2022/03/21(月)連署の順番は序列を表すか
連署=序列かどうか
書状の差出人が複数存在する「連署」という形態がある。この時に記名の順番は地位の序列に基づくのか、基づかないとすればどのような基準で名の配置が決まるのかを考えてみる。
専門家の見解は少々ややこしい。
『古文書学』(伊木寿一)p108~109
上下両段に多数が連署する文書にあっては、上段は右から左に、下段は左から右にゆくにしたがってその人の地位が低くなり、最後の者が日附の下に署名することになっている。そしてこの日下署判の人がその文書の執筆者かあるいは取扱者であるのが通例である。
一般に充書に近い方が上位者で、日附の下の者が最下位かあるいは取扱者、責任者である。尤も上包みの懸紙では右が上位で左が下位である。
また親が後見で子が当主である場合には、当主が日下に署判し後見は次行に連署するなど、いろいろの仕方があるが、それも伊勢流・曽我流・大館流などの書札礼の規定と実際とでは必ずしも一致せぬ場合は少なくない。
この説明は奇妙に思える。日付の下の者が「最下位かあるいは取扱者、責任者」だと、最も地位が低い者と案件責任者が同一となってしまう。管理監督責任の概念が近代以前の日本には存在しないのであれば責任者=下位者もあり得るのだろう。しかし、少なくとも戦国期においては上位者になるほど決裁権限が強くなる傾向があり、その分だけ上位者の責任は重くなっている。
それでは、伊木氏の把握した文書解釈をどう理解すればいいだろうか。案じてみると、日付の下の者は「取扱者」であり、連署の順番は家中の序列を表さないという解釈であれば腑に落ちるような気がする。
つまり、日付の下に名を置いた者が文書を作成。その左側に、連帯承認者として連署してほしい者の名を記していき、最後に宛所を配置。作成者は稟議のような形で次の連署者に渡した。連署する順番に制約はないものの、後ろにいくほど最終確認者に近くなっていく。最後に花押を据える者が、他の連署者の花押状況を見て、最も確定した状態で文書を確認することになるからだ。このため、一見すると上位者のようにも見えてしまう。
そう考えると、「当主・隠居」の順番が一定でなかったり、花押を据えていない者が混じっていたり、略押・印判で代用する者がいたりする状況が理解できる。
実際の運用例
手持ちのデータで差出人が連署となっているものは301件。
差出人連署一覧 rensho_all.pdf
その中で数が多い羽柴秀吉を取り上げてみる。秀吉が入っているものは39例。
羽柴秀吉の連署状一覧 hideyoshi_rensho.pdf
位置がかなり変動しているのが判る。連署相手は丹羽長秀・明智光秀・滝川一益が目立つが、その順序は固定ではない。時間・地域の要素で使い分けているとも見えない。花押の有無も微妙で、場合によっては光秀が花押を据えたのに次の秀吉に花押がなく、その後ろの一益は花押を据えたというものもある。かと思えば秀吉花押があるものも存在するから、花押がないものは稟議時に秀吉が掴まらなかったからと考えた方が理解しやすい。
効率がよさそうな稟議ルートを起案者が設定でき、かつ押印不在でも通してしまう不文律があったのが戦国期連署状の有り様だろう。
稟議書を回した個人的経験によると、回覧や承認の順序はきちっと行なわれるわけではない。押印を渋る総務を説得するために先に法務押印をもらったり、留守がちな部門長の押印がなくても決裁が通ったりする。一見するときちんと承認されている稟議書だが、作成する際にはよく「ダンジョンのスタンプラリー」と揶揄されるほどに混沌した状況だったりする。
例外的な連署
日付の下の者は名だけなのに、続く者が花押を据えている例も4つあるが、それぞれの状況が乖離していて解釈が難しい。作成者が連署者の一段下の奉者という位置づけだろうか。
- 「藤吉郎秀吉・次秀勝(花押)」
豊臣秀吉文書集0311「羽柴秀吉・秀次連署判物」(鈴木康隆氏所蔵文書)
天正9年2月のもので野村弥八郎の跡目を相続を認めたもの。8年3月の奉加状では「羽柴藤吉郎秀吉(花押)・羽柴次秀勝(花押)」と連署しているから、野村からの要望を受け秀吉が名前だけ書き加えた例外的措置だろうと思われる。
- 「伊勢千代丸・孝哲(花押)」
戦国遺文下野編1281「小山秀綱・政種連署書状」(奈良文書)
小山伊勢千代丸は天正3~5年で4通の文書を独自発給しているが、いずれも幼名名乗りで花押がない。この無理が通らなくなったのか、連署として父の秀綱が自署している。ただしあくまでも発給主体は伊勢千代丸であることを示したかったのかもしれない。
- 「幻庵奏者大原丹後守・宗哲(花押)」
戦国遺文後北条氏編1591「北条宗哲判物」(宝泉寺文書)
これは寺領地図に北条宗哲の朱印「静意」が3つ捺されている特殊なもの。このため、奏者として大草丹後守(康盛)は花押を据えず、宗哲のみに承認者を絞ったのではないか。
- 「馬場美濃守奉之・(武田勝頼花押)」
静岡県史資料編8_1331「武田勝頼感状」(荻野三七彦氏所蔵文書)
こちらは朱印状とするべきところを急遽判物に変えたものだろう。感状は通常花押を据えるものだが、馬場が勘違いして作成してしまったのだろう。
※更にこの類例として、宛行状写での「朝比奈紀州奉之・氏真(花押)」(戦国遺文今川氏編1592)があるが、これは文言から信憑性に課題があるので考察範囲から除外している。
まとめ
連署の順番は序列ではなく、稟議順である可能性が高い。根拠は、同一人物・同一時期の連署で並びが入れ替わること、花押を欠いたままの人物がいても発給されることが挙げられる。連署の先頭(日付の下の人物)はその文書の発給主体(発議者)であり、本人だけの署名では効力が弱いために連署者を指定して稟議にかけていると見られる。
2021/05/29(土)天正元年の韮山城攻防戦
北条氏規と韮山合戦
北条氏規の書状を新たに見つけたので解釈・考察を試みる。
天正元年8月、駿河侵攻中の武田晴信に韮山城が攻撃されていた時のもので、岩田弥三という人物に韮山籠城の状況を伝えつつ、銃器の増援を要請している。
原文
急度注進申上候、今日者敵未明ニ当城へ取懸申候、かつ田も不致候、町場・和田島両口へ取寄申候キ、町場を致払候、我々自身懸合申江川はし前より押返申候、■■■山角物主ニ御座候、大藤涯分走廻候、然者和田島ハ伊奈四郎・小山田・武田左馬助此衆物主、両度対和田島致可払由候キ、涯分及坊戦押返、今日者為焼不申候、定而明日者惣手を以、可致候由存候、見合指引可申付候、乍去御心安可被思召候、随者今、午尾、遠山新四郎かせ者、敵へ走入申候、其後信玄はたもとしゆ十八町へ鑓を取候而、段々ニ被帰候間、十八町へてつほうを重堅固申付候、只今申被引退候、惣手之人数入申候、先日も申上候てつほう不足ニ御座候、はなしてハ御座候間、筒ハかり借可被下候、若十八町之■やく何共迷惑奉存候、有様ニ申上候旨、可預御披露候、恐惶謹言、
八月十日/助五郎氏規/岩田弥三殿
鉢形領内に遺された戦国史料集第三集p104「北条氏規書状写」(岩田家系録文書)
解釈
取り急ぎ報告します。今日は敵が未明に当城へ攻撃してきました。苅田もせず、町場・和田島の両口へ攻め寄せました。町場からの『払い』をするため、我々自身が応戦し、江川橋の前から押し返しました。山角が物主で、大藤がとても活躍しました。
そして和田島へは伊奈勝頼・小山田信茂・武田信豊が物主となり、二度にわたって和田島に対して『払い』を試みていたようですが、目一杯防戦して押し返し、今日は焼かせませんでした。
きっと明日は総攻撃をかけてくるだろうと思います。とはいえ、状況に応じた駆け引きを指示しますから、ご安心下さい。そしてこの午の下刻、遠山康英のかせ者が敵方へ逃げ込みました。その後、武田晴信旗本衆が鑓を取り、十八町へ徐々に帰っていきましたから、十八町へ鉄炮を追加配備するよう指示しました。
現状では敵が退いていますが、全ての兵力を入れてくれば、先日も申しましたように鉄炮が不足します。射撃手はいますので、銃身だけをお貸し下さい。十八町への供出といわれてもお困りでしょうが、ありのままを申し上げます。宜しくご披露下さい。
考察
各地名
伊豆の国市が公開している『韮山城「百年の計」』内の「第2章韮山城跡の調査・研究1韮山城跡の研究史(p21~)、2韮山城跡の発掘調査概要(p31~p50)」の6ページ目に詳しい。
稀出語
「致払」が固有語のように使われている。他例がないが、一定領域に対して敵軍を排除する意味合いだと思われる。
「走入」の解釈
引用元の戦国史料集では「突撃」と解釈しているが、他例の「走入」は戦場だと「敵に投降する」ことを指す。後北条は兵数が劣っていたため、「かせ者」(武家の付き人)が逃げ込んだのだろう。武田方がそれを受けて兵を引いたのは、かせ者から情報を得るためだと考えられる。
誰に伝えたものか
結句の「恐惶謹言」が厚礼であること、鉄炮供出を岩田弥三が「披露=具申」するように求めていることから、氏規は弥三を介して上位者に呼びかけたものと思われる。8月13日付の「大石芳綱書状」から、氏康・氏政は小田原、氏邦は鉢形にいることが確実なので、氏照かも知れない。8月21日に泉郷へ禁制を出している宗哲が最も可能性が高そう。同じ韮山城に入っている氏忠にこのような戦況を報告するとも思えないので、宗哲が三島に入っていたか。山角康定書状から、韮山城の軍勢が寄せ集めであることが判る。そう考えると、宗哲の下につけられた岩田弥三は氏邦から貸し出された人材だったかも知れない。
関連文書
1)北条氏政から北条高広に宛てた書状
原文
九日之註進状、今十二未刻、到来、越府へ憑入脚力度ゝ被差越由、祝着候、然而敵者、去年之陣庭喜瀬川ニ陣取、毎日向韮山・興国相動候、韮山者、于今外宿も堅固ニ相拘候、於要害者、何も相違有間敷候、人衆無調、于今不打向、無念千万候、縦此上敵退散申候共、早ゝ輝虎有御越山、当方之備一途不預御意見者、更御入魂之意趣不可有之、外聞与云、実儀与云、於只今之御手成者、笑止千万候、能ゝ貴辺有御塩味、御馳走尤候、恐々謹言、
八月十二日/氏政(花押)/毛利丹後守殿
小田原市史資料編小田原北条0985「北条氏政書状」(尊経閣所蔵尊経閣文庫古文書纂三)
解釈
9日の報告書が今日12日未刻に到来しました。上杉輝虎への依頼で度々飛脚を出されているそうで、喜ばしいことです。
さて敵は、去年黄瀬川に陣取って、毎日韮山・興国寺へ動いています。韮山は今も外宿を堅固に維持し、要害はどこも相違ありません。兵数が準備できずに今は出撃できず無念千万です。
この上で敵がたとえ退散したとしても、輝虎が早々にご越山し、当方の備えを一途にご意見を預けないなら、さらに昵懇の意趣があってはなりません。外聞といい実儀といい、今のご所作は悔やまれてなりません。よくよくあなたもお考えになり、奔走するのがよいでしょう。
2)上記氏政書状への山角定勝添え状
原文
去九日之御状、十二参着、七日之御状、同前ニ為申聞候、御精ニ被入、切ゝ預御飛脚ニ候、祝着之由被申候、然者信玄至于今日、豆州にら山口日ゝ相動候、此時者、可被打置儀ニ無之候間、為可被遂一戦、人数悉被相集候、物主衆ハ何も懸被付候へ共、人数無調ニ候間、一両日相延、来十八九之間、必乗向可被致一戦候、勝利無疑候、敵ハ八千計ニ候、此方ニも、城ゝニ被籠置候へ共、自当地打立人数七八千可有之候、殊ニ地形可然所ニ候間、信玄可打取儀眼前ニ存候、にら山籠衆氏政舎弟助五郎并ニ六郎、其外清水・大藤・山中・蔵地・大屋三手ニ及楯籠候間、城内之儀者、可御心易候、去九日、町庭口と申所、にら山之城より、一里計外宿ニ候所ニ、山形三郎兵衛・小山田・伊奈四郎為物主、五六手寄来候所ニ、自城内人数を出相戦、敵十余人城内へ討捕候、彼地形一段切所ニ候間、敵手負無際限由申候、委氏照可申達候間、無其儀候、然ニ越御出馬御遅ゝ、不及是非候、急候間、早ゝ及御報候、恐ゝ謹言、
八月十二日/山四康定(花押)/毛丹御報
戦国遺文後北条氏編1435「山角康定書状」(尊経閣文庫所蔵文書)
解釈
去る9日の書状が12日に到着し、7日の書状も同じく伺いました。熱心にも、事あるごとに飛脚を送っていただき、祝着であるとのことです。
そして武田晴信は、今日になって伊豆国韮山に向かって毎日作戦しています。こうなると放置できないので、一戦を遂げるために軍勢を集められています。物主衆が全て駆けつけていますが、兵数が揃わずに一両日延期となり、18か19日に必ず乗り向かって一戦するでしょう。勝利は疑いありません。
敵は8千人ばかり。こちらでも城々に籠城させ、当地より出撃した兵数は7~8千になるでしょう。殊に地形が有利なので、晴信を討ち取るのは眼前だと思います。韮山に籠城しているのは、氏政舎弟の氏規と氏忠、そのほか清水・大藤・山中・倉地・大屋が三手に分かれて立て籠もっていますから、城内についてはご安心下さい。
9日に、町庭口という韮山城より1里ばかりの外宿に、山県昌景・小山田信茂・伊奈勝頼を物主として、5~6手が攻め寄せたところ、城内から兵を出して戦い、敵を十余人城内へ誘い込んで討ち取りました。その地形は一段と切所だったので、敵の負傷者は際限がなかったそうです。
詳しくは氏照がご報告しますので、省略します。しかるに、越後衆の御出馬が遅れられているのは、どうにもなりません。急いでいますから、早々にお知らせ下さい。
3)大石芳綱書状写
原文
今月十日、小田原へ罷着刻、御状共可差出処ニ、従中途如申上候、遠左ハ親子四人韮山ニ在城候、新太郎殿ハ鉢形ニ御座候間、別之御奏者にてハ、御状御条目渡申間敷由申し候て、新太郎殿当地へ御越を十二日迄相待申候、氏邦・山形四郎左衛門尉・岩本太郎左衛門尉以三人ヲ、御状御請取候て、翌日被成御返事候、互ニ半途まて御一騎にて御出、以家老之衆ヲ、御同陣日限被相定歟、又半途へ御出如何ニ候者、新太郎殿ニ松田成共壱人も弐人も被相添、利根川端迄御出候て、御中談候へと様ゝ申候へ共、豆州ニ信玄張陣無手透間、中談なとゝて送数日候者、其内ニ豆州黒土ニ成、無所詮候間、成間敷由被仰仏、払、候、去又有、御越山、厩橋へ被納 御馬間、御兄弟衆壱人倉内へ御越候へ由、是も様ゝ申候、若なかく証人とも、又ぎ、擬、見申やうニ思召候者、輝虎十廿之ゆひよりも血を出し候て、三郎殿へ為見可申由、山孫申候と、懇ニ申候へ共、是も一ゑんニ無御納得候、余無了簡候間、去ハ左衛門尉大夫方之子ヲ、両人ニ壱人、倉内へ御越候歟、松田子成共御越候へと申候へ共、是も無納得候、 御越山ニ候者、家老之者共、子兄弟弐人も三人も御陣下へ進置、又そなたよりも、御家老衆之子壱人も弐人も申請、滝山歟鉢形ニ可差置由、公事むきニ被仰候、御本城様ハ御煩能分か、于今御子達をもしかゝゝと見知無御申候由、批判申候、くい物も、めしとかゆを一度ニもち参候へハ、くいたき物ニゆひはかり御さし候由申候、一向ニ御ぜつないかない申さす候間、何事も御大途事なと、無御存知候由申候、少も御本生候者、今度之御事ハ一途可有御意見候歟、一向無体御座候間、無是非由、各ゝ批判申候、殊ニ遠左ハ不被踞候、笑止ニ存候、某事ハ、爰元ニ滞留、一向無用之儀ニ候へ共、須田ヲ先帰し申、某事ハ御一左右次第、小田原ニ踞候へ由、 御諚候間、滞留申候、別ニ無御用候者、可罷帰由、自氏政も被仰候へ共、重而御一左右間ハ、可奉待候、爰元之様、須田被召出、能ゝ御尋尤ニ奉存候、無正体為体ニ御座候、信玄ハ伊豆之きせ川と申所ニ被人取候、日ゝ韮山ををしつめ、作をはき被申よし候、已前箱根をしやふり、男女出家まてきりすて申候間、弥ゝ爰元御折角之為体ニ候、某事可罷帰由、 御諚ニ候者、兄ニ候小二郎ニ被仰付候而、留守ニ置申候者なり共、早ゝ御越可被下候、去又篠窪儀をハ、新太郎殿へ直ニ申分候、是ハ一向あいしらい無之候、自遠左之切紙二通、為御披見之差越申候、於子細者、須田可申分候、恐々謹言、追啓、重而御用候者、須弥ヲ可有御越候哉、返ゝ某事ハ爰元ニ致滞留、所詮無御座候間、罷帰候様御申成、畢竟御前ニ候、御本城之御様よくゝゝ無体と可思召候、今度豆州へ信玄被動候事、無御存知之由批判申候、以上、
八月十三日/大石惣介芳綱(花押)/山孫参人々御中
神奈川県史資料編3下7990「大石芳綱書状」(上杉文書)
解釈
今月10日、小田原へ到着した際に御書状などをお出ししたので、途中から申し上げます。
遠山康光は親子4人で韮山に在城しています。氏邦殿は鉢形におられ、別の取り次ぎ役では御状の条目を渡せないと言われたので、氏邦殿がこちらに来るのを12日まで待ちました。氏邦・山角康定・岩本定次の3人が御書状を受け取り翌日お返事なさいました。
互いに途中までは1騎でお出でになり、家老衆を使って同陣の日限を定めるか、または、氏邦殿に松田などの1人か2人を添えて、利根川端までお出でになって会談されては、と申しました。
しかし、伊豆国に信玄が陣を張っていて手が足りないので、会談などといって数日を送るなら、その間に伊豆国が焦土と化して困るので、行なえないと却下されました。
そしてまた、御越山により厩橋にご出馬する前提で、ご兄弟衆1人を倉内へ送らせる件ですが、これも色々と難航しています。もし長く証人となるなら、知行を与えようとのお考えもあり、輝虎が10~20も指から血を出して血判し三郎殿へ見せようと山吉豊守が申していると、親しく申したのですが、これも全員ご納得ありませんでした。
余りに理解がなかったので、ならば北条綱成の子を、どちらか1人倉内へ送ればどうか、または松田の子でもいいと申しましたが、これも納得ありませんでした。
ご越山が実際に行なわれてから、家老たちの子・兄弟を2人でも3人でも御陣下に置き、またそちら(越後)よりも、ご家老衆の子を1人でも2人でも滝山か鉢形に置けばよいと、建前論で仰せられました。
ご本城様はご病気が進んだか、今は子供たちをはっきりと見分けられなくなったとの風聞があります。食べ物も、飯と粥を一度に持って行けば、食べたい物に指だけをお指しになるとのこと。一向に舌が回らぬようなので、大途のことなどは何もご存知ないとのこと。少しでも快復なさっていれば、この度の事柄は一気にご意見あるのでしょうか。一向に定まりませんので、是非もないこととそれぞれが噂しています。特に遠山左衛門尉は定まりません。気の毒なことです。
私はここに滞留しても一向に用事もないのですが、須田を先に返し、私はご連絡あるまで小田原にいるようにとご指示がありましたから、滞留しています。別段用事がないのであれば帰ってよいと氏政からも言われていますが、重ねてご連絡があるまでは、待つつもりです。こちらの様子は、須田を呼び出して色々とお尋ねになるのがよいでしょうが、正体のない体たらくと言えます。
信玄は伊豆の黄瀬川というところに陣取っています。毎日韮山を攻撃して、作物を剥いでいると申されました。以前は箱根を押し破り、男女のほか出家まで切り捨てたので、いよいよこちらは手詰まりです。
私に帰るようにとご指示されるなら、兄である小二郎にご指示下さい。留守に置いた者ではありますが、早々にお寄越し下されますように。
また、篠窪治部のことは、氏邦殿へ直接申していますが、一向に応答がありません。遠山康光から振り出された手形2通を、お見せするためお送りします。詳細については、須田が申すでしょう。
追伸:追加の御用は、須田弥兵衛尉を派遣されるのでしょうか。繰り返しますが、私はこちらに滞留して用事もありませんので、帰還するようご指示を。最終的には御前のお考えに従います。御本城様の様子は全く体をなしていないとお考え下さい。この度伊豆国へ信玄が出撃したこともご存じないのだと噂になっています。
4)北条宗哲禁制(泉郷=現在の清水町)
原文
禁制、泉郷右、当郷江罷越、作毛刈取事、堅令停止了、若押而於刈取者、即搦捕可申上者也、仍如件、
午八月廿一日/日付に(朱印「静意」)/宛所欠
戦国遺文後北条氏編1440「北条宗哲禁制」(泉郷文書)
解釈
禁制、泉郷右の郷にやってきて、農作物を刈り取ることは堅く停止させる。もし強引に刈り取る者がいれば、すぐに捕縛して申し出るように。
2021/05/26(水)後北条氏の総動員と聚楽行幸
小牧・長久手の後日譚
天正12~13年、徳川家康は娘婿の北条氏直と同盟して、羽柴秀吉に当たる戦略を組んでいた。その状況が一変し、織田信雄の仲介で家康は秀吉に従属することを決断する。そのため、氏直の諒解を得てから上洛している。
天正14年11月15日、京から帰った家康は大急ぎで氏直に書状を送り、秀吉との調整がうまく落着したと伝え、関東に対する秀吉の要求を送った。内容は不明だが、恐らく氏直の上洛・出仕の要件が盛り込まれていたのは確実だろう。この時点で秀吉は関東案件を家康に委託し、今後は家康が提唱する「関東惣無事」に則ることを片倉・多賀谷・白土らに申し送っている。そして、九州に遠征する直前の翌年2月24日、家康に改めて依頼していた。
しかし、なぜか氏直も家康もその準備をした様子が全くないまま、秀吉が九州にかかりきりになっているのを横目に、1年もの間羽根を伸ばしていた。
そのまま時は流れる。天正16年12月12日に氏政は下総森山の仕置を行っていて、来春の再攻撃を予告し準備をしていた(12月5日に氏照が「来春者早々其表へ御出馬有之様ニ可令馳走候」と書いているので、この時点での家中共通認識と言っていいだろう)。
後北条氏の挙国防衛体制発動が突然発動
ところが12月24日になると「京勢催動之由」を真に受けた後北条家中は最高度の軍事緊張の中で右往左往しており、この状況は翌年1月14日まで続く。氏直・氏政だけではなく、氏照・氏忠・氏房も慌ただしく動いているから、かなり本気の対応。
その一方でこの時、家康はのんびりと鷹狩を楽しんでいたし、秀吉は肥後・豊前の一揆討伐を指示しつつ聚楽行幸の準備に忙殺されていた。この落差は何か。
後北条氏の「京勢」言及表現
天正15年
- 12月24日:京勢至于初春可発向由告来間~万一京勢発向実儀ニ付而者(虎朱印)
- 12月28日:京勢陣用意之由告来儀(氏政)
- 12月28日:京勢催動儀、必然之様ニ告来間(氏政)
天正16年
- 1月7日:京勢催動之由註進間(虎朱印)
- 1月14日:京勢催動之由注進間(虎朱印2通)
史料を見ると、12月24と28日の記述では、羽柴方の出陣は1月とされている。そして1月7と14日のものは「京勢催動」が報告されている。
武田滅亡時に、情報がないとしてなかなか動けなかった後北条氏は、情報を得た甲信遠征では機敏に対応している。このことから考えると、確実な情報があったから動いたと見ていいだろう。
ではこの報告をしていたのは誰か。
京勢出陣の報告者
交戦中の佐竹・宇都宮や、その背後にいる上杉から流され、氏直は家康に確認。家康は否定したものの氏直は猜疑心から臨戦態勢に入ったとも考えられる。しかし、12月と1月で報告内容が「出陣準備」から「出陣」に切り替わっている。家康すら信用しなくなった氏直は、この情勢変化を誰から聞いたのかという疑問が残る。
あとは、家康が情報源だった可能性が考えられる。この時の家康の行動を家忠日記で見てみると、西三河での鷹狩を終えて12月20日前後に駿府へ帰っている。そのまま駿府で城の普請などを行ない、年が明けて1月29日に「中泉」(磐田)へ鷹狩へ。2月5日に帰還すると、17日に「聚楽行幸参加の上洛は28日」と布告(但しこれは雨天で順延し出発は3月1日)。
箱根を隔てた小田原で後北条分国が最大の臨戦態勢に入ったとは思えない行動だ。秀吉の出仕命令に服さない氏直に対して「羽柴方が出陣した」とブラフをかけたにしては、何とも緊張感に欠ける。
とすると、在京被官を活用した可能性がある。在京していれば、秀吉が聚楽行幸の直前に出陣するという荒唐無稽な情報を流すとも思えないが、京に慣れない小田原の者が行幸準備の慌ただしさを出陣準備と勘違いした可能性は捨てきれない。
この時期に在京した後北条被官は、笠原康明がいる。これは同年2月25日の施薬院全宗書状に名が出てくることからほぼ確実。
消去法になってしまうが、家康への不信感から、別個の情報源として急遽在京した笠原康明の早とちりが後北条の国家総動員を招いたというのが現状の結論になる。
御札殊臘燭一折、御懇情祝着仕候、随而従切流斎尊書并両種拝受候、忝存候、可然様御取成奉憑候、不計御上洛待入候、猶笠越可被申展候条、令省略候、恐惶謹言。尚ゝ、勅作薫物十貝・照布一端令進之候、表祝儀計候、二月廿五日/全宗(花押)/北条美濃守殿御返報戦国遺文後北条氏編4535「施薬院全宗書状」(韮山町・堀江伴一郎氏所蔵文書)天正16年比定
結局何も起きなかったことから氏直は警戒を解いて東部戦線に復帰するものの、家康への不信感は残っただろう。ちなみに、この失点があったからか、笠原康明はその後ぱっとした活躍はしなくなる。天正17年11月に沼田割譲の御礼で上洛したのは石巻康敬だった。
家康・秀吉が遅れて反応
しかしこの後、今度は秀吉・家康側で緊迫した状況になる。
家忠日記を見ると、天正16年4月27日に聚楽行幸を終えた家康が京から帰還すると、その翌日に「小田原江被仰様不相済候由候」とある。更に5月6日「相州と上と被仰様事きれやうニ」とあり、氏直と秀吉が決裂したとある。
聚楽行幸に際して家康が氏直を連れてくると秀吉が考えていて、恐らく家康は秀吉から氏直の不在を咎められたのだろう。2月25日に施薬院全宗が氏規上洛に言及していることから、家康としては「氏規をまず連れてきました」とごまかすつもりだったか(恐らく氏規上洛までは合意が取れていた)。
何れにせよ、不信感から後北条氏は音信を断っていたと思われる。
秀吉の剣幕に押された家康は5月12日に、氏直と氏政に向けて起請文を出し「今月中にせめて氏規の上洛を確約せよ」と迫っている。
何となくだが、怖い上司が長期出張している間、勝手な行動でさぼっていた部下同士のいざこざに見えてしまう。
1年以上にわたって家康と没交渉で状況が読めず、4ヶ月前までは上方との決戦を覚悟して身構えていた氏直からすると、ますます家康への疑心が強まったと思われる。
余談:聚楽行幸の序列
天正16年4月14日に行なわれた聚楽第への行幸には、織田信雄と徳川家康が参加している。3月19日に近江草津に到着した家康に比して、信雄上洛はかなり遅れたようだ(3月20日付で秀吉が「行幸前候間、早々上洛待入候」と信雄に書き送っている)。
もしもだが、聚楽行幸に氏直が参加したとして、彼はどの位置にいられたか。愛知県史にある順列を見てみる。武家で最前列に立つのは信雄。烏丸光基を挟んで家康、更に日野輝資を間に置いて秀長が続く。この後は公家衆が続き、先駆けの最後尾に秀家が納まる。
この後ろに増田や石田といった秀吉近臣がずらりと並んで、秀吉の乗輿が進み、それに扈従して利家を先頭に外様太守が列をなす。越後内乱で参加できなかったが、少将である景勝はこの序列の上位に入るだろう。更に後ろには秀勝・秀康のほか、長谷川秀一・堀秀政・蒲生氏郷らが名を連ね、最後尾が長宗我部元親。氏直が上洛した場合、入れてこの後ろ。むしろ、列にも入れなかった可能性が高い。家康被官の井伊直政ですら後ろから3番目に入っているのに。
奇跡的に氏直が上洛したとして、この扱いに彼が耐えられたかはかなり疑問。