2018/04/24(火)ハードネゴシエーターとしての遠山康光

遠山康光に関しては既にひとつ記事にしている。

遠山康光の実像

しかし彼の事績はこれだけに収まらず、交渉人としての動きもまた興味深い。

上杉との交渉

「遠山康光」というと、後北条と上杉が延々と交渉し続けた越相同盟の交渉人であり、越後に養子入りした三郎景虎の付き人という印象が強い。しかし、康光が越相同盟に登場するのは比較的遅く、北条氏政が参入した書状で取次役として出てくる永禄12年3月7日を待たねばならない。

雖未申通候、令啓候、抑駿・甲・相年来令入魂候処、武田信玄被変数枚之誓約之旨、駿州へ乱入、当方之事、無拠候条、氏真令一味、駿州之内至于薩埵山出張、自正月下旬于今、甲相令対陣候、因茲先段以天用院・善得寺、愚存之趣、越へ申届候キ、猶彼御出張此時候条、以遠山左衛門尉申候、畢竟各御稼所希候、恐ゝ謹言
追而、松石越府へ被打越由候間、不及一翰候、以上、
三月七日/氏政(花押)/河田伯耆守殿・上野中務少輔殿

  • 戦国遺文後北条氏編1173「北条氏政書状」(上杉文書)

ではなぜ氏政は康光を取次に選んだのかというと、康光が上杉被官と既知の間柄だったからだろう。

沼田両所へ以御直札被仰届候、仍以前松石・上中拙者へ御書中、本望存候、其以後不申通候、幸之間、此度両所へ令啓札候、松石越山之由承届候間、重而可申入候、何茂被成御心得、被仰届頼入候、以面上可申達候条、令省略候、恐ゝ謹言、
三月十日/遠左康光/信濃守殿御宿所

  • 戦国遺文後北条氏編1176「遠山康光書状写」(歴代古案一)

沼田の両所へ直接のお手紙で仰せ届けられました。以前の、松石・上中から拙者へのご書中(紹介状カ)は本望に思います。それ以後はご連絡をしませんでしたが、時宜を得てこの度両所へご連絡しました。松石が越山なさるとのことですから、重ねて申し入れします。何れもお心得いただき、仰せ届け下さいますようにお願いします。直接お会いして申しますので、省略させていただきます。

上杉被官の松本景繁・上野家成が、敵方の康光に連絡をとる行動というと、永禄7~8年に足利義輝から上杉輝虎へ北条氏康との和睦を斡旋した件が思い浮かぶ(下記2通)。この頃に、景繁・家成から由良成繁に打診があり、康光と繋がったと思われる。

北条左京大夫氏康与和睦事、去年差下藤安申遣之処、内存被聞召訖、雖然、急度可遂其節事簡要候、為其、対氏康差下使節、申越候間、其以前於及行者、不可然候、猶晴光可申候也、
三月廿三日/(足利義輝花押)/上杉弾正少弼とのへ

  • 神奈川県史資料編3下7433「足利義輝御内書」(上杉文書)永禄8年比定

北条左京大夫氏康与御和談事、去年被差下同名兵部少輔、御内存趣、委細被 聞食候、雖然、被閣是非、急度被遂其節者、可為肝要候、為其相州へ被越差御使候条、其以前御行事、御用捨専一候、此等之通、得其意、可申由被仰出候、恐ゝ謹言、
三月廿三日/陸奥守晴光(花押)/謹上上杉弾正少弼殿

  • 神奈川県史資料編3下7435「大館晴光添状」(上杉文書)永禄8年比定

古河公方との交渉

では、数ある後北条被官からなぜ康光が選ばれたかというと、古河公方家の調整を行なっていたからではないか。下記の朱印状(永禄6年比定)では、伊豆国大見の「御乳人」を佐貫へ送ることを瑞雲院周興が依頼してその手配を、康光が奉者として愛洲某に指示している。

豆州大見御乳人、佐貫江被越付候者、瑞雲院如作意、船・ゝ方相調、二艘も三艘も可走廻候、又其内飛脚船入候者、何篇も可走廻者也、仍如件、
亥卯月廿七日/(虎朱印)遠山奉之/愛洲代

  • 戦国遺文後北条氏編0811「北条家朱印状」(渡辺文書)

古河公方との交渉は江戸衆の遠山綱景も加わっていたので、その流れで一族の康光が動いた可能性がある。ただ、それだけではない事情を示す文書もある。

今川との交渉

売渡申三島之宿屋敷之事。合四拾五貫文者。右、彼代物者、孫三郎之代、丙午年十二月廿日ニ、四日町御蔵銭ヲ被致借用候、従其明之年、我ゝ家を請取候、公方銭之事候之間、急度相済可申候へ共、貴所へ別而申承候間、無沙汰申候、殊更此代物者、巳年遠山左衛門尉駿府へ被遣候、其時四日町御蔵より、参拾貫文罷出候、是者孫三郎方預りへ升辺蔵へ被仰付候処、筆違ニて四日町与御印判候間、子細可被申分候へ共、江城ニ 御屋形様御座候間、先ゝ卅貫文被出候歟、加様之代物令算用、四拾五貫文ニ知行被渡候得共、我ゝ無力付而、無沙汰申候、算用候者、過分ニ罷成候共、別而知音申候間、三島屋敷進置候、我ゝ子ゝ孫ゝ於被官已下、永代違乱在間敷候、将又年貢等諸伝役、此屋敷ニ不可有之候、破家ニ候へ共、亭・居屋・蔵屋・厩共四ツ并而進置候、如前ゝ我ゝ罷越候時者、宿ニ可致之旨、此分違乱妨可有之候、仍如件、
天文廿年辛亥十二月廿三日/清水大郎左衛門尉康英(花押)/瑞泉庵参

  • 戦国遺文後北条氏編0405「清水康英屋敷売券写」(新井氏所蔵文書)

これは遠山左衛門尉=康光の初見文書となるが「巳年」つまり天文14年は、6月以降で今川・後北条を和睦させようとしている動きがある。この時の主体者は京の足利義晴。前年から北条氏康に書状を送って上洛を促していたが、今川との紛争を理由に断られていた。そのため、近衛稙家からの使者を小田原に送ったり、駿府に聖護院道増を派遣したりしている。最後まで今川義元が受諾せず、その同盟相手である武田晴信にも諫められている。

去年以書状申候処、依無通路使節令上洛候条、重而申候、抑与駿州御和談之儀、内々武命之事候間、以無為之儀相調候者、可為珍重候、巨細之段使節申含候条、不能詳候状、如件、
六月七日/(近衛植家花押)/北条新九郎殿

  • 戦国遺文今川氏編0775「近衛植家書状」(東海大学図書館所蔵北尾コレクション)

七月七日治部当座 聖護院門跡御座也、内々東と和与御扱之由也、然間当国へ御下向之間、彼会へ入候也、河つらと詠けるを、河つらとハ今河家ニ禁也、同嶋も禁也、殊新嶋一段不吉、七夕霞霞にもむせふはかりに七夕のあふ瀬をいそく天の河岸

  • 静岡県史資料編7_1740「為和集」(宮内庁書陵部所蔵)天文14年項目

今度為合力、越山候意趣者、去酉年義元御縁嫁之儀、信虎被申合候、然処、以後一儀駿・豆執合之由、於世間風聞、依之晴信五ヶ年之間、別而申合候、此度同心申相動候処、為始吉原之儀、御分国悉御本意、一身之満足不過之候、内々此上行等、雖可申合候、北条事御骨肉之御間、殊駿府大方思食も難斗候条、一和ニ取成候、就中長久保之城責候者、或者経数日、或者敵味方手負死人有出来者、近々之間之執合、更無所詮候哉、縦氏康雖滅亡候、過数十ヶ年、関東衆相・豆本意候者、所領之論却、只今ニ可相戻候哉、彼此以一統、可然候条、如此走廻候、自今以後、有偏執之族者、此旨各分別候間、長久之儀肝要候、恐々謹言、
十一月九日/晴信(花押)/松井山城守殿(上書:松井山城守 晴信)

  • 戦国遺文今川氏編0783「武田晴信書状写」(土佐国蠧簡集残篇六)

この状況で単身乗り込んでいった康光は、外交特使としての任務を帯びていたのだろうと考えられる。30貫文を三島で借りていることから、準備もままならぬ状況だったのかも知れない。

駿府での交渉で康光がどのような行動をしてどう結果を出したのかは不明だが、その後も古河・越後と難交渉に駆り出されたのは、この時の功績を氏政が正しく理解していたからだと思われる。