2022/03/23(水)新出の北条氏照・氏規連署書状
Twitterのフォロワーさんからご教示いただき、『川崎市文化財調査集録55』にて北条氏照・氏規の連署状が新しく発見されたことを知った。
この文書についてあれこれ考察してみようと思う。
新出文書
北条氏照・氏規、韮山の某に駿東の戦況を報告
原文
不寄存候処、此度就致出陣、御使特御折紙、披閲本望之至存候、昨日者、興国寺へ罷移、万端申付候、陣屋等無之間、打返黄瀬川端陣取申候、明日者、吉原辺迄陣寄、一両日之内、富士筋地形見聞、彼口之様子可申達覚語候、委曲大草方口上頼入候、恐々謹言、
七月十二日/氏照(花押)・氏規(花押)/宛所欠(上書:韮山江御報 北条源三・■■■)川崎市文化財調査集録55「北条氏照・氏規連署書状」(王禅寺文書)1569(永禄12)年比定
解釈
思いがけず、今回の出陣について御使者、特にお手紙をいただき拝見しました。本望の至りに思います。昨日は興国寺へ移動し、万端申し付けました。陣屋がなかったので引き返し、黄瀬川岸に陣取りました。明日は、吉原辺りに陣を寄せ一両日のうちには富士方面の地形を調査して、あの口の様子を報告する覚悟です。詳しくは大草方へ口上を頼みました。
疑問点
文意から氏規が連署する必然性はない
「富士筋地形見聞」とあるが、氏規は駿府育ちだし吉原までの進軍は前年12月に行なっている。武蔵・下総での合戦しか経験がない氏照単独なら判るが、むしろ不審に見える。元々は氏照単署だった書状に氏規が巻き込まれた感じがする。
戦国期の連署の実態については先行記事連署の順番は序列を表すかをご参照のこと。
奥書きとしての宛所がなく、上書き宛所が小路名
書状の奥に宛所を書かずに上書きで宛名を書く例は少ない。更に、写し文書だと宛所が削除された可能性があるので、これを除外すると179例ある。
上記例をざっと見ると、女性や僧侶に宛てたものやごく近い人間に内々の情報として送ったもの、急いで報じようとしたものが多い。敬称についても丁寧なものもあり、それなりに格上相手にも送られたようだ。
この中で宛所が小路名(地名)になっているものは1例しかない(戦国遺文後北条氏編3687)。これは伊豆山中城に籠城中の松田康長が箱根権現別当に宛てたもので、上書きに「箱根へ尊報御同宿中 自山中松兵太」とある。とはいえ、他の寺社宛てではことごとく寺社名を宛所にしているのでこれは例外中の例外と見てよいだろう。
「韮山」に敬称としてつけられた「江御報」は他に4例があるが、何れも奥書の宛所に用いている(北条氏照2・千本芳隆・真壁氏幹各1)。氏照文書として違和感がないものの、なぜ奥書の宛所が書かれなかったのかは違和感がある。
北条氏政弟の連署は珍しく、他には天正10年の氏照・氏邦連署が2通あるのみ
北条氏政の弟達は連署を出すことがほとんどない。氏照・氏邦が連署を出したのは甲信遠征時であり、虎朱印状の奉者としても両人が名を連ねる例外案件。どういった状況で出されたものかを慎重に見極める必要がある。
文書を取り巻く状況
永禄11年12月12日、駿河国に侵攻した甲斐国の武田晴信に対して、北条氏政は素早く今川氏真支援に動き、駿東方面の各拠点を押さえた(薩埵・蒲原・富士大宮・興国寺)。氏真は駿府を維持できずに遠江国掛川へ逃れるも、晴信と示し合わせて三河国から遠江国に侵入してきた徳川家康の包囲を受ける。そこで氏政は伊豆国から海路援軍を送り、掛川の氏真に合流させた。
一方で氏政の父氏康は晴信との交戦に伴って、これまで対立してきた越後国の上杉輝虎との同盟を模索、氏政の弟である氏邦から由良成繁を介して交渉を行なう。同時期に、下総国関宿で上杉方と交戦中だった氏照も、北条高広を介して輝虎に独自接触し同盟交渉を始めた。
翌年閏5月になって事態は急転回し、掛川で氏真を囲んでいた家康が氏政と和睦。氏真退去後の掛川を接収することで合意し、氏真らは後北条被官達とともに駿河へ帰還する。この外交転換で晴信は東の氏政、西の家康から挟撃される形となり駿河国から撤退することとなった。
その後、なおも甲斐国から南下する晴信に備えるため、氏政は薩埵・蒲原・富士大宮・興国寺のほかに、御厨で矢倉沢往還を押さえる深沢城を構築。対する晴信は、上野国や秩父からの侵入を小刻みに行なって後北条方の兵力を分散させつつ、富士大宮の攻略作戦を進めていく。
こうした中で5月下旬から富士大宮は武田方に包囲されていた。閏5月を挟んで6月28日・29日に氏真が富士大宮籠城衆の奮戦を称えているものの、同時進行で籠城衆は武田方と開城交渉を行なっており7月3日には城主らが退去して開城したようだ。
氏照の参戦状況
この時の後北条方は、蒲原の北条氏信、興国寺の垪和氏続、深沢の北条綱成は継続して在城したものの、薩埵近辺で奮戦していた北条氏邦は本領の武蔵国鉢形に戻っている。これは、武蔵国への侵攻を武田方が試みている状況を受けてのもの。代わって、越相同盟交渉の進展で武装解除された下総国戦線から北条氏照が引き抜かれた(6月9日に相模国小田原で後北条一門が集まって輝虎への起請文を作成していることから、氏照はそのまま留まっていたと見られる)。
ただし氏照の動きは緩慢だった。6月28日に氏照は野田景範に西方戦線への移動を伝えているが、7月4日になっても小田原にいて「富士大宮への支援で氏政が出馬して私の部隊も同行するようだ」と書きつつ、栗橋留守部隊の移動指示をしている。こうした氏照の不安を解消するべく、これに先立つ7月1日に氏政・綱成が相次いで景範に留守居を指示している。氏政は何としてでも氏照を駿河戦線に投入したかったのだろう。
氏政の思惑を横目に、氏照は7月5日になっても武蔵国御獄の番衆の労をねぎらったりして視線が東に引き寄せられたまま。この2日前に富士大宮は開城しているが、富士信忠は後北条方に留まり、恐らく吉原近辺で失地回復を目指していた頃だ(信忠は氏真から暇状をもらう元亀2年10月26日までは後北条方に留まっている。また、7月4日に蒲原城番の氏信が吉原の各拠点に対して督戦したり禁制を出したりしている)。
この時点で富士大宮を奪還できれば駿東戦線は維持継続されていた筈で、ここが重要な転換点であることは後北条方も認識していた。だからこその氏照投入だった訳だが、7月12日段階で氏照は黄瀬川に引き返していた。17日に氏照は輝虎に書状を発しているが、内容は取次担当者の確認のみで駿河戦線には言及していない。既に戦線から離れていたのだろう。
永禄11年12月の際は、12日に晴信が駿河国に侵入すると翌日には氏政が三島へ着陣、15日に氏規が吉原で禁制を発している。これと比べると、吉原にさえ進まなかった氏照は進軍に消極的だったといえる。
宛所は何者か
使者として「大草」を使えて、氏照に「氏規連署が必要」と思わせる人物。そしてその人物は韮山に滞在していたが、それを氏照が想定できていなかった。手がかりとして確実なのはこの程度だろう。
そこで候補者を挙げつつ、それぞれ条件に合致するかを記してみる。
氏真
合致
- 被官に大草次郎左衛門尉が存在
- 上書に「北条源三」とある点は他家宛てを想起させる
- 氏照は面識のある氏規を連署に加える配慮を見せた
- 不合致
- 他家太守を敬ったにしては奥書の宛所がない
- 他国太守に宛所を欠いた書状は見られない
- 韮山は暫定滞留なので「御陣所」をつける可能性が高いがそれがない
- この時点では氏真は沼津にいた(別記事参照今川氏真帰国後の居所)
宗哲
合致
- 大草康盛(左近・丹後守)がのちに奉者になる
- 息子の氏信が蒲原に在城しており連携しやすい
- 身内なので奥書の宛所を略した可能性がある
- 北条氏康が宗哲に宛てた書状は宛所欠で上書きに「幻庵参 太清軒」(戦国遺文後北条氏編1535)とあり形式が近い
- 不合致
- この当時の大草康盛は虎朱印状奉者で繋がりが弱い
- 宗哲宛ての文書5通で小路名のものはなく、全て「幻庵」を含む。地名を含んだ場合も「幻庵久のとのまいる」(戦国遺文今川氏編2367)となる
- 上書の「北条源三」が他家宛てを想起させる
- 氏規を連署にする理由が想定できない
山木大方
合致
- 韮山に知行を持っている
- 身内の女性宛てなので奥書の宛所を略した可能性がある
- 不合致
- 使者「大草」との繋がりが不明
- 女性宛ての文書でない
- 香山寺住持など他者を介したとしても当該文書内に「披露」の文言がない
氏政
合致
- 7月4日の氏照書状では氏政が三島に出馬するとあり、伊豆に在国した可能性がある
- 虎朱印奉者として大草康盛を帯同できた
- 兄の叱責を恐れ、作戦進行の遅れを弁解するため氏規の連署を入れた
不合致
- 相模円能口合戦の褒賞、知行宛行、課役徴発といった文書発行を見ると小田原在城の可能性が高いように見える
- 氏照が「思いがけず連絡をもらった」と驚く要素がない
- 上書の「北条源三」が他家宛てを想起させる
- 氏政は駿東の戦況と地形に詳しく氏規を連署にしても言い訳にならない
- 備考
- 弟から氏政への書札礼の例がないため比較不能
- 結びが「恐惶謹言」でなくても問題なし
- 後北条一門は他家太守に宛てて「恐々謹言」で文書を発している
- 吉良氏朝が氏政に宛てた書状では結びが「恐々謹言」で宛所が「御隠居」(戦国遺文後北条氏編3256)
氏康
合致
- 大草康盛は永禄9年6月10日に氏康朱印状奉者になっており帯同に問題はない
- 7月2日、伊豆国桑原郷に箱根竹の供出を命じている(伊豆への朱印状発給は異例)
- 開戦初頭から小田原にいたため最新の戦況・地形に疎く氏規連署が言い訳になる
- 氏康の韮山滞在を氏照が把握できておらず驚いた可能性が高い
- 氏康は7月3日~26日に文書が見られず外出していた可能性がある
不合致
- 上書の「北条源三」が他家宛てを想起させる
- 備考
- 息子から氏康への書札礼の例がないため比較不能
- 結びが「恐惶謹言」でなくても問題なし
- 後北条一門は他家太守に宛てて「恐々謹言」で文書を発している
- 吉良氏朝が隠居後の氏政に宛てた書状では結びが「恐々謹言」で宛所が「御隠居」(戦国遺文後北条氏編3256)
まとめ
北条氏照・氏規の連署状は、駿河国富士大宮城の救援に失敗した過程を表している。富士信忠が本拠を失陥することは、駿河を巡る北条氏政と武田晴信との紛争で画期となる出来事であり、東の戦線から氏照を入れることで乗り切ろうと氏政は考えていた。しかし氏照の動きは緩慢で手前の吉原に至ることなく黄瀬川に引き返している。
富士大宮城に関して氏照は他の書状で「悪地誠ニ雖屋敷同前之地ニ候」(戦国遺文後北条氏編1277)と酷評しており、状況打開の意気込みは感じられない。ただ、この連署状では強気な発言はなく「興国寺に陣所がなく引き返した」と弁明のような趣旨が感じられるし、氏規を連署に引き込んでいる点から「自分だけのせいではない」という主張も想定できる。
この点から見て、氏照が強く出られず氏規が言い訳に使える相手が宛所、すなわち氏康である確率が高いだろうと考えている。
もう一歩踏み込んだ考察
ここから先は「宛所が氏康」という前提で考えてみる。仮定を重ねているので参考用の覚書となる。
この連署状を送ったあとの氏照は、7月17日付で輝虎に書状を送っている。
北条氏照、上杉輝虎に取次役の担当者を確認する
原文
態預芳札候、御懇切之段、誠以本望至極存候、仍越相御一味御取次之事、弟候氏邦并氏照可走廻段、去春氏康被申述候之哉、於拙者存其旨候、然ニ此度就両使御越、氏邦一人走廻儀、御不審之由候、由良手筋故、如此候キ、於氏照も内外共、従最前之御首尾、聊不存無沙汰馳走申候、定而広泰寺・進藤方可被申達候、委細山吉方頼入之由、可得御意候、恐々謹言、
七月十七日/北条源三氏照(花押)/越府江御報戦国遺文後北条氏編1287「北条氏照書状」(上杉文書)1569(永禄12)年比定
解釈
わざわざお手紙をいただき、ご懇切なこと本当に本望の限りに存じます。越相同盟の取次役のこと、弟の氏邦と氏照が担当すると、去る春に氏康が申しましたでしょうか。拙者においてはそのように考えていました。しかるに今回、両方の使者が伺うことについて、氏邦一人が担当しているのがご不審とのこと。由良成繁経由なのでこのようになりました。氏照においても内外ともに最初から最後まで、少しの無沙汰もせずに奔走します。恐らく広泰寺・進藤方より申されるでしょう。詳しくは山吉方に頼みました。御意を得られますように。
この「取次役が氏邦・氏照で不審」と輝虎から言われた案件は、3月3日に氏康が回答済み。その時氏康は「氏邦と氏照の2人を使っても、どちらか一人でも構いません。もし氏照を継続させるとしても由良成繁経由に統合します」と輝虎に伝えている。その時の書状は下記になる。
北条氏康、上杉輝虎被官の河田伯耆守・上野中務少輔に取次担当者について確認する
原文
一、越相取扱之儀、旧冬以来源三・新太郎如何様ニも与存詰、様ゝ致其稼候、就中新太郎ニ者愚老申付、由信取扱ニ付而、無相違相調、源三事も、涯分走廻処、難指置間、以天用院進誓句砌、源三・新太郎扱一ニ致、以両判添状申付候、然ニ自陣中三日令遅ゝ、二月十三日来着候、天用院をハ十日ニ当地を相立候、然間、其砌両判添状をしおかれ、愚老預置、此度進候。一、向後之義者、両人共可走廻歟、又不及其儀、一人可走廻歟、菟も角も輝虎可為御作意次第候、愚老心底者、両人共ニ走廻候者、弥可満足候、菟角可然様、各頼入候。一、源三事も由信方頼入、以同筋可申入候、猶爰元不可有紛候、恐ゝ謹言、
三月三日/氏康/河田伯耆守殿・上野中務少輔殿小田原市史資料編小田原北条0791「北条氏康書状写」(歴代古案三)1569(永禄12)年比定
解釈
一、上杉と後北条との取次役のこと。旧冬以来氏照・氏邦がどのようにも対応しようと思い、あれこれ励んでいました。とりわけ氏邦には愚老が指示して由良成繁の取り扱いとして相違なく準備させました。氏照も随分と活躍していましたが配置が難しかったので、天用院が起請文を進呈した際に、氏照・氏邦の扱いを統合すると、双方が花押を据えた添状を用意させました。しかるに陣中より3日も遅れて、2月13日に到着。天用院は10日にここを発っていました。その添状を愚老が預かっておりましたので、この度お送りします。一、今後のことは、両人ともに起用しましょうか。またはそれには及ばないなら一人だけにしましょうか。とにもかくにも輝虎のお考え次第です。愚老の心底では両人ともに使ってもらえれば、満足です。ともかくしかるべきように皆さんお願いします。一、氏照となっても由良成繁を頼みますので、経路は同じになるでしょう。更にこちらから混乱させることはないでしょう。
このように氏康は取次役をどうするかは輝虎に一任しているのだが、その案件を半年を経て氏照がわざわざ蒸し返したのがなぜか、今まで判らずにいた。恐らくは輝虎が明確な返事をしなかったのだろうかと。
しかし、富士大宮失陥への対応失敗を受けて氏康の不興をかった氏照が越後への取次役を確認することで、外交上で重要な地位を占めているのだと、輝虎を介して氏康に伝えたかったと考えれば腑に落ちる。
そして連署状で「北条源三」と上書きに書いたのは、氏照が勝手に北条に改姓したことに繋がるように見える。元々氏照は「大石源三」と自称しているが、晴信の駿河乱入で独自に輝虎と同盟交渉を始めた際に「平氏照」「北条源三氏照」と自署していた(大石氏は源氏で、それは氏照仮名の「源三」にも表れている)。
ところが、この当時他家の本文内では一貫して「大石源三」と呼ばれている(上杉家中ですら)。氏康にしても氏照・氏邦を同列に扱っており、藤田を名乗り続ける氏邦と、北条に復姓したはずの氏照を同列に扱っていた。また、氏康・氏政と氏照で連絡が滞っていたことは下総国山王砦破却を巡る経緯で確認できる。上記から、氏照改姓は氏康・氏政の承認を経ず、関東諸家・武田家には周知されなかったのだろうと考えている。
そしてこの独自の改姓は、6月9日に後北条一門が小田原に勢揃いして血判起請文を作成した際に氏康・氏政に知られてしまったのだろう。この時改姓を既成事実として認めた氏政とは違い、氏康は認めなかったのだろうと思う。というのは、それまでも氏政・氏邦と比して氏照言及数が少なかった氏康文書から、このあと一切氏照が登場しなくなるのである。
こうした確執を念頭に置くと、韮山から黄瀬川という短距離、かつ身内への書状にわざわざ大草康盛という懐刀を使者として送り込んだ氏康の厳しい視線と、それに身構えた返書をした氏照の鬱屈が読み取れる。
氏康・氏政の受給文書はほぼ残されていないのに、これだけが伝来したというのも、韮山でこの書状を読んだ氏康が捨てるように放置し、それを拾った者がいたのを示すのかもしれない(本拠に持ち帰って文箱に入れなかったイレギュラーさから例外的に残されたという想定)。
2021/05/29(土)天正元年の韮山城攻防戦
北条氏規と韮山合戦
北条氏規の書状を新たに見つけたので解釈・考察を試みる。
天正元年8月、駿河侵攻中の武田晴信に韮山城が攻撃されていた時のもので、岩田弥三という人物に韮山籠城の状況を伝えつつ、銃器の増援を要請している。
原文
急度注進申上候、今日者敵未明ニ当城へ取懸申候、かつ田も不致候、町場・和田島両口へ取寄申候キ、町場を致払候、我々自身懸合申江川はし前より押返申候、■■■山角物主ニ御座候、大藤涯分走廻候、然者和田島ハ伊奈四郎・小山田・武田左馬助此衆物主、両度対和田島致可払由候キ、涯分及坊戦押返、今日者為焼不申候、定而明日者惣手を以、可致候由存候、見合指引可申付候、乍去御心安可被思召候、随者今、午尾、遠山新四郎かせ者、敵へ走入申候、其後信玄はたもとしゆ十八町へ鑓を取候而、段々ニ被帰候間、十八町へてつほうを重堅固申付候、只今申被引退候、惣手之人数入申候、先日も申上候てつほう不足ニ御座候、はなしてハ御座候間、筒ハかり借可被下候、若十八町之■やく何共迷惑奉存候、有様ニ申上候旨、可預御披露候、恐惶謹言、
八月十日/助五郎氏規/岩田弥三殿
鉢形領内に遺された戦国史料集第三集p104「北条氏規書状写」(岩田家系録文書)
解釈
取り急ぎ報告します。今日は敵が未明に当城へ攻撃してきました。苅田もせず、町場・和田島の両口へ攻め寄せました。町場からの『払い』をするため、我々自身が応戦し、江川橋の前から押し返しました。山角が物主で、大藤がとても活躍しました。
そして和田島へは伊奈勝頼・小山田信茂・武田信豊が物主となり、二度にわたって和田島に対して『払い』を試みていたようですが、目一杯防戦して押し返し、今日は焼かせませんでした。
きっと明日は総攻撃をかけてくるだろうと思います。とはいえ、状況に応じた駆け引きを指示しますから、ご安心下さい。そしてこの午の下刻、遠山康英のかせ者が敵方へ逃げ込みました。その後、武田晴信旗本衆が鑓を取り、十八町へ徐々に帰っていきましたから、十八町へ鉄炮を追加配備するよう指示しました。
現状では敵が退いていますが、全ての兵力を入れてくれば、先日も申しましたように鉄炮が不足します。射撃手はいますので、銃身だけをお貸し下さい。十八町への供出といわれてもお困りでしょうが、ありのままを申し上げます。宜しくご披露下さい。
考察
各地名
伊豆の国市が公開している『韮山城「百年の計」』内の「第2章韮山城跡の調査・研究1韮山城跡の研究史(p21~)、2韮山城跡の発掘調査概要(p31~p50)」の6ページ目に詳しい。
稀出語
「致払」が固有語のように使われている。他例がないが、一定領域に対して敵軍を排除する意味合いだと思われる。
「走入」の解釈
引用元の戦国史料集では「突撃」と解釈しているが、他例の「走入」は戦場だと「敵に投降する」ことを指す。後北条は兵数が劣っていたため、「かせ者」(武家の付き人)が逃げ込んだのだろう。武田方がそれを受けて兵を引いたのは、かせ者から情報を得るためだと考えられる。
誰に伝えたものか
結句の「恐惶謹言」が厚礼であること、鉄炮供出を岩田弥三が「披露=具申」するように求めていることから、氏規は弥三を介して上位者に呼びかけたものと思われる。8月13日付の「大石芳綱書状」から、氏康・氏政は小田原、氏邦は鉢形にいることが確実なので、氏照かも知れない。8月21日に泉郷へ禁制を出している宗哲が最も可能性が高そう。同じ韮山城に入っている氏忠にこのような戦況を報告するとも思えないので、宗哲が三島に入っていたか。山角康定書状から、韮山城の軍勢が寄せ集めであることが判る。そう考えると、宗哲の下につけられた岩田弥三は氏邦から貸し出された人材だったかも知れない。
関連文書
1)北条氏政から北条高広に宛てた書状
原文
九日之註進状、今十二未刻、到来、越府へ憑入脚力度ゝ被差越由、祝着候、然而敵者、去年之陣庭喜瀬川ニ陣取、毎日向韮山・興国相動候、韮山者、于今外宿も堅固ニ相拘候、於要害者、何も相違有間敷候、人衆無調、于今不打向、無念千万候、縦此上敵退散申候共、早ゝ輝虎有御越山、当方之備一途不預御意見者、更御入魂之意趣不可有之、外聞与云、実儀与云、於只今之御手成者、笑止千万候、能ゝ貴辺有御塩味、御馳走尤候、恐々謹言、
八月十二日/氏政(花押)/毛利丹後守殿
小田原市史資料編小田原北条0985「北条氏政書状」(尊経閣所蔵尊経閣文庫古文書纂三)
解釈
9日の報告書が今日12日未刻に到来しました。上杉輝虎への依頼で度々飛脚を出されているそうで、喜ばしいことです。
さて敵は、去年黄瀬川に陣取って、毎日韮山・興国寺へ動いています。韮山は今も外宿を堅固に維持し、要害はどこも相違ありません。兵数が準備できずに今は出撃できず無念千万です。
この上で敵がたとえ退散したとしても、輝虎が早々にご越山し、当方の備えを一途にご意見を預けないなら、さらに昵懇の意趣があってはなりません。外聞といい実儀といい、今のご所作は悔やまれてなりません。よくよくあなたもお考えになり、奔走するのがよいでしょう。
2)上記氏政書状への山角定勝添え状
原文
去九日之御状、十二参着、七日之御状、同前ニ為申聞候、御精ニ被入、切ゝ預御飛脚ニ候、祝着之由被申候、然者信玄至于今日、豆州にら山口日ゝ相動候、此時者、可被打置儀ニ無之候間、為可被遂一戦、人数悉被相集候、物主衆ハ何も懸被付候へ共、人数無調ニ候間、一両日相延、来十八九之間、必乗向可被致一戦候、勝利無疑候、敵ハ八千計ニ候、此方ニも、城ゝニ被籠置候へ共、自当地打立人数七八千可有之候、殊ニ地形可然所ニ候間、信玄可打取儀眼前ニ存候、にら山籠衆氏政舎弟助五郎并ニ六郎、其外清水・大藤・山中・蔵地・大屋三手ニ及楯籠候間、城内之儀者、可御心易候、去九日、町庭口と申所、にら山之城より、一里計外宿ニ候所ニ、山形三郎兵衛・小山田・伊奈四郎為物主、五六手寄来候所ニ、自城内人数を出相戦、敵十余人城内へ討捕候、彼地形一段切所ニ候間、敵手負無際限由申候、委氏照可申達候間、無其儀候、然ニ越御出馬御遅ゝ、不及是非候、急候間、早ゝ及御報候、恐ゝ謹言、
八月十二日/山四康定(花押)/毛丹御報
戦国遺文後北条氏編1435「山角康定書状」(尊経閣文庫所蔵文書)
解釈
去る9日の書状が12日に到着し、7日の書状も同じく伺いました。熱心にも、事あるごとに飛脚を送っていただき、祝着であるとのことです。
そして武田晴信は、今日になって伊豆国韮山に向かって毎日作戦しています。こうなると放置できないので、一戦を遂げるために軍勢を集められています。物主衆が全て駆けつけていますが、兵数が揃わずに一両日延期となり、18か19日に必ず乗り向かって一戦するでしょう。勝利は疑いありません。
敵は8千人ばかり。こちらでも城々に籠城させ、当地より出撃した兵数は7~8千になるでしょう。殊に地形が有利なので、晴信を討ち取るのは眼前だと思います。韮山に籠城しているのは、氏政舎弟の氏規と氏忠、そのほか清水・大藤・山中・倉地・大屋が三手に分かれて立て籠もっていますから、城内についてはご安心下さい。
9日に、町庭口という韮山城より1里ばかりの外宿に、山県昌景・小山田信茂・伊奈勝頼を物主として、5~6手が攻め寄せたところ、城内から兵を出して戦い、敵を十余人城内へ誘い込んで討ち取りました。その地形は一段と切所だったので、敵の負傷者は際限がなかったそうです。
詳しくは氏照がご報告しますので、省略します。しかるに、越後衆の御出馬が遅れられているのは、どうにもなりません。急いでいますから、早々にお知らせ下さい。
3)大石芳綱書状写
原文
今月十日、小田原へ罷着刻、御状共可差出処ニ、従中途如申上候、遠左ハ親子四人韮山ニ在城候、新太郎殿ハ鉢形ニ御座候間、別之御奏者にてハ、御状御条目渡申間敷由申し候て、新太郎殿当地へ御越を十二日迄相待申候、氏邦・山形四郎左衛門尉・岩本太郎左衛門尉以三人ヲ、御状御請取候て、翌日被成御返事候、互ニ半途まて御一騎にて御出、以家老之衆ヲ、御同陣日限被相定歟、又半途へ御出如何ニ候者、新太郎殿ニ松田成共壱人も弐人も被相添、利根川端迄御出候て、御中談候へと様ゝ申候へ共、豆州ニ信玄張陣無手透間、中談なとゝて送数日候者、其内ニ豆州黒土ニ成、無所詮候間、成間敷由被仰仏、払、候、去又有、御越山、厩橋へ被納 御馬間、御兄弟衆壱人倉内へ御越候へ由、是も様ゝ申候、若なかく証人とも、又ぎ、擬、見申やうニ思召候者、輝虎十廿之ゆひよりも血を出し候て、三郎殿へ為見可申由、山孫申候と、懇ニ申候へ共、是も一ゑんニ無御納得候、余無了簡候間、去ハ左衛門尉大夫方之子ヲ、両人ニ壱人、倉内へ御越候歟、松田子成共御越候へと申候へ共、是も無納得候、 御越山ニ候者、家老之者共、子兄弟弐人も三人も御陣下へ進置、又そなたよりも、御家老衆之子壱人も弐人も申請、滝山歟鉢形ニ可差置由、公事むきニ被仰候、御本城様ハ御煩能分か、于今御子達をもしかゝゝと見知無御申候由、批判申候、くい物も、めしとかゆを一度ニもち参候へハ、くいたき物ニゆひはかり御さし候由申候、一向ニ御ぜつないかない申さす候間、何事も御大途事なと、無御存知候由申候、少も御本生候者、今度之御事ハ一途可有御意見候歟、一向無体御座候間、無是非由、各ゝ批判申候、殊ニ遠左ハ不被踞候、笑止ニ存候、某事ハ、爰元ニ滞留、一向無用之儀ニ候へ共、須田ヲ先帰し申、某事ハ御一左右次第、小田原ニ踞候へ由、 御諚候間、滞留申候、別ニ無御用候者、可罷帰由、自氏政も被仰候へ共、重而御一左右間ハ、可奉待候、爰元之様、須田被召出、能ゝ御尋尤ニ奉存候、無正体為体ニ御座候、信玄ハ伊豆之きせ川と申所ニ被人取候、日ゝ韮山ををしつめ、作をはき被申よし候、已前箱根をしやふり、男女出家まてきりすて申候間、弥ゝ爰元御折角之為体ニ候、某事可罷帰由、 御諚ニ候者、兄ニ候小二郎ニ被仰付候而、留守ニ置申候者なり共、早ゝ御越可被下候、去又篠窪儀をハ、新太郎殿へ直ニ申分候、是ハ一向あいしらい無之候、自遠左之切紙二通、為御披見之差越申候、於子細者、須田可申分候、恐々謹言、追啓、重而御用候者、須弥ヲ可有御越候哉、返ゝ某事ハ爰元ニ致滞留、所詮無御座候間、罷帰候様御申成、畢竟御前ニ候、御本城之御様よくゝゝ無体と可思召候、今度豆州へ信玄被動候事、無御存知之由批判申候、以上、
八月十三日/大石惣介芳綱(花押)/山孫参人々御中
神奈川県史資料編3下7990「大石芳綱書状」(上杉文書)
解釈
今月10日、小田原へ到着した際に御書状などをお出ししたので、途中から申し上げます。
遠山康光は親子4人で韮山に在城しています。氏邦殿は鉢形におられ、別の取り次ぎ役では御状の条目を渡せないと言われたので、氏邦殿がこちらに来るのを12日まで待ちました。氏邦・山角康定・岩本定次の3人が御書状を受け取り翌日お返事なさいました。
互いに途中までは1騎でお出でになり、家老衆を使って同陣の日限を定めるか、または、氏邦殿に松田などの1人か2人を添えて、利根川端までお出でになって会談されては、と申しました。
しかし、伊豆国に信玄が陣を張っていて手が足りないので、会談などといって数日を送るなら、その間に伊豆国が焦土と化して困るので、行なえないと却下されました。
そしてまた、御越山により厩橋にご出馬する前提で、ご兄弟衆1人を倉内へ送らせる件ですが、これも色々と難航しています。もし長く証人となるなら、知行を与えようとのお考えもあり、輝虎が10~20も指から血を出して血判し三郎殿へ見せようと山吉豊守が申していると、親しく申したのですが、これも全員ご納得ありませんでした。
余りに理解がなかったので、ならば北条綱成の子を、どちらか1人倉内へ送ればどうか、または松田の子でもいいと申しましたが、これも納得ありませんでした。
ご越山が実際に行なわれてから、家老たちの子・兄弟を2人でも3人でも御陣下に置き、またそちら(越後)よりも、ご家老衆の子を1人でも2人でも滝山か鉢形に置けばよいと、建前論で仰せられました。
ご本城様はご病気が進んだか、今は子供たちをはっきりと見分けられなくなったとの風聞があります。食べ物も、飯と粥を一度に持って行けば、食べたい物に指だけをお指しになるとのこと。一向に舌が回らぬようなので、大途のことなどは何もご存知ないとのこと。少しでも快復なさっていれば、この度の事柄は一気にご意見あるのでしょうか。一向に定まりませんので、是非もないこととそれぞれが噂しています。特に遠山左衛門尉は定まりません。気の毒なことです。
私はここに滞留しても一向に用事もないのですが、須田を先に返し、私はご連絡あるまで小田原にいるようにとご指示がありましたから、滞留しています。別段用事がないのであれば帰ってよいと氏政からも言われていますが、重ねてご連絡があるまでは、待つつもりです。こちらの様子は、須田を呼び出して色々とお尋ねになるのがよいでしょうが、正体のない体たらくと言えます。
信玄は伊豆の黄瀬川というところに陣取っています。毎日韮山を攻撃して、作物を剥いでいると申されました。以前は箱根を押し破り、男女のほか出家まで切り捨てたので、いよいよこちらは手詰まりです。
私に帰るようにとご指示されるなら、兄である小二郎にご指示下さい。留守に置いた者ではありますが、早々にお寄越し下されますように。
また、篠窪治部のことは、氏邦殿へ直接申していますが、一向に応答がありません。遠山康光から振り出された手形2通を、お見せするためお送りします。詳細については、須田が申すでしょう。
追伸:追加の御用は、須田弥兵衛尉を派遣されるのでしょうか。繰り返しますが、私はこちらに滞留して用事もありませんので、帰還するようご指示を。最終的には御前のお考えに従います。御本城様の様子は全く体をなしていないとお考え下さい。この度伊豆国へ信玄が出撃したこともご存じないのだと噂になっています。
4)北条宗哲禁制(泉郷=現在の清水町)
原文
禁制、泉郷右、当郷江罷越、作毛刈取事、堅令停止了、若押而於刈取者、即搦捕可申上者也、仍如件、
午八月廿一日/日付に(朱印「静意」)/宛所欠
戦国遺文後北条氏編1440「北条宗哲禁制」(泉郷文書)
解釈
禁制、泉郷右の郷にやってきて、農作物を刈り取ることは堅く停止させる。もし強引に刈り取る者がいれば、すぐに捕縛して申し出るように。
2018/04/07(土)北条氏規と朝比奈泰寄
1568(永禄11)年の駿府陥落に際しての行動が、岡部和泉守と似ているのが朝比奈泰寄(甚内・右兵衛尉)。2人は北条氏規に同行して駿河を西進したのだろうと思われる。
親族が氏真と共に懸川城にいながら、北条氏規の奉者となっている。
岡部和泉守:父の大和守が懸川籠城、兄弟の次郎兵衛尉は武田方へ。
朝比奈泰寄:兄弟の泰勝が懸川籠城、兄弟の四宮泰雄は戦死しその妻子は甲府へ。
ところがその後の動向は大きく異なっている。
岡部和泉守が北条氏政・氏康に直接指示されて最前線を転戦。その後は正式な知行を得られず断絶している。
一方で朝比奈泰寄はそのまま氏規被官となる。3月26日には四宮泰雄の妻子引き取りについて今川氏真から指示を受けているが、翌月には氏規朱印を伊豆の多賀郷に発している。多賀は熱海南方なので前線ではない。
その後も引き続き氏規被官として活躍して、氏規次男辰千代の陣代も務めている。
1568(永禄11)年
12月15日
龍雲院は沼津地域。岡部和泉守が同じく氏規奉者を務めた禁制(12月18日付)は吉原地域が対象。
制札
右、今度加勢衆濫妨狼藉不可致之、当方為御法度間、於背此旨輩者、急度注進可申候、其上可被加下知者也、仍如件、
辰十二月十五日/(朱印「真実」)朝比奈甚内/多肥龍雲院
- 戦国遺文後北条氏編1122「北条氏規制札」(龍雲院文書)
1569(永禄12)年
3月3日
四宮泰雄が戦死した後を受けて、敵地にいる子供から1人を引き取って相続させるように、今川氏真が朝比奈泰勝に指示しているが、その際に子供が幼少の間は泰勝、もしくは泰寄が名代を務めるようにと書き添えている。
四宮惣右衛門尉宛行知行分并同心給屋敷等之事
右、彼実子雖有兄弟之、未敵地仁取置之間、令馳走両人、一人引取一跡可申付、雖然幼少之間者、泰勝可相計、但於可致甚内相越名代之儀之者、可任其儀、兼又同心之儀及異儀者、如先判可加下知、被官以下者泰勝可為計者也、仍如件、
永禄十二年三月三日/氏真(花押)/朝比奈弥太郎殿
- 戦国遺文今川氏編2299「今川氏真判物」(国立国会図書館所蔵武家文書所収)
3月26日
於大平之郷出置福島伊賀守代官給百貫文事。右、如伊賀守時不可有相違、惣右衛門尉今度遂討死、致忠節為跡職之間令馳走、自甲府妻子於引取者、彼郷ニ而堪忍之儀可申付、并陣夫参人於徳倉・日守郷可召遣之者也、仍如件、
三月廿六日/文頭に(今川氏真花押)/朝比奈甚内殿
- 戦国遺文今川氏編2324「今川氏真判物」(鎌田武勇氏所蔵文書)
4月24日
多賀郷代官・百姓ニ其方借シ置候兵粮、何も難渋不済之由申上候、厳密催促可請取候、於此上も不済候ハゝ、急度可遂披露候、得上意其科可申懸候、人之物借済間敷、御国法無之候、如証文鑓責候て可請取者也、仍如件、
己巳卯月廿四日/(朱印「真実」)朝比奈兵衛尉奉之/岡本善左衛門尉殿
- 戦国遺文後北条氏編1201「北条氏規朱印状」(岡本善明氏所蔵文書)
1570(永禄13/元亀元)年
2月12日
鴨居之郷観音堂寺中竹木切取事、堅可令停止并号飛脚押立与出家役等、向後不可申付、諸条狼藉等遂申者於有之者、自今以後者注交名可申上者也、仍如件、
永禄十三年庚午二月十二日/御朱印・朝比奈甚内奉之/観音寺別当
- 戦国遺文後北条氏編4686「北条氏規朱印状写」(諸国高札二)
1571(元亀2)年
7月15日
急度飛脚被遣候、則披露申候、仍今度之御動之儀、無比類被成様共前代未聞之義、従 殿様此段具可被仰下候へ者、御城爾于御座候間、寸之御透も無之候間、此趣我ゝ方巨細申候得由、御意ニ候、猶自今之義者海上動所ハ一円御父子へ被相任候由、堅御意ニ候、於我等満足此事ニ候、弥ゝ御走廻肝要ニ候、 御本城様其煩于今爾候旨、無之候間、何様昼夜御詰城被成候間、御障無之候、拙者も韮山之番被仰付候、有御用一昨日此方へ罷越候、明後日罷越候、重而御用候者、六郎大夫ニ可被仰渡候、何事も近内口上ニ申候間、早ゝ申候、恐ゝ謹言、
七月十五日/朝甚泰寄(花押)/山信・同新御報
- 戦国遺文後北条氏編4059「朝比奈泰寄書状」(越前史料所収山本文書)
1574(天正2)年
11月20日
「六大夫」とあるのは「六郎大夫泰之」で、泰寄の後継者(子弟)と見られている。
奉建立鹿島御宝前
大檀那朝比奈六大夫敬白。相州三浦須賀郷之内、逸見村百姓中并代官、今■■■当大夫宮内丞
当大工山内六郎左衛門、当鍛冶小松原満五郎
于時天正甲戌年閏霜月廿日、諸願成就、皆令満足、筆者平朝臣賢清、
古記録
- 戦国遺文後北条氏編1748「鹿島社棟札銘写」(新編相模国風土記稿三浦郡逸見村之条)
1576(天正4)年
9月11日
出家した今川氏真が朝比奈泰勝の労をねぎらった際に、泰寄にも宜しく相談するようにと指示している。
万々渡海之儀辛労ニ候、然者家康申給候筋目於相調者、一段可為忠節候歟、甚内方へ能々可申計候也、仍如件、
九月十一日/宗誾(花押)/朝比奈弥太郎殿
- 戦国遺文今川氏編2584「今川氏真判物」(神奈川県川崎市・鎌田武男氏所蔵文書)
1577(天正5)年
4月6日
仰出之条ゝ
一、山本左衛門尉就進退不成、参拾貫文之所十年期ニ売度由、尤相心得候事
一、伊豆奥就手遠、三浦之在陣走廻も不成之由、知行替之侘言任存分候、別紙ニ書付被下候事
一、知行役之儀、参■■■■十年期明間者■■■■可致之事
右、如此之条ゝ雖為有間敷子細、信濃入道者自前ゝ忠信至于今走廻、子ニ候左衛門太郎者於眼前討死、忠信不浅候、只今太郎左衛門尉事者、乍若輩海上相任無二走廻之間、全人之引別ニ不成之候、依之如申上御納得被仰出候、弥抛身命可走廻段、可為申聞太郎左衛門尉者也、仍如件、
丁丑卯月六日/(朱印「真実」)朝比奈右兵衛尉奉之/山本信濃入道殿・同太郎左衛門尉殿
- 戦国遺文後北条氏編4721「北条氏規朱印状」(越前史料所収山本文書)
8月20日
北条氏規が陸奥の遠藤基信と連絡を取った際に、泰寄が間に入っている。「不思議之得便宜」とあり、もしかしたら泰寄が基信と先に知り合ったのかも知れない。
乍卒爾之儀、企一翰意趣者、貴国之儀年来承及候、去春不思議之得便宜、朝比奈右兵衛尉ニ内意申付、貴殿御事承及候間申届候処、此度態以飛脚御報候、遠国之儀寔御真実之至本望忝候、抑貴国与当国可被仰合筋目念願候、両国於御入魂者、天下之覚相互之御為不可過之候歟、有御塩味御取成肝要候、於当国者乍若輩涯分可令馳走候、委細右兵衛尉可申入間令省略候、恐ゝ謹言、
八月廿日/氏規(花押)/遠藤内匠殿参
- 戦国遺文後北条氏編1936「北条氏規書状」(斎藤報恩博物館所蔵遠藤文書)
1587(天正15)年
3月21日
改進置知行
弐百貫文、知行辻
此出所
百六拾五貫三百十四文、小磯夏秋
卅四貫六百八十六文、蔵より可出
此上弐百貫文
右、龍千代陣代被走廻付而、如此進置候、陣番無患可被走廻者也、仍如件、
天正十五丁亥三月廿一日/氏規(花押)/朝比奈兵衛尉殿
- 戦国遺文後北条氏編3067「北条氏規判物」(朝比奈文書)
入間・指田・落合・山根替進置分
百貫文、知行辻。此出所
七拾六貫五百六十六文、白子
廿三貫四百卅四文、蔵より可出
以上、百貫文
右之知行之替進置候、毎年如此可有所務者也、仍如件、
天正十五丁亥三月廿一日/(朱印「真実」)/朝比奈兵衛尉殿
- 戦国遺文後北条氏編3068「北条氏規朱印状」(朝比奈文書)
1588(天正16)年
5月24日
任望下一宮百卅七貫百五十余、白子ニ取替進候、自戊子夏可有所努候、伊豆奥之不足銭此内ニて進候而も、廿貫余過上ニ候へ共、少之事候間其報進候者也、仍如件、
戊子閏五月廿四日/氏規(花押)/朝比奈右兵衛尉殿
- 戦国遺文後北条氏編3327「北条氏規判物」(朝比奈文書)
1592(天正20/文禄元)年
3月15日
知行方
弐百石、丈六
三百石、南宮村
以上五百
右、従 関白様被下知行ニ候間、進之候、其方之事者、はや三十余年一睡へ奉公人御人ニ候、我ゝニも生落よりの指引、苦労不及申立候、就中、小田原落居以来之事、更ゝ不被申尽候、一睡同意存候、存命之間、何様ニも奉公候而可給候、進退之是非ニも不存合御身上与存候得共、若ゝ我ゝ身上於立身者、何分ニも随進退、可任御存分事不及申候、為其一筆申候者也、仍如件、
天正廿年壬辰三月十五日/文頭(北条氏規花押)・氏盛(花押)/朝比奈兵衛尉殿
- 戦国遺文後北条氏編4322「北条氏規袖加判・北条氏盛判物」(朝比奈文書)
年未詳
6月30日
北条氏規から成田氏長への使者として泰寄が動いている。また、氏規を介して徳川家康からの進物を与えられている。
遥ゝ在御音信与従濃州預御使候、殊従家康被進物数多被懸御意候、寔畏入存斗候、内ゝ従此方も節ゝ雖可申達候、韮山為御番御在城、御帰府之時分を不存知候間、御無沙汰申、本意之外候、可然様御心得任入候、仍自貴所も鯨一合給候、御志即賞翫申候、何様従是可申述候、委細者福長頼入候、恐ゝ謹言、
六月晦日/成下氏長(花押)/朝兵御宿所
- 戦国遺文後北条氏編4190「成田氏長書状」(荻野仲三郎氏所蔵文書)
8月5日
朝比奈泰之は、泰寄の後継者と見られる。
雖未申通候、一筆令啓入候、仍南条因幡守在陣ニ候之候間、拙者委曲可申達候由、氏規被申付候、然者石塔又日牌銭之末進之儀、弐拾参貫文、今度慥御使僧ニ渡置申候、重而御便宜ニ御請取候段、御札可蒙仰之、并毎年百疋并御返札是又慥此御使僧ニ渡申候、猶以重而之御便宜ニ右之分御請取之由、御札待入申候、委曲期来信之時候、可得尊意候、恐惶敬白、
八月五日/朝比奈六郎大夫泰之(花押)/高室院参御同宿中
- 戦国遺文後北条氏編4060「朝比奈泰之書状写」(集古文書七十六)