2023/04/07(金)駿府にいた賀永の正体

賀永と氏規は別人か?

『言継卿記』に出てくる「賀永」は北条氏規と考えていたが、専門家から別人との仮説が出された。言われてみると「賀永=氏規」という記載はないから、検討が必要だろう。改めて記載を追ってみよう。

賀永関連記述の時系列

◎は寿桂(今川氏親の妻)と同伴している記載。※は参考用記載

  • ◎「大方之孫」10月2日

    湯山(伝聞):寿桂とその娘(中御門宣綱の妻)と共に湯治。「大方之孫、相州北条次男也」と説明している。

  • ◎「孫がいえい若子」10月28日

    寿桂宅:寿桂の他に賀永と上臈(冷泉)・奥殿(元上臈)・中臈頭(小宰相)が在宅している。

  • 「伊豆之若子」12月18日

    伝聞:賀永の祝言があったと言継が聞く。

  • ◎「伊豆之若子」12月23日

    寿桂宅:寿桂へ小鬼子を贈り、同時に賀永へも「矢、車字」を贈る。寿桂から「はつり一包、雉之羽十一具」を、賀永から「羽三具」を贈られる。

  • 「若子」12月24日 単独で言継を訪問

    言継宿所:昨日の大方・若子へ贈った小鬼子を取り寄せ、「木れん子」を「すけ薄」を置く。若子が来て「晩飡」を共にする。

  • 「伊豆之若子賀永」1月2日 単独で破魔矢を贈与

    賀永に依頼していた破魔矢が到着する。

  • ◎「若子賀永」1月3日

    寿桂宅:寿桂へ「薫物十貝」を、賀永へ「五貝」を贈る。三献があり賀永、奥殿・御黒木(言継の養母)が相伴する。

  • ◎「賀永」2月9日

    御黒木宅:十炷香を張行。参加者は御黒木・寿桂・言継・賀永・御まん・奥殿・山宰相・中将・小少将・賀永乳母・あこう・客人・あち・こち・城桶検校。

  • ※「中御門息之喝食」2月22日 再延期された浅間宮廿日会の桟敷で同席

    冷泉弟の子・各和式部少輔・牟礼備前守・朝比奈泰朝・蒲原元賢、由比光綱・光綱弟の十郎兵衛・神尾対馬入道・観世大夫が既に桟敷にいた面々。

  • ◎「賀永」2月29日

    言継宿所:甘利佐渡守が使者として来訪。寿桂から「黄金二両、島つむき三端、紙一束」、賀永から「段子一端、紙一束」、冷泉局から「紙二束」、奥殿から「紙一束、引物二、師子皮こ一対」、小宰相から「香箸、紙一束」が贈られる(その後言継は寿桂宅を訪れるが賀永の名は出てこない)。

従来の通説では「孫」とある繋がりから氏規=賀永とされていた。これに対して「孫は何人もいたはず」としたのが別人説で、更に踏み込んで中御門宣綱の息子を賀永とする説もある。それぞれ、検討してみる。

賀永は中御門信綱の息子か?

まず、中御門宣綱の息子が賀永というのは否定できる。上の一覧で判るように、賀永が中御門息だとすると、名前の呼び方が不自然になってしまう。親交を重ねた言継は2月9日に「賀永」と名のみ記すようになったのに、2月22日にいきなり「中御門息之喝食」と他人行儀になり、2月29日に再び「賀永」呼びになる。これはさすがに不自然だ。

一方、12月19日の賀永祝言に続けて宣綱の行動が記述され「賀永と宣綱は近しい存在」という指摘もある。しかし、記述内容をきちんと読むとおかしい点に気づく。賀永祝言に続けて、宣綱は「無興=不満」だったと書かれている。息子の祝言に不満を持つというのもまた不自然だろう。

元服前の氏規が喝食っぽい名を持っているのを不審に思っての比定かもしれない。しかし、上記のように言継卿記を素直に読む限りでは別人だろう。

賀永と氏規は別人か?

どちらも寿桂の孫と記述されている氏規と賀永は別人だろうか。別人説では、賀永は寿桂孫の一人ではあるものの、相模ではなく「伊豆之若子」と呼ばれたことから後北条との関係者ではないと推測している。

寿桂の孫となると、言継卿記には実に6人も登場する。北条氏康に嫁した娘が産んだと思われる氏規・氏真妻、中御門宣綱に嫁した娘が産んだと思われる娘と息子、義元の息子である氏真、瀬名貞綱に嫁した娘が産んだと思われる虎王。これに対して「孫」として説明されているのは氏規と賀永しかいない。

これは、氏規・賀永が寿桂と同居して孫として扱われていたからだろう。氏規は寿桂の湯治に同行しているし、賀永は8回登場するうちで5回は寿桂同伴である。他の孫達は寿桂と別の生活圏に居住していたため、その関係から説明されたものと思われる。

更に「若子」という尊称がつくのは賀永のみであり、周囲に敬されていたと考えられる。こうした敬称は宣綱の娘に付されていて「姫御料人」と呼ばれているものの、貞綱息子の虎王には付いていない。権大納言である宣綱と、一門とはいえ義元被官である貞綱とで待遇を分けているのだとすれば、賀永は太守氏康の次男だから尊称を付けられたと考えられる。

※興味深いのが宣綱の息子である喝食に尊称がない点。寺に入った者として距離を置いているように見える。であれば喝食風な名を持つ賀永は実態としては寿桂宅にいたため俗人として扱われ「若子」と呼ばれたのだろう。

まとめると、以下の項目から氏規と賀永は同一人物と考えられる。

  • 寿桂と極めて親しい関係にある氏規が、言継卿記では1回の伝聞にしか登場しないのは不可解
  • 寿桂孫として敬され言継卿記で多数登場する賀永が、同時代史料で一切見えないのは不可解
  • 寿桂と常に同行した孫で「若子」の尊称という条件を満たすのは氏規
  • 氏規と全く同条件の人物の存在を比定するよりも、氏規=賀永とした方が自然

相模ではなく伊豆の若子と記されるから後北条とは無縁という推測も、よくよく考えると筋が通っていない(伊豆国は後北条分国)。後北条と無関係でありながら、伊豆と関わりを持った寿桂孫の存在を想定するほうが無理があるのではないか。

伊豆や喝食との関連性

では、氏規はなぜ「伊豆之若子」と呼ばれたり、喝食のような名前「賀永(がえい)」を名乗ったりしたのか。

「伊豆」と「祝言」

私は、「伊豆」が使われるようになった鍵は12月19日の「祝言」にあると考えている。言継はこの祝言を記した後に「中御門無興」と付け加えている(どちらも伝聞)。「無興」は「気に食わない」とか「不満」を指すが、言継卿記では直近の12月5日に登場している。

次中御門へ罷向暫雑談、今日隠居之事、使四人有之云々、無興至極痛入者也

とあり、「隠居」について使者4人が来て宣綱が憤懣やる方ない状況になったと書かれている。14日にも宣綱は「隠居之儀事破云々、種々雖加意見無同心之間罷帰了」とあり、その憤激を言継が宥めようとして諦めた記載もある。その5日後の祝言で宣綱が「無興」というのであれば、賀永の祝言が宣綱隠居と密接に関わっていると考えていいだろう。

宣綱が登場する12月分記載を全て列挙してみた(※11月末に濃密な接触もあったので参考記載)。

  • ※11月28日:中御門宅にて酒宴。
  • ※11月30日:中御門宅にて風呂に入る。
  • 12月01日:宣綱が留守中に来訪したと聞く。
  • 12月03日:中御門宅にて宣綱と雑談。
  • 12月05日:中御門宅に行き「隠居の件で使者4人が来訪し、強い不満を抱いた」と宣綱から聞く。
  • 12月07日:宣綱から筆が返却される。
  • 12月11日:宣綱が留守中に来訪したと聞く。
  • 12月13日:中御門宅にて宣綱と雑談。
  • 12月14日:早朝に宣綱から呼び出しがあり、隠居の件が破綻したと激怒される。説得を試みるが効果なし。
  • 12月19日:言継が、伊豆の若子の祝言と、宣綱の不満を伝え聞く。
  • 12月26日:言継が、宣綱から借りていた鏡を返却し、同時に姫御料人へ物を贈る(姫御料人の記載終見)。

宣綱が「無興」になったのは、氏規を姫御料人の婿に迎えて中御門家を継がせたかったのではないか。駿河の今川、遠江の朝比奈に娘を送り込んだ中御門家だから、その計策を練ったとしても突飛な話ではない。何より、政略結婚の画策だと考えると、宣綱の行動のあれこれが腑に落ちる。彼を憤激させた使者4人は後北条氏から来て中御門家との婚姻を謝絶したものだと思われる。

※宣綱には子がいなかったと思われる一方で、異母兄弟とされる宣治には男子(宣教)と女子(宣胤の妻)がいた。宣治は1555(弘治元)年に死去しており、言継が駿府に滞在した弘治2~3年の前に遺児達を引き取って養子にしていた可能性がある。但し、この女子が宣胤の妻となるかは年代的に疑問が残る。宣胤は1569(永禄12)年生まれだから、宣胤の妻はこの女子の娘である可能性の方が高いように思う。

そして、この祝言から「伊豆」が賀永に付されるようになる。これは、北条綱成の娘との婚姻が成立して伊豆に知行を得たからではないか。この時点で氏規知行が伊豆にあったという史料はないが、1565(永禄8)年に伊豆奥郡の手石郷へ朱印状を発給している(戦北891)。また、更に後年になるが氏規の妻は伊豆仁科郷の地頭として名を残している(戦北4969)。結婚を機に伊豆の知行を与えられる可能性は高い。

ちなみに、元服前の婚姻は他に井出千熊・馬淵金千代の婚姻契約があるので問題はない(戦今1667)。むしろ、祝言が元服だとするなら、その後も若子・賀永と呼び続けた理由が判らなくなるから、婚姻と考えるべきだろう。

氏規は喝食だったか?

ここから先は推測・憶測の上に仮説を進める形になるため、一つの仮構として捉えていただきたい。

氏規が喝食のような「賀永」を名乗ったことについて。彼は実際に喝食だったのだろうと考えている。というのも、氏規は後北条一門の中で唯一浄土宗の戒名を持っている。とすれば、臨済宗大徳寺派で占められる後北条一門から離れた場所で浄土宗に帰依する出来事があったと推測される。

今川一門もまた義元以降は臨済宗(妙心寺派)なのだが、義元には氏規を浄土宗に帰依させる動機がある。それが対三河政策で、当時の三河には日蓮宗や浄土真宗、曹洞宗もあったのだが、義元が橋頭堡にしようとした松平一族は浄土宗を信仰していた。恐らくだが、義元は氏規を養子にして三河進出の中心に据えようとしていたのではないか。その足がかりとなる松平氏と同じ宗派にするため、氏規を浄土宗寺院に喝食として入れた。

氏規は終生浄土宗に帰依しており、当時駿府にいなかったと思われる徳川家康となぜか親しかったのは、同じ宗派を信仰しているためだろう(家康の駿府不在は徳川家康登場初期の考察、家康との関係性については北条氏規への偏見についてを参照)。

しかしながら言継卿記の賀永は寿桂宅に起居しているし、当時の駿府で最も有力だった浄土宗寺院(新光明寺)に寄宿していた言継の記述でも寺院関係者としては出てこない。

これは、義元の意図を危ぶんだ寿桂が氏規を引き取って身柄を担保していたのだろう。そしてそれを横からかっさらおうとしたのが宣綱で、亡くなった弟の娘を充てがって中御門家を継がせようと画策していた。

この駿府での騒動に慌てた氏康は綱成の娘との婚姻を強行し、元服前とはいえ伊豆で知行を与えた。このために「伊豆之若子」と呼ばれるようになったのだろう。

しかし、1556(弘治2)年5月2日に座間鈴鹿明神社の棟札銘に「北条藤菊丸」と名を残した氏規が、僅か5ヶ月後の同年10月2日に言継卿記で「賀永」という名乗りになっていたことから考えると、氏規の争奪戦はこの年に相当な速度で進んだようだ。

氏康と同盟した後の義元は西へ一気に勢力を広げており、天文19~22年頃には尾張東部(知多・岩崎)にまで達している。この勢いに乗った義元は、氏康の息子を得たのだろう。義元の後継者は氏真しかおらず、その妻に氏康娘を迎えたとしても縁戚関係は不安定だった。

1545(天文14)年11月9日に実績がある(戦国遺文今川氏編783)ことから、この時も寿桂が氏康と義元を仲介して、氏康次男の藤菊丸を氏真予備として養子にする決定がなされた。その後、1556(弘治2)年から三河国で反乱がが相次ぎ、三河の政情が悪化。この対応に苦慮した義元が、一刻も早くという要請を出し、今川家の将来を憂慮した寿桂が口添えしたのかもしれない。

2023/03/30(木)北条氏康の長男は「氏親」か?

氏康長男の実名

北条氏康長男「天用院殿」の実名が「氏親」であるとの仮説を黒田基樹氏が構築しているが、これは『駿河大宅高橋家過去帳一切』のみに依拠している。ところがこの史料は非公開のものらしく、原本の確認がとれていない(新八王子市史通史編2でも出典が黒田氏『伊勢宗瑞』とあり原本確認ができていない)。黒田氏はこの仮説の補強材料として『足利義氏等和歌短冊』に「氏親」の名があるとしているが、これも成立経緯がよく判らない(この史料は栃木県史中世二に収録されている可能性あり)。

更に、この「天用院殿の実名は氏親説」と、その弟に「氏照」がいることを合わせて同氏は、氏康室の瑞渓院殿が、今川義元の正当性を否定し自らの実子が今川家正統であることを訴えるために、息子たちに氏親・氏照の名をつけたと推測している(今川氏親の長男が氏輝)。

「そもそもこの時代に母親が名付け親になっていたのか?」という疑問をとりえずおくとしても、この仮説には時期的な齟齬があるように思う。

先掲過去帳によると天用院殿死亡時年齢は16歳となっているので生年は天文6年。最も若く12歳で元服したとして天文17年。ところが、義元と氏康は天文14年12月には和睦、その後は両者ともに他方面に進軍を開始しており緊張関係は見られない。同じ史料を使ったとしても既にここで大きな疑問が生じる。

そもそも、この政局で氏康は長男に「氏親」と名付けるだろうか? 義元に対して、今川家当主としての正統性に疑義を叩きつけることもあるし、今川家中にいる氏親偏諱の被官を奪うような行動にもなってしまう。氏親の偏諱を受けた被官は多い(文書で確認できるだけでも朝比奈親徳/親孝、岡部親綱、長池親能がいる)。

北条氏照は今川氏輝に関連している?

氏康室が息子に「氏照」と名付けたのが今川氏輝にあやかったというのは更に不可解だ。今川氏輝を「氏照」と書いた高白斎記があるように、「輝=照」なのは当時の当て字風習から理解はできる。ただ、氏照名乗りの初見である1560(永禄3)年10月20日には後北条・今川の同盟は引き続き順調に稼働しており、偏諱の横取りを画策する状況にない(文書で確認できる氏輝偏諱者は、朝比奈輝綱、輝勝、岡部輝忠、四宮輝明、正木輝綱、由比輝満がいる)。ただ、状況としては義元死後ではあり、駿府とほぼ関わりがないだろう氏照の名乗りに対して、それほどの遠慮はしていなかった可能性はある。それよりは、永禄になって他大名への上洛を促したり名馬を所望したりと干渉し始めた足利義輝の方が意識にあったのだろう。義輝が関東国衆へ「輝」を偏諱したとしても、氏照が吸収できる。「照」と字を変えたのはさすがに遠慮があったか。

他の兄弟

他の兄弟を見ても、氏規は義元の元で元服しているが、「氏規=うじのり=氏範」と音が通じているのが象徴的ではある。今川家通字である「範」の当て字を使っている上に仮名も今川当主の「五郎」に繋がる「助五郎」となっている。もしかしたら今川家での元服直後には「助五郎氏範」を名乗っていたのかもしれない(「氏規」表記が出てくるのは永禄6年の『光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚書』で、関東衆ではなく三河衆として「北条助五郎氏規、氏康次男」として「松平蔵人元康、三河」の直前に書かれている)。京都から見た氏規は家康と絡んだ存在だったのかも。

氏邦は藤田泰邦に養子入りした関係で「邦」を継いだと思われる。

どちらも、元服時にいた家の事情によって命名されている。

氏康長男の実名の推測

私の仮説では、天用院殿は仮名「新九郎」とともに実名「氏政」を名乗っていて、それを次男が継承したとなる。「氏政」は上杉憲政の偏諱簒奪が目的の政治的な命名なのは、憲政がそれを避けるために「憲当」に改名していることから判る(読み方は同じで字だけ変えている)。

しかし、憲政改名は天文14年5月27日~15年4月22日の間で、氏政の登場とは時期が合わない。これをどう考えるべきか考えていたが、憲政を改名させたのは「氏政の前の氏政」がいたからと考えればすっきりする(親子・兄弟で実名を同じにする例は存在する)。

紛らわしいので、ここより以降は最初の氏政(天用院殿)を氏政1、よく知られている次の氏政を氏政2と記述する。

通説だと氏康婚姻は天文4年とされるが、この年だと氏康が20歳で少々遅い。天文2年頃には娶っていたのではないかと思う。この翌々年に長男が生まれたとすると天文15年に12歳となり、元服は可能。前年12月に成立した三国同盟を受けて元服し「氏政」を名乗った。それを知った憲政が偏諱乗っ取りを嫌って「憲当」に改名した(ただ、憲政を名乗ったりもして不規則に変化する、また長尾当長とされる人物も文書だと「政長」を名乗っていて不明瞭な部分は残る)。

憲当は天文21年5月には本拠地失陥が確実になっているが、その直前の3月に氏政1が18歳で早逝してしまう。そこで次男が元服し氏政2となった(氏政2の生年は諸説あるが最も遅い天文10年だったとしても当時12歳で元服は可能)。

憲政改名に「氏政」の偏諱奪取があったとする仮説を組み立てていたが、上杉が上野国を失った後に氏政が登場してきており、ここは疑問だった。しかし、氏政1の存在を考慮するとすっきりと話が繋がる。

ひとまず、ここまでの仮説を年表風にまとめてみる。

  • 天文14年12月:三国同盟成立
  • 天文15年1月:氏政(天用院殿)元服※12歳だとして天文4年生まれで恐らく婚姻翌年の誕生※氏政誕生は天文7~10年、氏規誕生は天文14年

  • 天文15年:4月26日までは「憲政」、7月5日には「憲当」

  • 天文21年3月:天用院殿死去(天文4年生なら享年18歳、氏政は12~15歳、黄梅院は10歳)
  • 天文23年に氏政婚姻(氏政は14~17歳、黄梅院は12歳)

  • 天文3以前:氏康(大聖寺殿)が氏親娘(瑞渓院殿)を娶る

  • 天文4:氏政1(天用院殿)誕生
  • 天文6:氏繁室(新光院殿)誕生
  • 天文9:氏政2(慈雲院殿)誕生
  • 天文14:氏規(一睡院殿)誕生
  • 天文17:氏真室(蔵春院殿)誕生(1554(天文23)年に6歳で嫁入りし1570(元亀元)年に22歳で長男出産)

※氏照・氏邦・三郎景虎、足利義氏室・太田氏資室・武田勝頼室は母が別か養子の可能性を考慮してひとまず除外

2023/03/27(月)古文書との付き合い

初めての古文書

私が古文書に初めて触れたのは小学校6年の郷土史の授業。そこで用いられたのは当時刊行されて間もなかった神奈川県史資料編3下から引用されたものだった。

  • 神奈川県史資料編3下9277「北条家定書」(小沢秀徳氏所蔵文書)


    一、於当郷不撰侍・凡下、自然御国御用之砌、可被召仕者撰出、其名を可記事、但弐人
    一、此道具弓・鑓・鉄炮三様之内、何成共存分次第、但鑓ハ竹柄にても、木柄にても、二間より短ハ無用ニ候、然者号権門之被官、不致陣役者、或商人、或細工人類、十五・七十を切而可記之事
    一、腰さし類之ひらゝゝ、武者めくやうニ可致支度事
    一、よき者を撰残し、夫同前之者申付候者、当郷之小代官、何時も聞出次第可切頸事
    一、此走廻を心懸相嗜者ハ、侍にても、凡下にても、随望可有御恩賞事
    已上
    右、自然之時之御用也、八月晦日を限而、右諸道具可致支度、郷中之請負、其人交名をハ、来月廿日ニ触口可指上、仍如件、
    丁亥七月晦日/日付に(虎朱印)/栢山小代官・百姓中

  • 解釈

    規定
    一、この郷においては武家と一般人を選ばず、万が一御国の御用があった際には、召集する者を選び出して、その名を記すこと。但し2名とする。
    一、この武器は弓・鑓・鉄炮の3種類のうちでどれでも希望に合わせる。但し鑓は竹柄であっても木柄であっても、2間より短かいものは無用である。そして権門の被官であると称して陣役を担わぬ者、もしくは商人、細工人の類いでも、15~70歳で区切って記載すること。
    一、腰の指物の類いはヒラヒラと武者めくように支度すること。
    一、よき者を選ばず、人夫同前の者を選出したならば、この郷の小代官を、いつでも聞き及び出次第、首を切るだろうこと。
    一、この活躍を心がけ励む者は、侍でも一般人でも望みのままに御恩賞を与えるだろうこと。
    以上。
    右は、万が一の時の御用である。8月晦日までに、右の諸道具を支度するように。郷単位で請け負って、その人名一覧を来月20日までに触口へ提出せよ。

1587(天正15)年に、羽柴氏との決戦を覚悟した後北条氏が分国内に広く発布した朱印状で割合有名なものである。

これを用いて教師は「栢山の住民で動員令が敷かれて、15歳以上の男性は皆徴兵対象になった。当時とでは社会環境が異なっているものの、中学校卒業前後の男の子は無理やり武者っぽい格好をして参集しろと言われたのだ」と説明したのを覚えている。「栢山ってあの栢山? じゃあ箱根でも集められたのか」とクラスの皆は愕然としていた。

一方で私は「400年前の記録がそのまま残っているのは凄い」と感心してしまった。藁半紙で配られたプリントにあった漢字だらけの文章に惹かれていくのが判った。その後戦国遺文後北条氏編が刊行され、少しずつ古文書を読んでいった。

途中で進路に史学科を選択する可能性もあったのだけど、趣味と生業を混交しては楽しめないと考えてあえてその道は選ばなかった。

画期となったのは、「ひらゝゝ、武者めくやうニ」との出会いから20年経ってから。太田牛一が書いたとされる『信長公記』での桶狭間合戦のくだりを読んで頭の中が疑問符だらけになった。「事実しか書いていない」と本人が書いたということで一級史料と呼ばれ、この記述の真意を巡って諸説が入り乱れているのだけど、到底真実とは思えない。そこで、もっと信憑性の高い同時代史料を徹底的に読み込んでみようと思い立った。この辺の経緯は、小説として公開している『パラフレーズ』に書き込んでみた。

そこから一気に古文書解釈の面白さに取り憑かれ、気の向くままに史料をデータ化していったのだけど、やはり土地鑑のある東駿河・西相模が調べやすくて徐々に興味対象が東に流れていった。

古文書を解釈する際の手順

それが合っているかは判らないけれど、私が解釈を施す際の手順や注意点を書き記してみる。

1)原文を全て入力する。

意外とここが大事。一語ずつ入力していくことで、記述者の文章構成を追体験できる。数をこなしていけば、頻出する語や繋がりが見えない文節に徐々に気づくようになる。

2)本文を最後まで現代語に置き換えてみる。

意味不明なものは括弧でくくってそのままにしておく。ここで無理に解釈してしまうと、後々自己矛盾を生じる可能性が高くなるため、疑問に思った文は迷わず括弧内に入れてしまうこと。

3)辞書で語義を確認。

意味のとり方が怪しい語があれば、辞書は当てにせず、他例から検索して事例集を作成する。「被越」や「走廻」のような頻出語であっても、用法に疑問を感じたら丹念に他例を負うのが望ましい。意外な語彙を見つけることも多い。

4)比定していく。

「比定」というのは、具体的な情報への置き換えを指す。たとえば、漠然と「屋形様」とか「上総介」とか書かれているものを、具体的に誰なのかを確定させていく。現在の通信と同じく、当事者同士が熟知している事項はあえて書かれたりはしない。このため、具体的に何を指すのかを推測していかなければならない。非常に重要な作業。

まず、その文書の前後関係を年表やコーパスから抽出し、差出人と宛所、言及事項がそれぞれどういう状況かを調べる。この際に人名・地名・年の比定をしっかり行なう。調査範囲によるが、後北条氏所領役帳・武蔵田園簿が比定に役立つ。同時代史料を用いた検索も同時に行なうこと。

5)文章の肉付けをしていく。

文章の構成や表現方法などから、差出人がどのような心情で、何を伝えたかったのかを検討する。たとえば、言いづらいことを書く際に人は2つのアプローチをする。まずありそうなのは、曖昧な言い方を連ね諄いほどの言葉を溢れさせる場合。そして、それとは真逆でそっけなくささっと短く書いてしまう場合。どちらにしても、その違和感を感じ取って深追いしなければならない。そうなると逆に「読み込み過ぎでは?」という疑念を自らに抱くようになるだろう。それは必須の留意点で、いつでも原文に舞い戻り吟味に吟味を重ねることで見えてくるものがある。