2023/03/26(日)辞書との付き合い

独学での辞書利用

私が文書の解釈を独学で始めた際に使ったのが『古文書古記録語辞典』(阿部猛)だった。その後で『音訓引き古文書字典』(林英夫)を入手して、併用している。かなり幅広い言葉が収録されているため、随分と勉強になったのだが、この辞典は私が調べている戦国期に限定したものではない。だから頻出する語でも掲載されていないことが多かった。専門書を読んでも、古文書の細かい部分までは解説されておらず、通説がどのような根拠で形作られているかが把握できなかった。

ここから発想を変えて、コーパスを自力で作るしかないという結論に至った。他の文書を多数データ化して用例を一から調べて確定していく方法だ。参考になったのは三省堂の『例解古語辞典』。この冒頭に掲げられた「古典へのいざない ―豊かな鑑賞は正確な解釈から―」に大いに啓発された。この文章は具体的な解釈事例を挙げた長文なのだが、ごく一部を抜粋してみる。

辞書というものは全国的に信用されいますが、実のところ、それは専門家に対する買いかぶりなのです。国語辞典の場合でも、適切ではない説明や、ときには、明らかな誤りがありますが、古語辞典となると、説明の基礎となる、古文の解釈が十分にできていないために、残念ながらそれがかなり極端なのです。

古典を読んでいて、その文章の中に、見馴れないことばやわからないことばが出てきたとき、この辞書を引くことになります。しかし、その場合、最初の部分に並べられているいくつかの語義の中から、いちばんよくあてはまりそうなものを選んで、それでわかったことにしてしまったのでは、いけません。たしかに、そういうやり方でもひととおりの口語訳ぐらいは、なんとかできるでしょうが、文章の内容まではとうてい理解できません。

その語源がどこにあるかではなくて、実際の場面で、どのように使われているかを調べるのがほんとうだということなのです。その考え方の原則は、いつの時期のことばについても変わるはずがありません。《例解》方式は、演繹によらず、あくまでも帰納に徹して解釈を施し、推定された語源からその語の意味を考えたりすることをしりぞけています。

これを読んでなるほどと納得した。語源と語義の乖離は現代語を見ても明らかで、その時代、その土地の人がその言葉をどういう意味で使っているかはデータの蓄積でしか明らかにできない筈だ。これ故に、辞書で書かれた語義を参照にしつつも鵜呑みにせず、あくまでも他例を優先して解釈していく方針が決まった。

以上のことから導き出された参考例は戦国期の古文書を解釈する基本的なことにまとめた。

専門家解釈への疑問を越えて

とはいえここに至るまでは紆余曲折があり、自らの不見識によって誤読しているのではないか、という疑問を感じている期間は長く、2016年にはかなり煮詰まっていたことがある。

今考えれば「真手=両手の指=十指」という語義があるのだから「真手者=真田の手の者」という解釈が突飛なものだと断言できるのだが、当時はどうにも自信がなかった。しかし、他でも専門書・辞書でおかしな解釈は多々あって、間違っているものは間違っているという境地に至った。

「併」は順接か逆説か

たとえば「併」。私は最終的に「あわせて」と読み、意味も現代語と同じく「同時に・加えて」で全く問題なく解釈しているのだが、解釈を始めた頃は辞書に振り回され、順接・逆説どちらにもなると考えて混乱していた。

実際に辞書を引いてみると、この辺の言葉の説明は入り乱れている。

『音訓引き古文書字典』

  • 併:しかし。然とも書く。そうではあるが。けれども。
  • 雖然:しかりといえども。そうではあるが。そうはいっても。しかし。

『古文書古記録語辞典』

  • 併:しかしながら。併乍、然乍とも書く。ことごとく、全部、さながら、結局、要するに。「だが、しかし」という意味ではない。
  • 然而:しかれども。されど、しかしながら。

そもそも現代語の「しかし」が逆説になっているのが奇妙で、「然り」「然して」は順接で「然れ共・然し乍ら」と書いたら逆説になるのが本来の姿。この語義を無視して「しかしながら」の後半を省略してしまったのが現代語「しかし」だろう。

また、当時の「而」の用法を見ると「~して」「~て」とする表音文字としての例が殆どとなる。「重而=かさねて」「付而=つきて・ついて」「船ニ而=ふねにて」「切而=きりて」「残而=のこりて」「随而=したがいて」「定而=さだめて」など枚挙にいとまがない。

以上から考えると「然而」は「しかりて」と読むのが正しいだろう。

「手前」は第一人称になるか

また、近世以降では第一人称としても使われる「手前」を援用して北条氏直の弁明状を誤解釈している例がある。

名胡桃之事、一切不存候、被城主中山書付、進之候、既真田手前へ相渡申候間、雖不及取合候、越後衆半途打出、信州川中嶋ト知行替之由候間、御糺明之上、従沼田其以来加勢之由申候

名胡桃のことは一切知りません。城主とされる中山の書付を提出します。すでに真田の手元へ渡しているものですから、取り合うものではありませんが、越後衆が途中まで出撃し、信濃国川中島と知行替とのことだったので、ご糺明の上で沼田よりそれ以後で加勢したとの報告を受けています。

  • 小田原市史資料編小田原北条1982「北条氏直条書写」(武家事紀三十三)

これを「すでに真田が手前(氏直)へ渡しているものですから」と解釈した著作を見かけたことがある。これを解釈に組み込むと、真田氏自らが名胡桃城を氏直に渡した主張になる。

ところが、当時の「手前」は「(対象人物の)手元」という意味でしかない。つまり、真田氏へ譲渡したことは認めつつも、名胡桃城主からの要請で沼田城から軍事支援して制圧したことを堂々と書いていることになる。

このように、他例を蓄積する例解方式でその時代・地域の語彙を集積して解釈することは重要だろうと思う。この方式で語義を探ったのが以下の記事。

補足『戦国古文書用語辞典』

この書籍はかなり精度が低い。同時代史料からの語彙と、後世の軍記物が混交しているほか、どこからその意味が出てきたのか疑問に思うような語義が見受けられる。読んで得られるものがないので精読はしていないが、目につく事例を紹介してみる。

塩味

えんみ【塩味】1潮時。機会を見失ってはいけない。「不可過御塩味候」 2相談のこと。斟酌する。 3手加減。斟酌する。
しおみ【塩味】潮時。「不可過御塩味」は、機会を見失ってはならないという意。

2つの項目が連携していない上、潮時・斟酌に拘泥して意味が引きづられている。私のコーパスからの推測では「熟慮」の意味。

長々

おさおさし【長々し】それから受ける感じが、侮りがたく、無視できないさまである。

「長々」は非常に例が多いが「ながながと」という意味で問題ない。「おさおさし=長々敷」とすると、1581(天正9)年1月25日の織田信長朱印状しかないが、これも「信長一両年ニ駿・甲へ可出勢候条、切所を越、長々敷弓矢を可取事、外聞口惜候」とあり、「長々しく交戦していることは、見栄えが悪く悔しい」という意味合い。「長々敷」は現代語の「長々と」と同じで構わないように思う。

戸張・外張

とばり【戸張】戸の張り物。とばり【外張】軍隊の周囲から遠いところ。

外張11例は全て城郭の防御線を指す。戸張は25例あり、名字が8例あるものの、他は全て城郭防御線。

若子

わこ【若子】身分の高い人の男の子ども。

意味自体は問題ないだろうと思うが、引用している例がおかしい。

「若子共を他人之被官ニ出候に付而者、地頭・代官へ申断、徹所を取而可罷越候」(北条家朱印状)

ここで例に出された虎朱印状は1551(天文20)年に西浦百姓中に出されたものだが「若子共を他人之被官ニ出候に付而者」は、前後の文脈から「もし子供を他人の被官に出し候につきては」と読むのが正しいと思う。

若子は高貴な男児であるとするなら、西浦百姓らの子はそもそも該当しない。念のため原文全てを記す。

  • 小田原市史資料編小田原北条0273「北条家虎朱印状」(伊豆木負大川文書)

    西浦五ヶ村あんと拘候百姓等子共、并自前ゝ舟方共、地頭・代官ニ為不断、他所之被官ニ成候事、令停止候、若子共を他人之被官ニ出候に付而者、地頭・代官へ申断、徹所を取而可罷越候、致我侭候者共召返、如前ゝ五ヶ村へ可返付者也、仍如件、
    辛亥六月十日/日付に(虎朱印)/西浦百姓中・代官

2018/09/19(水)寺社を焼くということ

寺社は戦国期によく焼かれたのか

漠然と、戦乱で寺や神社が焼かれたという認識を持っていたが、改めて史料から追ってみようと考えた。手持ちのデータから「焼」「放火」で検索し、ヒットしたものを分類してみる。

ちなみに、寺社への放火が禁制で明記されているのは、織田信長・羽柴秀吉・徳川家康。今川・後北条では見かけず、わずかに上田長則が天正9年に出した別当法禅坊宛ての禁制(戦北2237)があるのみ。

焼かれたのは何か

放火や焼き払いに関しての記述をまとめてみた。城や防御施設が対象のものが19例で最も多い。ついで、対象物は特に指定せず領域を指しているものが15例。明らかに民家を指すものが12例で続く。失火したり自ら焼いたりしたものは6例で少ない。調査対象となる、寺社を焼いたと明確な事例は5例。

城・防御施設 19例

  • 新津のね小屋焼払候を
  • 蕨地利、北新、去廿日夜、乗捕門橋焼落
  • 殊厩橋焼候哉
  • 本丸焼崩儀可有之候
  • 上野国中在松井田根小屋悉焼払
  • 二曲輪焼払候也
  • 昨日者武州深谷城際迄放火
  • 彼城中ニ有替衆、雖付火候
  • 今六日蒲原之根小屋放火之処
  • 抑去六日当城宿放火候キ
  • 谷中不残一宇放火候
  • 去廿日至中島相動、即及一戦切崩、数多討捕之、残党河へ追込、悉放火之由
  • 昨日も至花熊相働、山下放火之一揆も罷出御忠節仕候
  • 泊城押入、数多討捕之、悉令放火
  • 其上小早川幸山候得共、毎日此方足軽申付、十町・十五町之内迄雖令放火候
  • 去三日沼田東谷押替候、取出以不慮之行、打散悉放火
  • 韮山下丸乗崩、令放火之由
  • 小屋ゝゝニ火を掛
  • 端城乗入、悉令放火

領域 15例

  • 此表者焼動迄之事候条
  • 四日ニ上京悉焼払候
  • 万田より次ノ崎迄焼散被成候処ニ
  • 就在所鳥波放火
  • 佐野・新田領可放火候
  • 彼庄内悉放火
  • 今度津具郷へ相働悉放火
  • 駿府へ被相働、悉放火候
  • 今春向西上州相動、所々放火敵殺及討捕之由心地好候
  • 既向滝山放火必然之由
  • 江北中皆以放火候事
  • 伊豆堺迄放火候
  • 次伊豆浦処々放火
  • 剰小田原之地ことゝゝく放火のよし
  • 三浦渡海、如被存放火

民家 12例

  • 家へ押籠被為焼殺候
  • 彼山下焼払候旨
  • 高遠町令調儀焼候由
  • 素家之躰成共焼払所肝要候
  • 洛外無残所令放火
  • 近辺之郷村放火之由心地好候
  • 臼井筋之郷村令放火
  • 次白須賀之訳放火之事
  • 在ゝ所ゝ民屋、不残一宇放火
  • 御厨中之民家少ゝ放火
  • 然而小泉・館林・新田領之民屋不残一宇放火
  • 地下中令放火之間

失火・自焼 5例

  • 頗社頭以下放火之条 ※宮司職富士氏の御家騒動なので自焼
  • 去年於当府千灯院焼失云々
  • 火電時令焼失云々
  • 先判去年十二月令焼失云々
  • 居所とも自焼仕候而
  • 火電時令焼失云々

寺社 5例

  • 就動乱、堂塔已上九炎焼
  • 頭陀寺之儀者、云今度悉焼失
  • 殊今度敵動之刻、令煙焼之由候条
  • 廿三筑波へ乱入、知息院放火
  • 清水と申くわんおんたう焼申時

寺社はどのような状況で焼かれたのか

飯尾豊前守が頭陀寺を焼いたのは、彼の反乱に加担しなかった住持の千手院が、敵対して頭陀寺城に籠城したのが契機。千手院は今川氏真に「頭陀寺城被相移以忠節」と評され、飯尾豊前守と戦闘状態になっている。

倉賀野淡路守の戦陣で清水観音堂を焼こうとした際、焼き手の富永清兵衛は、敵の反撃に遭って一旦攻めあぐねている。

後北条氏が筑波に乱入して知息院に放火した際も、捕虜が200人以上、死者は数え切れない程だと書かれており、ここで激しい戦闘があった可能性は高い。

武田晴信・松平次郎三郎の例は不明。

5例中3例が戦闘を伴って寺社が焼かれたことから見て、何れの場合も無防備の寺社を焼いたというより、戦闘拠点として攻撃したのではないか。

天文3 松平次郎三郎→猿投神社

天文三年[甲午]六月廿二[午剋]、就動乱、堂塔已上九炎焼、 焼手松平之二郎三郎殿、当国住人、

  • 愛知県史資料編10_1186「八講諜裏書」(猿投神社文書)

永禄7 飯尾豊前守→頭陀寺

就今度飯尾豊前守赦免、頭陀寺城破却故、先至他之地可有居住之旨、任日瑜存分領掌了、然者寺屋敷被見立、重而可有言上、頭陀寺之儀者、云今度悉焼失、日瑜云居住于他所、以連々堂社寺家可有再興、次先院主并衆僧中、以如何様忠節、令失念訴訟之上、前後雖成判形、既豊前守逆心之刻、敵地江衆徒等悉雖令退散、日瑜一身同宿被官已下召連、不移時日頭陀寺城被相移以忠節、頭陀寺一円補任之上者、一切不可許容、兼亦彼衆徒等憑飯尾、頭陀寺領事、雖企競望、是又不可許容者也、仍如件、
永禄七年十月二日/上総介(花押)/千手院戦国遺文今川氏編2015「今川氏真判物」(頭陀寺文書)1564(永禄7)年比定

永禄12 武田晴信→須津八幡宮

駿河国須津之内八幡宮御修理之事。右、天沢寺殿本年貢之外、以段米之内弐拾俵、為新寄進被出置之処ニ、去従子之年已来、古槇淡路守申掠令押領之由、只今致言上之条、任先判形之旨領掌訖、殊今度敵動之刻、令煙焼之由候条、為彼造営所令寄進、不可有相違之者也、仍如件、
永禄十二己巳十二月十六日/文頭に(朱印「印文未詳」)/多門坊

  • 戦国遺文今川氏編2433「今川氏真朱印状」(富士市中里・多門坊文書)1569(永禄12)年比定

天正16 後北条氏→筑波知息院

態啓上候、仍先日者家中候者、機合相違付而、不敢聞召、御尋過分至極奉存候、追日如存取直被申候、聞食可為御太悦候候、内々以使者此旨雖可申上候、却而可御六ヶ敷候間、無其儀候、然者南軍之模様去廿二小田領被打散、廿三筑波へ乱入、知息院放火、取籠候者二百余人、越度仁馬無際限被取候由申候、昨日廿五、陣替由候、于今承届不申候、様子重而可申上候、恐々謹言、
孟夏廿六日/笠間孫三郎綱家(花押)/烏山江

  • 埼玉県史料叢書12_0852「笠間綱家書状」(滝田文書)1588(天正16)年比定

年未詳 倉賀野淡路守→清水観音堂

(抜粋)「加り金ノ城主くらかね淡路守殿、是へ働之時、清水と申くわんおんたう焼申時、我等参やき候へハ、敵くわんおんたう迄もち、為焼不申候時、せり合候て鑓ニ相たうをは焼はらい申候事」

  • 群馬県史資料編3_3696「冨永清兵衛覚書」(東京大学史料編纂所所蔵猪俣文書)

2018/05/01(火)笑止・せうし・勝事・咲止の用例

戦国期の「笑止」

「笑止」「せうし」「勝事」「咲止」の使用例は8文書、9ヶ所が該当する。用例については下記に翻刻を載せたので、それぞれの解釈から類別してみる。

  • 1・5は明確に追悼の意を示す

  • 2は実家への憂慮を示しつつ、兄を非難する意も含みそう

  • 3は明確に非難を示す

  • 4は同情を含んでの憂慮を示しつつ、その状況を招いた人物への非難を含みそう

  • 7は開戦となってしまった状況を憂慮している。ここに非難の意はなさそう

  • 6・8は憂慮の意も含みそうだが、人質の供出に応じなかったり参陣しなかったりした落ち度を責めている文脈であることから非難を示すように見える

上記より、故人を悼む際に使われる例は単純に「哀悼」でよいだろう。

一方で、他の用例では複雑な語彙でもあるように見える。

というのも、単独で明瞭な意味を成すというよりは、3のように明らかに非難と言い切れる使われ方をするためには、前後で強い言葉を用いる必要がある点、その他の例では非難を仄めかすような使われ方をしているのである。

諸点から考えると、「笑止」は未来への憂慮が強い「遺憾・非難」に近い用語なのかも知れない。但し、この言葉は哀悼以外では割ととらえどころがない印象が強い。用例も少ないため、あくまで憶測となる。

用例

1569(永禄12)年

1)岡部和泉守の父が逝去したことを、北条氏政が悼む

親父可有死去分候歟、さてゝゝ曲時分、笑止千万候、其地弥苦労候、雖然無了簡意趣候、常式ニ者、可相替間、一夜帰ニ被打越有仕置、さて薩埵へ可被相移候、返ゝ簡要候時分、一夜も其方帰路落力候、返ゝ只一日之逗留にて可有帰路候、猶大藤駿州衆被相談候様ニ、可被申合候、恐ゝ謹言、
閏五月十三日/氏政(花押)/岡部和泉守殿

  • 戦国遺文後北条氏編1243「北条氏政書状」(岡部文書)

1570(永禄13/元亀元)年

2)武田晴信の伊豆侵攻を、北条氏政の油断として上杉三郎景虎が残念がる(もしくは間接的に非難する)

御書拝見、奉存其旨候、信玄向豆州出張、只今時節不審存候、畢竟相州由断故、敵打不求候、如仰出御同陣之儀、去年以来之子細ニ候、急度以使御相談可被申処、左様之■無之事、由断存候、然篠窪を以被申入■仰出、無御余儀奉存候、去春御内意之透、伊右・幸田氏政父子江就申聞者、争彼者差越可被申候、両人失念仕不申届故、被指越候哉と致迷惑候、此旨可預御披露候、以上。尚以、信玄出張不審存候、当国之御勢、当府ニ被為集置儀、其隠有間敷処、豆州へ調儀、条ゝ不審存候、返ゝ御同陣之儀、最前ニ以使者可被得御意処、結句自此方、大石被指越候、惣別相州由断笑止ニ存候、後詰之儀、急速可被成置処、於拙者も過分奉存候、其上御同陣可有之由、急度明日相州へ可申越候、以上、
九日/差出人欠/宛所欠(上書:直江殿 三郎)

  • 戦国遺文後北条氏編4361「上杉景虎書状」(本間美術館所蔵文書)

3)南征しない上杉輝虎を、北条氏政が非難する

九日之註進状、今十二未刻、到来、越府へ憑入脚力度ゝ被差越由、祝着候、然而敵者、去年之陣庭喜瀬川ニ陣取、毎日向韮山・興国相動候、韮山者、于今外宿も堅固ニ相拘候、於要害者、何も相違有間敷候、人衆無調、于今不打向、無念千万候、縦此上敵退散申候共、早ゝ輝虎有御越山、当方之備一途不預御意見者、更御入魂之意趣不可有之、外聞與云、実儀與云、於只今之御手成者、笑止千万候、能ゝ貴辺有御塩味、御馳走尤候、恐々謹言、
八月十二日/氏政(花押)/毛利丹後守殿

  • 小田原市史小田原北条0985「北条氏政書状」(尊経閣所蔵尊経閣文庫古文書纂三)

4)伊豆戦線に出動して落ち着けない遠山康光を、大石芳綱が憂慮する(もしくは、その状況にした氏政を非難する)

今月十日、小田原へ罷着刻、御状共可差出処ニ、従中途如申上候、遠左ハ親子四人韮山ニ在城候、新太郎殿ハ鉢形ニ御座候間、別之御奏者にてハ、御状御条目渡申間敷由申し候て、新太郎殿当地へ御越を十二日迄相待申候、氏邦・山形四郎左衛門尉・岩本太郎左衛門尉以三人ヲ、御状御請取候て、翌日被成御返事候、互ニ半途まて御一騎にて御出、以家老之衆ヲ、御同陣日限被相定歟、又半途へ御出如何ニ候者、新太郎殿ニ松田成共壱人も弐人も被相添、利根川端迄御出候て、御中談候へと様ゝ申候へ共、豆州ニ信玄張陣無手透間、中談なとゝて送数日候者、其内ニ豆州黒土ニ成、無所詮候間、成間敷由被仰仏[払]候、去又有、御越山、厩橋へ被納 御馬間、御兄弟衆壱人倉内へ御越候へ由、是も様ゝ申候、若なかく証人とも、又ぎ[擬]見申やうニ思召候者、輝虎十廿之ゆひよりも血を出し候て、三郎殿へ為見可申由、山孫申候と、懇ニ申候へ共、是も一ゑんニ無御納得候、余無了簡候間、去ハ左衛門尉大夫方之子ヲ、両人ニ壱人、倉内へ御越候歟、松田子成共御越候へと申候へ共、是も無納得候、 御越山ニ候者、家老之者共、子兄弟弐人も三人も御陣下へ進置、又そなたよりも、御家老衆之子壱人も弐人も申請、滝山歟鉢形ニ可差置由、公事むきニ被仰候、御本城様ハ御煩能分か、于今御子達をもしかゝゝと見知無御申候由、批判申候、くい物も、めしとかゆを一度ニもち参候へハ、くいたき物ニゆひはかり御さし候由申候、一向ニ御ぜつないかない申さす候間、何事も御大途事なと、無御存知候由申候、少も御本生候者、今度之御事ハ一途可有御意見候歟、一向無躰御座候間、無是非由、各ゝ批判申候、殊ニ遠左ハ不被踞候、笑止ニ存候、某事ハ、爰元ニ滞留、一向無用之儀ニ候へ共、須田ヲ先帰し申、某事ハ御一左右次第、小田原ニ踞候へ由、 御諚候間、滞留申候、別ニ無御用候者、可罷帰由、自氏政も被仰候へ共、重而御一左右間ハ、可奉待候、爰元之様、須田被召出、能ゝ御尋尤ニ奉存候、無正躰為躰ニ御座候、信玄ハ伊豆之きせ川と申所ニ被人取候、日ゝ韮山ををしつめ、作をはき被申よし候、已前箱根をしやふり、男女出家まてきりすて申候間、弥ゝ爰元御折角之為躰ニ候、某事可罷帰由、 御諚ニ候者、兄ニ候小二郎ニ被仰付候而、留守ニ置申候者なり共、早ゝ御越可被下候、去又篠窪儀をハ、新太郎殿へ直ニ申分候、是ハ一向あいしらい無之候、自遠左之切紙二通、為御披見之差越申候、於子細者、須田可申分候、恐々謹言、追啓、重而御用候者、須弥ヲ可有御越候哉、返ゝ某事ハ爰元ニ致滞留、所詮無御座候間、罷帰候様御申成、畢竟御前ニ候、御本城之御様よくゝゝ無躰と可思召候、今度豆州へ信玄被動候事、無御存知之由批判申候、以上、
八月十三日/大石惣介芳綱(花押)/山孫参人々御中

  • 神奈川県史資料編3下7990「大石芳綱書状」(上杉文書)

1584(天正12)年

5)遠山半左衛門尉が戦死したことを、井伊直政が悼む

返々半左衛門尉殿之儀、不及是非事とハ申なから、御せうしにて候、御書を被遣候ハんか、明日御馬を被納候間、御取紛之時分ニ候条、我々より申越候、なさま遠州より重而可申入候、其元御存分之由、先以目出度候、以上、其表之様子急度御注進、則披露申候、仍半左衛門尉殿打死之由驚入候、御勝事千万ニ候、殿様一段御をしみ被成候、其方より被仰越様、一段神妙成儀ニ候由ニて候、是以御かんし被成候事、半左衛門尉殿之儀中々不及申候、乍去定事候間、不是非候、御弟子候之上者、少も御無沙汰被成間敷之由被仰出候、返々右旨我々方より相心得可申入候之由候、恐々謹言、
十月十七日/直政(花押)/宛所欠(上書:■■■■直政遠山佐渡守殿御返報)

  • 静岡県史資料編8_1758「井伊直政書状」(上原準一氏所蔵文書)

1586(天正14)年

6)人質の供出に応じない岡見中務の件を、北条氏照が憂慮する(あるいは非難する)

内ゝ自是以使可申届候由覚悟候処、能以飛脚初鮭到来、先日者初菱食、此度初鮭、当秋者両様共ニ従其地、始而到来候、一入珍重候、一、西口一段無事候、此節御加勢之儀如何様ニも可申上候条、先日之御面約之筋目、三人之証人衆如此御内儀御進上尤候、迎者可進置候、早ゝ可有支度候、貴辺五郎右衛門尉事者相済候、中務手前一段笑止候、御疑心ハ雖無之候、仰出難渋者、外聞不可然候、五日十日之間成共、先進上被申様ニ、達而助言尤候、然而為迎明日使可進候間、早ゝ支度尤候、我ゝも三日之参府申猶可申調候、委曲明日以使者可申候、恐ゝ謹言、
八月廿六日/氏照判/岡見治部大輔殿

  • 戦国遺文後北条氏編2989「北条氏照書状写」(旧記集覧)

1589(天正17)年

高橋丹波守に消息を伝えつつ、清水泰英が開戦間際の世情を憂う

何比御帰候哉、我ゝ者、與風罷帰候、其時分迄者、御帰之沙汰不承候キ、先日者、自小田原御札、殊船之 御印判調候而、我等迄満足ニ候、態是又御札、殊ニ初物給候、則致賞味候、然者御世上強敷候而、咲止ニ候、我ゝ罷帰砌者、以之外之様ニ候つる、近日者如何候哉、静ニ候、乍去自京都津田・富田と申人、于今沼津ニ有之由申候、石巻方をハ城中ニ小者一人ニ而指置、莵ニ角ニ是非者、来春と存候、此度以御使如去年証人之義、各へ被 仰付候間、其趣一両日已前申届候、御使衆へも具ニ申分候、併御国なミ人次之所、無了簡候、扨又籠城之支度、早ゝ可有之候、万吉重而可申候、恐々謹言、
極月十八日/上野康英(花押)/高橋丹波守殿参

  • 戦国遺文後北条氏編3578「清水康英書状」(高橋文書)花押は後筆の可能性あり

年未詳

8)参陣しなかった井出因幡守に対して氏政が立腹しており、憂慮すべき状況だと遠山直景が伝える(もしくは、氏政が強く非難していると山角定勝より告げられる)

今度御陣不参之儀付而、旧冬小田原へ以御使仕御申上候間、山紀へ添状申ニ付而、急度披露被申候処、殊外御隠居様御立腹之由、山紀拙者へ、如此被申越候、一段御笑止ニ存候、中ゝ於我等迷惑此節候、乍去今日参府申候間、紀州談合申候而、追而可申入候、半途ニ候之間、早ゝ申入候、恐ゝ謹言、
正月十日/遠右直景(花押)/井因御宿所

  • 戦国遺文後北条氏編3107「遠山直景書状写」(井田氏家蔵文書)