2017/04/28(金)葛山・瀬名は本当に今川に反したのか

葛山氏と瀬名氏は、永禄11年12月13日の武田侵攻時に今川から離脱したされる。それは根拠として以下の文書が使われているのだろう。

武田晴信が荒河治部少輔に由比山助太郎分60貫文を与える


今度葛山備中守殿忠節之刻、令同心、瀬名谷へ被引退条神妙候、因茲由比山方ノ内チ、助太郎分六拾貫文之所進之置候、弥可被抽戦功条可為肝要候、恐々謹言、
永禄十二年己巳二月廿四日/信玄/荒河治部少輔殿
戦国遺文今川氏編2283「武田晴信書状写」(香川県さぬき市・甲州古文集)

改めてよく読んでみると、瀬名氏が寝返った証拠は実はない。武田方に忠節した葛山氏元がいて、それに同心した荒河治部少輔が「瀬名谷」に退いたから「瀬名氏が寝返った」としているだけだ。同時代史料において、瀬名尾張守元世は氏真に随伴して掛川で籠城している(2月26日付・戦国遺文今川氏2287「小笠原元詮・瀬名元世連署状」大沢文書)。地名瀬名谷からの連想よりも、こちらを優先すべきだろう。

では葛山氏はどうだったのかを考えてみる。上記文書には下記の類似文書が存在する。

武田晴信が安東織部佑に駿府周辺の知行を与える


一、八拾貫文、興津摂津守分、河辺村
一、五拾五貫文、糟屋弥太郎分、瀬名川
一、参拾六貫文、糟屋備前・三浦熊谷分、細谷郷
一、五拾貫文、由比大和分、鉢谷
一、百弐拾貫文、本地、菖蒲谷
都合参百五拾貫文。今度朝比奈右兵衛大夫忠節之砌、令用心瀬名谷江被退条神妙之至候、仍如此相渡候、猶依于戦功可宛行重恩者也、仍如件、
永禄十ニ己巳年正月十一日/信玄(花押)/安東織部佑殿
戦国遺文今川氏編2242「武田晴信判物」(高橋義彦氏所蔵文書)

この文面で、次の2文が酷似している。

1月11日:「今度朝比奈右兵衛大夫忠節之砌、令用心瀬名谷江被退条神妙之至候」 2月24日:「今度葛山備中守殿忠節之刻、令同心、瀬名谷へ被引退条神妙候」

文面酷似自体はよくあることなので気にはならないが、問題は「葛山備中守殿」である。朝比奈右兵衛大夫にはついていない。葛山氏元が通常の国衆より格上に見られたということかとも思ったが、その割に、「殿」の後の語に敬語がない。「葛山備中守殿被御忠節」だったら違和感はないのだが。

そこで改めて疑惑の目を向けてみる。安東宛のものは1月11日で、乱入から大体1か月くらいの発給となる。とすればこの文書は駿河に乱入する際に、朝比奈右兵衛大夫が武田方として忠節に及んだ状況を説明したものだろう。端的に書かれ過ぎていて断定はしづらいが、描写できなくはない。

安東織部佑が瀬名谷に「用心のため」退いたのは、武田方主力が駿府を目指し、瀬名谷南方を横切った後なのだろう。瀬名谷にいた朝比奈から寝返りが申し出され、安東らが引き返した。これは本当に寝返ったかの確認で、安東は前線から離脱したものの瀬名谷の組み込みを完了した。そう考えると、駿府攻撃に同行こそできなかったが功績は大きい。

朝比奈氏に関連した寺院は現在でも沓谷周辺にあり、そのすぐ北方である瀬名谷に朝比奈右兵衛大夫が居を構えていた可能性は充分ある。

では荒河治部少輔も、安東と同じ行動をとったのかというと、これには強い違和感がある。先に書いた敬語のちぐはぐさもあるし、駿東の葛山氏元が武田に忠節(=寝返り)をし、荒河がそれに同心したからといって、なぜ荒河は瀬名谷まで移動して退かなければならないのだろうか。

朝比奈右兵衛大夫・安東の行動と絡めてみようとしてもうまくいかない。「令同心」とあるからには荒河治部少輔は今川方であったと思われるけれど、その名は戦国遺文今川氏編に出てこず、正体は不明。

単純に考えるなら、安東宛文書を見て荒河宛文書が作られたとした方が自然で判り易い。作成目的は「葛山氏は武田方に寝返った」ことを証明するためだろう。

2017/04/24(月)史料想-2 葛山衆の幻影

 更に突っ込んで、「某」が替地の件で苦情を言われていた『水窪』を戦国遺文後北条氏編の索引で調べてみると、1点だけヒットした。

後北条氏、渡辺蔵人佐に、水窪・土狩での収入を渡す

『水窪』は去年の7月迄は直轄領でしたから、『土狩』の知行地をそれぞに一つ拠出なさり、それに従うようにご指示ありました。現在は諸々を現金給与となりましたので、陳情に応じて、水窪において18貫文、土狩における18貫文の分を『所肥後』から渡すでしょう。さて、『葛山』衆の先方をしていた際の上下については知りません。そしてまた、所肥後の同心になるようなご指示もしていません。時が至れば配属となったら、指南するようにとご指示なさいました。但し、所肥後が考えもなく非法なことをしたなら、報告して下さい。その時にはそれぞれが直接奉公することとなるでしょう。

庚午(元亀元)卯月十日/(虎朱印)石巻奉/渡辺蔵人佐殿
戦国遺文後北条氏編1403「北条家朱印状写」(判物証文写今川二)

土地の比定は判り易いが、人名はここにしか出てこない2名で全く追えない。

  • 土狩……水窪の南方にある土地で、天正期を通じて後北条氏が掌握していた
  • 葛山……葛山城を拠点とした国衆で氏元が当主だった
  • 所肥後……名字が「所」で受領名が「肥後守」だったと思われるが不明
  • 渡辺蔵人佐……駿東郡にいた渡辺氏と関係がありそうだが不明

この文書で判ることは以下の通り。

  1. 1569(永禄12)年7月まで水窪は後北条氏直轄領
  2. 同じく8月以降は直轄領ではなくなった
  3. 渡辺蔵人佐は水窪に知行が36貫文存在していた
  4. 替地として土狩が割り当てられた
  5. 前年上期までの収入として水窪18貫文を支給
  6. 下期の収入として土狩18貫文を支給
  7. どちらも所肥後守から受け取るよう指示
  8. 所肥後守が寄親になった訳ではない
  9. 葛山衆の先方としての序列を後北条氏は知らない
  10. とはいえ所肥後守が寄親の方針は変わらない
  11. 但し所肥後守に非があれば解任し直参とする

判りづらい部分もあるが、渡辺蔵人佐のほかにも、水窪に知行があって葛山氏被官だった者が存在しているという書き方だ。そして、水窪の知行が後北条氏直轄領として接収され、近隣の土狩に替地が用意されていたことが判る。そして、所肥後守の指南に受けることに抗議していたようだ。葛山氏元の被官たちがどういう序列かは知らないと後北条氏は答えつつ、所肥後の指揮下に入る基本方針を何とか伝えている。ただこの辺りの記述は歯切れが悪く、対応を誤ると渡辺らが敵方に移動すると考えて宥めようとしていた感じがする。

某は所肥後守である可能性

ここで最初の文書に戻ってみる。某は水窪の替地で何者かに苦情を言われていた。これを、所肥後守と渡辺蔵人佐に当てはめると、自然な解釈が可能になる。

永禄12年7月まで直轄領だった水窪を宛行なわれたのは所肥後守で、渡辺らは水窪から土狩に替地をさせられた。所の知行高は不明だが、妻子の疎開費用だけで70貫文を支給されている。一方の渡辺は全知行でも36貫文しかない(水窪替地以外の知行があった可能性はあるが、支給方法を詳細に書いた文書に存在が全く書かれていないことから、ちょっと考えづらい)。

そして、某は永禄12年7月11日は某が円能口で活躍を見せたタイミングでもある。褒賞として水窪郷が一円支配として与えられ、旧葛山衆を率いるよう命じられた。しかし渡辺らは納得しなかった。

このようなストーリーが構築できる。その後で所肥後守・渡辺蔵人佐の史料が遺されていないのは、後北条から離脱したのか戦死したのかだろう。

掛川への派遣は何だったのか

ここまで仮説を組み立ててきたが、最後の条文に大きな謎があるのでそれを検討する。

一、先年に懸川へ派遣された際のご褒美銭が到着していないとの申し出ですが、今年と来年両年で丸く皆済することをご指示なさいました。

「去年」ではないことから1571(元亀2)年以前のことだと判る。そしてその褒美銭を2年に分けて支払うとあるので、少額ではないだろう。軍事的に危険な行為に対して大きな金額を約束したのだと思われる。

後北条氏が掛川に軍事・外交で派遣をしたのは永禄11年12月~5月と見てよいから、その時点での話なのは確実となる。掛川に移る前から氏真に付き添っていた後北条方・伊豆衆の西原善衛門尉のような存在もいることから、いつの時点かはこれ以上細かくは絞れない。

ただ、掛川派兵に駆り出された清水新七郎と大藤政信が後に1,000貫文以上の褒賞を得ていることを考えると、所肥後守も同様に派遣されたと思われる。これは、清水・大藤だけでは今川方と武田方の見分けがつきにくく土地鑑もないことから充分ありうるように思う。

葛山衆から所肥後守が抜擢されて同行、その際に褒美銭を約束されたと考えてもよいのではないか。

そしてこの仮説が成り立つならば、葛山氏被官には、武田方以外に、今川方・後北条方についた者もいたともいえるだろう。

葛山氏元は武田に寝返ったのではなく抑留されたという可能性

葛山氏の被官に関しては、武田従属以降に活躍する御宿氏がいるものの、当主氏元との関係性は明確ではない(もっと言うと、御宿氏関連文書には、信憑性が乏しいものがある)。このことから余り当てにはならない。その他で残されているのは流通系の被官が殆どで、軍事・外交に関して活動していた被官がどのような存在だったかは、空白な領域だ。

今回出てきた所肥後守と、彼に反発する渡辺蔵人佐は、残念ながら戦国遺文今川氏編でも見つけられず、同書後北条氏編でもこれ以上の情報はなかった。しかし、知行高から見て明らかに下位である渡辺蔵人佐らが、所肥後守の指南を受けることに嫌悪感を示し、また水窪領を所肥前守に奪われたと感じていた点は、葛山家中で深刻な対立関係があり、後北条方に移った先でも解消されなかったことを示すように思う。

従来、葛山氏元は1568(永禄11)年の武田南進を受けて今川方から寝返ったとされていた。しかし、その直前に氏元が史料から姿を消すことから考えると、今川方に留まりつつも家中が分裂した挙句に武田に抑留され、晴信の子息が養子という形で葛山を継承した可能性が出てきた。

そもそも武田晴信は今川方から寝返った者(岡部元信や孕石元泰、朝比奈信置ら)を優遇しており、史料から姿を消した葛山氏元は特異な存在だと考えていた。晴信の息子信貞が葛山に養子入りしたというのも妙な話で、当時の駿東は軍事的に緊張していたのに、息子とはいえ戦歴もなく年齢も低い信貞を起用した理由が判らない。

こういった点も、同時代史料の欠落から深く突き詰められなかったところだが、今回の史料検証のような行程を踏むことで、仮説を少しずつ充実させつつ、新出史料を待つことはできるのかも知れない。

2017/04/24(月)史料想-1 宛所の切られた文書

古文書には宛先が切り取られてしまったものがあって、解釈や比定が難しくなることが多い。ただ、周辺の文書を読み込むことである程度の仮説を構築することは可能だと思う。それを実際にどう行なうか、書き出してみた。

以下は、宛所が切られた状態の虎朱印状で、板部岡融成が奏者を務めていることや、癸酉(元亀4年)三月晦日の発行であることは判っている。

後北条氏、某に4つの条目を伝える

一、『水窪』の替地、何のために他人が言い立てることがあるのでしょうか。とやかく言う輩がいたら、目安で報告して下さい。合目安を立ててご糾明して、決着をつけよとの仰せです。どうやれば、知行高のご決定に異議を唱えられるというのでしょうか。最近の曲事です。ご指示に及ぶほどのものでもありません。ご糾明の上、どうあっても先の証文の通りの決定になるでしょう。

一、砦のことを申し出たのは神妙です。もとより、西の方の者は国境で活躍することに極まります。どこであれ敵との境界を見立ててご指示になるでしょう。身命をなげうって活躍して下さい。もとより、知行のことは何があっても拠出しますから、ご安心下さい。

一、どこの国境に配置されても、妻子の安住が保証されなければ困るでしょうから、この度『黒谷』のうち『多々良分』70貫文が直轄領なので与えられました。早々に妻子をその地へ移し、安心していただきますように。付記、『八郎左衛門』・『喜左衛門』の妻子も、その地に置くようにとのことですから、多々良分の中に両人の妻子が住む屋敷をお渡しします。更にこの上は味方として協力することを合意して、活躍していただきますように。

一、先年に『懸川』へ派遣された際のご褒美銭が到着していないとの申し出ですが、今年と来年両年で丸く皆済することをご指示なさいました。

癸酉(元亀4年)三月晦日/(虎朱印)江雪斎奉之/宛所欠
小田原郷土文化館研究報告No.42『小田原北条氏文書補遺』p28「北条家朱印状」(海老原文書)元亀4年

この文書は宛所が切り取られていて前後関係が不明瞭なため、まず固有名詞の比定を確認。

  • 水窪……駿東郡の水窪。
  • 黒谷・多々良分……武蔵の秩父に黒谷(くろや)が存在し、下山年表でそこに比定。岩付にも黒屋(くろや)があるが、鉱業の存在を窺わせる「たたら」から、銅山で著名な秩父黒谷の方が有力。
  • 八郎左衛門・喜左衛門……三浦八郎左衛門は実在する。

同じ海老原文書に宛所が切り取られた感状が存在するので、そちらも参照してみる。

北条氏政、某に、永禄12年7月11日の戦功を賞す

昨日の10日に『円能口』に敵が出撃してきたところ、前線で戦って敵を5人討捕ました。特に、ご自身が高名を挙げています。本当に比類のないことだと感銘を受けました。刀を1腰、一文字銘のものを差し上げます。ますますご活躍下さい。

永禄十二年己巳七月十一日/氏政(花押)/宛所欠
小田原郷土文化館研究報告No.42『小田原北条氏文書補遺』p27「北条氏政感状」(海老原文書)

円能口……下山年表では相模丹沢を比定。山北町都夫良野とあり、小山町から酒匂川を下って小田原に侵入するルートだと思われる。但し比定根拠は不明。

上記2文書が同じ宛所である確実な根拠はないが、同時代で近い地域における内容であることから、同人物として仮定は可能ではある。その前提で2文書から宛所の人物が置かれた状況を並べてみる。

  1. 永禄12年に円能口で敵5名を討捕、自分も活躍した
  2. 水窪替地について苦情を言われていた
  3. 砦の普請を自ら申し出ていた
  4. 国境のどこに配備されるか判らなかった
  5. 妻子の居住地が危険だったため70貫文の直轄領が与えられ疎開を指示された
  6. 同じ場所に八郎左衛門・喜左衛門の妻子も移動を命じられた
  7. 八郎左衛門・喜左衛門の妻子が住む屋敷は後北条氏が準備した
  8. 元亀2年以前に掛川に派遣されていた
  9. 掛川派遣時の褒美を与えられていなかった
  10. 上記褒美は発給時の年と翌年の2回で支払われた

 妻子居住で70貫文が支給されていることや、八郎左衛門・喜左衛門といった寄子か被官、親類を引き連れていたこと、また砦普請を名乗り出ていたことから、大身の武家であるといって良いだろう。永禄12年の件では「自分でも活躍」が褒められているから、本来は部下に戦闘を任せられる身代を持っていたのだろう。


……続く