2017/12/01(金)各種辞典にない戦国期「逼塞」の語義

「逼塞」の用例

近藤綱秀が片倉景綱に送った「何分ニも如御作事、逼塞可被下候」が不明で「逼塞」の用例を確認した。

  • 埼玉県史料叢書12_0807「近藤綱秀書状」(片倉家資料)1587(天正15)年比定

    如仰其以来者、懇之御音絶候、内々無心元存知候刻、御懇札本望至極候、然者従貴国小田原・奥州へ、御状則御取成申候、委細者御報ニ被申述候、尤前々之御筋目与申、無二被仰合候者、何分ニも如御作事、逼塞可被下候、此処御取成御前ニ候、随身之御奉公申度候、是又奉頼候、委曲彼御使僧へ被申渡候条、令略候、恐々謹言、
    正月三日/近藤出羽守綱秀(花押)/片倉小十郎殿参御報

戦国期の「逼塞」(用例の抜粋は後述)

  1. 心が近く通い合っている状況 5例
  2. 追い立てられて苦しい状況 5例

1と2のどちらになるかという点は、前半の「なにぶんにも御作事のごとく」から類推可能だ。この「御作事」が何かというと、別文書にヒントがある。

  • 戦国遺文後北条氏編3305「北条氏照書状」(仙台市博物館所蔵片倉文書)1588(天正16)年比定

    今般従政宗、氏直へ態預御札候、先筋目候之処、貴辺副状無之候、一段御心元候処、境目ニ御在城之由候、一入苦労之至存候、向後者貴国当方無二御入魂可有之段、別而御取成尤候、当方弓矢之義者何分ニも政宗御作事馳走可申候、為其申届候、恐ゝ謹言、
    卯月十四日/氏照(花押)/片倉小十郎殿参

翌年4月に北条氏照が片倉景綱に宛てた書状で「当方弓矢之義者何分ニも政宗御作事馳走可申候」と書いた内容と同じだと思われる。後北条家の軍事行動は、何においても伊達政宗の御作事への馳走とするでしょう、という申し出だから、御作事=政宗の行動・作戦を示すと見るのが妥当。そして氏照と同じ趣旨を綱秀も語っていると考えるなら、1の用例になると結論が出せる。

Web上にある佐竹氏文書でも多数の「逼塞」が確認できるが、何れも1と2のどちらかで解釈可能だ。

ところが、ここで挙げた1と2の意味は古文書用の辞書に載っていない。

各辞典による解説

戦国期に限った辞典ではないためか、近世刑罰を念頭に置いたものが多い。何れも、戦国期史料とは合致してこない。

『同時代国語大辞典』

1)世間に出るのを憚って、自宅に籠っていること。2)内内心をひきしめ、自らを律すること。

『日本国語大辞典』

1)せまりふさがること。逼迫していること。2)姿を隠してこもること。3)刑罰。

『音訓引き古文書字典』

1)ひきこもること。姿を隠すこと。2)刑罰の一つ。武士や僧に科された謹慎刑。門を閉じ、昼間を出入りを禁じられた。※逼迫 1)行き詰まって苦痛や危機がせまること。2)さしせまること。困窮すること。

『古文書難語辞典』

近世、士分・僧侶に科せられた刑。一定期間門を閉じて自宅にこもる。ただし、夜間、くぐり戸からの出入りは許された。

『古文書古記録語辞典』

逼迫に同じ。1)謹慎している。2)零落して引きこもる。

原義から考え直し

辞書になければ、用例を列挙して文脈から意味を探るしかない。ひとまず文字の成り立ちを考えると、

  • 「逼」何かと何かが近づいて迫る・寄る様子
  • 「塞」塞がっている・閉じている様子

となり、密着・切迫を(する・される)という意味合いが考えられる。

これを元に2つの群に分けてみた。これが前段の1と2の語義となる。

1)心が近く通い合っている状況

北条氏繁が『岩崎』に、北条氏政が蘆名盛氏との対話を望む心底を強調する

「対盛氏無二可申談心底逼塞被申候」埼叢12_436

足利晴氏に対して忠誠心を強調する北条氏康

「若君様御誕生以来者、尚以忠信一三昧令逼塞候処」小田原市史212

那須資親に対して忠誠心を求める足利義氏

「此上無二忠信逼塞管要候」古河市史936

会田内蔵助の忠誠心を認める簗田晴助

「年来忠信令逼塞候之上」埼叢12_195

千葉覚全が彦部豊前守に、奥方の扱いでの助力で心を一つにしたいと望む

「奥方世上乱入候者、其地へ可罷移之由御内儀候共、誠ゝ、一力得申、向後者、其逼塞迄候」戦北3665

2)追い立てられて苦しい状況

武田との戦いのため切迫した心情で越相同盟を模索する北条氏康

「其上年来之被抛是非、越府與有一味、信玄へ被散鬱憤度、以逼塞、旧冬自由倉内在城之方へ内義被申候処、従松石・河伯以使被御申立之由候」神3下7665

戦乱で耕地を荒らされた領民に渋々援助をする北条氏忠

「進退之御侘言申上間、雖御逼塞候、五貫文ニ弐人ふち被下候」戦北1514

捨てた妻が心配で連絡したいものの悶々とする正木時長

「相・房御和睦以来、内ゝ疾可令啓達旨、雖令逼塞候」戦北4488

家中で反乱があり鎮圧を迫られていた里見義頼

「其上大膳亮拘之地催備、企逆儀候之条、不及是非候、因茲可加退治逼塞ニ候」戦北4489

小田城を追い出されていた小田氏治

「仍今度小田之儀、押詰可付落居由、逼塞之処、氏治彼地出城」埼叢12_297

補記『日本国語大辞典』での記載

コメントでご指摘をいただいた点を受け、上記では軽く記載したに留めた『日本国語大辞典』での記載を追加記述してみる。私は当初見たのは初版のみであった。ここでは意味2の謹慎用例として毛利元就書状が挙げられていた。ところが、第2版では元就書状が独立して意味を立てられていた。

初版

1(ーする)せまりふさがること。逼迫していること。2(ーする)姿を隠してこもること。身をつつしむこと。謹慎すること。また、零落して引きこもること。落ちぶれて世間から隠れ住むこと。※毛利元道氏所蔵文書(弘治三年)11月25日・毛利元就自筆書状(日本の古文書)「ただただ内心には此御ひっそくたるべく候」 3江戸時代の刑罰の一つ。武士・僧侶に科せられた自由刑で、門を閉じ昼間の出入りは禁ぜられたが、夜間潜戸から目立たないように出入りすることは許された。50日、30日の二種類があり、閉門より軽く、遠慮より重い。

第2版

1(ーする)せまりふさがること。逼迫していること。2(ーする)姿を隠してこもること。身をつつしむこと。謹慎すること。また、零落して引きこもること。落ちぶれて世間から隠れ住むこと。※仮名草子・智恵鑑(1660)1・11「御勘気をかうむり、ひっそくしおるものなどを」※浮世草子・武家義理物語(1688)2・1「其の身は遠所の山里にひっそくして」※浄瑠璃・大経師昔暦(1715)中「家屋敷をも人手に預けるひっそくの身」※六如庵詩鉦-二編(1797)三・寄題波響楼「神仙中人厭偪側高居常愛海上楼」※夢酔独言(1843)「おのしは度々不埒があるから先当分はひっ足して、始終の身の思安をしろ」 3(ーする)内心推量すること。※毛利家文書-(弘治3年)(1557)11月25日・毛利元就書状(大日本古文書2・405)「唯今如此候とても、ただただ内心には、此御ひっそくたるべく候」 4江戸時代の刑罰の一つ。武士・僧侶に科せられた自由刑で、門を閉じ昼間の出入りは禁ぜられたが、夜間潜り戸から目立たないように出入りすることは許された。50日、30日の二種類があり、閉門より軽く、遠慮より重い。

この元就書状の全文を改めて調べる必要があるが、「内心推量すること」が唐突に出現したことは、他の例や文字の成り立ちから見て違和感がある。とはいえ毛利家では東国とは異なる意味体系を持っていた可能性がある。ここは検討を続けたい。

2017/11/07(火)小幡兵衛尉の処遇に関連する文書

岡田利世、小幡信定に、降伏を促す

  • 戦国遺文後北条氏編4543「岡田利世書状」(源喜堂古文書目録二所収小幡文書)天正18年に比定。

当城を六月七日両日相尋候へハ、はや其方へ御越候由候、不懸御目御残多存知候、彦三様より貴所様之事内ゝ心懸申候へて被仰越候条、小田原へ取寄候時分より、いかなるつてニても、セめて書状を取かわし申度候而、さまゝゝ調略共仕候へ共、此方ハ不苦候へ共、城中ニて御法度つよく候由候而、御為いかゝと存候て不申入候、六日七日両日ハ者はが善七郎殿と申人を頼申候て、案内者をこい候てたつね申候、氏直様御壱人ニて二夜御酒なと被下候間、昨日七日之晩、家康陣取へ御立越候、一、彦三様御身上之事いかか被思食候哉、其方之御様子之通ニてハ是又家康へか内府へ御出候て尤候、一、忍之城御セめ候わんとて越後衆・羽筑前殿ニ被仰付候、昨夕此地まて御越候間今朝すくニおしへ御越候、定而彦三郎殿もおしへ可為御参陣候哉、貴所様もおしへ御出候ハん哉、御大儀なから御馬とり一人ニて此方へ御出候事ハなるましく候哉、以而上彦三様御身上又ハ貴所様御身上之事申談度候、一、信州あいき息宗太郎も家康へ罷出度と被申間、津田小平次と我ゝ両人して肝煎申候ハんと申候ても不人事、被仰候間、片時もいそぎ申談度候、一、先度木村ニ直談申候、先年信州こむろニて、井野五左衛門と申人へやくそく申候金子早ゝ御済候て尤候由申入候、五左衛門と申人、其時ハほうはいニて候今ハ上様御馬廻ニて一段御意よしニて候定而其方より御出可申候へ共、我もひきやうをかまへ候カなとゝ申候てめいわく仕候、けにゝゝ難相済候、一時も御いそき候て是非を御きわめ候て、其上不相調候者それにしたかひ御分別なされ尤候、上州之事家康へまいり候事必定と相聞申候間、家康へ御詫言候やうにと存候て、内府へも大かた申籠候、内府より被仰候者家康之御まへハ可相済候と存候、一、小田原城当年中ハ家康可有御出由候、来年江戸へ御越候へと被仰出候、一、此間ハ近年家康之御分国を一円ニ内府へ可被遣候と申候キ、三川国ニ別人を御おき候て其かわりニ上州を内府へ被遣候ハんなとゝ、たた今御本陣より被越候人被申候、あわれゝゝさ様ニも御及候へハ、彦三様御身上其まゝ相済申事候、莵角いつれの道ニても、内府を御頼候て家康へ御理候てハはつれぬ御事たるへきと存候、一、貴所様御身上なともなにとそ御分別尤候、彦三郎殿御身上如前ゝ相済候へハよく候、若不相済候とて俄ニとやかくと被仰候ても、難相調候間、我ゝ請取不申候ハゝ急度 上使を可遣候なとゝ申候而、此間ハ日ゝニ申来候而難儀仕候、急度被仰付候而尤候、一、当城之御無事之きわニ貴所様之事疎略仕候様ニ可思食八幡ニも富士白山ニもセいを入申候事、大方ならす候へ共、仕合わろくかけちかい申候へハ、不及了簡候、とかくたゝ今御身上御きわめて尤候、少御やすミ候て、何分是へ木村存知ニて候間、可有御出候哉、申談度候、恐惶謹言、
六月八日/利世(花押)/宛所欠(上書:岡田新■■利世 小幡兵衛尉殿人々御中)

 この城を6月7日から2日訪れましたので、早くもそちらへお知らせになったとのこと。お目にかかれず大変残念に思います。彦三様よりあなた様のことを内々で心がけてほしいと仰せいただいていたので、小田原を包囲した時分より、どのような伝手でもせめて書状を交換したいと考え、様々な手段を試みましたが、こちらは問題なくても、城中ではご法度が強いとのことで、そちらのためにならないと思って申し入れませんでした。6日・7日の2日間は垪和善七郎殿という方を頼んで案内する者を得てお訪ねしました。氏直様お一人で2夜お酒などをいただきましたので、昨日7日の晩に家康の陣へお立ち寄りになりました。 一、彦三様の身の上のこと、いかがお考えでしょうか。そちらのご様子の通りだと、こちらもまた家康へか内府(信雄)へ出仕なさるのがもっともです。 一、忍の城をお攻めになるということで、越後衆と前田利家殿へご命令になりました。昨夕この地にお越しだったので、今朝すぐに忍へお出かけになりました。きっと彦三郎殿も忍へご参陣なさるでしょうか。あなた様も忍へお出でになりますか。お手数ですが、お馬とり1人だけ連れてこちらへお出でになるのはかないませんか。その上で、彦三様の身の上、またはあなた様の身の上のことをご相談したく思います。 一、信濃国相木の息子宗太郎も家康へ出仕したいと申されているので、津田小平次と私の2人で肝煎りして申し上げようとしても人事とならぬと仰せになられているので、とにかく急いでご相談したく思います。 一、先に木村へ直接申しました。先年信濃国『こむろ』(小諸)で井野五左衛門というに約束した金銭を早々にご返済するのがもっともであると申し入れがありました。五左衛門という人は、その時は同僚で、今は上様のお馬廻で一段と目をかけられています。きっとそちらからお返しになるでしょうが、私も裏表があるのかと言われて困っています。本当に紛糾しているので、一時もおかずお急ぎになって事実を確認して、その上で揉めるようならそれによってご判断さなるのがもっともです。上野国のことは家康へ与えられることは間違いないと聞いていますので、家康へお詫び言するようにと考え、内府へも大体は申し含めています。内府から仰せになれば家康に仕えることは済んだも同然です。 一、小田原城は今年一杯は家康へ渡されるとのことです。来年は江戸へ移るように仰せになられました。 一、この間、近年の家康ご分国を全て内府へ渡されるだろうとのことでした。三河国に別の人を置かれて、その代わりに上野国を内府へ遣わすなどと、ただいまご本陣より来られた方が申されています。かわいそうに、そうなってしまったら、彦三様の身の上はそのままでは済まなくなることです。とにかくどのようになったとしても、内府をお頼りになって、家康へご説明なさらねば進展はないだろうと思います。 一、あなた様の身の上なども、どうかご分別なさるのがもっともです。彦三郎殿の身の上は前々のように済めばよいことです。もし済まないことになって急にとやかく申されても、調整するのは難しいでしょうから、私たちが保障できなければ、上使を派遣するだろうなどと言ってきています。このところ毎日言ってきて難儀しています。急いでご指示いただくのがもっともです。 一、当城のご無事の際に、あなた様のことを疎略に扱うような思し召しは、八幡にも富士権現・白山権現にも精を入れていることは、大概のことではありませんけれども、巡り会わせが悪く懸け違いが起きては了見を得ません。とにかくただいま身の上をお決めになるのがもっともです。少しお休みになって、なにぶんこのことは木村も存じていますから、お出でになりませんか。ご相談したく。

井伊直政、小幡信定の陸奥遠征を労い上野国で助力することを約す

  • 戦国遺文後北条氏編4549「井伊直政書状写」(加賀小幡文書)天正18年に比定。

    別て炎天時分御辛労無申計候、次黒田官兵様へ心得て可有、於小田原之万ゝ御取籠付て委細不申遂候、此返御心得所仰候、内ゝ御床敷存幸便之間一筆令申候、其已来者遠路故給音問所存外候、小田原御立之時分者御暇乞不申候、奥へ御供之由、扨ゝ御苦労察入申候、拙者者箕輪へ可罷移由御上意候間、先ゝ当地ニ移申事候、爰元御用等候者、可被仰越候、少も疎略有間敷候、何様御帰之時分、以而申入候者可承候、如在存間敷候、猶重而可申達候、恐々謹言、
    八月四日/井伊兵部少輔直政(花押)/小幡右兵衛尉■

 内々にお懐かしく思い、便があったので一筆申し上げます。あれ以来は遠路によってご連絡いただけるとは考えておりませんでした。小田原をお発ちの時にはご挨拶を申し上げませんでした。陸奥国へお供されたとのこと。さてさて、ご苦労お察しします。私は箕輪へ移るように上意がありましたので、とにかくこの地へ移りました。こちらでご用向きの際は、仰せになって下さい。少しの粗略もありません。色々とお帰りになった際にお申し入れいただければ、承りましょう。手抜かりはありません。さらに重ねてご伝達しましょう。 別途。炎天の時分のご辛労は申し上げるばかりもありません。次に、黒田官兵衛様へ心得を言い付かりました。小田原においては色々と取り込んで詳細を申し遂げられませんでした。この返信はお心得を仰ぐところです。

井伊直政、某に、所領の維持が困難であることを告げる

  • 戦国遺文後北条氏編4550「井伊直政書状」(源喜堂古文書目録二所収小幡文書)天正18年、小幡兵衛尉宛に比定。

    就貴所乃御身上之儀、自岡田新八郎殿被仰越候、其郡之儀者、未何方へも不相定候間、先其地ニ有之、御世上見合尤ニ候、何方よりも六ケ敷申候由、早ゝ御注進所仰候、御国竝之儀候間、内ゝ御他国仕度候御心懸候て尤ニ候、御荷物已下、少障り者有間敷候間、可有御心安候、少も事六ケ敷被、(後欠ヵ)
    八月四日/井伊兵部少輔直政(花押)/宛所欠

 貴所の身の振り方について、岡田新八郎殿よりご連絡がありました。あの郡のことは、まだどこへとも決まっていませんので、まずあの地にいていただき、世の流れを見極めるのがもっともです。どこよりも難しく申していること、早々にご注進と仰せのところ、御国並のことですから、内々で他国への支度をするお気持ちでいるのがもっともです。お荷物などは少しも損なうことはあり得ませんから、ご安心下さい。少しも事が難しく……(後半断か)

2017/11/06(月)実隆公記 1498(明応7)年、1507(永正4)年記述抜粋

「鎌倉姫君将軍御妹」は、足利義澄の妹でこのあとに消息を絶つ。

明応7年

1月19日

向東隣、鎌倉姫君将軍御妹、此間今川■■■養也■■近日可御上洛、御京著之儀可為東隣■■ ■■■由聞及之間、罷向相談者也

1月24日

東隣、将軍御連枝姫君、自駿州上洛令留給云云

1月19日。今川氏に養育されていた将軍(足利義澄)の妹である鎌倉姫君が近日上洛し、東隣に向かうということを聞き及び、赴いて相談する。 1月24日。将軍の親族である姫君が駿河国から上洛して、東隣に滞在したという。

永正4年

2月13日

霽、自晩雨降、入夜甚、公兄朝臣明日可下向駿州云々、為暇請予罷向、於女中有杯酌、中納言以下参会

2月14日

晴、(中略)今日三条少将公兄朝臣下駿河、外祖母彼国守護今川母也、路粮料万疋上云々、

5月24日

霽、暁雨甚、玄清来、自駿河金代納之、先以蘇息者也、

2月13日。みぞれ。晩より雨が降り、夜に入ると激しくなった。三条公兄朝臣が明日駿河国へ下向するだろうという。あらかじめ挨拶に向かい、女中の酌で宴席があり、中納言以下が参会した。 2月14日。晴れ。(中略)今日三条少将公兄朝臣が駿河国へ下る。外祖母はあの国の守護である今川氏の母。移動費用が1万疋(100貫文)という。 5月24日。みぞれ。明け方に雨が激しかった。玄清が来る。駿河国の金を代納。まずは息がつけた。