2017/10/04(水)北条氏康の次男―藤菊丸、賀永、氏規―

北条藤菊丸は誰か

1555(弘治元)年11月23日、古河公方足利義氏の元服式が行なわれた『鎌倉公方御社参記次第』(北区史資料編古代中世2-77)。そこには勿論北条氏康の姿があったが、脇に控えた少年も記録されている。

「北条藤菊丸氏康二男、御腰物御手移ニ被下候」

この場所に他の兄弟は(既に元服・妻帯している後継者の氏政すら)いない。北条氏康の次男として、他の兄弟とは別格で登場する「北条藤菊丸」が誰なのかを検討してみよう。

藤菊丸 = 氏照の検証

藤菊丸について、通説では北条氏照だとされてきたが、以下の矛盾点があり不自然だと思われる。

  1. もう1点の文書で藤菊丸は「北条」を名乗っているが、氏照は「大石源三」として登場し、後に北条に改めている。一貫して北条を名乗る氏規の方が適しているのではないか。
  2. 関東で藤菊丸の活動がなくなると同時に駿府で氏康次男として「伊豆之若子」賀永が活動を始める。
  3. 御相伴衆として名が載っているのは、氏政と氏規のみ。
  4. 天正11年に酒井政辰は氏照を「奥州様」氏規を「美濃守殿様」と繰り返し呼んでおり、家中でも氏規の方が格が上である。

 氏照を藤菊丸に比定する根拠としては、藤菊丸の名がある棟札が座間郷にあり、ここは役帳で大石氏の知行されている点、藤菊丸の初出が足利義氏元服式だったことと、後年氏照が義氏被官を指南した点、主にこの2点からだと思う。しかし、この論拠は充分な比定要件にはならないかも知れない。

岩付太田氏を巡って、源五郎と氏房が同一人物と思われていた理由が、岩付に入ったこと・氏政の息子だったことというお大雑把な共通点からの憶測でしかなく、史料の考察が進んだ昨今では、「氏房は当初より十郎を名乗り、一貫していること」「氏直(国王丸)・源五郎(国増丸)の他に菊王丸がおり、これが氏房に比定できること」から、源五郎と氏房は別人であるという比定に切り替わった。

以上から、座間郷・義氏の関係を氏照が濃厚に持ったとして、それは藤菊丸の後継位置に入っただけということであり、後世の系譜諸記録に幻惑されている可能性がある。

藤菊丸 = 賀永の検証

改めて史料を読んでみる。

後北条氏は、「菊寿丸=宗哲」「菊王丸=氏房」というように、幼名に「菊」を冠することがある。但し「藤菊丸」は「菊」の前に「藤」を戴いている点で特異である。藤原を称している氏族で関東において最も巨大な存在は上杉氏だ。氏康は、藤菊丸を関東管領の後継者にしようと考えていたのではないか。であるなら、義氏元服式に後北条の跡取りを入れず、藤菊丸だけを出席させたのは、公方の梅千代王丸に管領の藤菊丸を配するという構想があったからではないか。

藤菊丸が上杉を継承した場合に、それを「大石」として補助する予定で、源三氏照・左馬助憲秀が控えていたのかも知れない。でなければこの2人が「大石」を称した理由が判らなくなる。

ところが、藤菊丸はそのまま姿を消す。

そしてその年の10月、駿府を訪れた山科言継は北条氏康次男「賀永」という少年と出会う。氏康次男という出自や年齢からこの2人が同一人物であるのはほぼ確実だと思う。

それにしても、氏康はなぜ急に方針転換したのだろうか。

1556(弘治2)年1~4月、氏康は東への外征が顕著で、同じく今川義元も西に進んでいた。義元の息子である氏真は既に氏康の娘婿ではあったが、氏康が織田信秀に書いたように「近年雖遂一和候、自彼国疑心無止候間、迷惑候」という状況もあり、氏康はそちらの関係強化を狙ったのではないか。

その背景には、氏康の身内である晴氏室(芳春院)すら動向が定かではない古河公方周辺に対して「しばらくほとぼりを冷まそう」という狙いもあったかも知れない。ただ何れにせよ「急遽今川に渡す」という背景は史料から直接読み取れないから、ここはもっと論拠がほしいところ。

藤菊丸が消えた後、永禄4年に「大石左馬助」として名が出た憲秀はやがて松田に復するが、氏照は大石名乗りを続け、藤菊丸が治める予定だった座間領も統治する。もしかすると、氏照固有の「如意成就」の朱印も当初は藤菊丸に用意されていたのかも知れない。

賀永 = 氏規の検証

言継卿記で登場する賀永は「ガイエイ」とも呼ばれ、音読みであることが確定している。彼は北条氏康次男と書かれているから、氏規・氏照・氏邦のうちの誰かだろうと判る(氏政は既に元服しているため)。この3人の弘治2~3年の動向は不明だが、年未詳の今川義元書状で「手習いをしないと、小田原の兄弟衆に負けてしまうぞ」という文面が「助五郎」宛てに出されている点、助五郎は氏規の仮名である点から、賀永と助五郎、氏規は同一人物であると断定可能だと思う。

音読み「賀永」という名が何を意味していたかは不明。和歌を詠む際の号か何かを、寿桂が殊更呼んでいたのかも知れない。

藤菊丸 = 賀永 = 氏規と仮定しての年齢確認

氏規が系譜にある1545(天文14)年生まれだと一旦仮定して、藤菊丸、賀永の記録と突き合わせてみる。

  • 11歳 弘治元年11月23日 北条藤菊丸氏康二男(鎌倉公方御社参記次第)
  • 12歳 弘治2年5月2日 大旦那北条藤菊丸(座間鈴鹿明神棟札)
  • 12歳 弘治2年10月2日 大方の孫相州北条次男也(言継卿記)
  • 12歳 弘治2年12月18日 伊豆之若子祝言(言継卿記)
  • 19歳 永禄6年5月 北条助五郎氏規、氏康次男(永禄六年諸役人附)

上記から、同一人物であっても時系列上問題はない。

本来であれば、初出の文書がいつかによって更に裏付けを得たいところだが、氏規の初出発給文書は意外と遅く、1565(永禄8)年1月28日に21歳で朱印状、1577(天正5)年4月17日に33歳で「左馬助氏規」を出していて元服時期の参考にならない。これは駿河にいた時期に後北条分国から切り離されていた可能性を窺わせる。因縁のある松田憲秀も初出はかなり遅いので、当主以外の政権中枢は発給時期が極めて遅い可能性がある。

氏規の息子である氏盛も1589(天正17)年12月に氏直から「氏」を貰って元服したとみられ、家譜の生年1577(天正5)年が正しいとするなら、13歳の年末に元服している。

4兄弟の生年を検討

12~13歳の年末に元服という前提で他の兄弟の生年を検討してみる。

氏政

系譜では天文7年生まれとされるが、同時代史料の『顕如上人貝塚御座所日記』見返しにある年齢から逆算すると天文10年生まれという仮説が妥当だろう。

氏政は天文23年6月以前には元服して「新九郎氏政」となっている(同年12月に婚姻)。

元服が天文22年12月と考えれば、天文10年説では13歳で不自然なところはない。一方で、系譜類の天文7年説では17歳となってしまい、結構遅い印象がある。

氏邦

天文13年という仮説が浅倉直美氏によって出されている。但し氏邦の場合、越後勢乱入の最中に対応を強いられたという経緯があり、ここからの検討も必要だと思う。

永禄4年9月8日~5年10月10日まで「乙千代」名で花押を据える。幼名で花押を据えている珍しい例。元服して仮名を持ちながらも手習いをしていた喜平次・助五郎との比較も必要かも知れない。

1544(天文13)年生まれであれば、1561(永禄4)年では18歳となり元服していないのは奇妙だ。

その後の1564(永禄7)年正月に「氏邦」を名乗り、この年の6月18日には朱印状を発給しているから、1563(永禄6)年12月に元服したと考えると自然だ。氏規・氏盛の例に当てはめると1551~1552(天文20~21)年となる。

もう少し遡るならば、1560(永禄3)年12月に13歳で元服予定だったとすると、1548(天文17)年生まれとなる。

氏照

生年は3説ある。

天文9年(寛政譜)・天文10年(小田原編年録)・天文11年(宗閑寺記録)

ただ、前の2説では氏政より年長になってしまうし、何れも後年の編著でしかない。『北条氏康の子供たち』で黒田基樹氏が、氏政・氏直の生年を記載した同時代史料『顕如上人貝塚御座所日記』を紹介しながら、他の一族の生年と合わなくなると、一旦戻したのもこの点が要因になっている。

とりあえず、専門家ではないので野蛮に切り進んでいくこととする。

初出発給文書から、氏邦と同様の手法で追ってみる。

  • 永禄2年11月10日付けで朱印状「如意成就」奉者:布施・横地
  • 永禄4年3月3日付けで判物「大石源三氏照」

文書の残存状況が不明だから、念のため1558(永禄元)年12月に13歳で元服、その後手習いをしつつ1561(永禄4)年には16歳で自著・花押を据えたと想定してみる。

他の史料とも整合されるし、氏邦の生年比定とも揃えられる。この場合、氏照の生年は1546(天文15)年となる。

まとめ

生年を整理してみよう。氏規も13歳元服だったと統一して考えてみる。

  • 氏政 1541(天文10)年
  • 氏規 1544(天文13)年
  • 氏照 1546(天文15)年
  • 氏邦 1548(天文17)年

この年齢差を見てから、今川義元が助五郎の宛てた有名な書状を読んでみると、「兄弟衆様躰長敷御入」が異なって感じられて面白い。

  • 戦国遺文今川氏編1532「今川義元書状」(喜連川文書)

猶ゝ文御うれしく候、あかり候、いよゝゝ手習あるへく候、二三日のうち爰を立候へく候間、廿日此は参候へく候、かミへも此由御ことつて申候、何事も見参にて可申候、かしく、 文給候、珍敷見まいらせ候、此間小田原にてみなゝゝいつれも見参申候、けなりけに御入候、可御安心候、それのうはさ申候、春ハ御出候ハん由候間、万御たしなミ候へく候、いつれも兄弟衆様躰長敷御入候、見かきられてハさんゝゝの事にてあるへく候、
月日欠/差出人欠/宛所欠(上書:助五郎殿 御返事 義元)

お手紙いただきました。珍しくて見せて回りました。今回は小田原のみなさん全員とお会いしました。お元気そうですから、ご安心下さい。あなたの噂をしました。春にはお出でになるそうですから、何でも頑張っておかないといけません。どの兄弟衆も大人っぽく見えました。見限られてしまっては、散々な目に会うでしょう。
さらにさらに、お手紙嬉しいです。上手になりました。どんどん手習いなさいますように。2~3日のうちにここを立ちますから、20日ころにいらっしゃい。『かみ』にも、このことを伝えてあります。いろいろと会ってお話しましょう。かしこ。

2017/10/01(日)織田信長の礼状から見た贈呈物

『増訂織田信長文書の研究』より、織田信長が贈呈品への礼状を送ったものを列挙。

贈答物 目的 献上者 月日 文書番号
竹十本 音問 浅井源五郎 1552(天文21)年 07月28日 5
改年祝儀 徳川三河守 1569(永禄12)年 02月04日 補遺014
弟鷹二連[山廻・青] 音問 上杉弾正少弼 1569(永禄12)年 10月22日 201
帷二 端午節句 永原伊豆守 1570(元亀元)年 05月03日 229
折一、帷二、たひ一足 見舞 小松寺 1570(元亀元)年 06月12日 235
太刀・馬 音問 波多野右衛門大夫 1570(元亀元)年 11月24日 258
尊牘二巻 音問 大覚寺 1573(天正元)年 09月07日 405
沈香一包 陣中見舞 妙智院 1573(天正元)年 09月08日 406
祈祷巻数、菓子一籠 音問 松尾左衛門佐 1574(天正2)年 04月09日 449
鼓之革大小[若松]二懸 音問 高田専修寺 1574(天正2)年 07月20日 458
沈香一両 陣中見舞 狛左馬進 1575(天正3)年 08月13日 530
祈祷巻数、弓懸五具 陣中見舞 青蓮院 1575(天正3)年 09月03日 537
作薫物、唐墨 陣中見舞 勧修寺大納言 1575(天正3)年 09月18日 546
馬一疋[黒毛] 音問 遠藤内匠助 1575(天正3)年 10月25日 572
太刀一腰、馬一疋 昇進祝儀 小早川左衛門佐 1576(天正4)年 01月17日 621
太刀一腰、馬一疋、板物三端 改年祝儀 別所小三郎 1576(天正4)年 01月28日 622
太刀一腰、馬一疋 改年祝儀 小早川左衛門佐 1576(天正4)年 03月30日 631
十六島海苔一折 移城祝儀 慈照寺 1576(天正4)年 04月02日 633
太刀一腰、馬一疋 改年祝儀 小早川左衛門佐 1576(天正4)年 04月05日 632
饅頭一折 音問 越智玄蕃 1576(天正4)年 05月18日 補遺091
瓜十籠 普請見舞 稲葉伊予守 1576(天正4)年 07月21日 652
帷二[生絹] 八朔祝儀 長岡兵部大輔 1576(天正4)年 07月29日 655
太刀一腰、馬一疋 上洛使者 赤松孫三郎 1576(天正4)年 11月10日 671
帳一折 音問 松田豊前守 1577(天正5)年 02月26日 補遺183
枝柿之折 陣中見舞 立政寺 1577(天正5)年 02月28日 687
両種 陣中見舞 水野監物 1577(天正5)年 03月08日 689
祈祷巻数、房鞦二懸 陣中見舞 賀茂社 1577(天正5)年 03月20日 703
太刀一腰[代金壱両] 陣中見舞 水越左馬助 1577(天正5)年 05月07日 735
弟鷹十連 音問 下国(秋田愛季) 1577(天正5)年 06月01日 718
帷十、蝋燭一箱、塩引五 音問 斎藤次郎右衛門尉 1578(天正6)年 06月23日 782
弓懸二具 陣中見舞 青蓮院 1578(天正6)年 11月14日 793
小袖一重 陣中見舞 法隆寺東寺 1578(天正6)年 12月19日 802
塩引十 改年祝儀 長九郎左衛門尉 1579(天正7)年 01月19日 809
巻数、板物[薄] 改年祝儀 賀茂社 1579(天正7)年 02月14日 812
筒服 上洛祝儀 法隆寺東寺 1579(天正7)年 02月26日 814
祈祷之巻数、菓子一合、房鞦二懸 陣中見舞 賀茂社 1579(天正7)年 03月25日 819
泥障(あおり)二懸 帰陣祝儀 佐久間玄蕃 1579(天正7)年 05月07日 827
刀一腰[貞宗] 音問 長孝恩寺(長好連) 1579(天正7)年 05月12日 828
金子一枚、木綿二端 音問 法隆寺東寺 1579(天正7)年 10月17日 842
小袖、黄金十両 音問 薬師寺 1579(天正7)年 10月23日 824
金子二枚 音問 薬師寺 1579(天正7)年 11月14日 825
太刀一腰、銀子千両 祝儀 本願寺 1580(天正8)年 07月02日 876
虎革三枚、氈一 音問 本願寺 1580(天正8)年 08月02日 883
三幅一対絵[宗徽筆] 音問 本願寺 1580(天正8)年 08月16日 888
小袖、袷肩衣、袴 重陽祝儀 本願寺 1580(天正8)年 09月08日 896
蜜柑五籠 音問 本願寺 1580(天正8)年 10月24日 901
蚪(どぶがい)二籠 音問 箸尾宮内少輔 1580(天正8)年 11月27日 904
伊予鶏五居 音問 長宗我部宮内少輔 1580(天正8)年 12月25日 906
綿卅把 歳末祝儀 温井景隆・三宅長盛 1580(天正8)年 12月25日 907
五種・五荷 歳末祝儀 本願寺 1580(天正8)年 12月29日 908
銀子百両、鰤三 改年祝儀 温井景隆・三宅長盛 1581(天正9)年 01月01日 909
太刀一腰、馬一疋 改年祝儀 宛所不明 1581(天正9)年 01月02日 910
両種、一荷 音問 金剛寺 1581(天正9)年 06月22日 921
肩衣房十、鯖鮨三百 音問 長九郎左衛門尉 1581(天正9)年 07月18日 931
帷二、袷一 八朔祝儀 長岡兵部大輔 1581(天正9)年 07月28日 935
樽一荷 音問 金剛寺 1581(天正9)年 07月29日 922
音問 金剛寺 1581(天正9)年 09月14日 923
馬一疋 音問 長沼山城守(皆川広照) 1581(天正9)年 10月29日 959
弓懸二具、一折 陣中見舞 久我大納言 1582(天正10)年 03月25日 979
一折 陣中見舞 等持院 1582(天正10)年 03月28日 981
革袖物十 音問 上京中 1582(天正10)年 04月04日 1004
巻数、弓懸二具 陣中見舞 理性院 1582(天正10)年 04月04日 1005
馬一疋[葦毛] 音問 佐奈田弾正 1582(天正10)年 04月08日 1007
祈祷之巻数、両種 陣中見舞 梶井 1582(天正10)年 04月10日 1009
扇子 陣中見舞 青蓮院 1582(天正10)年 04月10日 1010
祈祷之祓、太麻、熨斗鮑三折 陣中見舞 伊勢慶光院 1582(天正10)年 04月15日 1012
帷二 陣中見舞 前田又左衛門尉 1582(天正10)年 04月17日 1014
太刀一腰、銀子三百両、端午帳五、肩衣袴 戦勝祝儀 本願寺 1582(天正10)年 04月25日 1016
白布二端 戦勝祝儀 長九郎左衛門尉 1582(天正10)年 05月20日 1054
生白鳥 音問 不明 年未詳 01月03日 補遺238
菱籠二、馬滑二掛 改年祝儀 明眼寺 年未詳 01月05日 1056
菱籠、馬腐 改年祝儀 明眼寺 年未詳 01月15日 1059
菱籠一、馬滑二掛 改年祝儀 不明 年未詳 01月15日 1060
鯨一折 音問 水野監物 年未詳 01月16日 690
祈祷巻数、縮羅二端 改年祝儀 賀茂社 年未詳 01月17日 1061
一万度祓太麻、生鮑五十 改年祝儀 北監物大夫 年未詳 01月20日 1062
縮羅二端 改年祝儀 加茂社 年未詳 01月24日 1065
太刀一腰、馬一疋 改年祝儀 関安芸守 年未詳 01月28日 1066
〓(糸+習)二端 改年祝儀 賀茂社 年未詳 02月11日 1069
鼓之革二十 音問 溝江■■ 年未詳 02月16日 1071
唐錦一巻 音問 長岡与一郎 年未詳 02月17日 1072
太刀一腰、馬一疋 改年祝儀 伊勢大神宮御師村山大夫 年未詳 03月04日 1074
合雑一桶 音問 箸尾宮内少輔 年未詳 03月22日 1076
両種、一荷[天野] 音問 水野監物 年未詳 04月04日 691
帷五、鮎漬二 音問 中川■■ 年未詳 04月14日 1078
帷二 端午祝儀 長岡兵部大輔 年未詳 05月03日 1082
帷二 端午祝儀 不明 年未詳 05月03日 1083
帷二 端午祝儀 長岡兵部大輔 年未詳 05月04日 1084
帷二 端午祝儀 長岡兵部大輔 年未詳 05月04日 1085
帷二 端午祝儀 不明 年未詳 05月04日 1086
両種 音問 水野監物 年未詳 05月06日 692
帷二 端午祝儀 不明 年未詳 05月06日 1087
瓜一折 音問 水野監物 年未詳 05月24日 693
瓜十 初物 三好孫九郎 年未詳 06月02日 補遺240
背腸五桶 音問 千福遠江守 年未詳 06月07日 1091
糒十五袋 音問 楢原右衛門尉 年未詳 06月20日 1093
鰹百 音問 高木権右衛門尉 年未詳 07月02日 1095
帷三 音問 長岡兵部大輔 年未詳 07月06日 1096
馬一疋[白雲雀] 音問 白鳥 年未詳 07月15日 1098
木綿五端 音問 祐福寺 年未詳 08月19日 1101
小袖一 重陽祝儀 河嶋市介 年未詳 09月08日 1103
小袖一重 重陽祝儀 長岡兵部大輔 年未詳 09月09日 1104
雁二 音問 水野監物 年未詳 09月17日 694
両種、一荷 音問 水野監物 年未詳 09月20日 695
海鼠腸二桶、鯛十 音問 水野監物 年未詳 10月26日 696
料紙五十帖 音問 立政寺 年未詳 10月26日 1108
火筋(火箸) 音問 黒谷上人 年未詳 11月26日 補遺244
弟鷹一居 音問 村上掃部頭 年未詳 11月26日 1110
赤貝一折 音問 水野監物 年未詳 12月16日 697
白魚一折、鱸十 音問 不明 年未詳 12月24日 1115
漆一桶・蝋燭一箱、塩引五 音問 斎藤次郎右衛門尉 年未詳 12月27日 783
太刀一腰、馬一疋 改年祝儀 不明 年未詳 月日未詳 補遺237
一折 音問 九条 年未詳 月日未詳 補遺245
弓懸三具 改年祝儀 不明 年未詳 月日未詳 1116

2017/09/28(木)明智光秀の軍規

明智光秀の書状で、陣中での行動を指示したものがあったので読んでみる。

  • 八木書房刊明智光秀091「明智光秀書状」(大阪青山歴史文学博物館所蔵・小畠文書)

乍些少、初瓜一遣候、賞翫尤候、已上、
城中調略之子細候間、不寄何時、本丸焼崩儀可有之候、さ候とて請取備を破、城へ取付候事、一切可為停止候、人々請取之所相支、手前へ落来候者ハかり首可捕之候、自余之手前へ落候者、脇より取合討捕候事有間敷候、縦城中焼崩候共、三日之中ハ、請取候之可蹈陣取候、其内ニ敵落候者令捨遣可討殺候、さ候ハすハ人数かた付候、味方中之透間と見合、波多野兄弟足之軽者共、五十・三十ニて切勝候儀可有之候、従之彼■可相蹈と申事候、若又々つれ出候ニをいてハ、最前遣書付候人数之手わり、可相励可有覚悟候、猶以、城落居候とて彼山へ上、さしてなき乱妨ニ下々相懸候者、敵可討洩候間、兼々乱妨可為曲事之由、堅可被申触候、万於違背之輩者、不寄仁不背、可為討捨候、於敵ハ生物之類、悉可刎首候、依首褒美之儀可申付候、右之趣、毎日無油断下々可被申聞候、至其期不相残物候、可被得其意候、恐々謹言、
五月六日/光秀(花押)/彦介殿・田中■助殿・小畠助大夫殿

結構長いから敬遠しがちだが、極端に短い文章よりもヒントが多数ある分だけ長文の方が読み易い。途中で「これは判らない」という部分が出てきても、その前後から推測できるので。

年比定は1579(天正7)年。丹波八上城を攻囲した際のものと考えられている。これは城攻めの様子が描かれている点、敵方として「波多野兄弟」が出てくる点から。

冒頭にある追伸(追而書)

最初に書かれているのは、ちょっと変だけど追伸。現代だと本文の後ろに置くが、先頭に配置することもある。

「乍」は返読文字なので、一旦飛ばす。「些少」は現代語と同じで僅かで少ないこと。「些少ながら=僅かではありますが」となる。

じゃあ何が僅かかというと、次の「初瓜一=初物の瓜が1つ」ということで、この時代だと初物は珍重されていたとはいえ、1つは確かに少ない。「遣」は「つかわす」と読んで、送ること。

「賞翫」は今でも「ご賞玩下さい」という風に使うけど、もう殆ど死語かも知れない。味わって楽しむことを指す。

「尤」は「もっとも」で、現代語だと「ごもっとも」で生き残っている言葉。この時代は結構多用していて、「より望ましいこと」という漠然とした意味合いで使われる。相手に指示する時に、ちょっと遠慮して「お願い」っぽくしている感じで「~するのがもっともです」みたいに使われるのをよく見かける。

「已上」は「以上」と同じで、追伸の結びなどに使われる。本文だと「恐々謹言」とか「仍如件」みたいに結句=結びの言葉があって「ああここで終わりなんだな」と判るのだけど、追伸は余白に小さく書かれているので判り辛いから「以上」で締めくくっているのだと思う。

これらを踏まえて追伸をなるべく現代語に近くして読んでみる。

僅かではありますが、初物の瓜を1つ送ります。お召し上がり下さい。以上です。

いよいよ本文の第1文

城中調略之子細候間、不寄何時、本丸焼崩儀可有之候、

「城中」はそのままの意味。この後の繋がりから、どうやら光秀は城を攻めているところだと判る。

「調略」は作戦の具体的な行動を指すように思う。直接的な軍事行動だと「行=てだて」や「働=はたらき」を使うことが多い。調略は敵の一部を寝返らせたり偽情報を流したりも含まれるような、もっと幅が広い感じ。

「子細」は事情・詳細・状況とかを指す。

「候間」は「~なので」となって繋いでいる。

「不寄何時」は「不」「寄」の2文字が連続して返読になっている。返読文字は前の語の後ろにつくから、まず「不」が「寄」に乗る。ところが「寄」も返読だから「何時」に乗る。そうして最終的に、何時→寄→不の順で読むことになる。

何で返読が入っているかというと「乍」と同じで漢文の文法を踏まえていて、目的語は後に来るようになっていから。ただ、必ずしもこの漢文ルールが適用されている訳ではないのが悩ましいところ。上記の文だと「不寄」だけでは意味をなさないので判断できるけど、微妙な書き方のものもあって、ここを読むときはひやひやする。

これを受けて一文を読むと、

「なんどきと寄せず=いつ何時とも言わず」が現代語に近い感じかと思う。

次がちょっとややこしい。

「本丸焼崩」は「漢文ルールではない→現代語から見たら目的語なのに返読しない」という実例になっていて「本丸を焼き崩す」なら「焼崩本丸」となる筈がそうなっていない。

実はこれ「本丸の焼き崩し」と読んで、後に続く「儀=~のこと」と組み合わせ「本丸の焼き崩しのこと」と読んでいたのだろうと思う。今の日本人だと「本丸を焼き崩すこと」と読んだ方が自然に感じられてついついそっちに寄ってしまうので、要注意だったりする。

「可有之」は物凄くよく出てくる言葉で「可有之=これあるべく=これがあるだろう」となる。

ここの「之」は「本丸焼崩儀」を指す。こういう構造は、英語でいう関係代名詞(that)のような使い道というと判り易いだろうか。

「<本丸焼崩>儀

   ↓

可有<之>候」

という構造。現代語からすると

「可有<本丸焼崩>候」

とシンプルにした方が理解できるのだと思うが、こういう言い回しになっているので致し方ない。

まとめてみると、

「城中で調略しているので、いつ本丸が焼き崩れてもおかしくないでしょう」

となる。

第2文 油断するなという釘差し

さ候とて請取備を破、城へ取付候事、一切可為停止候、

「さ候=左候=然候」は「しかり=そう」の略語。「とて」は現代語だと「~したとて」という形で残っている言葉。「そうだとして」という意味になる。「もうじき本丸が焼き崩れる」という朗報を書いた後で、光秀は水を差してきた。

「請取=うけとり」は、受領することを指す場合が多いが、合戦時には「受け持ち・担当」を示す。後ろに「備=そなえ」とあるので、「担当の備え=受け持ち区域」的なものを指すと思われる。

「を破」は、本来だと目的語の前に持ってくる「破」を、漢文文法から口語文法に移して後ろに持ってきた状態。なので「を」がついている。このように、同じ書状の中でも文法が変わることがある。

「城へ取付候事」は送り仮名を補えばほぼ現代でも通じる。「城へ取り付き候こと」で、城壁に接近して攻撃すること。

その次の「一切」と「停止」の間に挟まっているのは「可為=たるべく」となり、「可」「為」が返読。この可は命令を意味する。「一切停止となすべし」は、強い禁止命令となる。

つまり、戦況が有利だからといって、持ち場を放棄して城壁に攻めかかるのは一切禁止ですよ、という文章になる。

第3文 あるべき手本を示して作戦を指示し、禁止事項を付け足す

ではどうすればいいのかということを明確にしたのが以下になる。この部分は少し長いけどひとまとまり。

人々請取之所相支、

「人々=全ての兵員」が「請取之所=担当場所」を「相支=あい支え」という文で、これは比較的容易に読めるだろう。

手前へ落来候者ハかり首可捕之候、

「手前=てまえ=身の回り・近く」に「落来候者=落ちて来た者」が主部で、これに「ハかり=ばかり=~だけ」がくっついている。

「首可捕之」は「~儀可有之」と同じ構造で、「首=之」を捕るべし、「首を捕れ」という意味になる。

「皆で担当場所を支えて、近くに来た敵の首だけ取るように」ということで、前の文と呼応していて、こうすればよいという点を最初に指摘している。

続いて書かれるのは「これは禁止」部分。

自余之手前へ落候者、脇より取合討捕候事有間敷候、

「自余」は「他」という意味で、他の備えの近くに落ちた者がいて、それを脇から「取合」をして討ち取ることは「有間敷=あるまじく=あってはならない」としている。「取合」はとても広い範囲で使われる、語義が曖昧な言葉だけど、ここでは「奪い合って」ぐらいの意でよいと思う。

第4文 ここも同じく手本を示してから禁止事項を挙げている

縦城中焼崩候共、三日之中ハ、請取候之可蹈陣取候、

「縦=たとえ」は「仮令」とも書く。後ろにある「共=~とも」と組み合わさって「たとえ~であっても」という仮定での否定を表わす。最初にあった「城中焼崩」があっても、「三日之中ハ=3日間は」、「持ち場を離れるな」としている。最後の部分がややこしいので、読み方を書いてみる。

「請取」 →これは持ち場を示すから「陣取」にかかる文

之     →同じ字だが「~の」で「これ」ではない、文の間を何となく繋いでいる

「可蹈陣取」→「蹈=踏」は居続けることで、その場所を守る意味合いもある

読み下すと「請け取り候の陣取りを踏むべく候」となる。最後が返読連発になって混乱するかも知れないが、「之」でパーツを切り離して考えると読み易い。

其内ニ敵落候者令捨遣可討殺候、

「其内ニ=そのうちに」「敵落候者=敵で落ちて来た者」

ここが難解だが「令捨遣」は「捨てて遣わせしめ」だと意味がとれないから、「捨て遣り=すてやり=捨て鉢」という意味なのだろうと推測できる。「可討殺」はまた命令で「討ち殺せ」ということ。

攻めている側があれこれ動かずにいれば、逃げ場を失って自棄になった兵が来るだろうから、存分に討ち果たせ、ぐらいの意味。

さ候ハすハ人数かた付候、味方中之透間と見合、波多野兄弟足之軽者共、五十・三十ニて切勝候儀可有之候、

ここからが禁止事項。城内が焼け崩れても3日間は包囲を解くなといった光秀の意図が説明される。

「さ候ハすハ=そうでなければ」「人数=にんずう=武装した集団を指す」が「かた付候=撤収」した際に「味方中之透間と見合=味方の中(間)の透間(すきま)を見合(見計らって)」とある。これは、撤収時の混乱や隙を待っていて、味方の薄い所を狙われるという推測。

波多野兄弟は城主で、彼らが率いる「足之軽者共=足軽たちかも知れないが、ここでは足弱(女性・子供・老人)以外の成人男子を指すと思う」が来るとしている。次の「五十・三十ニて」は50・30が並ぶと現代だと意味不明で30~50人と受け取るかも知れないが、「五三日」というと「数日」「五三人」だと「数人」「五三年」は「数年」という慣用句になっていて、100人足らずの数十人という表現になる。

「切勝候儀可有之候」の文の構造は前に紹介したものと同じになるので省略。「切勝」は切り付けるような接近戦で敵を押すことを指す。

つまり、焼け崩れて3日見張っていれば敵の反撃はないだろうが、落城したと早とちりして撤収を始めると、その隙をあらかじめ待っていた決死の突撃を受けるのだという理由を挙げている。

従之彼■可相蹈と申事候、若又々つれ出候ニをいてハ、最前遣書付候人数之手わり、可相励可有覚悟候、

「従」は名詞の先頭について「~より」を示すから「従之=これにより」となる。■は不可読文字だが、恐らく「備」だろう。前述した決死隊が出てくるから、あの備えを守れと言っているのだと、くどく念を押している。このくどさはこの時代だとよくある。

「若」は、文頭にあれば大体のものは「もし~」と読んでいいと思う。「又々つれ出候」がよく判らないが、結びが「覚悟を持って励め」なので、何だか話が落城処理後に行ってしまっているようだ。

〇段階をおって読み下しにしてみる

「最前遣書付候人数之手わり」  ↓「最前に書付を遣わし候人数の手わり」  ↓「以前に覚書で送った動員数の『手わり』」  →※「手わり」は判らないが「手賦=準備」なのかも知れない。

第5文 民衆への影響と最後の念押し

猶以、城落居候とて彼山へ上、さしてなき乱妨ニ下々相懸候者、敵可討洩候間、兼々乱妨可為曲事之由、堅可被申触候、

「猶以=なおもって」は、更に重ねて説明を加えること。「城落居候とて=城が落居(落城)したからといって」ということで話は落城後の処理に移っている。こういういつの間にかな話題転換は、当事者同士だと意外と気にならず多用される。「彼山へ上」でいう「あの山」がどこかは不明だ。落城で手が空いた者が真っ先に向かうと考えると、波多野方の百姓たちが隠れている山だろうか。

「さしてなき乱妨ニ下々相懸候者」の「さしてなき」がちょっと読み取れない。「無指儀=さしたる儀なく」というのは「大したこともなく」という意味なので、「さしてなき=大したこともない=無用の」という風に発展させると、「する必要もない乱暴を下々にするならば」となるだろう。

「いわれのない暴力を下々に振るう」というこが招く結果が続けて書かれている。「敵可討洩候間」だから「敵を討ち漏らしてしまうだろうから」となる。光秀としてはこれを心配していて、無駄な乱暴をするなという禁止令に繋がっていく。

「兼々=かねがね」の「乱妨=乱暴」が「可為=たるべく」「曲事=くせごと=いけないこと」だと書いているが、それに「之由=~の由」という伝聞表現を入れているから、乱暴を前々から忌避しているのは信長だろうと推測される。続く文の「堅=かたく」「可被=らるべく・『被』は敬語として使われる例が圧倒的に多い」「申触=もうしふれ=布告」という部分からも信長の意であると考えられる。

万於違背之輩者、不寄仁不背、可為討捨候、

信長まで持ち出して強く禁止した結びもまた強い言葉。

「万=よろず=どれでも・何であれ」

「於=おいて・返読」

「違背之輩=違反した者」

「不寄仁不背=背かざる仁に寄せず=裏切らない=忠義者であろうと」

「可為=なすべく・返読」

「討ち捨て=その場で殺して事後処理もしない」

まとめると、どのような形であれ、どのような忠義者であれ、違反者は討ち捨てにする。ということになる。

最後の部分で矛盾が……

於敵ハ生物之類、悉可刎首候、依首褒美之儀可申付候、

「敵においては、生物のたぐいであれば、ことごとく首をはねるべし。首により褒美の儀申し付くべく候」

すなわち、敵でさえあれば生き物の首は全て刎ねろという指示。馬や犬、鶏などといった動物も殺せと。そして、その首をたくさん持ってくれば、それに応じて褒美を与えようという。

ここでおかしなことに気づく。文書の前半ではあれだけ、規律を守れとか持ち場を離れるなと繰り返していたのが「首をありったけ持ってこい、褒美はそれ次第だ!」みたいな無秩序推奨の実力主義に変わってしまっている。

恐らくこれは、文脈が変わったことによるものだろう。民衆への略奪を禁じた後だから「敵だったら何でも首をとっていいぞ。その首によって褒美をやろう」と告げている。光秀がこれを書いている時に最優先で考えていたのは略奪の禁止で、そのためには罰則というムチだけでなく、褒美というアメを使った。。

このように、書いている光秀側としては、攻囲中の秩序維持と落城後の実力評価で切り分けていたのだろうけど、命令を受けた側の国衆たちからすると、混乱しか感じられなかったように思われる。

国衆からすれば、知行という長期資産を入手したかっただろう。そのためには首を取って感状を得たい。ところが、規則で雁字搦めになっていて自由競争の要素が激減。じゃあ集団のためにルールを守って粛々とやるか、と思って読み進めた挙句、「褒美は首の数次第」と言われた訳だ。

右之趣、毎日無油断下々可被申聞候、至其期不相残物候、可被得其意候、恐々謹言、

「右のおもむき、毎日油断なく下々に申し聞かせらるべく候、その期に至りて、あい残らざるものに候、その意を得られるべく候」

読み下すと大まかに意図が掴めると思うが、「あい残らざるもの」というのが意図不明。前後から推測するならば「残念なことなく」ぐらいの意味に感じられる。