2017/08/05(土)戦国期の閏月・改元月日・入力難字

閏月

  • 閏01月 天文3・天文22・元亀3・《天正11》・天正19
  • 閏02月 永正12
  • 閏03月 大永3・天文11・永禄4・天正8・慶長4
  • 閏04月 永正9
  • 閏05月 享禄4・天文19・永禄12・天正16
  • 閏06月 文亀1・永正17・天文8・永禄1
  • 閏07月 天文16・天正5・慶長1
  • 閏08月 永正6・永禄9・天正13
  • 閏09月 享禄1・文禄2
  • 閏10月 永正14・天文5・弘治1
  • 閏11月 大永5・天文13・天正2
  • 閏12月 永禄6・《天正10》

後北条氏は天正10年に閏12月を使い、上方では天正11年に閏1月を使っていた。

改元

  • 応仁3→文明 4月28日
  • 文明19→長享 7月20日
  • 長享3→延徳 8月21日
  • 延徳4→明応 7月19日
  • 明応10→文亀 2月29日
  • 文亀4→永正 2月30日
  • 永正18→大永 8月23日
  • 大永8→享禄 8月20日
  • 享禄5→天文 7月29日
  • 天文24→弘治 10月23日
  • 弘治4→永禄 2月28日
  • 永禄13→元亀 4月23日
  • 元亀4→天正 7月28日
  • 天正20→文禄 1月28日
  • 文禄5→慶長 10月27日
  • 慶長20→元和 7月13日

入力が難しい字

2017/07/21(金)専門家解釈との差異

何でこうなる?

素人が史料解釈をするとひどいことになる、という点は専門家の解釈とのズレに最も先鋭に現れるように思う。そのサンプルとして、乖離が大きなものがあったのでまとめてみた。今までだと「あー、こういう解釈もするのか。でも別の解釈の方がよいのに……」という引っかかり程度だったけど、この長塚氏の解釈は、どうすればその解釈に辿り着けるのかがそもそも判らない。ここまで判らないと、もはや理解しようという動機を失ってしまう恐ろしい状態。

私はどこをどう間違えたのだろうか……。

天文19年のこと、結城政勝は若君が六月に葛西か岩付へ移座する可能性を問い合わせている(「結城家譜草案」『埼玉県史料叢書』12)。
『北条氏康の子供たち』「浄光院殿-足利義氏の室」(長塚孝)236p

これは原文でいうと下記のとおり。

わたくしのさいしに、かさ井のさかひ、岩つきのさか井にあつて、小田ととりあい申候ハゝ、御うつりの証しのさわりにもなり申へきかと、おほせいたされたるハ、けにもさも御さあるへく候、

のちほど細かく書くが、私が全く違う解釈に至った。

私の妻子は葛西の境・岩付の境にいますから、小田と取り合いになれば、
お移りの証人としての存在にも障害が出るだろうと仰せ出しになり、どうも
本当にそうお考えのようです。

長塚氏解釈になるべく近づけるように試みるならば、小田・結城の紛争が障害になって、葛西・岩付それぞれの境界が不安定になり、若君移座の障害になる。という流れになるのだが、「わたくしのさいしに」が不明で、「私の祭祀」というふうに読んでも、それが若君=義氏を指すとは思えない。

場所における類例としても、葛西は判るが、岩付に義氏が移座する可能性があったということは、太田資正の政治的位置から考えると大きな影響力を持つ仮説で、とても重要な例証となる。そこで原文を解釈してみたのだが、葛西と岩付にいるのは政勝の妻子で、彼らは人質として出されていた。としか読めなかった。

小田原からの援兵は若君移座の妨げにはならない、という主張を差出人の結城政勝はしていて、その中で「古河から百里隔たっている場所で、小田原から援軍があったからといって支障はない」と主張している部分がある。ここから、若君移座先は古河だった可能性がある。

原文

わさと申上候、さては一日御文くたし給候、かたたよりにて候ほとに、御返事にて申さす候、さてはわかきミさま御うつり、六月ニさたまり申候や、御めてたく候、しからは氏やすひたち口のてあハせ申されへきに、さたまり申候、御うつりまへに、をた原のしゆたち申候ハゝ、御うつりのさハりにもなり、申断候よし、上意も御さ候や、これによりまつゝゝゑんにん申よし、おほせいたされ、みなミへもすいうん院よりとゝけられ候とと越山申こし候、かやうに、おほせいたされ候事、をそれなからふんへつ申さす候、たゝをた一へんニ、御かたんとこそ存申候、そのゆへハ、わたくしも春中さうせつ申候とき、せいしを以申上候、氏やすの事ハふたつなく忠しん申され候、なにを以御きしんあるへく候や、又わたくしのさいしに、かさ井のさかひ、岩つきのさか井にあつて、小田ととりあい申候ハゝ、御うつりの証しのさわりにもなり申へきかと、おほせいたされたるハ、けにもさも御さあるへく候、すてにこかへ百里へたゝり、ひかしのゆミやに、小田原よりてあハせ申され候事まて、御うつりのさわりニなり申へきよし、おほせられ候事、さらに御理とも申へきニあらす候、たゝいかやうにあつてもうつし被申あるましき、御ゆふと存申候、さて又かくのことく 上意にも、御うちさまニもおほしめ候うへハ、たとへこれにてめつほう申候とも、御うつりまへ、人しゆしにもふ申ましく候、此のよし御申給へ、あなかしく
なをゝゝこのうへハをた原より人しゆこし申され候ハん事ハいかん、こなたより御うつりまへ、てあわせ候へとハ、けふにめつほう申候とも申ましく候、御心やすくおほしめされ候へと、さて又御あつかひハ、かしこまりいらす候ゑは、とにかくとく御うつりの事をさへ、御申あるへきと存候、さて又これへ手あわせ、御うつりしかるへきさハりにハなり申ましく候に、かやうにおほせられ候事、まつひろめいわくニ御さ候、わたくしの身上をかせき、御くらふなされ申候ハん事ハ、あるましく候、めつほう申候とも、こなたより人しゆしよもう申ましく候、
閏五月十九日/まさ勝公御判/宛所欠
(注記:古河公方者、氏広ノ婿公也、右、天文十九年庚戌閏五月十九日壬子四十七ノ御時也)
埼玉県史料叢書12_0145「結城政勝書状写」(結城家譜草案)

漢字を当てはめたもの

態申上候、扨者一日御文下給候、片便りニ而候程ニ、御返事ニ而不申候、扨者若君様御移、六月ニ定申候哉、御目出度候、然者氏康常陸口之手合被可申ニ、定申候、御移前ニ、小田原之衆立申候ハゝ、御移之障にもなり、申断候由、上意も御座候哉、依此先ゝ延引申由、被致仰出、「みなミ」へも自瑞雲院被届候与越山申越候、加様ニ、被仰出候事、乍恐分別不申候、只小田一遍ニ、御加担与こそ存申候、其故ハ、私も春中雑説申候時、誓詞を以申上候、氏康事ハ無二忠信被申候、何を以御疑心可有候哉、又私之「さいし」ニ『かさ井のさかひ』・『岩つきのさか井』ニ有而、小田与取合申候ハゝ、御移之証之障にも成可申歟与為被仰出者、けにも然も御座可有候、既古河江百里隔、東之弓矢に、小田原よりて合被申候事迄、御移之障ニ成可申由、被仰候事、更御理とも不有可申候、只如何様にあつても移被申有間敷、「御ゆふ」と存申候、扨又如斯 上意にも、御内様ニも思召候上者、縦此にて滅亡申候共、御移前、人衆にもふ申間敷候、此由御申給へ、穴賢、
猶々此上者自小田原人衆越被申候ハん事ハ如何、自此方御移前、手合候へとハ、今日ニ滅亡申候共申間敷候、雖御心易被思召候、扨又御扱ハ、畏不入候得者、兎角疾御移之事をさへ、可有御申と存候、扨又此へ手合、御移可然障ニハ成申間敷候ニ、斯様ニ被仰候事、「まつひろ」迷惑ニ御座候、私之身上を稼、被御苦労申候ハん事者、有間敷候、滅亡申候共、従此方人衆所望申間敷候、
閏五月十九日/まさ勝公御判/宛所欠(注記:古河公方者、氏広ノ婿公也、右、天文十九年庚戌閏五月十九日壬子四十七ノ御時也)
埼玉県史料叢書12_0145「結城政勝書状写」(結城家譜草案)

現代語による解釈

折り入って申し上げます。いちじつお手紙をいただきました。一方的な内容だったのでお返事せずにおりました。さて、若君様のお移りについて。6月に決まったのでしょうか。おめでとうございます。そして、氏康が常陸口の手合わせをする件について、お移りの前に小田原の衆が出兵されるのは、お移りの障害にもなるので報告せよ、との上意があるのでしょうか。これによって先々へ延引なさると仰せ出しになられ、「みなみ」へも瑞雲庵より届けられたと、越山が申してきました。このように仰せ出されること、恐れながら分別がないことです。ただ小田に贔屓してご加担しているだけかと思っています。その理由は、春中に雑説があった際、私も起請文をもって申し上げました。氏康は無二の忠信を持っていると申されました。何をもってご疑心があるのでしょうか。また、私の妻子は葛西の境・岩付の境にいますから、小田と取り合いになれば、お移りの証人としての存在にも障害が出るだろうと仰せ出しになり、どうも本当にそうお考えのようです。古河へ100里隔たった東の弓矢に、小田原から手合わせなさいますことまで、お移りの障害になるだろうと仰せになられたこと、とてもご道理とも思えず、ただ「どうあっても移されないための」ご理由と思っています。さてまた、このような上意でも、御内様にも思し召された上は、たとえこれで滅亡したとしても、お移り前に、人衆にもう申すことはありません。このことはお伝えいただけますか。あなかしこ。

なおなお、この上は小田原より人衆が派遣されることは、いかなることも、こちらよりお移りになる前に手合わせすることは、今日滅亡すると言われても、いたしません。ご安心いただいているとはいえ、さてまた、ご仲裁に(小田が)服従しないでしょうから、とにかく早くお移りのことだけを仰って下さいますよう。さてまた、こちらへの手合わせが、お移りへのさしたる障害にはならないと申していますのに、このように仰せになること、「まつひろ」困っております。自分の利益確保に走って、ご苦労をかけるようなことはありません。滅亡するといっても、こちらより人衆を所望することはありません。

解釈備考

  • 「」は当てる漢字が曖昧なもの
  • 『』は地名と想定される

当てる字があやふやなものは、

  • 「みなミ」=南? 南衆=後北条氏? 南向=晴氏室?
  • 「さいし」=妻子? 祭祀? 叢書は「妻子」を当てる
  • 「御ゆふ」=ゆう=夕? 木綿? 憂? 由?
  • 「まつひろ」=意味不明。誤翻刻か。

さいし=妻子であることは下記2例より推測可能。「妻子」だと29回出現している。一方で「祭祀」は1回のみ。

こゝもとの父母さいしなと御たすけなされよろしく候ハんや
戦国遺文後北条氏編3752「小少将書状写」(秋田藩家蔵文書三十一)

白倉うちしにふひんにて候、さいしにねん比有へく候也、
戦国遺文後北条氏編4257「和田昌繁書状写」(井伊文書)

馬淵弥次郎跡職之事。右、令沽却本知行遂電法体云々、然上者、改其跡領掌稲川大夫息男松千代丸畢者、恒例祭祀、守先規可令勤仕之状如件、
戦国遺文今川氏編0373「今川氏親判物」(静岡県立中央図書館所蔵大宮司富士家文書)

また、史料を所載した埼玉県史料叢書も「妻子」と比定している。

読み取れること

  • 宛所は、足利義氏に近しい人物(瑞雲院・芳春院ではない)。

  • 結城政勝は小田と交戦中で、小田原からの援軍を要請しようとしていた。

  • 義氏のお移りが6月に予定されている。

  • 義氏・晴氏のどちらかが、政勝の応援に氏康が助力することを嫌がっている。

  • その理由として、義氏のお移りに支障が出るだろうという予測。

  • 政勝が葛西の境・岩付の境にいる政勝の妻子について。彼らが小田・結城交戦時に争乱の元になり、それが若君移座を妨げると、義氏か晴氏が予測している。

  • 政勝は、たとえ自らが滅亡することになっても援軍は要請しないと約束している。

人物比定

  • 「上意にも、御うちさまニもおほしめ候うへハ」という一文がある

  • 氏康起請文(梁田持助宛て)では義氏を「公方様」晴氏・芳春院を「御所様・御内様」と呼んでいる。古河市史資料中世編0967「北条氏康起請文写」(集古文書)

  • 政勝は宛所に向かって「上意」「御うち様」にもお話ししてしまったからには~みたいなことを書いているので、宛所は晴氏ではないと思う。

  • 義氏がこの4年後の天文23年に出した起請文に「大上さま 上意をはしめとして」とあり、晴氏は「大上様」で「上意」を持つ存在だったことが判る。古河市史資料中世編0791「足利義氏起請文写」(簗田文書)

更に書札礼から見て、簗田氏が最も可能性として高いように見える。仮名書きであることから見ると女性に宛てたもの、簗田氏出身の藤氏母が直接の宛所で、彼女を通じで晴氏に内容を伝えようとしたのかも知れない。

意図としては、若君=義氏の移動にかこつけて、結城・後北条の連合軍が小田と交戦するのを、晴氏が阻止しようとしてきた。それに対して「移動の障害になるとは思えないが、意向に沿って援軍要請は差し止めましょう。たとえ滅亡しようとも」と返したのがこの文書だろう。というのが私の解釈。

2017/07/17(月)寿桂尼は当主の補佐に徹したのか

今川氏親室の「寿桂」は、通説では歴代当主の補佐をしたとなっているが、息子の氏輝については本当にそういう関係だったのか疑問に思っている。

氏親死後は、2年ほど寿桂のみが文書を発給、大永8年になると氏輝が文書発給を開始する。このままで終われば、寿桂は「繋ぎ」としての役割だと言い切れる。ところがこの年の10月以降、寿桂のみの発給体制に戻ってしまう。これは享禄2~4年と続き、その間の氏輝文書は姿を消す。

ただ1点だけ、奇妙な文書がある。享禄3年の1月29日に本門寺に宛てたごく普通の保護制札だが、これだけが何故か氏輝の名前が書かれている。そして「氏輝」とまで書かれていながらその下に花押はなく、袖の部分に寿桂の朱印が押されている。氏輝が病弱だという通説に従うならば、1月に体調が回復した氏輝を当て込んで書面を作成、その後病状が悪化し花押が据えられなくなって、最終的に寿桂が代行したとなる。

しかし、それならば何故最初から寿桂の文面で作らなかったのかという疑問がある。その前年から完全に寿桂発給体制に切り替わっているし、そんなに急ぎの内容でもない。

氏輝が母に排斥されていたとすると……

ここで、寿桂と氏輝が競合関係にあったと仮定してみる。

氏親死後に発給を独占した寿桂を押しのける形で、本来の当主である氏輝が大永8年に一斉発給を開始するのだが、すぐに寿桂が盛り返して再び発給を独占する。

享禄3年の奇妙な文書は、この期間に間違って作られた書面だったか、氏輝派が画策して作られたのかどちらかだと思う。何れにせよその文面を見た寿桂は、花押がないまま、袖に自分の朱印を押した。破棄しなかったのは、どのような書面で稟議されようとも決裁は必ず自分が行なうという意思表示だった。このように考えるとこの奇妙さは解消される。

※袖判が発給者より上位だとすると、氏輝名義だが寿桂が袖判するという条件を提示したが氏輝が拒否したという仮説も成り立つ。ただ、その場合でも文面を改めて発給する可能性があり、余り可能性が高いように思えない。

その後は享禄5年になると氏輝に一気に切り替わる。これは氏輝が急死するまで続くのだが、天文3年だけは少し例外がある。朝比奈泰能が3月12日に、遠江国大山寺に安堵状を出しているのだが、これは最初に氏親が発給した内容の追認で、その前に寿桂、氏輝の順でも出されている。大山寺のこの反応を見ると、今川家の安堵状では信用ができず、掛川の泰能からも一筆出すよう求めたのが妥当なように見える。また、5月25日に寿桂が漢文の朱印状を出しているが、この宛所・内容は富士金山に関わるもので、氏輝はここに食い込めなかったのだと推測できる。

義元の代になると寿桂は暫く発給を止めるが、天文16年に1通だけ安堵状が出される。この後1年空けて、天文18年に再び発給を開始するが、この時は朱印状の袖に義元が花押を据えている。氏輝との競合があったとするならばだが、義元としては寿桂の独自発給を止めるためにこの措置を行なったとも考えられる。

この後は義元袖花押を伴わなくなるので、一旦上下関係を確認した後は放置したのだろうか。この点は更なる推論が必要になるかも知れない。

寿桂が氏輝と競合してまで発給を続けた理由

この動機としては、寿桂が京の出身で文書の扱いに対して素養があったこと、個人の資質として政治をしたがったことが大きいと考えている。但し、だからといって寿桂が大きく政治方針を転換した訳ではない。私が想定しているのは、京から駿府に下った公家衆の利権確保を目的として家中での発言権拡大を目指したのではないか、というもの。歴代今川当主の中でも群を抜いて京贔屓だった氏親の死は、公家衆にとって大きな衝撃だったに違いなく、その収拾役として寿桂が立ったと。

恐らくこの視点から徹底的に史料を当たっていないと思うので、よりフラットなアプローチで再検討してみてもよいかと思う。

氏輝・寿桂 文書推移

 番号は戦国遺文今川氏編 △=寿桂、●=氏輝、◎=両者


1526(大永6)年

 06月23日 氏親死去

△09月26日 寿桂朱印状 大山寺安堵状 419

△12月26日 寿桂朱印状 昌桂寺寄進状 425

△12月28日 寿桂朱印状 朝比奈泰能宛 427

<惣持院所領4貫400文を城地として渡す>


大永7年

△04月07日 寿桂朱印状 心月庵棟別免除 429

<「しひのおの末庵たるうへ、めんきよせしむる所如件」>


大永8年・享禄元年(8月20日改元)

●03月28日 氏輝判物 神主秋鹿左京亮宛安堵状 443

●03月28日 氏輝判物 神主秋鹿宛人足免除 445

●03月28日 氏輝判物 八幡神主宛安堵状 444

●03月28日 氏輝判物 松井八郎宛御厨領家相続安堵 446

●03月28日 氏輝判物 松井八郎宛遠州当知行安堵 447

●03月28日 氏輝判物 匂坂六郎五郎宛遠州当知行安堵 448

●08月07日 氏輝判物写 雅村太郎左衛門尉宛証文再発行 450

●08月13日 氏輝判物 大山寺安堵状 452

●08月13日 氏輝判物写 頭陀寺宛安堵状 453

●09月07日 氏輝判物 久能寺宛安堵状 456

●09月15日 氏輝判物 新長谷寺宛相続安堵状 457

●09月17日 氏輝判物 神主中山将監宛免税 458

△10月18日 寿桂朱印状 大井新衛門尉宛皮役指示 459

<氏親判物(399)を受けてのものだが、この399は印文が「氏親」で違和感がある。この頃は「紹僖」印で、花押の位置に押していた。従ってこの文書も要検討だと考えられる>


享禄2年

△03月19日 寿桂朱印状 大石寺宛免税 461

△12月07日 寿桂朱印状 五とうせんゑもん宛安堵状 465

△12月11日 寿桂朱印状 めうかく寺宛免税 466


享禄3年

◎01月29日 氏輝判物(寿桂朱印状) 本門寺宛保護制札 467

<氏輝の名前の下に花押がなく、袖に「帰」朱印>

△03月18日 寿桂朱印状 新長谷寺宛相続安堵 471

△06月27日 寿桂朱印状 玖延寺宛安堵状 473

△06月30日 寿桂朱印状 極楽寺安堵状 474


享禄4年

△03月23日 寿桂朱印状 酒井惣さゑもん宛植林指示 475

△閏05月01日 寿桂朱印状 華厳院宛保護制札 476(漢文)


享禄5年・天文元年(8月29日改元)

●4月21日 氏輝判物 三浦鶴千代宛安堵状 481

●4月21日 氏輝判物 三浦鶴千代宛安堵状 482

●5月3日 氏輝判物 大石寺宛免税 483

●8月21日 氏輝判物 江尻商人宿 485

●9月3日 氏輝判物 昌桂寺宛保護制札 487

●9月19日 氏輝判物 長善寺宛保護制札 489

●10月4日 氏輝判物 神龍院宛相続安堵 490

●11月27日 氏輝判物 富士宮若宛安堵状 493


天文2年

●2月5日 氏輝判物 法多山宛安堵状 496

●5月14日 氏輝判物 玖延寺宛安堵状 499

●10月19日 氏輝判物 興法寺宛安堵状 504

●12月4日 氏輝判物 大沢宛小船役の提供 505

●12月10日 氏輝判物 満願寺宛安堵状 506

●12月26日 氏輝判物 建穂寺宛安堵状 507


天文3年

●01月17日 氏輝判物 中山宛切符給付 508

●02月21日 氏輝判物 能登権守神領差し戻し 509

●02月27日 氏輝判物 大石寺宛寄進状 510

 03月12日 泰能判物 大山寺宛安堵状 512

△05月25日 寿桂朱印状 大田神五郎宛 515(漢文)

<富士金山への荷物搬送>

●06月05日 氏輝判物 加賀爪宛安堵状 516

●07月03日 氏輝判物 某宛大岡庄商人問屋の権限保障 519

●07月13日 氏輝判物 興津宛安堵状 520

●08月14日 氏輝判物 真珠院宛保護制札 521

●11月07日 氏輝判物 井出宛知行裁許 522

●12月16日 氏輝判物 原川宛安堵状 528


天文4年

●05月16日 氏輝判物 領家宛寄進状 529

●05月30日 氏輝判物 大山寺宛相続安堵状 530

●06月04日 氏輝判物 辻坊宛裁許 531

●07月17日 氏輝判物 某宛免税 532

●08月20日 氏輝判物 孕石宛感状 533

●09月05日 氏輝判物 太田宛感状 534

●10月18日 氏輝判物 匂坂宛中尾生在城指示 536


天文16年

△04月02日 寿桂朱印状 徳願寺宛安堵状 826


天文18年

△10月04日 寿桂朱印状 真珠院宛寄進状 911(半漢文)

<義元が袖花押>

△11月23日 寿桂朱印状 徳願寺宛寄進状 917

<義元が袖花押>

△11月23日 寿桂朱印状 徳願寺宛知行指示 918

<義元が袖花押>


天文19年

△11月17日 寿桂朱印状 円龍寺宛寄進状 981(半漢文)


天文20年

△05月23日 寿桂朱印状 めうかく寺宛寄進状 1011


永禄2年

△06月18日 寿桂朱印状 妙海寺宛免税 1465

△12月23日 寿桂朱印状 岡埜野宛百姓職裁許 1488


永禄6年

△03月28日 寿桂朱印状 妙海寺宛安堵状 1905(半漢文)

△09月11日 寿桂朱印状 峯叟院宛寄進状 1934


永禄7年

△12月18日 寿桂朱印状 徳願寺宛安堵状 2022

△12月吉日 寿桂朱印状 高松社宛寄進状 2023(半漢文)

原文

駿河国富士北山之内本門寺之事
一、棟別并諸役、為不入之地御免許之事
一、本門寺々号証文御領掌之事
一、於彼地、従地頭陣僧・棟別諸役等不有之之事
右条々、如先御判之旨、為不入之地定置者也、仍而状如件、
享禄三庚寅年正月廿九日/氏輝(名の下に花押なく、袖朱印「帰」)/本門寺
戦国遺文今川氏編0467「今川氏輝判物」(富士宮市北山・北山本門寺文書)

駿河国しやうふかやのうちしものやつ庵地、さかゐそうさゑもんはいとくせしめ、あんをたつると云々、林としてうへ木をなすへきよしある間、後年にかのはやしきんへんかこのようなと申、其外見きり竹木めんしをハんぬ、此むねを得、竹ほくを可植者也、仍如件、
享禄四年辛卯年三月廿三日/(朱印「帰」)/酒井惣さゑもん殿
戦国遺文今川氏編0475「寿桂尼朱印状」(酒井文書)

江尻商人宿之事
右、毎月三度市、同上下之商人宿事、并屋敷弐間、可為如前々者也、仍如件、
享禄五八月廿一日/袖に(今川氏輝花押)/宛所欠
戦国遺文今川氏編0485「今川氏輝判物」(静岡市葵区研屋町・寺尾文書)

遠江国敷知郡之内当知行内海小船役之事、無之筋目承之間、就村櫛在城之畢、然者、上置船雖有何地、無相違可被請取之状、仍而如件、
天文二十二月四日/氏輝(花押)/大沢殿
戦国遺文今川氏編0505「今川氏輝判物」(大沢文書)

富士金山江上荷物五駄、毎月六度、甲州境目雖相留、金山之者共為堪忍分不可有相違、若甲州へ於通越有之者、堅所被加成敗、仍如件、
天文三甲午五月廿五日/(袖に朱印「帰」)/大田神五郎殿
戦国遺文今川氏編0515「寿桂尼朱印状写」(国立公文書館所蔵判物証文写附二)

遠江国村櫛之内大山寺領田地参町四段并山林等之事
右、為国不入無相違令領掌畢者、為新祈願所、武運長久・国家安全之祈念、修造勤行等、不可有退転之状如件、
永正十六己卯年正月十一日/修理大夫(花押)/大山寺理養坊
戦国遺文今川氏編0323「今川氏親判物」(大山寺文書)

とをたうミの国むらくしのうち大山寺りやう田地参町四段ならひにやまはやし等之事。右、国ふにうとして、さうゐなくりやうしやうせしめをハんぬ、新きくハん所として、武運ちやうきう・国家あんせんのきねん、しゆさう勤行等、たいてんあるへからす、そうせん寺殿の御判にまかせて、つきめさういあるへからさるもの也、仍如件、
大永六ひのへいぬ年九月廿六日/袖に朱印「帰」/大山寺理養坊
戦国遺文今川氏編0419「寿桂尼朱印状」(大山寺文書)

遠江国村櫛之内大山寺領田地参町四段并山林等之事
右、為国不入、無相違令領掌畢者、為新祈願所、武運長久・国家安全之祈念、修造勤行等、不可有退転之旨、任永正十六年正月十一日喬山判形、不可有相違之状如件、
大永六戊子年八月十三日/氏輝(花押)/大山寺理養坊
戦国遺文今川氏編0452「今川氏輝判物」(大山寺文書)

遠江国村櫛之内大山寺領田地参町四段并山林等之事
右、為国不入、無相違令領掌畢者、為新祈願所、武運長久・国家安全祈念、修造勤行等、不可有退転、任先御判・当御判之旨、不可有相違者也、仍如件、
天文三年甲午三月十二日/泰能(花押)/大山寺理養坊
戦国遺文今川氏編0512「朝比奈泰能判物」(大山寺文書)

遠江国村櫛之内大山寺領田地参町四段并中六坊、其外山林野原等之事。右、当院主一世之後者、弟子秀尊仁被譲与之旨、令領掌訖、為新祈願所、武運長久・国家安全祈念、并修造勤行等、不可有退転者也、任先判之旨為国不入、諸役等免許不可有相違之状如件、
天文四乙未年五月卅日/氏輝(花押)/大山寺当院主秀源坊
戦国遺文今川氏編0530「今川氏輝判物」(大山寺文書)

遠江国村櫛之内大山寺領田地。参町四段并中六坊、其外山林野原等之事。右、任臨済寺殿判形旨、当院主一世之後者、弟子秀尊仁被譲与之旨、令領掌畢、修造勤行等、不可有退転者也、任先判旨為国不入、諸役等免許不可有相違之状、仍如件、
十二月十三日/義元(花押)/大山寺秀源法印
戦国遺文今川氏編0581「今川義元判物」(大山寺文書)

遠江国村柿内大山寺領田地之事。参町四段并中六坊、其外山林等之事。右、任先判并先師勝尊法印譲与之旨、永領掌不可有相違、同門沙弥百姓、棟別年来納所無之旨、所任其儀也、然者弥修造勤行不可有怠慢、任先例為国不入、諸役以下免除不可有相違者也、仍如件、
永禄参庚申年二月七日/氏真(花押)/大山寺尊融
戦国遺文今川氏編1495「今川氏真判物」(大山寺文書)

今度甲州衆、就在所鳥波放火、於富士別而就新屋敷取立者、棟別拾弐間分、并天役・諸役等令免除之、弥可抽奉公者也、仍如件、
天文四乙未年七月十七日/氏輝(花押)/宛所欠
戦国遺文今川氏編0532「今川氏輝判物」(六所文書)

去十九日之於万沢口一戦之上、別而成下知走廻之由、甚以神妙也、殊所被抽粉骨、仍如件、
八月廿日/氏輝書判/孕石郷左衛門殿
戦国遺文今川氏編0533「今川氏輝感状写」(土佐国蠧簡集残編七)