2023/04/07(金)駿府にいた賀永の正体
賀永と氏規は別人か?
『言継卿記』に出てくる「賀永」は北条氏規と考えていたが、専門家から別人との仮説が出された。言われてみると「賀永=氏規」という記載はないから、検討が必要だろう。改めて記載を追ってみよう。
賀永関連記述の時系列
◎は寿桂(今川氏親の妻)と同伴している記載。※は参考用記載
◎「大方之孫」10月2日
湯山(伝聞):寿桂とその娘(中御門宣綱の妻)と共に湯治。「大方之孫、相州北条次男也」と説明している。
◎「孫がいえい若子」10月28日
寿桂宅:寿桂の他に賀永と上臈(冷泉)・奥殿(元上臈)・中臈頭(小宰相)が在宅している。
「伊豆之若子」12月18日
伝聞:賀永の祝言があったと言継が聞く。
◎「伊豆之若子」12月23日
寿桂宅:寿桂へ小鬼子を贈り、同時に賀永へも「矢、車字」を贈る。寿桂から「はつり一包、雉之羽十一具」を、賀永から「羽三具」を贈られる。
「若子」12月24日 単独で言継を訪問
言継宿所:昨日の大方・若子へ贈った小鬼子を取り寄せ、「木れん子」を「すけ薄」を置く。若子が来て「晩飡」を共にする。
「伊豆之若子賀永」1月2日 単独で破魔矢を贈与
賀永に依頼していた破魔矢が到着する。
◎「若子賀永」1月3日
寿桂宅:寿桂へ「薫物十貝」を、賀永へ「五貝」を贈る。三献があり賀永、奥殿・御黒木(言継の養母)が相伴する。
◎「賀永」2月9日
御黒木宅:十炷香を張行。参加者は御黒木・寿桂・言継・賀永・御まん・奥殿・山宰相・中将・小少将・賀永乳母・あこう・客人・あち・こち・城桶検校。
※「中御門息之喝食」2月22日 再延期された浅間宮廿日会の桟敷で同席
冷泉弟の子・各和式部少輔・牟礼備前守・朝比奈泰朝・蒲原元賢、由比光綱・光綱弟の十郎兵衛・神尾対馬入道・観世大夫が既に桟敷にいた面々。
- ◎「賀永」2月29日
言継宿所:甘利佐渡守が使者として来訪。寿桂から「黄金二両、島つむき三端、紙一束」、賀永から「段子一端、紙一束」、冷泉局から「紙二束」、奥殿から「紙一束、引物二、師子皮こ一対」、小宰相から「香箸、紙一束」が贈られる(その後言継は寿桂宅を訪れるが賀永の名は出てこない)。
従来の通説では「孫」とある繋がりから氏規=賀永とされていた。これに対して「孫は何人もいたはず」としたのが別人説で、更に踏み込んで中御門宣綱の息子を賀永とする説もある。それぞれ、検討してみる。
賀永は中御門信綱の息子か?
まず、中御門宣綱の息子が賀永というのは否定できる。上の一覧で判るように、賀永が中御門息だとすると、名前の呼び方が不自然になってしまう。親交を重ねた言継は2月9日に「賀永」と名のみ記すようになったのに、2月22日にいきなり「中御門息之喝食」と他人行儀になり、2月29日に再び「賀永」呼びになる。これはさすがに不自然だ。
一方、12月19日の賀永祝言に続けて宣綱の行動が記述され「賀永と宣綱は近しい存在」という指摘もある。しかし、記述内容をきちんと読むとおかしい点に気づく。賀永祝言に続けて、宣綱は「無興=不満」だったと書かれている。息子の祝言に不満を持つというのもまた不自然だろう。
元服前の氏規が喝食っぽい名を持っているのを不審に思っての比定かもしれない。しかし、上記のように言継卿記を素直に読む限りでは別人だろう。
賀永と氏規は別人か?
どちらも寿桂の孫と記述されている氏規と賀永は別人だろうか。別人説では、賀永は寿桂孫の一人ではあるものの、相模ではなく「伊豆之若子」と呼ばれたことから後北条との関係者ではないと推測している。
寿桂の孫となると、言継卿記には実に6人も登場する。北条氏康に嫁した娘が産んだと思われる氏規・氏真妻、中御門宣綱に嫁した娘が産んだと思われる娘と息子、義元の息子である氏真、瀬名貞綱に嫁した娘が産んだと思われる虎王。これに対して「孫」として説明されているのは氏規と賀永しかいない。
これは、氏規・賀永が寿桂と同居して孫として扱われていたからだろう。氏規は寿桂の湯治に同行しているし、賀永は8回登場するうちで5回は寿桂同伴である。他の孫達は寿桂と別の生活圏に居住していたため、その関係から説明されたものと思われる。
更に「若子」という尊称がつくのは賀永のみであり、周囲に敬されていたと考えられる。こうした敬称は宣綱の娘に付されていて「姫御料人」と呼ばれているものの、貞綱息子の虎王には付いていない。権大納言である宣綱と、一門とはいえ義元被官である貞綱とで待遇を分けているのだとすれば、賀永は太守氏康の次男だから尊称を付けられたと考えられる。
※興味深いのが宣綱の息子である喝食に尊称がない点。寺に入った者として距離を置いているように見える。であれば喝食風な名を持つ賀永は実態としては寿桂宅にいたため俗人として扱われ「若子」と呼ばれたのだろう。
まとめると、以下の項目から氏規と賀永は同一人物と考えられる。
- 寿桂と極めて親しい関係にある氏規が、言継卿記では1回の伝聞にしか登場しないのは不可解
- 寿桂孫として敬され言継卿記で多数登場する賀永が、同時代史料で一切見えないのは不可解
- 寿桂と常に同行した孫で「若子」の尊称という条件を満たすのは氏規
- 氏規と全く同条件の人物の存在を比定するよりも、氏規=賀永とした方が自然
相模ではなく伊豆の若子と記されるから後北条とは無縁という推測も、よくよく考えると筋が通っていない(伊豆国は後北条分国)。後北条と無関係でありながら、伊豆と関わりを持った寿桂孫の存在を想定するほうが無理があるのではないか。
伊豆や喝食との関連性
では、氏規はなぜ「伊豆之若子」と呼ばれたり、喝食のような名前「賀永(がえい)」を名乗ったりしたのか。
「伊豆」と「祝言」
私は、「伊豆」が使われるようになった鍵は12月19日の「祝言」にあると考えている。言継はこの祝言を記した後に「中御門無興」と付け加えている(どちらも伝聞)。「無興」は「気に食わない」とか「不満」を指すが、言継卿記では直近の12月5日に登場している。
次中御門へ罷向暫雑談、今日隠居之事、使四人有之云々、無興至極痛入者也
とあり、「隠居」について使者4人が来て宣綱が憤懣やる方ない状況になったと書かれている。14日にも宣綱は「隠居之儀事破云々、種々雖加意見無同心之間罷帰了」とあり、その憤激を言継が宥めようとして諦めた記載もある。その5日後の祝言で宣綱が「無興」というのであれば、賀永の祝言が宣綱隠居と密接に関わっていると考えていいだろう。
宣綱が登場する12月分記載を全て列挙してみた(※11月末に濃密な接触もあったので参考記載)。
- ※11月28日:中御門宅にて酒宴。
- ※11月30日:中御門宅にて風呂に入る。
- 12月01日:宣綱が留守中に来訪したと聞く。
- 12月03日:中御門宅にて宣綱と雑談。
- 12月05日:中御門宅に行き「隠居の件で使者4人が来訪し、強い不満を抱いた」と宣綱から聞く。
- 12月07日:宣綱から筆が返却される。
- 12月11日:宣綱が留守中に来訪したと聞く。
- 12月13日:中御門宅にて宣綱と雑談。
- 12月14日:早朝に宣綱から呼び出しがあり、隠居の件が破綻したと激怒される。説得を試みるが効果なし。
- 12月19日:言継が、伊豆の若子の祝言と、宣綱の不満を伝え聞く。
- 12月26日:言継が、宣綱から借りていた鏡を返却し、同時に姫御料人へ物を贈る(姫御料人の記載終見)。
宣綱が「無興」になったのは、氏規を姫御料人の婿に迎えて中御門家を継がせたかったのではないか。駿河の今川、遠江の朝比奈に娘を送り込んだ中御門家だから、その計策を練ったとしても突飛な話ではない。何より、政略結婚の画策だと考えると、宣綱の行動のあれこれが腑に落ちる。彼を憤激させた使者4人は後北条氏から来て中御門家との婚姻を謝絶したものだと思われる。
※宣綱には子がいなかったと思われる一方で、異母兄弟とされる宣治には男子(宣教)と女子(宣胤の妻)がいた。宣治は1555(弘治元)年に死去しており、言継が駿府に滞在した弘治2~3年の前に遺児達を引き取って養子にしていた可能性がある。但し、この女子が宣胤の妻となるかは年代的に疑問が残る。宣胤は1569(永禄12)年生まれだから、宣胤の妻はこの女子の娘である可能性の方が高いように思う。
そして、この祝言から「伊豆」が賀永に付されるようになる。これは、北条綱成の娘との婚姻が成立して伊豆に知行を得たからではないか。この時点で氏規知行が伊豆にあったという史料はないが、1565(永禄8)年に伊豆奥郡の手石郷へ朱印状を発給している(戦北891)。また、更に後年になるが氏規の妻は伊豆仁科郷の地頭として名を残している(戦北4969)。結婚を機に伊豆の知行を与えられる可能性は高い。
ちなみに、元服前の婚姻は他に井出千熊・馬淵金千代の婚姻契約があるので問題はない(戦今1667)。むしろ、祝言が元服だとするなら、その後も若子・賀永と呼び続けた理由が判らなくなるから、婚姻と考えるべきだろう。
氏規は喝食だったか?
ここから先は推測・憶測の上に仮説を進める形になるため、一つの仮構として捉えていただきたい。
氏規が喝食のような「賀永」を名乗ったことについて。彼は実際に喝食だったのだろうと考えている。というのも、氏規は後北条一門の中で唯一浄土宗の戒名を持っている。とすれば、臨済宗大徳寺派で占められる後北条一門から離れた場所で浄土宗に帰依する出来事があったと推測される。
今川一門もまた義元以降は臨済宗(妙心寺派)なのだが、義元には氏規を浄土宗に帰依させる動機がある。それが対三河政策で、当時の三河には日蓮宗や浄土真宗、曹洞宗もあったのだが、義元が橋頭堡にしようとした松平一族は浄土宗を信仰していた。恐らくだが、義元は氏規を養子にして三河進出の中心に据えようとしていたのではないか。その足がかりとなる松平氏と同じ宗派にするため、氏規を浄土宗寺院に喝食として入れた。
氏規は終生浄土宗に帰依しており、当時駿府にいなかったと思われる徳川家康となぜか親しかったのは、同じ宗派を信仰しているためだろう(家康の駿府不在は徳川家康登場初期の考察、家康との関係性については北条氏規への偏見についてを参照)。
しかしながら言継卿記の賀永は寿桂宅に起居しているし、当時の駿府で最も有力だった浄土宗寺院(新光明寺)に寄宿していた言継の記述でも寺院関係者としては出てこない。
これは、義元の意図を危ぶんだ寿桂が氏規を引き取って身柄を担保していたのだろう。そしてそれを横からかっさらおうとしたのが宣綱で、亡くなった弟の娘を充てがって中御門家を継がせようと画策していた。
この駿府での騒動に慌てた氏康は綱成の娘との婚姻を強行し、元服前とはいえ伊豆で知行を与えた。このために「伊豆之若子」と呼ばれるようになったのだろう。
しかし、1556(弘治2)年5月2日に座間鈴鹿明神社の棟札銘に「北条藤菊丸」と名を残した氏規が、僅か5ヶ月後の同年10月2日に言継卿記で「賀永」という名乗りになっていたことから考えると、氏規の争奪戦はこの年に相当な速度で進んだようだ。
氏康と同盟した後の義元は西へ一気に勢力を広げており、天文19~22年頃には尾張東部(知多・岩崎)にまで達している。この勢いに乗った義元は、氏康の息子を得たのだろう。義元の後継者は氏真しかおらず、その妻に氏康娘を迎えたとしても縁戚関係は不安定だった。
1545(天文14)年11月9日に実績がある(戦国遺文今川氏編783)ことから、この時も寿桂が氏康と義元を仲介して、氏康次男の藤菊丸を氏真予備として養子にする決定がなされた。その後、1556(弘治2)年から三河国で反乱がが相次ぎ、三河の政情が悪化。この対応に苦慮した義元が、一刻も早くという要請を出し、今川家の将来を憂慮した寿桂が口添えしたのかもしれない。
2023/01/18(水)永禄初期の鉄炮配備数
永禄4年の小田原城に鉄炮はいくつあったか?
永禄4年3月24日、北条宗哲が小田原籠城の戦況として「鉄炮五百丁籠候間、堀端へも不可寄付候」(戦北687)と書いている。上杉方を撃退しながら小田原へ接近している大藤政信への連絡なので誇張はしていないように見えるものの、実際の手配ではない。本当に500もの鉄炮が小田原城にあったのだろうか。
永禄4年の牛久保城
その少しあとの永禄4年7月20日、今川氏真は岩瀬雅楽介へ戦功を賞す朱印状を発し、その中で雅楽介が塩硝・鉛100斤を牛久保城に搬入したことを記している(戦今1726)。
岩瀬雅楽介以外に鉄炮・弾薬を搬入した者がいた可能性は皆無ではないが、城米置き換え作業と合わせた報告を朝比奈摂津守が氏真にまとめて報告していることを考えると、これが牛久保城全量と見てよいと思う。
この記載によると塩硝と鉛が合計100斤だろう。他例を見ても玉薬と鉛は同数で送っているから、それぞれ50斤ずつになる。ここから鉄炮配備数を割り出せるかを試してみる。
天正11年の吉村又吉郎への支援
天正11年4月18日、織田信雄は吉村又吉郎へ鉄炮の薬20斤と弾丸1000を送っている(愛知県史12_110)。玉薬と鉛は基本的に同数だから、玉薬20斤は1000回の射撃分と見てよいだろう。
とすると、玉薬と鉛はそれぞれ1斤で50回射撃分となる。
つまり、牛久保城へ搬入された50斤の塩硝と鉛は2500回分の弾薬となる。
天正16年の権現山城
ここから鉄炮の数を割り出すため、後北条氏の権現山城配備数を参照する(戦北3380)。城内の小鉄炮は50で玉薬が1200、弾丸が2250(これ以外にも鉛・塩硝を未生成で保持)。
- 鉄炮1に対して玉薬24、弾丸45。
このほかに、増援で到着したらしい新左衛門尉が持ち込んだ鉄炮が25、玉薬1500(+塩硝1箱)に弾丸3200。
- 鉄炮1に対して玉薬60、弾丸128。
玉薬が時間で劣化するから作り置きを避けた可能性が高そうなこと、最前線の権現山が既に戦闘を行なって兵器・弾薬を消費していた可能性があることを考えると、援軍として持ち込まれた新左衛門尉の鉄炮1:弾薬128が標準的な割合として妥当だろう。
とすれば牛久保城へ配備想定された鉄炮は、2500÷128で約20の鉄炮だと仮定できる。
権現山城で増援に入った新左衛門尉が一人で鉄炮25を持ち込んだことを考えると、かなりの乖離がある。
岩付城の例
もう一つ城の鉄炮配備数を見てみよう。
天正5年に定められた「諸奉行定書」(戦北1923)によると、岩付に配備された兵員1580のうち、鉄炮数は50で約3%。
- 小旗:120
- 鑓:600
- 鉄炮:50
- 弓:40
- 歩者:250
- 馬上:500
- 歩走:20
まとめ
情報を取りまとめてみると以下になる。
- 1561(永禄4)年:牛久保城:20
- 1577(天正5)年:岩付城:50
- 1588(天正16)年:権現山城:75
ごく限られたデータだが、時代を追うごとに鉄炮配備数は上がっている。ここから考えると永禄4年当時の小田原城で500配備されていたのは信憑性がなく、せいぜいが50程度だろうと思われる。