき申し候ところに、敵脇より罷り出で候間、そこを少し退け申し候に、鑓下にて、飯付豊後、馬より落ち候て、退きかね申し候ところを、青木治部・我等の両人が馬を返し申し候ゆえ、敵を押し留め豊後を助け申し候、同日小茎の堀の際にて、敵を襲い参り候を、青木治部と我等初馬に返し申し候ゆへ、首七つ取り申し候事
  32. 一、(異筆「天正十六」)谷田部坊地と申し所へ、敵船にて川を取り越し申し候ところに、船数何程をも見ることなきについて、我等一騎、坊地の山へ罷り越し申し候ところへ、敵がおり申し候に、乗り崩し候て、追い入れ候、それを見申し候て、脇手『きやくつり』と申すところに、敵居候も崩れ申し候、その時首七つ取り申し候き、この始に我等一騎にて、『おうち』の山へ追い入れ申し候について、敵遅れ申し候、つれ合候衆、染谷豊前・飯付新左衛門、又敵には松島美濃、存じ申し候事
  33. 一、(異筆「天正十五」)あたかと申す所にて、堤を切り申し候ところに、あれか衆と出合い、鑓を御座候に、味方遅れになり申し候て、多賀谷信濃と申す者、富田・横島・小松・窪谷・園、以上七人討たれ申し候時、我等は後を仕り候て、馬を返し敵の首七つ取り申し候、うち我等一つ取り申し候、多賀谷喜び申され候、我等方へ礼状御座候
  34. 一、古河・鴻巣と申す所へ働きのところ、敵と出合い申し候を、押し返し申し候ところに、敵は沼へと引き込み申し候を、我等もすなわち沼を泳ぎ候て、沼の内にて首一つ取り申し候、つれ合候衆、岩上縫殿介、存じ候事
  35. 一、佐竹より結城へ働きの時『ふしのこし』にて、鑓を仕り候、敵には斎藤播磨・小窪刑部出合い申し候、味方のつれ合候衆、野口玄蕃・多賀谷将監・厚木若狭、存じ候
  36. 一、結城より栃木へ働きの時、内より出で申し候ところに、川島主税・多賀谷采女、我等同前に馬を返し走り廻り申し候、つれ合候、大木信濃、存じ候事
  37. 一、結城より鹿沼へ働き候時、内より田宿と申す所へ押し入り、内の戸張まで押し付け申し候、その時走り廻り申し候多賀谷采女が手を負い、陣屋に連れ申候、つれ合候衆、厚木若狭、存じ申候事
  38. 一、久地羅と申す所を、下妻より攻め申し候時、我等親子、白井縫殿助と申す者つれ合走りり廻申し候事
    以上三拾八ヶ条也、

2019/03/07(木)史料集による出典表記の違い

伊勢宗瑞の2文書について、収録した史料集ごとに出典表記を調べてみた。

対象文書

A)巨海越中守宛の伊勢宗瑞書状(全史料集が永正3年に比定)

今度氏親御供申、参州罷越候処、種ゝ御懇切、上意共忝令存候、然而、氏親被得御本意候、至于我等式令満足候、此等之儀可申上候処、遮而御書、誠辱令存候、如斯趣、猶巨海越中守方披露可被申候由、可預御披露候、恐惶頓首謹言、
閏十一月七日/宗瑞(花押)/巨海越中守殿

※愛10のみが「写し」とし、検討を要すると指摘。

B)伊達蔵人佑宛の伊勢宗瑞書状(全史料集が永正5年に比定)

今度於参州十月十九日合戦、当手小勢ニ候処、預御合力候、祝着ニ候、御粉骨無比類之段、屋形様江申入候、猶自朝比奈弥三郎方可有伝聞候、恐々謹言、
十一月十一日/宗瑞(花押)/謹上伊達蔵人佑殿

※神3下・戦北は「祝着候」が「祝着ニ候」と翻刻。

史料の出典表記

神奈川県史資料編3下(1979年)

6468「宗瑞[伊勢長氏]書状」(徳川義知氏所蔵文書)

6471「宗瑞[伊勢長氏]書状」(美作伊達文書)

戦国遺文後北条氏編(1989年)

17「伊勢宗瑞書状」(徳川義知所蔵文書)

19「伊勢宗瑞書状」(美作伊達文書)

小田原市史資料編小田原北条(1991年)

16「伊勢宗瑞書状」(徳川義知氏所蔵文書)

18「伊勢宗瑞書状(切紙)」(京都府京都市・京都大学文学部所蔵駿河伊達文書)

愛知県史資料編10(2009年)

701「伊勢宗瑞書状写」(徳川美術館所蔵文書)

722「伊勢宗瑞書状」(駿河伊達家文書)

戦国遺文今川氏編(2010年)

187「伊勢盛時書状」(徳川黎明会所蔵文書)

220「伊勢盛時書状」(京都大学総合博物館所蔵駿河伊達文書)

気づいた点

A文書

  1. 1991~2009年の間にA文書が個人蔵から法人蔵になった。
  2. A文書を愛知県史が「写し・要検討」と変更した後、戦今では戻している。
  3. A文書の文言は異例であり、写しであるなら愛知県史の要検討判断は妥当。

B文書

  1. 神3下・戦北で「美作伊達」の文書としている。
  2. その後の小市史以降では「駿河伊達」の文書とされる。

2019/02/13(水)徳川への改名と泰翁慶岳

誓願寺長老は訴訟でそれどころではなかった

松平から徳川への改名で、三河出身の泰翁慶岳(誓願寺長老)が協力したという説があるが、同時代史料を見る限り泰翁慶岳は絡んでいない。永禄8~9年という同時期に、誓願寺は円福・三福両寺との訴訟を抱えており、公家を巻き込んでゴタゴタやっている。この様子は『言継卿記』に詳しい。片がついた永禄9年2月6日、泰翁慶岳は三河に戻り勢力確保を目指す。

この時に山科言継は泰翁慶岳に松平和泉守宛の書状を託している。これは、和泉守と言継は駿府で交流があったため。

ただ、誓願寺訴訟にかなり深い部分まで関わり和泉守とも親交の合った言継は、家康の徳川改名に関しては何も記していない。つまり、日記を読む限り言継と泰翁慶岳は、徳川改名とは無関係といえる。

誓願寺文書の解釈

この状況を踏まえて、泰翁慶岳が改名に関わった根拠とされる誓願寺文書を見てみる。

先度如申、 勅使之儀、于今抑留候処、切々被仰出候、可有如何候哉、馳走候様御異見肝要候、次松平家之儀、徳川之由慶源申候、彼家之儀者、昔家来候き、定而其国ニも可為分別候、如此申通事、寄特被存候、自然者望等之儀候者、随分可令馳走候、猶慶源可申候也、状如件、
十二月三日/(近衛前久ヵ花押)/誓願寺

  • 愛知県史資料編9_0529「某御内書」(誓願寺文書)1566(永禄9)年比定

先に申しましたように、勅使のこと、今も抑留されているところで、何度も仰せ出しになられています。どのようにあるべきでしょうか。馳走されますように、ご意見されるのが大切です。ついで、松平家のこと、徳川であると慶源が申していますが、あの家は昔家来でした。きっとその国で分別を働かせてくれるでしょう。このように通じることは奇特なことです。ですから望みなどがあれば随分と馳走してくれるでしょう。さらに慶源が申します。

この書状は、抑留されて帰ってこない勅使の様子を尋ね帰洛への尽力を要請したもので、誓願寺長老が三河に行った永禄9年以降のものと思われる。

差出人は不明で、花押は近衛前久とは異なる(朝野舊聞裒藁では「勧修寺大納言」とあるが信憑性に疑問)。京の松平氏が仕えていたのは細川・伊勢で、公家との繋がりは不明。

差出人は、三河の松平家が今では徳川と名乗っていることを誓願寺使者の慶源から聞いて、その家は昔家来だったから協力してくれるだろうと記している。「勅使」を、家康の改名・任官を伝えるものと解釈している説があるが、「次」という付加条件のあとに「在地の徳川は昔家来だったので協力してくれるだろう」とあり、この書状の本題はあくまで勅使の帰還要請にあり、徳川は「そういえば昔の家来だった。すごい偶然だから声かけて」くらい。

勅使の目的は、結審した訴訟の結果を通達し履行を見届けるものだったのだろう。ただしその勅使は相手方の円福・三福両寺に拘束されてしまったと。

もう一つの考え方としては「家康が勅使を抑留」という読み方も可能ではある。しかしそれだと、「分別を働かせるだろう」はよいとして「望みがあれば随分と馳走してくれるだろう」はちょっとおかしい。

やはり抑留当事者が別にいて、家康がその仲介者として奔走するという解釈の方が、この場合は自然かと思う。

徳川は源氏なのか藤原氏なのか

政局から考えると、織田・朝倉・上杉に上洛供奉を要請していた足利義昭の存在がある。この時に松平家康にも要請があった。とはいえ、三河からの上洛を確実にするためには、今川氏真と和睦させるなければならない。となると、家康の三河当知行を中央が承認する必要があった。ここから、徳川改名・三河守任官の動きになったのではないか。永禄4年から源氏を称していた家康は源氏の徳川を希望したが、将軍職の争奪があったことから源氏を避けて藤原氏としての打診があり、家康も受諾したものと思われる。

参照史料

足利義昭上洛の供奉について、松平家康が返信する。

如仰今度 公儀之御様体無是非次第候、就其 一乗院殿様御入洛之故、近国出勢之事被仰出之旨、当国之儀不可存疎意候、此等趣御意得専要候、猶重而可得御意候条、不備候、恐々謹言、
十一月廿日/家康(花押)/和田伊賀守殿御返報(上書:和田伊賀守殿御返報 松平蔵人家康)

  • 愛知県史資料編9_0456「松平家康書状」(和田家文書)1565(永禄8)年比定

足利義昭上洛の供奉を織田信長が引き受ける。

就御入洛之儀、重而被成下、御内書候、謹而致拝謁候、度々如御請申上候、 上意次第不日成共御供奉奉之儀、無二其覚悟候、然者越前・若州早速被仰出尤奉存候、猶大草大和守・和田伊賀守可被申上之旨、御取成所仰候、恐々敬白、
十二月五日/信長(花押)/細川兵部太輔殿

  • 愛知県史資料編9_0459「織田信長書状」(高橋義彦氏所蔵文書)1565(永禄8)年比定

抑留された勅使の帰還を誓願寺に依頼する。

先度如申、 勅使之儀、于今抑留候処、切々被仰出候、可有如何候哉、馳走候様御異見肝要候、次松平家之儀、徳川之由慶源申候、彼家之儀者、昔家来候き、定而其国ニも可為分別候、如此申通事、寄特被存候、自然者望等之儀候者、随分可令馳走候、猶慶源可申候也、状如件、
十二月三日/(近衛前久ヵ花押)/誓願寺

  • 愛知県史資料編9_0529「某御内書」(誓願寺文書)1566(永禄9)年比定

徳川への改名が近衛前久を通じて家康に伝えられる。

改年之吉兆珍重々々、不可有休期候、抑徳川之儀令執奏候処勅許候、然者口宣并女房奉書申調差下之候、尤目出度候、仍太刀一腰遣之候、誠表計ニ候、万々歳可申通候也、状如件、
正月三日/有書判/徳川三河守殿

  • 愛知県史資料編9_0541「近衛前久御内書写」(三川古文書)1567(永禄10)年比定

三日、晴、(中略)こん衛とのより、藤宰相して申され候、徳川しよしやく、おなしくみかはのかみくせん、頭弁に御ほせられて、けふいつる、おなしく女ぼうのほうしよもいつる、(後略)

  • 愛知県史資料編9_0542「お湯殿の上日記」1567(永禄10)年1月