2022/08/01(月)高野山高室院月牌帳

寒川町史にあった過去帳をフルテキスト化してみた。

高野山高室院月牌帳_寒川町史10別編寺院

気づいた点

黄梅院殿関係

冒頭の内表紙は北条氏政室の黄梅院殿の記載で占められている。注で記したが、建立者は3名もいてかなり大きな扱いになっていた。推測してみると、「小田原御城御房」は小田原城にいた出家者なので恐らく北条宗哲。続く「飯河内方」は、足利義昭に仕えた飯河信堅の身内の者。最後の「安西入道」は足利義氏に仕えた安西右京亮が出家した姿だろうと思われる。以上を考えると、後北条氏は勿論のこと、室町殿・鎌倉殿の名義も使って黄梅院殿を追善していたことが判る。

また、3名ともに「相州小田原」とあることから、信堅の妻と安西入道は小田原に在住していたか供養の際に小田原に滞在したかだろう。

黄梅院殿関係で目を引くのは、その命日の5日前に当たる1569(永禄12)年6月12日に「松田新六郎内方」が亡くなっている(項番308)。何らかの関連があるのかもしれない。

その他

名簿部分で気になった箇所は、データ化済みタブの中で青セルにしておいた。

後北条被官だと、山角・大藤・桑原・安藤・山口の各氏が多数見られる。

1578(天正6)年4月15日に、箱根権現の金剛王院が取り次ぎとなり「御北殿」と「内小少将方」が逆修(生前供養)を行なっている(項番439/440)。これは太田氏資室とその娘かもしれない。北条氏康の娘とされる氏資室の戒名としては「長林院殿」が伝わっているが、ここでは「慈光宗観大姉」となっていた。

2022/05/21(土)戦国期の愛鷹牧

『愛鷹牧 : 企画展解説書』(沼津市明治史料館)によると、愛鷹山南麓に展開した愛鷹牧は戦国期にはその機能を失って野生馬がいただけだろうとする。

p9
古代末期から中世へと時代が移り、律令制が衰退していくと、牧も私牧・荘園化していった。岡野馬牧も私領に転化し、岡野牧とか大岡庄と呼ばれる荘園になっていったと思われる。大岡庄は、平家全盛期には平頼盛の荘園だった。その管理を担当した荘官が牧宗親であり、宗親の娘が北条時政の夫人となった牧ノ方である。
その後愛鷹山には牧の施設・機能はなくなったようだが、野生の馬は生き続け、愛鷹山頂を本宮とする愛鷹明神の神主奥津家がそれを保護し、今川氏や武田氏からも神領・神馬の安堵を受け、近世に至った。

p10
幕府牧の支配体制は、八代将軍吉宗の享保期に整えられ、若年寄支配のもとに野馬奉行が置かれ、小金町(現松戸市)に役宅を構える綿貫氏がこれを世襲した。その後、寛政期に御小納戸頭取岩本石見守正倫によって組織改革が行われ、野馬奉行は御小納戸頭取(野馬掛)の配下とされるに至った。愛鷹牧の新設は、この岩本による改革の一環として実現したものである。

p12
古代・中世以来放置されてきた愛鷹山の野馬に江戸幕府が最初に目を付けたのは、房総において牧の整備・新設を進めていた享保期のことであった。

このように同書では戦国期の愛鷹牧が存在していなかったように書いているが、直接的な史料が残されていないだけで、実際にはそれなりに機能していて重要拠点であったと考えられる。

愛鷹牧には尾上牧・元野牧・霞野牧・尾上新牧がある。このうち尾上新牧は江戸期に作られたものなので、戦国期に存在した可能性があるのは東から尾上牧・元野牧・霞野牧となる。大体の位置関係は以下。

Screenshot 2022-05-21 12.39.45.png

これを1569(永禄12)年の駿河動乱に伴う後北条方の動きを合わせると、それまでは曖昧だった作戦意図が明確になる。

最も西にある霞野牧は、須津川と大沢川の間の高地にあったとされるが、それと重なるように小麦石砦があった。富士宮陥落時の永禄12年7月4日、蒲原城番の北条氏信が須津近辺の寺社に対して「小麦石小屋」の防衛を依頼している。

-戦国遺文後北条氏編1275「北条氏信ヵ朱印状」(多聞坊文書)

小麦石之小屋、可被相拘事簡要ニ候、依走廻ニ氏政・氏実へ御取合可申上候、尚各々相談、彼小屋可被拘事専一候、仍如件、
巳七月四日/日付に(朱印「福寿」)二宮織部之丞・長谷川八郎左衛門尉奉之/多門坊・実相坊・大鏡坊・須津小屋中

また同時に須津八幡・愛鷹・別当屋敷の保護を命じた禁制も出している。ここで保護対象となった「愛鷹」が牧場と考えられる。

  • 戦国遺文後北条氏編1276「北条氏信ヵ朱印状」(多聞坊文書) 1569(永禄12)年

    須津庄之内八幡・愛鷹并別当屋敷、竹木伐取事、堅令停止畢、若背旨者有之者、彼者召連当城可被参者也、仍如件、
    巳七月四日/日付に(朱印「福寿」)二宮織部丞・長谷川八郎左衛門奉之/須津内八幡多門坊

その蒲原城が失陥したあとも2年にわたって後北条氏が興国寺城維持を貫いている。この城の北北東2キロメートルには、愛鷹3牧のうちで中央に位置する元野牧がある。

これらは、愛鷹牧による軍馬確保が至上命題として存在したことに繋がるように思う。

1537(天文6)年に今川義元・北条氏綱の間で起きた河東の乱でも、氏綱が逸早く駿河吉原までを占拠している。

ちなみに、江戸時代の愛鷹牧を管理していた牧士には植松・渡辺・井手の名があり、これらは今川氏時代にも名が出てくる。

2022/05/01(日)新出虎朱印状を巡る諸情報の覚書

新府中市史研究第4号で新出の後北条氏文書2通が紹介されているとの情報をフォロワさんからいただき、早速実見。新出文書は2件で、どちらも宛所は山上強右衛門尉で、伝来も同じく府中市内の押立金井家。このうち、1589(天正17)年比定2月2日付けの北条氏直書状は足利表での戦功を賞した感状で、他者宛てと齟齬がない。今回の覚書からは除外する。

新出虎朱印状

  • 新府中市史研究第4号「北条家虎朱印状」(押立金井家文書)

    前々横地知行
    西郡飯田之内堀内分弐拾六貫四百文出置候、自当秋可致所務候、此替松井田新堀之内弐拾六貫四百文可指上者也、仍如件、
    天正十三年乙酉七月九日/日付に(虎朱印)垪和刑部丞奉之/山上強右衛門尉殿

前々の横地知行。西郡飯田のうち堀内分26貫400文を拠出する。この秋より所務するように。この替え地として、松井田新堀のうち26貫400文を返上するように。

概観

これは北条氏直が自身の被官である山上強右衛門尉に相模国西郡の堀内(以前横地某の知行だった領域)で26.4貫文を与えるとしたもの。そして同額の知行を、上野国松井田の新堀から差し引くとする。松井田の強右衛門尉知行は、この前年3月22日に100貫文が与えられていた(戦国遺文後北条氏編4750「北条氏直判物」山上文書)。

この朱印状が出された1585(天正13)年は、北条氏直が上方との決戦を意識し始めた頃で、東山道の玄関口となる松井田の整備に取り組んでいたと思われる。その中で一定領域を確保する必要があり、知行地が関係していた山上強右衛門尉に替え地を命じたのだろう。この点に加えて『新府中市史研究第4号』では氏直による側近集団の整理といった要因が挙げられているのでご参照を。

横地知行の考察

「前々横地知行」はこの文書だと「飯田之内堀内分」となっている。「飯田」には武蔵国や相模国東郡にも当該地名があるが、所領役帳で横地図書助が知行しているという点から見て相模西郡と見て間違いないだろう。この時の数値は48.58貫文。山上に与えられたのは26.4貫文なので、旧横地知行のうち一部を宛てがったことになる。

そこで改めて役帳を見ると、相模国西郡には飯田・飯田岡・飯田堀内がある。文書と役帳を合わせて考えると、飯田という領域内の一部に岡・堀内と呼ばれる地域があり、そこから現在の字名である「飯田岡」「堀之内」が残ったのだろう。

相模国西郡の「飯田」は役帳によると595.57貫文の土地を8名の知行主が分割統治している。

  • 飯田

    • 上総分108.4貫文(江戸衆・富永弥四郎)
    • 田中分80貫文(御馬廻衆・狩野泰光)
    • 壱岐分60貫文(御馬廻衆・石巻康保)
    • 円応寺分33.5貫文(諸足軽衆・加藤四郎左衛門)
    • 富永知行23.75貫文(小田原衆・松田憲秀)
    • 上総分内桑原分20貫文(松山衆・芝田彦八郎)
  • 飯田岡

    • 飯田岡分160貫文(御一門衆・北条氏尭)
    • 飯田岡孫太郎分61.34貫文(小田原衆・松田憲秀)
  • 堀内
    • 堀内48.58貫文(御馬廻衆・横地図書助)

近隣の飯泉(180.391貫文)・延沢(157.557貫文)・成田(102.987貫文)・鬼柳(326.02貫文)では、どれも知行主が一名に集約されている。一方で飯田は、上総分が更に桑原分に分割されていることや、上総・田中・壱岐などの前所有者と現行知行主が異なることから見て、この知行主は細分された上で頻繁に変わっているようだ。

氾濫ごとに地形が変わる酒匂川流域の微高地を「飯田」として広範に定義づけていたのだろう。また所領役帳での知行主に根本被官や一門衆が名を連ねていることから見て、彼らの知行高を調整するための予備地であった可能性が考えられる。

酒匂川水系保全協議会『酒匂川』

画面やや左上に飯田岡・堀ノ内がある。戦国期の酒匂川は蛇行しており、当時の堀之内・飯田岡は酒匂川東岸に位置し、向かい岸には大森氏拠点だった岩原や、小田原城の兵粮蔵が置かれたとも言われる多古がある。「堀之内」は中世武家の居館跡でよく使われる地名で、もしかしたらここに鎌倉・室町期の在地勢力(中村・小早川・曽我)辺りの拠点があったのかもしれない。

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横地図書助の推定

役帳でこの堀之内を知行していたとされる横地図書助は、他の史料には出てこない。後北条家中で名が通っている横地氏には、後に氏照付きの被官筆頭となる横地監物丞吉信がいる。しかし「横地監物丞」は役帳内で別に名が挙がっている(御馬廻衆・相模国西郡願成寺分28.7貫文)。

横地氏が後北条家中で初めて見られるのは1544(天文13)年の「岩本坊江島遷宮寄進注文」で、後北条被官に混じって「横地助四郎」が布を一反寄進している。

次いで1559(永禄2)年に北条氏照朱印状の奉者として「横地」が出現。翌年には商取引における撰銭基準を示した虎朱印状が「横地監物小路奉行」である久保孫兵衛と「横地代八木」に宛てられている。久保は内田と共に御台所奉行を務めており、また横地氏の代官と思われる八木は役帳の職人衆で「銀師八木」とある。

1570(永禄13)年の虎朱印状で徴兵目的の住民調査を行なった際の奉者が「横地助四郎・久保惣左衛門尉・大藤代横溝太郎右衛門尉」。

まとめると、横地監物丞(吉信)は小田原市街地で食料・鉱物を扱う繁華街的な地域を統括しており、横地助四郎は吉信と同時期に活動しており、有力被官として住民台帳管理に携わっていた。

一方で横地図書助は、所領役帳に吉信と並んで名を出しているものの、吉信や助四郎のように文書で出てくることはない。

とすると図書助は誰なのか。

ここで着目されるのが、北条氏邦同心と見られる横地氏である。氏邦が「横地」に言及した文書には要検討ながら1562(永禄5)年のものがある。そして、1585(天正13)年に鑁阿寺に向けて書状を発した横地左近大夫勝吉は、氏邦の意を奉じて戦時の折衝を行なっていた。また年未詳の氏邦朱印状写によると、武蔵国榛沢辺りに「横地備前守跡八幡社前」という地名記述がある。

  • 小田原市郷土文化館研究報告No.50『小田原北条氏文書補遺二』p29「北条氏邦朱印状写」(北条氏歴代朱印・花押写)年未詳

武州榛沢郡榛沢村・原宿村・横地備前跡八幡社前・上州緑埜郡谷岸南方観音石ヲ限リ、中沢播磨跡谷川村・片岡郡吉昌庄・吾妻郡円通寺領、右之処、養父岩田彦次郎跡無相違充行者也、
九月九日/日付に(朱印「翕邦把福」)/中山玄蕃頭殿

これらを合わせると、横地氏は小田原を中心にした都市整備に関わりつつ、2系統が分派したと見ることが可能。そこに官途名が図書助の人物が入れる余地があるとすれば、受領成りして備前守となった氏邦同心の系統(恐らく勝吉の父)しかいない。また助四郎については、2回の登場で26年が空いていることから、図書助と勝吉が父子で同じ仮名を名乗ったことが考えられる。

  • 氏照同心:監物丞吉信・与三郎(吉清?)

  • 氏邦同心:(助四郎)図書助(備前守)・(助四郎)左近大夫勝吉

史料が少なく明確ではないが、氏照同心の系統は出向後には氏照指揮下での行動に専念している。氏邦同心のほうは氏邦朱印状の奉者にもならず、虎朱印状奉者に名を出すなどで当主指揮での活動も見られるといえそうだ。