2023/01/08(日)徳川家康登場初期の考察
松平竹千代
徳川家康の幼名と思われる「竹千代」は、1550(天文19)年11月13日に、今川義元が天野孫七郎に宛てて「竹千代大浜之内藤井隼人名田之内五千疋、扶助之云々(戦今979)と記したのが初見。
この6日後の11月19日に義元は長田喜八郎宛てで「松平竹千代知行大浜上宮神田事」(戦今987)について規約を発行している。
翌年1551(天文20)年12月2日には、東条松平氏で甚次郎が織田方へ寝返ったことを受けて、その兄と思われる松平甚太郎宛てで出された血判起請文(戦今1049)には「御屋形様并竹千代丸江忠節之事候間」とある。起請文は飯尾乗連・二俣扶長・山田景隆の連名で出されており、今川家被官として松平甚太郎が忠節を遂げる相手として「御屋形様」とともに「竹千代」を挙げている。このことから、松平竹千代は東条松平氏への影響力が高かった可能性がある。
松平元信
徳川家康が「松平元信」として史料上登場するのは1555(天文24)年5月6日。石川忠成・青木越後・酒井政家・酒井忠次・天野康親の連署状(戦今1216)に「従元信被仰越候間、各一筆遣候」と言及されている。本人が文書発給していないことから、その能力をまだ備えていなかったようだ。
本人名義の文書は1556(弘治2)年6月24日の大仙寺宛黒印状が初見(戦今1290)。大仙寺には、6月21日に今川義元が判物(戦今1288)と条書(戦今1289)を出しており、その庇護に基づいて発行しているのが判る。また、当日付で元信の親類と思われる「しんさう」が副状(戦今1292)を出しているほか、元信自身は黒印を捺すに留まっている。元信より上位者の義元が花押を据えているにも関わらず印判で済ませていることから、元信自身が押印したかも疑わしい(この時に元信が使っている黒印は以前「しんさう」が使っていたもの)。
元信(家康)がこの時どこに所在したかは不明だが、義元の日付との差から見て三河吉田辺りに「しんさう」と共にいた可能性が大きい。
元服したはずの元信は主体性を持たないままで、それゆえか、彼は再び「竹千世」として登場する。大給松平氏の親乗が、留守を預けた田島新左衛門尉に宛てて「然者竹千世・吉田之内節々御心遣=ですから竹千世・吉田の内での折々のお心遣い」について感謝したものだ。この時親乗は、弟との所領訴訟で駿府に行っていた。
- 戦国遺文今川氏編1345「松平親乗書状」(田島文書)
猶以御辛労難申尽候、時分柄と申、すいりやう申候、
急度申候、仍従御奉行其方へ依御理候、細川衆めしつれられ、早々御移、外聞実儀畏入候、此等趣、良善へ申入候、定而可被仰候、然者竹千世・吉田之内節々御心遣、別而無御等閑しるし忝存、与風此苻へめし下候、御訴訟大方ニも候ハゝ、我等罷上御礼可申候、城中之者共、不弁者之儀共候、御異見頼入候、万吉左右可申入候、恐々謹言、
八月九日/松和泉守親乗(花押)/田嶋新左衛門尉殿まいる
急ぎ申し上げます。御奉行からあなたへ説明されたように、細川衆を召し連れて早々の移動、外聞実儀に恐れ入っています。この趣旨は良知善左衛門へ伝えています。きっと仰せがあるでしょう。ということで竹千世・吉田内にも折々心遣いをいただき、放置されることもないのは特にありがたいことです。思いがけずこの駿府に招集されましたが、御訴訟が大方片付いたら、戻って御礼を申し上げましょう。城中の皆は使いづらいでしょうが、ご指導をお願いします。万事吉報を申し入れることでしょう。さらに御辛労は言葉に尽くしがたいことです。時節柄、ご推量下さい。
- 戦国遺文今川氏編1341「由比光綱・朝比奈親徳連署状」(田島文書)1557(弘治3)年比定
急度申候、松知泉長々就在府被成候、彼家中申事候哉、殊舎弟次右衛門方種々之被申様候、此方にてハ山新なと被取持、三内被頼入候、先日同名摂津守方被罷越候、内々談合ける由其沙汰候、雖然 上様御前無別条候、只今大給用心大切之旨、従其方田島方被仰付、松平久助方へ有談合、人数十四五人も御越可然候歟、和泉方も軈而可被罷上候、其間御用心のために候、就中和泉方息吉田ニ被置候、是をいたき可取なとゝ、風聞候、宿等之儀用心可被仰付事尤候、恐々謹言、
七月廿二日/朝丹親徳(花押)・由四光綱(花押)/良知善参
急ぎ申し上げます。松平和泉守が長々と駿府に滞在なさっています。彼の家中から報告ありましたでしょうか。特に弟の次右衛門から色々と報告があるようです。こちらでは山新(山田景隆?)などが仲介して三内(三浦内匠助?)に頼み込んでいます。先日同姓摂津守が来訪して内々で話し合ったのも、その沙汰についてでした。とはいえ上様(今川義元)の前では別状ありません。現在は大給での用心が重要であること、あなたから田嶋に指示するように。松平久助と打ち合わせて軍勢を14~5人も派遣すべきでしょうか。和泉守も早々に向かうでしょう。それまでは御用心下さい。中で和泉守の息子が吉田に置かれているのを、抱き取るだろうなどと噂が流れている。宿営地のことは用心を命令することはもっともなことです。
この時に親乗が元信を「竹千世」と書いたのは、同族であることの気安さもあったろうと思うが、自らの子息(後の真乗)が竹千代と一緒に起居していたのでどうしても幼名が先立ってしまったのかと考えられる。
さて、親乗がなぜ駿府に行かなければならなかったかというと、大給松平家では、親乗とその弟次右衛門との間で係争があったようだ。1557(弘治3)年7月22日に、親乗サイドの朝比奈親徳・由井光綱が三河の良知善左衛門に送った書状(戦今1341)によると、訴訟元からのルートは以下の構成。
<訴訟元> <現地担当> <駿府取次役>
- 松平親乗 ー 良知善左衛門 ー 朝比奈親徳・由井光綱 →
- 松平次右衛門 ー 山田景隆 ー 朝比奈摂津守・三浦正俊 →
※大給城は良知が田島新左衛門尉・松平久助を派遣して留守居。吉田にいる親乗の息子を次右衛門が略奪する噂が流れており、警戒中。
この書状の「然者竹千世吉田之内節々御心遣別而無御等閑しるし忝存」を巡っては「竹千代は吉田にいた」とする平野明夫氏の仮説と「竹千代は駿府から吉田に心遣いをした」とする本多隆成氏の仮説がある(戦国史研究54号・55号)。
この時に親乗は訴訟のため駿府にいたのは確実で、戦今1341で確認できるほか言継卿記でも交友相手として登場する。
この書状では駿府に長期滞在する親乗が、自身に変わって三河大給城を守っている田島新左衛門尉に感謝を伝えたもの。だから、この文中にいきなり「駿府の竹千代が吉田の人質達に折々お心遣いをいただき、とりわけ親身になっているのはかたじけないと思う」が混入するのは違和感がある。「(田島が)吉田の人質達(竹千代・親乗子息を含む)にも折々お心遣いをいただき~」と解釈する方がより自然だろう。元信が駿府にいて親乗と会っていたなら、その成長を見た親乗も「竹千代」という幼名は使わなかっただろう。
また、駿府で親乗が元信に会っていたというなら、元信が吉田へ気配りしたことをわざわざ田島に謝すのかもよく判らない。やはり、駿府から三河に書状を発した親乗が、現地の今川被官達(田島・良知・朝比奈)へ吉田人質(竹千代や親乗子息)への気配りを感謝したと見るのが自然だろう。
このような挙動の親乗に対して、後世編著の『改正三河後風土記』では、
其中に徳川家を離れ、駿州に在勤し、時におもねり、世に媚る者松平和泉守親乗・松平内膳正清定・酒井将監忠尚・同左衛門尉忠次等数多し
とする。また、言継卿記で男性の僧が出てくる華陽院に関しても奇妙な記述をしている。
御外祖母(清康君御室大河内氏)玉桂慈泉尼公も尾州より来り給ひて、ひとかに今川家の権臣等になげき給ひ、御幼稚の間介抱ましましける。この尼公は後に華陽院殿と申、永禄三年五月六日駿府にてうせ給ひける。神君御代しろしめして後、其御葬地駿府の知源院をこと更造営ましまし、寺料あまた寄られ、今は其寺を華陽院といふ
別記事の徳川家康の前室についてでも書いたが、徳川家康の幼少期駿府在は胡乱な話だろう。
確実な同時代史料に基づく限り、徳川家康が1582(天正10)年以前に駿府に入った確証はない。
→上記記述は誤り。論拠は後述。
元信から元康へ
その後家康は「元信」としてきちんと花押を据えるようになる。
- 戦国遺文今川氏編1333「松平元信判物」(岡崎市高隆寺町・高隆寺文書)
高隆寺之事
一、大平・造岡・生田三ヶ郷之内、寺領如先規可有所務事
一、洞屋敷并五井原新田、如前々不可有相違之事
一、野山之境、先規之如境帳、不可有違乱事
一、於伐取竹木者、見相ニ可成敗事
一、諸役不入之事、然上者坊中家来之者、縦雖有重科、為其坊可有成敗事、条々定置上者、不可違乱者也、仍如件、
弘治三年五月三日/松平次郎三郎元信(花押)/高隆寺
「元信」の終見は、1557(弘治3)年11月11日の石川忠成等連署状案(戦今1365)。この後は「元康」として登場するのだが、この要因としては武田晴信書状(戦今1547)から窺われる岡部元信の今川家帰参が挙げられる。岡部元信は、小豆坂合戦での戦功として家中での軍装「筋馬鎧并猪立物」の独占使用を求めた(戦今1106)ことから、同一家中にいた若輩が同名の「元信」を名乗ることを許容したとは考えにくい。
「元康」初見となる1559(永禄2)年の定書の第2条によると「元康が在府の間は岡崎で各々が議論して結論を出して連絡せよ」とある。このことから、永禄2年段階で家康は岡崎に居を定めつつ、時折駿府へ滞在することがあったと判る。
- 戦国遺文今川氏編1455「徳川家康定書」(桑原羊次郎氏所蔵文書)
定
条々
一、諸公事裁許之日限、兎角申不罷出輩、不及理非可為越度、但或歓楽、或障之子細、於歴然者、各へ可相断事
一、元康在符之間、於岡崎、各批判落着之上罷下、重而雖令訴訟、一切不可許容事
一、各同心之者陣番並元康へ奉公等於無沙汰仕者、各へ相談、給恩可改易事、付、互之与力、別人ニ令契約者、可為曲事、但寄親非分之儀於申懸者、一篇各へ相届、其上無分別者、元康かたへ可申事
一、万事各令分別事、元康縦雖相紛、達而一烈而可申、其上不承引者、関刑・朝丹へ其理可申事、付、陣番之時、名代於出事、可停止、至只今奉公上表之旨、雖令訴訟、不可許容事
一、各へ不相尋判形出事、付、諸篇各ニ不為談合而、一人元康へ、雖為一言、不可申聞事
一、公事相手計罷出可申、雖為親子、一人之外令助言者、可為越度事
一、喧嘩口論雖有之、不可贔屓、於背此旨者、可成敗事、付、右七ヶ条於有訴人者、遂糾明、忠節歴然之輩申旨令分別、随軽重、可加褒美者也、仍如件、
永禄二未己年五月十六日/松次元康(花押)/宛所欠
今川家中で「在府」とは駿府滞在を示す(戦国遺文今川氏編537/634/709/763/942/1047/1341/1358/1460/1671/1775/2181)。