2023/03/27(月)古文書との付き合い

初めての古文書

私が古文書に初めて触れたのは小学校6年の郷土史の授業。そこで用いられたのは当時刊行されて間もなかった神奈川県史資料編3下から引用されたものだった。

  • 神奈川県史資料編3下9277「北条家定書」(小沢秀徳氏所蔵文書)


    一、於当郷不撰侍・凡下、自然御国御用之砌、可被召仕者撰出、其名を可記事、但弐人
    一、此道具弓・鑓・鉄炮三様之内、何成共存分次第、但鑓ハ竹柄にても、木柄にても、二間より短ハ無用ニ候、然者号権門之被官、不致陣役者、或商人、或細工人類、十五・七十を切而可記之事
    一、腰さし類之ひらゝゝ、武者めくやうニ可致支度事
    一、よき者を撰残し、夫同前之者申付候者、当郷之小代官、何時も聞出次第可切頸事
    一、此走廻を心懸相嗜者ハ、侍にても、凡下にても、随望可有御恩賞事
    已上
    右、自然之時之御用也、八月晦日を限而、右諸道具可致支度、郷中之請負、其人交名をハ、来月廿日ニ触口可指上、仍如件、
    丁亥七月晦日/日付に(虎朱印)/栢山小代官・百姓中

  • 解釈

    規定
    一、この郷においては武家と一般人を選ばず、万が一御国の御用があった際には、召集する者を選び出して、その名を記すこと。但し2名とする。
    一、この武器は弓・鑓・鉄炮の3種類のうちでどれでも希望に合わせる。但し鑓は竹柄であっても木柄であっても、2間より短かいものは無用である。そして権門の被官であると称して陣役を担わぬ者、もしくは商人、細工人の類いでも、15~70歳で区切って記載すること。
    一、腰の指物の類いはヒラヒラと武者めくように支度すること。
    一、よき者を選ばず、人夫同前の者を選出したならば、この郷の小代官を、いつでも聞き及び出次第、首を切るだろうこと。
    一、この活躍を心がけ励む者は、侍でも一般人でも望みのままに御恩賞を与えるだろうこと。
    以上。
    右は、万が一の時の御用である。8月晦日までに、右の諸道具を支度するように。郷単位で請け負って、その人名一覧を来月20日までに触口へ提出せよ。

1587(天正15)年に、羽柴氏との決戦を覚悟した後北条氏が分国内に広く発布した朱印状で割合有名なものである。

これを用いて教師は「栢山の住民で動員令が敷かれて、15歳以上の男性は皆徴兵対象になった。当時とでは社会環境が異なっているものの、中学校卒業前後の男の子は無理やり武者っぽい格好をして参集しろと言われたのだ」と説明したのを覚えている。「栢山ってあの栢山? じゃあ箱根でも集められたのか」とクラスの皆は愕然としていた。

一方で私は「400年前の記録がそのまま残っているのは凄い」と感心してしまった。藁半紙で配られたプリントにあった漢字だらけの文章に惹かれていくのが判った。その後戦国遺文後北条氏編が刊行され、少しずつ古文書を読んでいった。

途中で進路に史学科を選択する可能性もあったのだけど、趣味と生業を混交しては楽しめないと考えてあえてその道は選ばなかった。

画期となったのは、「ひらゝゝ、武者めくやうニ」との出会いから20年経ってから。太田牛一が書いたとされる『信長公記』での桶狭間合戦のくだりを読んで頭の中が疑問符だらけになった。「事実しか書いていない」と本人が書いたということで一級史料と呼ばれ、この記述の真意を巡って諸説が入り乱れているのだけど、到底真実とは思えない。そこで、もっと信憑性の高い同時代史料を徹底的に読み込んでみようと思い立った。この辺の経緯は、小説として公開している『パラフレーズ』に書き込んでみた。

そこから一気に古文書解釈の面白さに取り憑かれ、気の向くままに史料をデータ化していったのだけど、やはり土地鑑のある東駿河・西相模が調べやすくて徐々に興味対象が東に流れていった。

古文書を解釈する際の手順

それが合っているかは判らないけれど、私が解釈を施す際の手順や注意点を書き記してみる。

1)原文を全て入力する。

意外とここが大事。一語ずつ入力していくことで、記述者の文章構成を追体験できる。数をこなしていけば、頻出する語や繋がりが見えない文節に徐々に気づくようになる。

2)本文を最後まで現代語に置き換えてみる。

意味不明なものは括弧でくくってそのままにしておく。ここで無理に解釈してしまうと、後々自己矛盾を生じる可能性が高くなるため、疑問に思った文は迷わず括弧内に入れてしまうこと。

3)辞書で語義を確認。

意味のとり方が怪しい語があれば、辞書は当てにせず、他例から検索して事例集を作成する。「被越」や「走廻」のような頻出語であっても、用法に疑問を感じたら丹念に他例を負うのが望ましい。意外な語彙を見つけることも多い。

4)比定していく。

「比定」というのは、具体的な情報への置き換えを指す。たとえば、漠然と「屋形様」とか「上総介」とか書かれているものを、具体的に誰なのかを確定させていく。現在の通信と同じく、当事者同士が熟知している事項はあえて書かれたりはしない。このため、具体的に何を指すのかを推測していかなければならない。非常に重要な作業。

まず、その文書の前後関係を年表やコーパスから抽出し、差出人と宛所、言及事項がそれぞれどういう状況かを調べる。この際に人名・地名・年の比定をしっかり行なう。調査範囲によるが、後北条氏所領役帳・武蔵田園簿が比定に役立つ。同時代史料を用いた検索も同時に行なうこと。

5)文章の肉付けをしていく。

文章の構成や表現方法などから、差出人がどのような心情で、何を伝えたかったのかを検討する。たとえば、言いづらいことを書く際に人は2つのアプローチをする。まずありそうなのは、曖昧な言い方を連ね諄いほどの言葉を溢れさせる場合。そして、それとは真逆でそっけなくささっと短く書いてしまう場合。どちらにしても、その違和感を感じ取って深追いしなければならない。そうなると逆に「読み込み過ぎでは?」という疑念を自らに抱くようになるだろう。それは必須の留意点で、いつでも原文に舞い戻り吟味に吟味を重ねることで見えてくるものがある。

2023/03/26(日)辞書との付き合い

独学での辞書利用

私が文書の解釈を独学で始めた際に使ったのが『古文書古記録語辞典』(阿部猛)だった。その後で『音訓引き古文書字典』(林英夫)を入手して、併用している。かなり幅広い言葉が収録されているため、随分と勉強になったのだが、この辞典は私が調べている戦国期に限定したものではない。だから頻出する語でも掲載されていないことが多かった。専門書を読んでも、古文書の細かい部分までは解説されておらず、通説がどのような根拠で形作られているかが把握できなかった。

ここから発想を変えて、コーパスを自力で作るしかないという結論に至った。他の文書を多数データ化して用例を一から調べて確定していく方法だ。参考になったのは三省堂の『例解古語辞典』。この冒頭に掲げられた「古典へのいざない ―豊かな鑑賞は正確な解釈から―」に大いに啓発された。この文章は具体的な解釈事例を挙げた長文なのだが、ごく一部を抜粋してみる。

辞書というものは全国的に信用されいますが、実のところ、それは専門家に対する買いかぶりなのです。国語辞典の場合でも、適切ではない説明や、ときには、明らかな誤りがありますが、古語辞典となると、説明の基礎となる、古文の解釈が十分にできていないために、残念ながらそれがかなり極端なのです。

古典を読んでいて、その文章の中に、見馴れないことばやわからないことばが出てきたとき、この辞書を引くことになります。しかし、その場合、最初の部分に並べられているいくつかの語義の中から、いちばんよくあてはまりそうなものを選んで、それでわかったことにしてしまったのでは、いけません。たしかに、そういうやり方でもひととおりの口語訳ぐらいは、なんとかできるでしょうが、文章の内容まではとうてい理解できません。

その語源がどこにあるかではなくて、実際の場面で、どのように使われているかを調べるのがほんとうだということなのです。その考え方の原則は、いつの時期のことばについても変わるはずがありません。《例解》方式は、演繹によらず、あくまでも帰納に徹して解釈を施し、推定された語源からその語の意味を考えたりすることをしりぞけています。

これを読んでなるほどと納得した。語源と語義の乖離は現代語を見ても明らかで、その時代、その土地の人がその言葉をどういう意味で使っているかはデータの蓄積でしか明らかにできない筈だ。これ故に、辞書で書かれた語義を参照にしつつも鵜呑みにせず、あくまでも他例を優先して解釈していく方針が決まった。

以上のことから導き出された参考例は戦国期の古文書を解釈する基本的なことにまとめた。

専門家解釈への疑問を越えて

とはいえここに至るまでは紆余曲折があり、自らの不見識によって誤読しているのではないか、という疑問を感じている期間は長く、2016年にはかなり煮詰まっていたことがある。

今考えれば「真手=両手の指=十指」という語義があるのだから「真手者=真田の手の者」という解釈が突飛なものだと断言できるのだが、当時はどうにも自信がなかった。しかし、他でも専門書・辞書でおかしな解釈は多々あって、間違っているものは間違っているという境地に至った。

「併」は順接か逆説か

たとえば「併」。私は最終的に「あわせて」と読み、意味も現代語と同じく「同時に・加えて」で全く問題なく解釈しているのだが、解釈を始めた頃は辞書に振り回され、順接・逆説どちらにもなると考えて混乱していた。

実際に辞書を引いてみると、この辺の言葉の説明は入り乱れている。

『音訓引き古文書字典』

  • 併:しかし。然とも書く。そうではあるが。けれども。
  • 雖然:しかりといえども。そうではあるが。そうはいっても。しかし。

『古文書古記録語辞典』

  • 併:しかしながら。併乍、然乍とも書く。ことごとく、全部、さながら、結局、要するに。「だが、しかし」という意味ではない。
  • 然而:しかれども。されど、しかしながら。

そもそも現代語の「しかし」が逆説になっているのが奇妙で、「然り」「然して」は順接で「然れ共・然し乍ら」と書いたら逆説になるのが本来の姿。この語義を無視して「しかしながら」の後半を省略してしまったのが現代語「しかし」だろう。

また、当時の「而」の用法を見ると「~して」「~て」とする表音文字としての例が殆どとなる。「重而=かさねて」「付而=つきて・ついて」「船ニ而=ふねにて」「切而=きりて」「残而=のこりて」「随而=したがいて」「定而=さだめて」など枚挙にいとまがない。

以上から考えると「然而」は「しかりて」と読むのが正しいだろう。

「手前」は第一人称になるか

また、近世以降では第一人称としても使われる「手前」を援用して北条氏直の弁明状を誤解釈している例がある。

名胡桃之事、一切不存候、被城主中山書付、進之候、既真田手前へ相渡申候間、雖不及取合候、越後衆半途打出、信州川中嶋ト知行替之由候間、御糺明之上、従沼田其以来加勢之由申候

名胡桃のことは一切知りません。城主とされる中山の書付を提出します。すでに真田の手元へ渡しているものですから、取り合うものではありませんが、越後衆が途中まで出撃し、信濃国川中島と知行替とのことだったので、ご糺明の上で沼田よりそれ以後で加勢したとの報告を受けています。

  • 小田原市史資料編小田原北条1982「北条氏直条書写」(武家事紀三十三)

これを「すでに真田が手前(氏直)へ渡しているものですから」と解釈した著作を見かけたことがある。これを解釈に組み込むと、真田氏自らが名胡桃城を氏直に渡した主張になる。

ところが、当時の「手前」は「(対象人物の)手元」という意味でしかない。つまり、真田氏へ譲渡したことは認めつつも、名胡桃城主からの要請で沼田城から軍事支援して制圧したことを堂々と書いていることになる。

このように、他例を蓄積する例解方式でその時代・地域の語彙を集積して解釈することは重要だろうと思う。この方式で語義を探ったのが以下の記事。

補足『戦国古文書用語辞典』

この書籍はかなり精度が低い。同時代史料からの語彙と、後世の軍記物が混交しているほか、どこからその意味が出てきたのか疑問に思うような語義が見受けられる。読んで得られるものがないので精読はしていないが、目につく事例を紹介してみる。

塩味

えんみ【塩味】1潮時。機会を見失ってはいけない。「不可過御塩味候」 2相談のこと。斟酌する。 3手加減。斟酌する。
しおみ【塩味】潮時。「不可過御塩味」は、機会を見失ってはならないという意。

2つの項目が連携していない上、潮時・斟酌に拘泥して意味が引きづられている。私のコーパスからの推測では「熟慮」の意味。

長々

おさおさし【長々し】それから受ける感じが、侮りがたく、無視できないさまである。

「長々」は非常に例が多いが「ながながと」という意味で問題ない。「おさおさし=長々敷」とすると、1581(天正9)年1月25日の織田信長朱印状しかないが、これも「信長一両年ニ駿・甲へ可出勢候条、切所を越、長々敷弓矢を可取事、外聞口惜候」とあり、「長々しく交戦していることは、見栄えが悪く悔しい」という意味合い。「長々敷」は現代語の「長々と」と同じで構わないように思う。

戸張・外張

とばり【戸張】戸の張り物。とばり【外張】軍隊の周囲から遠いところ。

外張11例は全て城郭の防御線を指す。戸張は25例あり、名字が8例あるものの、他は全て城郭防御線。

若子

わこ【若子】身分の高い人の男の子ども。

意味自体は問題ないだろうと思うが、引用している例がおかしい。

「若子共を他人之被官ニ出候に付而者、地頭・代官へ申断、徹所を取而可罷越候」(北条家朱印状)

ここで例に出された虎朱印状は1551(天文20)年に西浦百姓中に出されたものだが「若子共を他人之被官ニ出候に付而者」は、前後の文脈から「もし子供を他人の被官に出し候につきては」と読むのが正しいと思う。

若子は高貴な男児であるとするなら、西浦百姓らの子はそもそも該当しない。念のため原文全てを記す。

  • 小田原市史資料編小田原北条0273「北条家虎朱印状」(伊豆木負大川文書)

    西浦五ヶ村あんと拘候百姓等子共、并自前ゝ舟方共、地頭・代官ニ為不断、他所之被官ニ成候事、令停止候、若子共を他人之被官ニ出候に付而者、地頭・代官へ申断、徹所を取而可罷越候、致我侭候者共召返、如前ゝ五ヶ村へ可返付者也、仍如件、
    辛亥六月十日/日付に(虎朱印)/西浦百姓中・代官

2023/03/23(木)公開したデータ一覧

今までに公開してきたデータのリンク。データに誤りがあった際はコメントを送って下さい。

古文書・古記録のデータ

コーパス

これまでに入力した11,437件の史料(古文書・古記録)をリスト化したもの。月日についてはソート順を保つため「★01_閏月01日」という記載にしている。

言継卿記に関するデータ

言継卿記(今川分国部分)人名データリスト

山科言継が駿府に滞在した記録に出てきた人名の中で、本人特定が可能な者をデータ化。

言継卿記(今川分国部分)フルテキストドキュメント

山科言継が今川氏分国に滞在した1556(弘治2)年9月18日~1557(弘治3)年3月16日をテキストデータ化したもの。

後北条氏関係者人名

後北条氏関連人物過去帳 人名データリスト

高野山高室院の過去帳データをまとめたもの。高野山高室院月牌帳(寒川町史)と、北条家過去帳(平塚市史)のそれぞれでデータを分けている。

後北条氏家臣団辞典索引 人名データリスト

『後北条氏家臣団辞典』の索引にある人名を列挙したもの。仮名・官途で検索できる。

後北条氏所領役帳

所領役帳 フルテキストドキュメント

後北条氏が1559(永禄2)年に作成した被官の知行高を列記したもの。直轄領は含まれていない。

所領役帳 データリスト

所領役帳に載っている数値部分を集約し、被官人ごと、衆ごとにまとめたもの。動員兵数の推測つき。

所領役帳の給地一覧 マップ

GoogleMapを使用して、各衆別に所属被官の給地をポイント。

その他

史料辞書

古文書を入力する際に使っていたユーザー辞書。元号と西暦の変換、略称によるショートカットなどがある。

織田信長の贈り物

織田信長の返礼状から、もらった物を列挙してみた。結構細かい物資もある。

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2007年8月~2017年3月までの古文書データ、解釈記録を記したもの。

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思いつきをそのまま呟いたもの。あまりまとまっていないので要注意。

パラ∥フレーズ~史料探偵の異解釈 知識ゼロの高校生が『歴史』を変えるまで~

いわゆる桶狭間の合戦や、北条氏政妻の行方などをあれこれ推理していく小説。引用した史料は全文と解釈をつけている。