2017/05/18(木)所領役帳リスト化

集団名 人数 総役高 平均役高 筆頭者名
御家門方 17 7760 456 葛西様御領・備中殿
小田原衆 34 9,287 273 松田左馬助
玉縄衆 18 4,257 237 左衛門大夫殿
松山衆 15 3,390 226 狩野介
他国衆 28 3,617 129 小山田弥三郎
小机衆 29 3,438 119 三郎殿
伊豆衆 29 3,392 117 笠原美作守
諸足軽衆 20 2,260 113 大藤式部丞
三浦衆 32 3,344 105 伊井四郎右衛門
御馬廻衆 94 8,426 90 山角四郎左衛門・石巻下野守
社領 13 1,113 86 鶴岡領
御家中役之衆 17 1213 71 平山源太郎
寺領 28 1,289 46 泰平寺殿
職人衆 26 897 35 須藤惣左衛門
津久井衆 57 1,697 30 内藤左近将監
江戸衆 103 1,678 16 遠山丹波守
総数 560 57,058 102  

2017/04/21(金)他国へ運び出される兵粮を足軽が押収すること

〇永禄11年比定の北条氏邦朱印状で、他所へ移動しようとした兵粮は、発見した足軽に渡されるとしている。

敵働由候間、他所へ兵粮為無御印判、一駄も越ニ付者、見逢ニ足軽ニ被下候、其身事者、可被掛磔、小屋之義者、金尾・風夫・鉢形・西之入相定候、十五已前六十已後之男、悉書立可申上者也、仍如件、
辰十月廿三日/(朱印「翕邦把福」)/三山奉阿佐美郷井上孫七郎殿
戦国遺文後北条氏編1102「北条氏邦朱印状」(井上文書) 1568(永禄11)年

〇天正2年比定の虎朱印状で、他所へ移動しようとした兵粮を実際に押収した例がある。但し、押収者の植松右京亮に渡されはしたが、その後北条氏光が他の者に渡すよう指示している。

背御法度、為無御印判他国江出候兵粮、相押申上候、神妙ニ候、彼押置粮百四俵、植松ニ出置候、可請取者也、仍如件、
甲戌六月廿三日/(虎朱印)清水奉之/植松右京亮殿
戦国遺文後北条氏編1708「北条家朱印状」(稲村徳氏所蔵植松文書)

此度越度を以被召上兵粮百四俵、御直与一郎ニ於五ヶ村早ゝ相渡、請取を取、可懸御目者也、仍如件、
甲戌七月四日/(朱印「桐圭」)二宮奉/植松右京亮殿
戦国遺文後北条氏編1711「北条氏光朱印状」(稲村徳氏所蔵文書)

まあ、そうなるよね……。

2017/04/21(金)北条氏政の息子たち

戦国遺文を元に、可能な限り厳密に考えてみた。

1)まずは南殿(黄梅院殿)に関連した動き。

  • 1554(天文23)年 南殿入嫁(勝山記・高白斎日記)
  • 1555(弘治元)年11月8日 男子出産(勝山記)
  • 1557(弘治3)年11月19日 晴信安産祈願
  • 1562(永禄5)年 氏直生(系図?)
  • 1565(永禄8)年 氏房(系図?)
  • 1566(永禄9)年5月・6月 晴信が安産祈願

2)編年別で追ってみる。

●永禄12年

  • 国王丸 氏真養子となり駿河を譲られる
  • 国増丸 輝虎養子候補となるが幼少で外される10月段階に「5~6歳」なので永禄7~8年生

●天正3年

国増丸の岩槻入りが確認される

●天正5年

9月8日に氏直の名乗り初見。

●天正8年

菊王丸が大井宮に料足寄進(御屋形様・源五郎・御隠居様と連名)源五郎が岩槻で文書発給

菊王は諸書で氏房に比定されている。宗哲は菊寿、氏隆は菊千代なので、名乗り的に久野北条氏と関係があるかも。永禄9年5~6月に晴信が安産祈願している対象が菊王とすると、永禄10年生まれとなり天正8年は14歳で元服前の可能性が大きくなる。系図で氏房を永禄8年とする点は留意が必要。

●天正9年

9月20日十郎殿が初見(相模東郡)

●天正10年

  • 3月6日源五郎が富士川周辺で戦闘
  • 7月8日源五郎死去

●天正11年

7月28日岩槻で氏房が発給文書開始

●天正17年

  • 2月25日氏邦が不法は新太郎へ訴えろと指示
  • 4月27日関宿か江戸近辺での密漁が七郎配下の仕業と判明
  • 8月1日千葉直重が文書発給開始

3)まとめ

某:弘治元年生まれの男子は登場しないため恐らく夭折

新九郎氏直:系図で永禄5年とされるのは、天正5年初見からして妥当。仮名は義氏書状から確定。

後北条氏家臣団人名辞典が「ただし、氏直文書の署名に「北条」と名乗ったものが一通も確認されず不思議である」とする謎も、今川家を継承した前提からとすると国王丸である可能性も高い。

源五郎:岩槻との同時代関連性から国増丸の可能性が高い。実名不詳。

十郎氏房:菊王丸の名が久野北条氏と近しい点、十郎殿が同氏と関係のある相模東郡と関わっている点から、菊王丸=十郎であり、源五郎死後の岩槻に入った氏房が「十郎氏房」を自称していることから、それぞれの比定は妥当。但し生年は永禄10年である可能性が高いと思われる。

七郎直重:七郎と直重の登場時期と地域が近しいため、同一人物の可能性が高い。

新太郎直定:氏邦書状の新太郎と、「新太郎直定」と自称した年欠高室院文書から同一人物との比定は妥当。

※直重・直定は通字「氏」がない点、登場時期から氏政前室黄梅院殿ではなく、後室の鳳翔院殿が母である可能性が高い。

※「顕如上人貝塚御座所日記」の表紙見返しに「相模国北条氏政[四十六歳、天正十四年]、氏直[廿三歳]当家督也」とある。これが正しいとすると、氏政は天文10年、氏直は永禄7年の生まれとなり、それぞれが通説より2歳若い。であるなら、氏直は国増丸だということになる。