2022/03/28(月)北条氏規への偏見について
以前フォロワーさんに教えていただいた下山治久氏の北条氏規記事で疑問があったので覚書。
対象記事
情報誌「有鄰」531号 北条氏規と徳川家康との熱い関係(下山治久)
下山治久氏というと後北条研究では大御所なのだけど、氏規に関しては予断というか思い込みから妙な解釈をしているので論拠史料と比較してみる。一般向けの記事ということで後世編著からの憶測を織り交ぜて記述しているのかもしれない(下山氏編の『戦国時代年表後北条氏編』では下記のような解釈は見られない)。
家康は氏規と昔話をしたがった?
記事引用「天正11年(1583)3月にはすでに三河・遠江国の大名になっていた家康から伊豆の韮山城(静岡県伊豆の国市)城将になった氏規へ書状を出して伊豆の近くに出陣したので、ぜひ会って少年の頃の思い出話しをしたいと記しているのである」
この典拠は以下の文書を指すのだが、実態とは異なる。家康は3月5日に富士郡で、3月28日には甲斐国内で宛行しているのでそこは合っているのだが、実際には駿東近辺で恐らく氏直に出されたもの。その中で氏規が仲介していたという事実のみがある。
其地江被納御馬之由、先以目出度存候、仍拙者儀、駿甲為見廻与、此地迄令出馬候、程■候之間、節ゝ可申談候、委細猶濃州迄申入候条、不能詳候、恐ゝ謹言、
三月十九日/家康/宛所欠戦国遺文後北条氏編4507「徳川家康書状写」(諸州古文書)1583(天正11)年比定
その地へ御馬を納められたとのこと。まずもってめでたく思います。拙者は駿河国・甲斐国を見回ろうとこの地へ出馬しました。程(近く?)なので、時々ご連絡しましょう。詳しくは更に氏規に申し入れておりますので略します。
※「申談」は情報交流を示し、直接の面談に限定されない。たとえば、戦今1175で武田晴信は天野安芸守に「於自今以後者、其近所節々可申談候条」と書いているが、北遠江の天野と面談した様子はない。
氏規は重次と昔話をしたがったか?
記事引用「翌11年正月には氏規が家康の重臣の本多重次に外交交渉の謝礼として名馬を贈り、ぜひ面会して若い日の思い出話しを語りたいとの書状を出すにいたった」
この文中に「面会して若い日の思い出話しを語りたい」というものはない。「別紙」の挨拶がどのようなものかは不明だ。
別紙ニ令啓候、散ゝ之馬ニ候得共、鴇毛之馬進候、委細鈴木伊賀守口上ニ申含候、恐ゝ謹言、
正月五日/氏規(花押)/本作左御宿所戦国遺文後北条氏編4775「北条氏規書状」(森田周作氏所蔵文書)1583(天正11)年比定
別紙でご挨拶しました。散々な馬ですが鴇毛の馬を進上します。詳しくは鈴木伊賀守の口上に申し含めました。
氏規は忠次に同盟を持ちかけたか?
記事引用「北条氏規と徳川家康が戦国大名の外交交渉の相手として出くわすのは、甲斐の武田信玄が駿甲相三国同盟を破棄して今川領の駿河に侵攻した翌年の永禄12年5月末であった。氏規が家康の側近の酒井忠次に書状を出して北条氏と徳川氏が和睦同盟して共に信玄に当ろうともちかけたのである」
これは該当文書がないが、氏政が既に締結された交渉条件に基づいて氏真返還に尽力した酒井忠次に礼を言っている書状は存在する。この取次役として氏規の名は出ているものの、同盟を氏規が持ちかけたかは不明であり、この同名交渉前に氏規と忠次に交流があったかも判らない。
就氏真帰国、家康へ以誓句申届処、御返答之誓詞、速到来本望候、殊氏真并当方へ無二可有御入魂由、大慶候、就中懸河出城之刻、其方至于半途為証人入来之由、誠以手扱喜悦候、自今以後者、家康へ別而可申合候条、可然様ニ馳走任入候、仍馬一疋黒進之候、猶弟助五郎可申候、恐々謹言、
五月廿四日/氏政(花押)/酒井左衛門尉殿戦国遺文後北条氏編1229「北条氏政書状」(致道博物館所蔵酒井文書)永禄12年比定
氏真の帰国について、家康へ起請文で申し入れたところ、ご返答の起請文が速やかに到着し本望です。特に、氏真と東方へは無二に親しくしていただけるとのこと、大慶です。とりわけ掛川城から出る際には、あなたが保証人として途中まで付き添ったのは本当に喜ばしい手扱いです。これ以降は家康へ格別に申し合わせますから、しかるべき馳走をお任せします。ということで馬1疋を進呈します。更に弟助五郎が申します。
氏規は家康に茶の湯を学びたがったか?
記事引用「天正12年9月末に氏規が某に家康に会って茶の湯の作法を学び昔話をしたいと伝えた」
当該文書によると、家康は無上茶を時々氏規に贈っていると言及されているだけで、会って昔話をしたいと伝えている相手は忠次。
先日者預一簡候、祝着候、面談之心地面詠入候、陸地之通用可有之事猶有間敷候、必一夜備ニ御越彼むかしを承届度候、自先年者少年寄候へ共、彼覧之昔を承度候、仍箱一給候、御心指祝着候、秘蔵可申候、但茶之湯与成らん不存候間如何然共自家康節ゝ無上御音信候、賞味不浅候、遂面上積御物語申度候、委細者朝弥可被申候条早ゝ申候、恐ゝ謹言。追而到来之間、鮭進之候、
九月廿三日/美氏規(花押)/宛所欠戦国遺文後北条氏編4024「北条氏規書状」(神奈川県立博物館所蔵北条文書)年未詳
先日はお手紙を預かりまして祝着です。面談の心地を歌に詠み入りました。陸地の通用は望めないでしょう。必ず一夜備えにお越しになりあの昔話を承りたく。先年よりは少し年寄になりましたが、かれらの昔をお聞きしたいのです。茶箱1つをいただき、お志祝着です。秘蔵いたしましょう。ただし茶の湯やらは存じませんのでどうでしょう。でも家康より折々に無上をいただいています。味わい深いものです。直接お会いして積もる話をしたいところです。詳細は朝比奈弥太郎が申しますので筆を置きます。
追伸:ちょうど到着しましたので鮭を進上します。
これは恐らく酒井忠次か岡部元信宛てのものだろう(この文書は戦国遺文だと年未詳で、天正12年とした根拠が不明。天正12年であれば岡部元信は候補から外れる)。氏規が聞きたがっているのは忠次が語る共通の知己達の昔話だろう。前述のように永禄12年の同盟交渉で氏規は徳川家中とやり取りはあったようなので、その時に知り合った人物の話である可能性がある。勿論、氏規の駿府滞在時代を示唆する可能性もあるが、それを裏付ける史料はない。
このように、下山氏は史料を「氏規は家康と駿府で親しかった」という予断に基づいて解釈している。現状の史料からは家康が駿府に入ったのが確認できるのは天正10年以降なので、厳密な史料解釈としては正しくないように思う。
2019/03/31(日)伊達房実生存説について
全滅した岩付籠城衆
1590(天正18)年5月21日に、武蔵岩付城は羽柴方によって攻め落とされる。城主の北条氏房は小田原に籠城していたため、城代の伊達房実が守備していた。
惣構が破られたのは5月19日。その翌日、城内にいた松浦康成が、援軍として入っていた戦闘経験豊富な山本正次に書状を出して戦況を確認している(埼玉県史料叢書12_0921「松浦康成書状写」越前史料所収山本文書)。この文書が残っていることから判るように、正次は岩付から脱出している。
但し生還できたのは正次しか確認できておらず、伊達房実・松浦康成は史料から姿を消す。後に氏房が肥前で死去した際に家臣として細谷三河守の名が出てくるが、細谷は氏房に随従して小田原にいたものと思われる。
岩付の武家被官が全滅したのは、落城後に出された書状からも確認できる。
5月27日、羽柴方被官たちが岩付落城を北条氏直に伝えた書状に、
抜粋
本丸よりも坊守を出し、何も役にも立候者ハ、はや皆致計死候、城のうちニハ町人・百姓・女以下より外ハ無御座候条、命之儀被成御助候様と申ニ付て、百姓・町人・女以下一定ニおゐてハ、可助ためニ、責衆より検使を遣し、たすけ、城を請取候後
- 小田原市史小田原北条4541「長岡忠興等連署書状写」(北徴遺文六)
とある。本丸に敵が入る前に、坊守が出てきて「戦闘可能な者は全員戦死した」と降伏している。この状況は寄手から検使が入って確認しているので確実だろう。
更にこの後、氏政妹と氏房室を保護したことが記述されるが、彼女たちの引き取り手がなく、開戦前に拘禁した石巻康敬を派遣して対応したとある。城代である伊達房実がいれば、身元確認や事後対応を彼と協議したはずなので、やはり戦死したものと思われる。
伊達房実が生き残ったという記述
一方で家臣団辞典では、伊達房実は降伏して助命されたと記載する。これは寛政譜を元にしつつ、下記文書を根拠とする。
岩付太田備中守・伊達与兵衛・野本将監妻子之事、何方ニ来共、有度方ニ居住不可有異儀候、恐ゝ謹言、
七月十四日/御名乗御判/羽柴下総守殿・黒田官兵衛殿
- 記録御用所本古文書0780「徳川家康書状写」(伊達家文書)1590(天正18)年比定
しかしこの内容は、伊達与兵衛(房実)の妻子が生き残ったことしか示さない。太田・伊達・野本が生存していれば、彼らに宛てて妻子の保証をするはずだ。
よく似た文言の文書は織田信長も出しているが、この場合も山口孫八郎は既に存在しておらず、孫八郎妻子の居住の自由を加藤図書助に保証している。
山口孫八郎後家子共事、其方依理被申候、国安堵之義、令宥免之上者、有所事、何方にても後家可任存分候、猶両人可申候、恐々謹言、
十月廿日/信長(花押)/加藤図書助殿進之候、
- 愛知県史資料編10_1942「織田信長書状」(加藤景美氏文書)1554(天文23)年比定
同時代史料を見る限りでは、やはり房実は戦死したと判断せざるを得ない。
生存説構築の動機
ではなぜ房実生存を、子孫と称する大和田村伊達家が主張するのか。この伊達家に、妻子の居住を保証した上掲文書が伝来するから、房実と関わりがあるのは確実である。
寛政譜によると、系図で最初に「房実」とあったものは、実は「房成」だと訂正している。ところが、同時代史料では全て「房実」であり、何らかの意図をもって伝承を改変した痕跡が窺われる。また、房実の子を「房次」とするが、仮名は「庄兵衛」となり、以後代々の仮名でも「与兵衛」よりも「庄兵衛」が強く出されていく。
伊達「与右兵衛」は今川家文書でも確認され、房実が今川被官の由来を持つことの証左ともなっているほどの象徴で、そう容易に変えるものとは考えづらい。とすると、岩付で助命された与兵衛の子は娘で、婿に入った庄兵衛がいたのかも知れない。
史料を追いきれていないところなので、ひとまずこの仮説で止めておこうと思う。
2018/03/21(水)論文内で史料開示が限定的であるケース
奇妙な論文
Twitterのフォロワからご教示いただいた論文で、驚くようなことがあったので記録しておく。PDFでWeb公開されているもの。
-『北条・徳川間外交の意思伝達構造』(国文学研究資料館紀要11号・2015・丸島和洋) http://doi.org/10.24619/00001469
この中で後北条家中における「取次」が説明されているが、この記述に疑問があったので史料を改めて調べてみた。
まず論文中にある文章を引用する。括弧書きは註の番号。
〔今川氏(駿河)〕一門として北条宗哲(幻庵)・氏信父子(22)および北条網成(23)が関与している。相模中郡郡代大藤政信(24)も交渉に参加している。大藤氏は諸足軽衆の統率者であり、援軍として派遣されているためである。
論文著者が挙げた史料を確認する。
註22)「走湯山什物」(「戦北」4426)、「孕石家文書」(「戦北」1246)。
史料A
来翰祝着候、殊鮭給候、賞翫申候、随而当陣之儀、其以後就被成吉良殿逆心、近日西条へ動之儀申付、彼庄内悉放火、二百余討捕候、可御安心候、就中東口無別状候哉、承度候、猶期来信候、恐々謹言、
閏十月四日/義元(花押)/幻庵御房
- 戦国遺文後北条氏編4466「今川義元書状写」(国立公文書館所蔵走湯山什物)1555(天文24/弘治元)年
史料B
近日者不申承候、夫馬之儀申付候キ、然者其地模様如何、興津之様子承度候、雖不及申候、敵動ニ付而者、夜中成共御左右待入候、仍両種壱荷進之候、可有御賞翫候、猶使者者口上ニ申付候、恐ゝ謹言、
壬五月十三日/新三郎氏信(花押)/岡部和泉守殿
- 戦国遺文後北条氏編1246「北条氏信書状」(孕石文書)1569(永禄12)年比定
註23)「三浦家文書」(「戦北」1220)。
史料C
御直札被下候、謹而奉拝見候、仍武田信玄被除候付而、早速御迎雖可被進置候、信玄無相違被除候付而、敵之動之様子見合、其上御迎可被進置段ニ付而、只今迄被致延引候、内ゝ拙者事申請候而、此度候間、御迎ニ可馳参覚悟候処ニ、信玄自身相州筋へ被罷出候付而、余人者共ハ、何も若輩故、拙者罷越、味方之地之備可申付段、今日未明ニ被申付候間、無是非、此度ハ不致参陣候、誠以無念至極候、雖然信玄相州筋へ之動之間、早速此間ニ引取可申段付而、御迎被進置候、就中松平事、是又御計策故、無別条、其御請候、既ニ手堅証人共進置段、被仰越候、是又珍重候、猶巨細者、御厨伯耆口上ニ申上候、以此旨可預御披露候、恐惶謹言、
五月十一日/北条左衛門大夫綱成(花押)/進上三浦左京亮殿
- 戦国遺文後北条氏編1220「北条綱成書状写」(三浦文書)1569(永禄12)年比定
註24)「岡部家文書」(「戦北」1243)。
史料D
親父可有死去分候歟、さてゝゝ曲時分、笑止千万候、其地弥苦労候、雖然無了簡意趣候、常式ニ者、可相替間、一夜帰ニ被打越有仕置、さて薩埵へ可被相移候、返ゝ簡要候時分、一夜も其方帰路落力候、返ゝ只一日之逗留にて可有帰路候、猶大藤駿州衆被相談候様ニ、可被申合候、恐ゝ謹言、
閏五月十三日/氏政(花押)/岡部和泉守殿
- 戦国遺文後北条氏編1243「北条氏政書状」(岡部文書)1569(永禄12)年比定
論文の説明と史料は合っているかを確認
後北条家内で今川氏の取次として名を挙げているのは、まず北条宗哲、その息子の北条氏信。2代目当主である北条氏綱の娘婿、北条綱成。長く被官となっている大藤家の大藤政信。
北条宗哲
彼は今川義元から書状を受け取っている史料Aから見て、可能性はあるといえる。史料Aで義元は戦況報告をしており、宗哲を経由して当主氏康に情報が伝わることを期待したと想定できるからだ。但し、文書が1通しか伝わっておらず確言は難しい。
北条綱成
史料Cは永禄12年で、武田晴信が駿河、徳川家康が遠江へ侵攻し今川家が壊滅寸前だった状況で出されている。懸川城に追い込まれた今川氏真は家康と和睦して退去する段取りができており、氏真を後北条家が引き取るため、綱成が出向く予定だったらしい。ところが晴信が相模に攻め込む風評があったため綱成は行けなくなってしまう。その状況を釈明したのが史料Cとなる。
綱成が書状を送ったのは今川家の被官、三浦元政であって被官同士の交信となる。文頭で「御直札被下候、謹而奉拝見候」とあるから、元政から綱成に直接問い合わせがあったと思われる。互いの当主への言及がないため取次であるとは確言できない。但し、宗哲のケースと同様可能性はある。
北条氏信
ここから状況がよく判らなくなる。
史料Bは、氏信が岡部和泉守に宛てたもので、先の綱成書状の翌月。氏真は既に後北条方と合流しており、駿河東端で文書も発給している状況。
この時に氏信は薩埵に着陣して武田方と対峙している。岡部和泉守は今川家被官だが、この時は完全に後北条家の指示に服しており、興津から薩埵へ陣を移した直後に、味方の氏信が状況確認をしたのが史料Cになる。
これを、後北条家取次の氏信が、今川家取次の和泉守と交信したと考えるのは無理がある。和泉守はこの半年前の段階で後北条一門である氏規の朱印状で、奉者を務めている。
史料E
制札
右、今度加勢衆濫妨狼藉不可致之、当方為御法度間、於背此旨輩者、急度注進可申、其上可被加下知者也、仍如件、
辰十二月十八日/(朱印「真実」)岡部和泉守奉之/須津之内八幡別当多聞坊并宿中
- 戦国遺文後北条氏編1124「北条氏規制札」(多聞坊文書)
宛所の駿河須津多聞坊は現在の富士市にあり、文中にある「加勢衆」は、今川方に留まった富士氏を支援するための後北条方の軍勢だろう。一旦は父である岡部大和守と共に懸川城に入ったらしい和泉守は、相当早い段階で後北条家に駆け込んで、氏規と共に援軍を出していたことが判る。
つまり、実態として和泉守は後北条被官として行動している訳であり、氏信は後北条方の味方として状況確認をしているだけだろう。氏信は和泉守が近い陣地にいたから交信したのであって、取次として行動してはいない。そして、氏信が今川家と関わっている文書はこれしか存在しない。
大藤政信
史料Dが掲示されているが、これは氏信で論拠とされた文書と同一日付のもので北条氏政から大藤政信に宛てたもの。和泉守の父である大和守が死去したことを受けて、北条氏政は一時帰宅は止むを得ないとしつつなるべく早く現場復帰することを依頼している。そして、現場での調整を「大藤駿州衆」とするように指示している。
同日付けで氏政から和泉守に宛てた書状がある。
史料F
其地如何、無心元候、如風聞者、駿河衆自兼日承人衆不足之由候、為如何模様候哉、一段気遣千万候、有様ニ可承候、猶如兼日申届、各一味ニ被相談簡要候、恐ゝ謹言、
壬五月十三日/氏政(花押)/岡部和泉守殿
- 戦国遺文後北条氏編1244「北条氏政書状」(岡部文書)
状況を尋ねて「心もとない」と書いているから、大和守死去に関連した史料Dより前に出されて、その後で訃報を聞いた氏政が追いかけて発給したのだろう。この文書で氏政は駿河衆が人数不足であることを気にしていて、状況を気遣っている。「更に兼ねてお伝えしたように、おのおのが親密に相談するのが大切だ」とも書いていて、これは史料Dで「更に大藤・駿州衆にご相談するように、申し合わせるように」と書いていることと同義であると判断してよい。
このように、氏信の時と同じく、この場合の大藤政信も和泉守と同陣だったから名が出ただけであり、私から見ると取次の機能は全く関係がない。