2017/04/20(木)関東の主導者が憲政から義氏に変わりつつあった流れ
1549(天文18)年~1557(弘治3)年までの、足利義氏・上杉憲政に関連した主要記事を抜粋。
1549(天文18)年
9月27日:下野国の宇都宮尚綱が五月女坂の合戦で那須高資に敗れて戦死する。高資方には北条氏康と芳賀高照・壬生綱雄・白川結城晴綱が加勢する。
天文19年
11月初め:北条氏康が上野国平井城山内上杉憲政を攻め、攻略できず(小林文書・高崎市史資料編4-280)。
この年:北条氏康が上野国平井城を攻略し、山内上杉憲政は逃れて同国白井城に入る。
天文20年
1月22日:那須高資が北条氏康に味方して弟資胤と争い、家臣の千本資俊に下野国千本城で殺害される。
この冬:北条氏康が冬から翌年にかけて再び利根川左岸の小幡・高山氏等の河西衆、同右岸の那波氏等と糾合して上野国平井城を攻める。憲政は白井城から再び平井城に帰還していた(身延文庫所蔵仁王経科註見聞私奥書・埼玉県史研究22)。
天文21年
2月11日:北条氏康が山内上杉憲政攻略のために武蔵国御嶽城安保全隆(泰忠)を攻め、三月初めに全隆父子は降伏する。
3月14日:北条氏康が上野国国峯城小幡憲重に、武蔵国今井村の百姓が退転したので帰村させ、耕作に励ませる。憲重は天文19年に上杉憲政を離反し氏康に従属(戦北409)。この月:北条氏康が上野国平井城を攻略して上杉憲政を同国から撤退させ、上野衆の由良・足利長尾・大胡・長野・富岡・佐野氏等が氏康に従属。
4月10日:北条氏康が上野国小泉城富岡主税助に、北条氏に従属した茂呂氏と昵懇にさせる(戦北412)。
5月初め:上杉憲政が家臣の謀叛により上野国平井城から上杉謙信を頼って上越国境に没落する。
12月12日:足利晴氏が嫡男藤氏を廃嫡し、梅千代王丸に古河公方家を相続させる。北条氏康の圧力による。その後、ほどなく梅千代王丸と晴氏は下総国葛西城に移座する(戦古671)。
天文22年
3月18日:北条氏康が高山彦九郎に、山内上杉領を掌握して上野国平井城近くの某市場の市日を定め、押買・狼藉・喧嘩口論を禁止させ、違反者は小田原に申告させる(戦北436)。
3月20日:北条氏康が結城政勝に、白川晴綱からの書状を受けた事を伝え白川や伊達・蘆名各氏への仲介も依頼する。この頃に氏康は結城政勝・大掾慶幹と結び、小田氏治・佐竹義昭と対立する(戦北462)。
3月22日:足利梅千代王丸が下野国大中寺に、足利政氏の判物に任せて同国中泉荘西水代郷の寺領を安堵し不入とする。義氏文書の初見(戦古796)。
3月23日:北条綱成が陸奥国白河城主白川晴綱に、外交交渉の開始を喜び、北条氏康に角鷹、綱成に刀を贈られた謝礼に定宗作の小刀を贈答し、今後の親交の取次を約束する(戦北463)。同日、綱成が白河晴綱の重臣和知右馬助に、晴綱から北条氏康への書状到来を感謝して白川氏への取次役を務める事を伝え、啄木の墨絵を贈呈された謝礼に島田作の鉾鎌を贈答し、今後は常陸方面の状況が晴綱から寄せられるので右馬助からも知らせて欲しいと依頼する(戦北3094)。
4月22日:北条氏康が上野国小泉城富岡主税助に、同国館林城に敵が侵攻したために急ぎ駆けつけて城下で防戦に努め、城内の赤井氏家臣を大切にした功績を褒め万事について氏康と富岡氏を仲介した茂呂因幡守と相談し、城を堅固に守ることを指示し、岩本定次の副状で述べさせる(戦北412)。
7月24日:足利梅千代王丸が簗田晴助に、知行として下野国名間井郷・武蔵国川藤郷を宛行なう(戦古798)。
9月11日:北条氏康が上野衆の富岡主税助に、同国に出陣して河鮨に着陣し、佐野領・新田領に侵攻する予定の事、富岡蔵人が茂呂弾正に援軍を差し向ける事、茂呂弾正の依頼で新田党の大谷藤太郎を派遣した事等を伝える(戦北422)。
12月12日:北条氏康が安中源左衛門尉に、陣労の忠節を認め上野国上南雲を宛行なう。上野衆の安中氏が氏康に従属(戦北423)。
天文23年
7月20日:足利晴氏・藤氏父子が北条氏康から離反し、下総葛西城から同国古河城に無断で移り、葛西城の足利梅千代王丸は北条方として残る。
7月晦日:北条氏康が白川晴綱に音信を通じ、結城政勝と相談して常陸国の佐竹義昭を攻略したいと伝える(戦北468)。
8月7日:古河公方家臣の田代昌純が常陸国水戸城の江戸忠通に、足利晴氏が先月20日に古河城に帰座し小山高朝や相馬氏等が普請している事、北条方の下総国葛西城足利義氏の許には武蔵国・上野国の国衆達が忠節を誓ってきており、簗田晴助や一色直朝も人質を送ってきた事、昌純が小田氏治と大掾慶幹の紛争を調整すると伝える。晴氏の復権運動が起きる(静嘉堂文庫所蔵谷田部家譜・千葉県の歴史4-563頁)。
9月23日:北条氏康が、従属した下総国栗橋城野田弘朝に条目を出し、北条方の葛西城足利義氏を護る事、離反した古河城足利晴氏との調儀を行なう事、上野国桐生城佐野直綱には詫言に任せ北条氏に従属させる事を依頼し、忠節として弘朝に旧領39箇所を安堵、新知行を10箇所宛行ない、晴氏・藤氏父子が降伏したならその知行も全て与えると約束する(戦北492)。
9月晦日:石巻康堅が白川晴綱の重臣和知美濃守に、晴綱・義親と北条氏康との神文の交換を仲介した事に感謝し、康堅が北条氏と白川氏の取次役を務める事を伝え使者に唐人を遣わす(北条氏文書補遺37頁)。
10月4日:北条氏康が、立ち退きを拒否する足利晴氏父子の下総国古河城を攻略し、降伏した晴氏は相模国波多野に幽閉され、藤氏は里見氏を頼る(年代記配合抄・北区史2-146頁)。
10月7日:遠山綱景が白川晴綱の重臣和知美濃守に書状の取次の謝礼を述べ、常陸口の小田・大掾両氏への軍事行動の異見を求め、使者に唐人の穆橋を遣わす(戦北528)。
弘治1年
6月12日:北条宗哲が武蔵国仁見の長吏太郎左衛門に、北条氏に敵対する山内上杉方へ内通した上野国平井城下の長吏頭源左衛門を国払いとし、太郎左衛門に跡職を任せる北条家朱印状を与える(戦北489)。同日、北条氏尭が仁見の長吏太郎左衛門に、長吏源左衛門の跡職を宛行ない違反者は奏者の氏尭に断り成敗させる。氏尭が旧山内上杉方の平井城の城領支配者となり北条宗哲が後見役を務める(戦北490)。
弘治2年
4月5日:北条氏康・太田資正・結城政勝連合軍が常陸国大島台で合戦し、小田氏治が敗れて土浦城に逃亡。同時に小田方の海老ヶ島城も結城政勝・壬生綱雄が攻略する(年代記配合抄ほか・北区史2-146頁)。
7月22日:大掾慶幹が白川晴綱に、去る夏に北条氏康と小田原城で直談し、別に足利義氏にも陸奥国の状況を説明し、氏康も結城政勝との当秋の小田氏への行動を了承している等を伝える(福島県史7-474頁)。
9月23日:小田氏治が白川晴綱に、北条氏康と和睦した事を伝えて今後の交渉を依頼し、佐竹義昭と氏康との和睦は未だ成らず常陸口では戦いが続いており、佐竹氏と当方との交渉は下野国の那須資胤にすると伝える(神奈川県史三下7019)。
11月29日:結城政勝が白川晴綱に、小田氏治が8月24日に常陸国土浦城から小田城に帰城したので城周辺に放火して氏治を追い詰めており、海老ヶ島城等は堅固に守備している事、北条氏康は7月から江戸城に在陣している事等を伝える(千葉県史4-221頁)。
この年:北条氏康が佐竹義昭に三ヶ条の覚書を出し、以前の三ヶ条は了承した事、宇都宮広綱と壬生綱雄との和睦は足利義氏の仰せだが拒否した事、義昭が広綱に合力する時には太田資正と綱雄の合力を確実に押さえておく事を申し送る。当文書はもしくは弘治3年か(北条氏文書補遺32頁)。
弘治3年
1月20日:北条氏康・氏政が那須資胤に、初めての来信と太刀・馬・銭の贈呈、北条氏に忠節を誓う起請文の申出に感謝し、詳しくは資胤の使者蘆野盛泰の口上で伝えさせる。下野国衆の那須資胤と氏康が同盟する(戦北538/539)。
12月上旬:宇都宮伊勢寿丸が、足利義氏・那須資胤・佐竹義昭に支援されて壬生綱雄を破り、綱雄は宇都宮城へ退去する。
12月11日:北条氏康が那須資胤に、壬生綱雄討伐への協力に謝礼を述べ、近日は下野国塩谷に侵攻した事にも感謝し、綱雄の降参で宇都宮と真岡の旧領を北条氏に渡すとの申出については足利義氏に任せる(戦北567)。
12月23日:壬生綱雄の宇都宮城が攻略され、宇都宮伊勢寿丸と芳賀高定が同城に入る。
2017/04/20(木)北条氏康条書で前と後が欠けているもの
越相同盟を巡る交渉で、氏康が出した条書のうちで欠落があるものを並べてみた。2については氏康の脳卒中と絡めて元亀比定しているが疑問は残る。
1)戦国遺文後北条氏編1211「北条氏康条書」(庄司哲子氏所蔵伊佐早文書)※1569(永禄12)年4月頃に比定されている
<<解釈>>
条目
遠路で口上を届けるのが難しいので、思慮を捨てて糊づけの書状で申し入れます。お考えを糊づけでご返答いただければ本望です。
一、先年は亡父の氏綱が上意に応えて進発し、総州の国府台において一戦を遂げました。まぐれ当たりに、小弓公方の父子3人を討ち捕りました。この勲功で、管領職を仰せ付けられる御内書両通を頂戴しました。この筋目は申し開きはできますが、既に氏政の実子を御名跡としてお決めいただいたとのこと、このようなご昵懇をいただいたからには、申し上げることはありません。
一、河内(利根川右岸)において、年来氏政に従い指示に忠実に従って活躍した者が何人かいます。今になって氏政の手元から離れるというのは外聞が『折角』となります。それぞの所領をこちらの配属にしていただけるならば、かたじけなく、またご芳志といえるでしょう。但し、ご納得いただけないのでしたら、どうしようもないでしょうか。とりわけて今回松本石見守が遠山康光・垪和氏続に対し「去る申年(永禄3年)に越後方へ馳せ参じた者だ」と6か所の書立を示しました。今越相で同盟するのですから、申年の是非は入れなくてよいのではないでしょうか。既に全てをお任せした上ですが、あの6か所は武蔵の中にあります。伊豆・相模も加えて3か国は、代を限らず戦功で与えたものなので、お聞き届けいただければ本望です。
一、公方様の御座を移すことについて。藤氏様のご進退のことは、松本石見守に申しました。遠国で伝わらなかったのでしょうか。去る寅年(永禄9年)ご他界なさいました。義氏様へ晴氏様よりのご相続は事実です。既に越相のご和融の上は、義氏様の御筋目は紛れもないことですから、そのようになるでしょうか。慎重にご検討下さい。
右の条々合意の上は、一日も早く信州へご出張なされませ。氏政自身は甲州へ乱入するでしょう。この度は信玄敗北の時です。鉾を醒ますことなく、信甲のご退治下さい。念願はこのほかありません。もしもし、この上遅々とするならば(後欠)
<<原文>>
条目
遠路口上難届存ニ付而、捨思慮、以糊付申入候、御存分、糊付之御返答、可為本望事
一、先年亡父氏綱応 上意令進発、於総州国苻台、遂一戦、稀世 御父子三人討捕申候、依勲功官領職被仰付、 御内書両通頂戴候、此筋目雖可申披所存候、既氏政実子御名跡可被定置由候、如此御入魂之上者、申処無之候、任置貴意事
一、於河内、年来随氏政下知無二走廻輩、数ヶ所候、只今可離氏政手前事、外聞令折角候、彼所ゝ此方へ於被付者、忝可為芳志候、但、御納得有之間敷付而者、不及是非歟、就中今度松石対遠山左衛門尉・垪和六ヶ所被書立、先年申歳越苻御陣下へ馳参由候、只今越相和融一味之間、申歳之是非不入歟、既悉皆任御作意上者、彼六ヶ所者、武州之内ニ候、於豆相三ヶ国者、不限代戦功相拘候条、被聞召分、可為本望事
一、公方様 御座移之儀ニ付而、 藤氏様御進退之儀、松石被申候、遠国無其聞歟、去寅歳御他界ニ候、 義氏様へ自 晴氏様御相続無其隠候、既越相御和融之上者、 義氏様御筋目無紛候条、可然歟、不可過御塩味事
右条ゝ申合上者、一日も急速、至信州御出張、氏政自身甲州へ可乱入候、此度信玄敗北之砌、不被醒鉾、信甲御退治念願之外、無他候、若ゝ此上御遅ゝ付者(後欠)
2)戦国遺文1475後北条氏編「北条氏康書状」(上杉文書)※1573(元亀4)年4月15日に比定されている(高村私見では永禄12年比定も可能性あり)
<<解釈>>
(前欠)一、ご加勢はあるべきでしょう。当家は全員が輝虎のご威光によって、素早く本意を達するだろうと、和睦以来思っていたところ、日を追って弓矢で『折角』となりましたので、ますます氏政の手元を見限っています。国中のどの措置も手に余っています。必ず必ず7月上旬にはご出馬あって、当家をお引き立て下さい。
一、相模と甲斐が和睦したと、言った人がいたのでしょうか。これによって起請文をいただきました。かたじけなく、また困惑しています。ご越山の名分を争っていることから、虚言を受けることとなり、このように言われるのでしょうか。讒言する者のやることは昔から変わりません。よくよくご調査されるに限ります。氏康父子に私曲がないこと、伊勢右衛門佐によって申し届けました。きっとお聞き届けになるでしょう。
一、国境の防御拠点の措置のこと。仰せをいただき、本当にご懇切なこと、本望で満足しています。紙には書けない程です。そもそも、信玄と氏政が血縁となって以来、こちらの方では国境の内と外という意識がなかったところ、信玄が裏切って近年放置できずに伊豆・相模の国境警備を堅固にしていました。ふいに駿河を攻撃したので、義によって甲斐と交戦することになりました。それ以来急に処置したので、数か所の街道は普請ができていません。今では苦労しています。更なる油断ではありません。
一、諸人が力づけられることは、お考えの通りです。とにもかくにも、貴国以外はどこも頼れません。氏政をご後見いただけるなら、来る7月に極まります。ここに至ってお見捨てになれば、こちらの侍どもは氏政を見捨てること、歴然ではないでしょうか。
一、諸証人のこと、ご越山されるならばすぐにお渡ししますこと、先にも申しました。更なる異議はありません。氏政のこと、少しのお疑いがあってはなりません。一度国分けを取り決めた上は、甲斐・信濃に侵攻するお覚悟があるのですから、一人の諸証人でも手元で惜しみはしません。
一、来る秋に信玄が出撃する際には、即座に後詰をいただくとのこと、本当にかたじけないことです。西上州にでも、信濃にでも、一心に行軍なさることをお願いすること、先に伊勢右衛門佐が申していました。敵の行動が火急のこと告げています。早速のご出動に極まります。こちらよりご報告していては手遅れになります。同時に敵の行軍状況を逐一ご連絡します。
<<原文>>
(前欠)一、御加勢者、可有之儀ニ候、当家之大小者、輝虎以御威光、頓速ニ可達本意由、一和以来存候処、遂日弓箭折角ニ成候条、弥氏政手前を見限、何共国中之仕置、致余候、必ゝ来秋者、七月上旬ニ有御出馬、当家被引立可給事
一、相甲遂一和由、申人候哉、依之、御誓詞給候、且忝、且迷惑候、争御越山御大儀ニ付而、虚言を蒙仰様ニ可存候哉、讒者之所行、古今之習候、能ゝ御糺明ニ極候、氏康父子無私曲処、以伊勢右衛門佐、申届候キ、定可被聞召届事
一、境目之要害仕置等之儀、蒙仰候、誠以御懇意之段、本望満足、難尽紙面候、抑信玄・氏政結骨肉以来、当方之事者、無内外存処、信玄表裏、近年不打置、豆相境目普請仕置被致堅固、不慮ニ駿州を打候間、任儀理、相甲令鉾楯以来、俄及仕置故、数ヶ所之口ゝ普請以下無成就、于今令苦労候、更油断ニ者無之事
一、諸人ニ可付力之由、尤得其意候、菟ニも角ニも、貴国之頼より外、大小無之候条、氏政於可被御覧続者、来七月ニ極候、此処於有御見除者、当方之侍共、氏政可見捨事、可為歴然候歟之事
一、諸証人之事、於御越山者、則相渡可由、先段も申候、猶以無異儀候、氏政手前之儀、少も御疑心有間敷候、一度国分申定、甲信可撃覚悟ニ候上者、諸証人之拘惜、一切無之候、仮令可被召寄模様可有之候、沼田へ御越山ニ付而者、一人も不可残置事
一、至于来秋、信玄出張ニ付而者、則刻可有後詰由、誠忝存候、西上州へ成共、信国へ成共、一途御行頼入由、以伊右申候キ、敵動火急之由申唱候、早速御出勢ニ相極候、自是注進申よりしてハ可為遅ゝ候、併敵動之模様をハ、節ゝ可申入候、恐ゝ謹言、
卯月十五日/氏康(壷朱印「機」)/山内殿
2017/04/20(木)北条氏政引き籠り事件はあったのか?
上洛を嫌って引き籠もったという説を持っている北条氏政だが、事実はどうだったのかを史料から検討
「氏政が上洛を渋った」という論拠になったかも知れないのが『氏政引き籠もり事件』の存在。これは北条氏規書状写(11月晦日付け・酒井忠次宛・戦北3548)に書かれている。戦北ではこの状況を開戦直前の天正17年に比定、その前後にある「氏政上洛遅延」と絡めて解釈している。ここから「上洛するのが嫌で開戦した氏政」みたいな評価にも繋がっている可能性があるなと。
ただこの文書は、下山年表や黒田基樹氏『小田原合戦と北条氏』で天正16年比定としていて、私もこちらの比定が正しいと考えている(11月に入ってすぐに名胡桃事件が発生していてタイミングがおかしい点、引き籠もりの契機となった氏規上洛は天正16年8月で、それが同年11月まで継続したと考えた方が自然な点から)。
問題の箇所は、氏規が忠次に書いたと思われる書面「御隠居様又御隠居」に対応して、その理由を説明した部分になる。
問題箇所原文
去拙者上洛之時分より無二御引籠、聊之儀ニも、重而者御綺有間敷由、仰事ニ御座候シ、無是非御模様与奉存候
下山氏
北条氏政は氏規の上洛に反対して屋敷に引き籠もり無言の抵抗をしている
黒田氏
氏規の上洛以後、それに反発して政務の場に出なくなって、一切政務に口出ししないという状態
高村
前に私が上洛した時分から強引にお引き籠もりになり、少しのことであっても、再び変更を言い立ててはならないと仰せになっていました。揺るぎないご様子だと思っています。
下山氏・黒田氏ともに、フィルタを通して解釈してしまっているように見える。氏政の上洛が遅延したことは事実であり、それと結び付けて「氏規の上洛に反対する氏政」という思い込みから解釈しているのではないか。
また、恐らく「重而者綺有間敷」と「無是非御模様」の解釈も、それぞれの両義性を無視してしまい、一面的に解釈しているのではないか。
「綺=いろい」の意味は実例を見ても「異議申し立て・再審議要求」で問題ないと考えられる。下山・黒田各氏の解釈だと「(上洛してほしくない氏政の気持ちには)少しも再度の変更はない」といった感情面に行き過ぎた、括弧書きの多い内容になってしまう上、「綺」をこのような用途には使わないという点に難がある。
「聊之儀ニも=ほんの少しのことでも」「重而者=かさねて=二度と」「綺有間敷=異議申し立てしてはならない」と言って氏政は引き籠もったのであって、そのまま解釈すればよいと思う。
ということで、異議申し立てを禁止するからには何かを決定したのだろう。そして、その決定の再審を封印するために隠居の上の隠居を敢行したと言える。
一方の「無是非=ぜひもない」は実例を見るとA~Dの4パターンが存在する。私が収集した文書データで検索をかけると、この文書を除いて48例が見つかった。
- A)やむを得ない 19例 不本意な状況で
- B)明白・明らか 16例 証明する状況で
- C)手の打ちようがない 7例 状況不明で
- D)弔辞 6例 「不本意」のバリエーション
基調となる意味は「論ずるまでもない」でよいのだが、語の範囲が広い。氏政の行動を「無言の抵抗」とまで言う下山氏解釈はA、それよりは中立的な黒田氏解釈はCに該当すると思われる。私は、再審を禁じた氏政の行動を受けての文なのでBではないかと考えている。
では、氏政が固守しようとした「決定」とは何なのか。
北条氏規の上洛は天正16年8月のこと。この前の5月21日付けの家康起請文で「進退の保証はするから兄弟衆を上洛させよ。従わないなら家康娘を返してほしい」と言われている時期で、7月23日になっても「濃州上洛依遅延」で家康から催促されている。この混乱を経た氏規上洛で「後北条は羽柴に出仕する」という関係が固められた。氏政籠居はこの従属関係を固定させるためのもので、何者かが「従属か決戦か」の判断を覆し、再論にまで引き戻そうとしていたのだと考えられる。
この、通説と異なる氏政像は他の文書と矛盾するだろうかと、色々と見ているがこれまでのところ矛盾は見つからず、かえって補強する材料が出てきている。
たとえば、沼田接収での差配も氏政が氏邦に指示を出しているし、その書状の中でも自身の上洛を「我ゝ一騎上ニ而済候、多人衆不入候」と、少人数での実施として現実的に想定している(小田原市史資料編小田原北条1952・北条氏政書状)。
では、何故氏政が主戦・独立派として通説に上がってくるのか。
天正15年と17年の12月、戦闘が近づくと氏政は招集や普請に関する書状を出し始める。これをもって、氏政が独立派であり上洛を忌避したというストーリーが組み立てられたのではないだろうか。
ところが、史料から見られる像としてはむしろ氏規と連携した従属派に近いと思う。独立派として私が現段階で想定しているのは、伊達家との同盟を過信した氏直・氏照だが、こちらはまだまだ実証にまでは至らない。
実はこの文書、とても重要なことが書かれているのは確かなのだけど、読めば読むほど解釈が判らなくなる魔魅のような存在で、私の力量では仮説を立てるのも覚束ない難物。このほかにもいくつもの疑問点があるが、上記のように、とりあえず判るところだけを書きぬいてみた。
原文
内ゝ今日者可申上由、奉存候処、一昨廿七日之御書、只今未刻奉拝見候、一、軈而御帰可被成由、被仰下候、此度者懸御目不申候事、折角仕候、二月者御参府ニ可有御座間、其時分懸御目申候て可申上候、一、御隠居様又御隠居之由、被仰下候、去拙者上洛之時分より無二御引籠、聊之儀ニも、重而者御綺有間敷由、仰事ニ御座候シ、無是非御模様与奉存候、一、一両日以前、妙音院・一鴎参着、口上被聞召届候哉、拙者所へも冨田・津田状を越申由、一昨廿七日之御書、参候シ、自元口上者、是非不承届候、将亦一昨日朝弥・家為御使参候、此口上を家へも自関白殿被仰越候間、可然御返事尤由、比一理にて参由申候シ、朝弥、自妙音院申候とて物語申候分者、此度之儀者、沼田之事ニ参候、御当方御ために可然御模様之由申候シ、定而御談合可有御座候、珍儀御座候者、可被仰下候、一、足利之儀、如何様ニも可被為引付儀、御肝要与奉存候、定而自方ゝ扱之儀、可有御座候、御味方ニさせらるゝ程之儀ニ御座候ハゝ、殿様御手前相違申候ハぬやうニ、兼而被御申上、御尤ニ御座候歟、但何事も入不申御世上ニ御座候、我等式者、遠州之事ニも何ニも取合不申候、年罷寄候間、うまき物を被下度計ニ御座候、返ゝ此度懸御目不申候事、何共ケ共迷惑不及是非奉存候、猶自是可申上旨御披露、恐惶謹言、追而、一種被下候、拝領過分奉存候、併はや殊外之まつこに罷成候、又一種進上仕候、御披露、
十一月晦日/美濃守氏規(花押)/酒井殿
戦国遺文後北条氏編3548「北条氏規書状写」(武州文書十八)