2018/03/30(金)羽柴方から見た韮山城攻防戦

意外と健闘していた韮山城

1590(天正18)年の韮山城攻めを羽柴方から見てみる。1日で落城した山中城と比較すると、開城を呼びかけさせるために緩やかな攻撃に留めたという説もあるが、それなりに本格的な攻城をしている。

4月8日 羽柴秀吉→加藤清正

即日落城した山中城について書く一方、小田原と韮山は干殺にすると報告している。この段階で韮山城は長期戦となる予想を立てていたようだ。

此表様子為可聞届、飛脚付置之由、尤悦被思食候、先書仰遣、去月廿七日至三枚橋被成御着座、翌日ニ山中・韮山躰被及御覧、廿九日ニ山中城中納言被仰付、即時ニ被責崩、城主松田兵衛大夫を始、千余被打捕候、依之箱根・足柄、其外所々出城数十ヶ所退散候条、付入小田原ニ押寄、五町十町取巻候、一方ハ海手警船を寄詰候、三方以多人数取廻、則堀・土手・塀・柵已下被仰付置候、北条首可刎事、不可有幾程候、猶様子者不可気遣候、次韮山儀も付城・堀・塀・柵出来候、是又可被干殺候、委細長束大蔵大夫可申候也、
四月八日/朱印/加藤主計頭とのへ

  • 豊臣秀吉文書集3022「羽柴秀吉朱印状写」(阿部氏家蔵豊太閤朱印写)

こちら方面の状況を聞いて飛脚を付け置いたとのこと。尤もなことでお喜びになっています。先の書状で書いたように、先月27日に三枚橋にご着座なされ、翌日に山中・韮山の状況をご覧になりました。29日に山中城攻めを中納言に命じられ、即時に攻め崩し、城主松田兵衛大夫を初めとして千余人を討ち取りました。これにより箱根・足柄その他所々の出城数十ヶ所が退散しましたから、付け入って小田原に押し寄せました。5~10町の距離で取り巻いています。一方で海上には警固船が寄せ詰めています。三方を多数で包囲し、堀・土手・柵以下を配置なさいました。北条の首を刎ねるのは程なくでしょう。更に様子の気遣いをなさいませんように。次に、韮山にも付城・堀・柵ができました。こちらもまた干殺しになさるでしょう。詳しくは長束大蔵が申します。

4月29日 羽柴秀吉→駿河清見寺

駿河国清水寺から、韮山城攻囲のための梵鐘を借り出している。恐らく、韮山を囲む戦線に起伏があり、なおかつ長大になったために大きな鐘が必要になったのかも知れない。

当寺撞鐘之義、韮山取巻候者共ニ借遣候、為奉行石川兵蔵・新庄新三郎可相渡候也、
四月廿九日/(羽柴秀吉朱印)/清見寺

  • 豊臣秀吉文書集3045「羽柴秀吉朱印状」(清見寺文書)

当寺の鐘のこと。韮山を包囲している者たちに貸すため送ります。石川兵蔵・新庄新三郎を奉行とするのでお渡し下さい。

5月6日 羽柴秀吉→稲葉貞道・前野長康・生駒親正

この時、仕寄(包囲設備)を頑丈にしたなら「かねほり=坑夫」を派遣すると告げている。戦線が膠着していたようだ。

其方手前仕寄丈夫ニ申付候者、かねほりを可被遣候間、手堅申付候て、様子可言上候也、
五月六日/(羽柴秀吉朱印)/羽柴郡上侍従とのへ・前野但馬守とのへ・生駒雅楽頭とのへ

  • 豊臣秀吉文書集3197「羽柴秀吉朱印状」(個人蔵)

そちらの手元にある仕寄を頑丈にするよう指示したなら、金掘りを派遣しますので、手堅く指示して状況を報告して下さい。

6月2日 羽柴秀吉→福島正則

ここでようやく、「下丸」を攻め崩して放火している。「下丸」がどこかは不明だが、丘陵地ではない部分、韮山高校の敷地、もしくはその外側にあった曲輪ではないかと考えている。

味方に負傷者が出ないように静かに攻めろという指示が出ているが、これは秀吉自らが力攻めを命じた岩付攻城でも使われている言葉であり、韮山攻めが特別に加減されていた訳ではない。

昨日申刻、韮山下丸乗崩、令放火之由、神妙之動候、然者かね掘可被遣候条、寄能山之方へ仕寄可相付候、手負無之様、土手丈夫仕出、静ニ可取寄候、猶福原右馬助・木下半介可申候也、
六月二日/(羽柴秀吉朱印)/福島左衛門大夫とのへ

  • 豊臣秀吉文書集3259「羽柴秀吉朱印状」(永青文庫叢書・細川家文書)

昨日申刻に、韮山下丸を乗り崩して放火したとのこと。神妙な働きです。ということで金掘りを派遣するでしょうから、うまく山の方へ寄せるよう指示して下さい。怪我人が出ないように土手を丈夫に作って、静かに寄せて下さい。更に福原右馬助・木下半介が申します。

6月7日 羽柴秀吉→加藤清正

戦果を報告した末尾に「韮山ニ後端城五ツ乗取之候」とある。「後端城」は本城の南東にある天ヶ岳の山岳部分を指すかと思われる。しかし、落城は近いだろうと書いていることからして、まだ抵抗を続けている。

去月六日書状、去三日被加御披見候、依小田原之儀、弥丈夫ニ仕寄等被仰付候、依之城中続夜日及難堪、欠落候輩雖有之、於其端被加御成敗、又ハ被追返候間、上下被為干殺を相待迄候、昨夜和田家来之者百余、家康江相理、小屋ゝゝニ火を掛、走出候、雖可被成誅罰、家康江兼々心合候由候条、被助置之候、関八州之儀、城々悉相渡候、其内岩付・鉢形・八王寺・忍・持井、何も命者被相助候様ニと、北条安房守御侘言申上候へ共、不被入聞召、右之内武州岩付ハ北条十郎城ニ而候、八州ニ而用害堅固之由被召及、可然所より先可責干之旨被仰遣、則木村常陸介・浅野弾正少弼・山崎・岡本、家康内本多・鳥居・平岩以下弐万余、岩付へ押寄、即時ニ外構共被破、千余討捕之、本城一之門江相付候、然者城中可然者大略討死ニて、残者町人・百姓、其外妻子類迄ニ候、十郎者小田原ニ在之間、命之儀被為助候様ニと申上候条、城受取渡被仰出候、十郎妻子を初、悉被召籠置候、死残候者長度者同前候、八州城より小田原ニ籠城之者、妻子共何も右之分へ、其趣小田原へ相聞、弥令難儀無正躰旨、欠落之者申候、安房守儀不打置、被成御助候様ニと歎申、既鉢形江者、越後宰相中将・加賀宰相・浅野・木村を初、五万余被発向候、忍城江者、石田治部少輔ニ佐竹・宇都宮・結城・多賀谷・水谷・佐野天徳寺被相添、以二万余可取巻旨雖被仰出候、脇ニ仕候岩付城被加御成敗上者、命計相助、城可請取旨被仰遣候、奥両国面々不残参拝、其内伊達参上仕候、彼手前之儀、此頃押領之地可返上由、堅被仰出、御請申候、弥不相替可被成御対面候、将亦韮山ニ後端城五ツ乗取之候、日々夜々仕寄無由断被仰付候間、落居不可有程候、猶山中橘内可申候也、
六月七日/(羽柴秀吉朱印)/加藤主計頭殿へ

  • 豊臣秀吉文書集3265「羽柴秀吉朱印状写」(阿部氏家蔵豊太閤朱印写)

去る月の6日の書状、3日に拝見しました。小田原のことは、ますます丈夫に仕寄を指示しています。これによって城中は日を追って耐え難くなり、逃亡する者が出ました。その度に成敗しています。また、追い返してもいて、城内上下が餓死するのを待っています。昨夜は和田の家来100名以上が家康に連絡して、複数の小屋に放火して脱走しました。誅罰を加えるつもりでしたが、家康へ以前より心を合わせているとのことだったので、助命しました。関八州では城々は全て制圧しました。そのうちで岩付・鉢形・八王子・忍・津久井は、どこも助命嘆願が北条氏邦からありましたが、受け入れませんでした。右のうちで岩付は北条氏房の城です。八州では要害堅固と聞いて、そういう場所から攻め落とそうと指示しました。そして木村一・浅野長吉・山崎片家・岡本良勝、家康の家中からは本多忠勝・鳥居元忠・平岩親吉という2万余りが岩付へ押し寄せ、即時に外構を破り1千人以上を討ち取りました。本城の一の門に兵をつけたところ、城中の主要な者は殆ど戦死して、残りは町人・百姓とその妻子だけで氏房は小田原にいるので、命は助けてもらえないかと懇願がありました。そこで城を受け取らせました。氏房妻子をはじめとして、全員を拘束しています。生き残った者で主だった者も同然です(「長度」は「長敷」の誤記と想定)。八州の城から小田原に籠った者の妻子は右のようになると、その様子は小田原にも聞こえていて、いよいよ難儀してうろたえていると、逃亡した者が言っています。氏邦のことは打ち置かず、お助け下さいと嘆願しています。既に鉢形へは上杉景勝・前田利家・浅野長吉・木村一をはじめ、5万余りが進軍しています。忍城へは石田三成に佐竹・宇都宮・結城・多賀谷・水谷・佐野天徳寺を添えて2万余りで包囲せよと指示しました。その脇にある岩付城に成敗を加えた上は命だけは助けて城を接収せよという指示です。奥羽両国の面々は残らず参拝し、その内で伊達は参上しました。あの手前のことから、この頃占領した土地を返上せよと堅く命じ、受諾。特に変わったこともなく対面が終わりました。一方で、韮山で後ろ端にある城を5つ乗っ取りました。日夜仕寄を油断なくするように指示していますから、落城はすぐでしょう。更に山中橘内が申します。

6月7日 徳川家康→北条氏規

「後端城五ツ乗取」を羽柴秀吉が報告したのと同日、徳川家康は籠城中の北条氏規に降伏を勧告している。度々勧告を送っていたのが判る。この文書が伝来したことからすると、これが最後の勧告でこの後程なく開城したのではないかと推測できる。

態令啓候、仍最前も其元之儀及異見候之処ニ、無承引候之き、此上者、被任我等差図、菟角先有下城、氏政父子之儀、御侘言専一候、猶朝比奈弥太郎口上相含候、恐ゝ謹言、
六月七日/家康(花押)/北条美濃守殿

  • 戦国遺文後北条氏編4542「徳川家康書状」(神奈川県立博物館所蔵北条文書)

折り入ってご連絡します。さて前にもあなたに意見をしたところ、承認いただけませんでした。こうなった上は、私の考えにお任せいただき、とにかく下城して氏政父子のことを嘆願するのが専一です。更に朝比奈泰勝が申します。

6月28日 羽柴秀吉→加藤清正

この日に初めて、韮山開城が確認できる。この時点で残されていたのは小田原と津久井、忍の3箇所のみ。小田原より早く開戦当初から攻撃されていた韮山は、小田原とほぼ同じ防御期間を記録したことになる。

関東御陣為見舞、使者殊筒服一・帷子百到来、遠路切々懇志思召候、仍此表之儀、弥無残所被仰付候、武州鉢形城北条安房守居城候、被押詰、則可有御成敗と被思召候処ニ、命之儀被成御助候様ニと、御侘言申上ニ付、去十四日城被請取候、安房守剃髪山林候、同国八王子城要害堅固ニ付、敵歴々之者共余多楯籠候条、越後宰相中将・加賀宰相・越中侍従・木村常陸介・山崎志摩守ニ被仰付、去廿三日則時責崩、悉討果、大将分十人、其外弐千余討捕之、討捨追討等不知其数候、妻子・足弱迄も悉被加御成敗候、同国忍城之儀、浅野弾正少弼・石田治部少輔ニ佐竹・結城・宇都宮・多賀谷・水谷・真田・佐野以下被仰付、水責仕候、城中より様々御侘言雖申上候、不被聞召入候、付井城ハ家康内本田・鳥居・平岩ニ被為取巻候、韮山之儀者北条美濃守此中御侘言申上候、彼者事最前上洛仕、被成御覧候故、不便ニ被思召、命被成御助候、剃頭高野栖候、然者小田原一城落居不可有程候、城内下々計略申分色々雖有之、不被入聞召入候、悉可被干殺御覚悟候、弥以出羽・奥州迄平均静謐候、伊達・山方・南部以下令参陣候、当表被成御仕置、至于会津被移御座、両国御掟堅可被仰出候、随而高麗人渡海之由候、着岸次第可召具旨、小西かたへ被仰出候、其元之儀、馳走専一候、猶増田右衛門尉可申候也、
六月廿八日/(羽柴秀吉朱印)/加藤主計頭とのへ

  • 豊臣秀吉文書集3276「羽柴秀吉朱印状」(東京国立博物館)

関東御陣への見舞のため使者をいただき、特に筒服1つ、帷子100が到来したことは、遠路にこまごまとしたご親切だと感じ入りました。さてこの方面のことですが、いよいよ残すところもなく収束させています。武蔵国の鉢形城は北条氏邦の居城です。押し詰めて、すぐに成敗しようと思っていたところ、命だけはお助け下さいと嘆願してきたので、去る14日に城を接収しました。氏邦は剃髪して謹慎しています。同国の八王子城は要害堅固で敵で武名が高い者たちが数多く籠城していましたから、上杉景勝・前田利家・前田利長・木村一・山崎片家に命じて、去る23日に即時攻め崩し全員討ち取りました。大将分は10人、そのほかは2千余を討ち取っています。討ち捨てや追い討ちなどは数え切れません。妻子・足弱なども全員成敗しました。同国忍城は、浅野長吉・石田三成に佐竹・結城・宇都宮・多賀谷・水谷・真田・佐野以下を付けて水攻めにしています。城中から様々な嘆願をしていますが、聞き入れていません。津久井城は家康家中の本多忠勝・鳥居元忠・平岩親吉に包囲させています。韮山のことは北条氏規が嘆願してきました。あの者は以前上洛して面会していますから不憫に思い、命は助けました。剃髪して高野山に住まわせます。ということで小田原一つだけとなり、落城まで時間はかからないでしょう。城内の下々からは内応しようと色々言ってきますが聞き入れていません。全員を餓死させる覚悟です。いよいよもって、出羽・奥州まで平均・静謐となります。伊達・山形・南部以下は参陣しています。この方面を裁定するため、会津まで行って、両国の掟を堅く発令します。従って、高麗人が渡海したとのこと。着岸したら連れて来るようにと、小西方へ指示されました。そちらのことは奔走することが専一です。更に増田長盛が申します。

2018/03/26(月)戦国時代の掃除さぼり

掃除を命じられた町人たち

後北条氏の本城である小田原での掃除を命じた文書が伝わっている。命じられたのは小田原の船方村。

毎月の大掃除で、人足100人以上を出すように!

定置当社中掃除法
右、任先規、自欄干橋船方村迄宿中之者、人足百余出之、可致掃除普請、自当月於自今以後、毎月当城惣曲輪掃除之日可致之、何時も掃除之前日、西光院・玉瀧坊遂出仕、添奉行可申請、如此定置上、掃除於無沙汰者、西光院・玉瀧坊可処越度候、扨又朝夕之掃除之事者、両人可申付候、仍定処如件、
元亀三年五月十六日/(虎朱印)/西光院・玉瀧坊

  • 戦国遺文後北条氏編1598「北条家朱印状」(蓮上院文書)
  • 小田原市史小田原北条1107「北条家虎朱印状」(小田原市・蓮上院所蔵西光院文書)

定め置く当社中の掃除法。右は、先の規定のように、欄干橋より船方村までの宿中の者たちが人足を100余人出し、掃除普請をするように。今月以降は毎月の当城惣曲輪掃除の日に行なうように。何れも掃除の前日は西光院・玉瀧坊に出向いて、奉行を随伴して作業を受けるように。この定め置きがある上は、掃除を怠った場合には西光院・玉瀧坊の過失とするだろう。そしてまた、朝夕の掃除の者も両人(西光院・玉瀧坊)が指示するように。

小田原船方村

この中の「【分割】小田原市歴史的風致維持向上計画(第2章)」のPDFを参照したところ、船方村の記載があり、近世の千度小路を指すようだ。

先の朱印状では、この在所から欄干橋までの掃除を命じられている。

「掃除普請」とあることから、破損部分があれば修繕することも含まれるのかも知れない。また、毎月1度小田原城で「惣曲輪掃除の日」があったらしい。参加者は西光院と玉瀧坊で出欠をとり、(恐らく両寺院から出した)奉行を同伴するよう指示。これを怠ると、西光院・玉瀧坊の過失とすると定めている。更に、朝夕の掃除も西光院・玉瀧坊に指示したとされている。

毎日朝夕2回の細かい掃除と、作業員100名以上を出しての毎月1回の大掃除。これは厳しいと思うのだけど、案の定サボタージュして怒られている。惣曲輪掃除の日か朝夕の掃除か、または新たに賦課された掃除かは不明だが、船方村の人足が20名不足したらしい。

首に縄を付けてでも……

当社中晦日掃除人足之内、舟方村より廿人不罷出由、申上候、自古来相定候処、曲事ニ候、頸ニ縄を付引出、普請可申付候、及異儀者、可遂披露、可処厳科旨、被仰出者也、仍如件、
丑十一月二日/(虎朱印)江雪奉之/西光院・玉瀧坊

  • 戦国遺文後北条氏編3758「北条家朱印状」(蓮上院文書)
  • 小田原市史小田原北条2096「北条家虎朱印状」(小田原市・蓮上院所蔵西光院文書)

当社中で晦日の掃除人足のうち、船方村よりの20人が出てこなかったとのこと報告があった。古来より定めたところで、曲事である。首に縄を付けてでも引き出し、普請を指示するように。異議を唱える者は報告せよ。厳しく罪に問うだろうと仰せである。

いつ怒られたのか

この時の虎朱印状は年未詳だが、1572(元亀3)年以降で「丑」と記載されているので以下の年が候補となる。

  • 1577(天正5)年
  • 1589(天正17)年

小田原市史でも、奉者が板部岡融成である点から天正5年か天正17年のどちらかだろうと推測している。

掃除規則を「自古来相定候処」としているから、制定した元亀3年から5年後の段階で「古来より定めていた」と書くのは大袈裟過ぎるようにも見える。とはいえ、天正17年では氏直体制に完全に入っている。「首に縄をかけてでも」という感情的な表現は氏政体制でよく見られるため、天正5年比定も捨てがたい。

一つ留意したいのは、天正17年11月2日だとすると、通説で11月3日とされる名胡桃事件の前日に当たるという点。氏直釈明状によると、替地と称して上杉方が名胡桃を接収するという噂が流れ、それに対処して名胡桃を取ったとされている。かなりの緊張状態にあった筈であり、感情的な表現を使ってしまった可能性はある。

比較的のんびりしていた時期に氏政が激して書いたのか、名胡桃案件でピリピリしていた氏直がつい強めに警告してしまったのか。非常に興味深い。

2018/03/25(日)岡部和泉守の関与史料

戦国遺文に収録されているものを改めて列挙。

岡部家文書の各伝来については、『戦国期静岡の研究』(静岡県地域史研究会)所収の「今川家旧臣の再仕官」(前田利久)p188「岡部氏受給文書 家別一覧」より採集。

同書は岡部家文書について伝来した家ごとに考察。岸和田・水戸・土佐・相馬・越前の岡部家と、土佐・相模の孕石家に文書は伝わっており、孕石家が岡部家文書を伝来したのは「岡部元信の娘が孕石家に嫁いでいることから、その際に写しを持参したものと思われる」(p187)と推測している。

1568(永禄11)年

12月18日

制札
右、今度加勢衆濫妨狼藉不可致之、当方為御法度間、於背此旨輩者、急度注進可申、其上可被加下知者也、仍如件、
辰十二月十八日/(朱印「真実」)岡部和泉守奉之/須津之内八幡別当多聞坊并宿中

  • 戦国遺文後北条氏編1124「北条氏規制札」(多聞坊文書)

1569(永禄12)年

4月19日

雖島田郷相渡候、遠州境故、難所務之由被申候、然者父子兄弟懸川籠城候之処、一身属当方条、無双之忠信ニ候、仍当国静謐之上、舎兄和泉守知行之内弐百貫必可罷置候、猶依于戦功奉公、和泉守遺跡無異儀可申付者也、仍如件、
永禄十二年己巳四月十九日/信玄(花押影)/岡部次郎兵衛尉殿

  • 戦国遺文今川氏編2350「武田晴信判物写」(水府明徳会彰考館所蔵能勢文書)
  • ※水戸岡部家伝来

4月28日

懸川此時ニ候、早々被相移彼国之模様聞届、如何様ニも早々可被成候、其方之一左右聞届可令出勢候、恐々謹言、
卯月廿八日/氏政判/岡部和泉守殿

  • 戦国遺文今川氏編2358「北条氏政書状写」(国立公文書館所蔵土佐国蠧簡集残編七)
  • ※土佐孕石家伝来

閏5月3日

氏真御二方、無相違至于沼津御着候、目出満足不遇之候、今度懸川迄御供候事、老足与云誠不浅令存候、一類之衆不残被遂忠信候、可為御本望候、就中和泉方、於薩田陣昼夜被尽粉骨候、以か様之儀、氏真早ゝ御対面之由候、於愚老も満足此事候、次一荷・白鳥一進候、恐々謹言、
閏五月三日/氏康(花押)/岡部太和守殿

  • 戦国遺文今川氏編2382「北条氏康書状」(岡部文書)
  • ※土佐岡部家伝来

閏5月13日

親父可有死去分候歟、さてゝゝ曲時分、笑止千万候、其地弥苦労候、雖然無了簡意趣候、常式ニ者、可相替間、一夜帰ニ被打越有仕置、さて薩埵へ可被相移候、返ゝ簡要候時分、一夜も其方帰路落力候、返ゝ只一日之逗留にて可有帰路候、猶大藤駿州衆被相談候様ニ、可被申合候、恐ゝ謹言、
閏五月十三日/氏政(花押)/岡部和泉守殿

  • 戦国遺文後北条氏編1243「北条氏政書状」(岡部文書)
  • ※土佐孕石家伝来

其地如何、無心元候、如風聞者、駿河衆自兼日承人衆不足之由候、為如何模様候哉、一段気遣千万候、有様ニ可承候、猶如兼日申届、各一味ニ被相談簡要候、恐ゝ謹言、
壬五月十三日/氏政(花押)/岡部和泉守殿

  • 戦国遺文後北条氏編1244「北条氏政書状」(岡部文書)
  • ※土佐岡部家伝来

近日者不申承候、夫馬之儀申付候キ、然者其地模様如何、興津之様子承度候、雖不及申候、敵動ニ付而者、夜中成共御左右待入候、仍両種壱荷進之候、可有御賞翫候、猶使者者口上ニ申付候、恐ゝ謹言、
壬五月十三日/新三郎氏信(花押)/岡部和泉守殿

  • 戦国遺文後北条氏編1246「北条氏信書状」(孕石文書)
  • ※相模孕石家伝来

8月24日

雖乏少、初鮭一尺、進之候、恐ゝ謹言、
八月廿四日/氏政(花押)/岡部和泉守殿

  • 戦国遺文後北条氏編1301「北条氏政書状」(岡部文書)
  • ※土佐岡部家伝来

11月18日

次郎方一札披見候、誠無曲筋目候、但兼日被相談所存相替、彼在城相止与云儀候者、無申事候、其一筆早ゝ取而可給候、五十卅之儀ニ、争我ゝ事欠可申候、仮令兼日申合首尾ニ候間申候、在城違変之儀候者、無是非候、能ゝ彼前被相尽、返答可承候、可得其意候、恐ゝ謹言、
十一月十八日/氏政(花押)/岡部和泉守殿

  • 戦国遺文後北条氏編1336「北条氏政書状」(岡部文書)
  • ※土佐岡部家伝来

12月18日

十八日註進状同酉刻到着候、敵本陣を構滝之瀬を取越あたの原へ打出候由候、依之善九郎・孫次郎小足柄へ上由候、是ハ前ゝ留置と云萱野にてよりひき不成由候、但諸人之申口度ゝ替候間、今善九郎申処正理ニ候、左様之高山江敵可思懸ハ難成儀ニ候、何ニ今五六百も被指加可然候、只今ハ第一之初口与聞得候、一、大将陣ハ何方可然候、峠ニハ陣庭無之間、地蔵堂辺然歟、地形不見候間推量迄ニ候、能ゝ見届、早ゝ可承候、又大手へも以使急度可被申上候、片時も遅ゝ候てハ不可然候、一、深沢為後詰候ハ坂中辺ニ一千も三千もおろしかけへき地形候歟、爰聞届候、恐ゝ謹言、
十二月十八日/氏康(花押)/岡部和泉殿・大藤式部少輔殿

  • 戦国遺文後北条氏編1358「北条氏康書状」(岡部文書)
  • ※土佐岡部家伝来

12月24日

敵陣之様子節ゝ承候、肝要候、今日之模様重而可承候、後詰之催をハ一切敵陣へ不聞様可然候、四郎ニも此節目可有意見候、恐ゝ謹言、
十二月廿四日/氏康(花押)/岡部和泉守殿

  • 戦国遺文後北条氏編1363「北条氏康書状」(岡部文書)
  • ※土佐岡部家伝来

1572(元亀3)年

為当意堪忍分、小机麻生進之候、仍状如件、
元亀三年三月十六日/氏政(花押)/岡部和泉入道殿

  • 戦国遺文後北条氏編1585「北条氏政判物」(岡部文書)
  • ※土佐岡部家伝来

年未詳

為改年之祝儀、早ゝ蒙仰候、祝着候、殊両種給候、珍重候、自是も一種・一荷進之候、一儀迄候、然者小四郎方帰国之儀承候、如先段申入、於拙者少も無相違存候キ、如何様ニも御帰国簡要之段、涯分令助言候、可御心安候、雖委細申度候、御使者急候条、令期永日之時候、恐ゝ謹言、
正月十四日/平氏規(花押)/岡部丹波守殿参

  • 戦国遺文後北条氏編4010「北条氏規」(孕石文書)
  • ※土佐孕石家・相模孕石家伝来

岡部丹波守と、大和守・和泉守との関係は不明だが参考のため記載。