2017/04/20(木)足利義氏の関宿入りを巡る北条氏康のややこしい書状
1555(天文24)年比定の5月24日書状がちょっと面白いので、解釈を色々と考えてみた(戦国遺文後北条氏編581「北条氏康書状」)。逐次書き出してみる。
1558(天文24/永禄元)年比定 5月24日北条氏康 → 瑞雲院周興
追而申候意趣者、先日以氏政彼御侘言申上候、■■納得之御返答、
追ってお伝えする意趣は、先日氏政から陳情申し上げ、(文字欠)ご納得のご返答でした。
文頭から追伸となっていて、これは正規の書状の後に送られた追記だと判る。先日、氏政が周興経由で、恐らく義氏に何か陳情をして受諾されたとある。この陳情と後の内容が関連するかは、現段階では不明。
其御次ニ右馬允両年被為■■■■進退無相違可申調由、 被仰出候、
その次に、右馬允が両年(文字欠)進退は相違なく調整するようにと、仰せになりました。
文字欠が多く解釈が難しいが、「次」が丁寧語の「御次」であること、欠字を伴う「被仰出」があることから、右馬允に義氏から仰せ出しがあって、両年にわたる忠節か何かに免じて「進退」を調整せよとなった事を取り上げている。他者の解釈ではこの「進退」を「右馬允の古河城主の地位」として把握しているようだが、私は疑問を持っているので、この後の解釈ではこの意味も探ってみたい。
時節如何■■、今度之一儀、中務無相違令納得候儀も、
時節はいかが(文字欠)、今度のことは、簗田晴助は相違なく納得されましたが、
これも文字欠で読み取れないが、時節=タイミング、如何=どのようにか、という文の後に中務(晴助)が納得した、と読むのが自然だろう。文の末尾が「も」で、晴助が納得しても状況に問題があることが判る。
先万右馬允極ゝ遺恨候、加様之儀惣ニ散、向後家中をも此度堅固ニ可致所、
前に右馬允が強い遺恨を持ったのです。このようなことを全体に散らしたのです。今後家中で結束を固めるべきところ、
「先万」は他例がなかったので「先般」か「千万」の当て字だと推測した。但し「千万」は文頭に出た例を見たことがないから、「以前に右馬允がとても強い遺恨を持った、それが問題の原因だ」という意味合いに解釈した。その後の「惣ニ散」も「粗忽に取り散らした」か「惣=全体に拡散した」かのどちらかだろう。今後の家中結束に影響があると氏康が案じているから、後者だろうと思う。
自此方徳失を勘立諫候ニ付而合点候、
こちらより得失を考えるように諌めますから、ご諒解下さい。
「此方」は氏康たち後北条方を指す。損得を弁えるように圧力をかけるから、それは諒解しておけということだろう。
然者右馬允改易之事、誓句ニ者不戴候へ共、最前ニ別儀有間敷由申候、
ということで右馬允を改易することは、起請文には書かれていないことですが、以前には異議があってはならないと言っています。
この起請文は氏康・義氏が簗田晴助と交わしたもの。ここに右馬允の改易は書かれていないけれど、既定路線に変更があってはならないということを氏康が強調している。ここは両義性を持っていて、起請文をきっちり守るならば、右馬允の改易は行なうべきではないという見方もできる。氏康の主張はこの時点で説得性がない。
抑彼地入御手之事者、一国を被為取候ニも、不可替候、
そもそもあの地をご入手なさることは、一国をお取りになるのとも替えがたいことです。
これは、先の起請文で晴助から義氏に献上された関宿を指す。結構有名な語句で関宿の要地ぶりを語る際に引用されているが、出てくるのはこの物騒な文面だったりするのは余り知られていない。
当意随御威光、御本意者更不実候、
とりあえずのご威光に従っていては、ご本意は更に実りません。
「当意」は現代語でも使う「当意即妙」と繋がっている。当座とか即興の意味合い。ご威光が何を指すかは不明で、右馬允が何を主張したかによって解釈が異なる。
先の起請文では、関宿を献上した晴助は古河に入ることになっている。このため、古河に先住していた右馬允が騒いだという解釈は既に存在する(進退=古河城主地位説)。だが右馬允が古河住という史料はない。
更に、この文章の前後で氏康は関宿の地が素晴らしいとくどく書いていることを併せて考えると、右馬允は「古河こそが義氏座所として相応しい」と異議を唱えたのではないか。このため、この主張を氏康は「当意のご威光」とし、それでは本意が得られないという主張を氏康は唱えなければならなかった(進退=古河入り主張説)。
どちらとはまだ言い切りがたいものの、右馬允が古河入りを主張したとする方がやや有利に感じる。
無双之名地ニ可被立 御座儀者、御子孫迄之御長久、不及言語候、
無双の名地に御座を立てられたことで、ご子孫までのご長久は申すまでもありません。
関宿への氏康の激しいアピールは続く。関宿絶賛の間に「当座のご威光」を差し挟んでいるのが印象的だ。
此調を存詰上、右馬允つれ進退之是非者、勘ニも不渡候間、
この準備を思い詰めていく上で、右馬允づれが進退の是非は、考えにも入りませんから、
こういった関宿至上の動きを考えていった氏康は、どうやら怒りがこみ上げてきたようで「右馬允ごときが何を邪魔するか」という文になっている。「勘ニも不渡」は結構乱暴な言い方で、右馬允の進退などどうでもいいと断じている。ここで「進退」が出てくる。
右馬允が「進退=身の保証=古河城主の地位」にしがみついているのか、または「進退=命を懸けての懇願」として義氏の古河入りを主張しているのかで判断が異なる。まだどちらともいえない。
無相違可払旨、中書へ申候、
相違なく払うように晴助に申します。
今度は「払」という言葉が出てくる。「払う」ように氏康は晴助に告げているが、詳しくは不明。
其上去春酒井大膳所へ 御台様御計策之御自筆被遣候趣、虚説誑言、右馬允書散候キ、
その上で、去る春に酒井大膳の所へ、御台所様がご計策のご自筆の書状を送ったこと、虚説の戯言です。右馬允が書き散らしたものです。
ここが最も謎な箇所。酒井大膳は戦北・下山年表のどちらを見てもここにしか登場しない。恐らくは上総酒井氏の関係者だと思われるが、詳細は不明。御台所様は氏康の妹である芳春院殿(義氏の母)で、彼女はこの年の春に酒井大膳の所に自筆で計策を送ったという。氏康によるとこれは「虚説誑言」で、右馬允が書き散らしたものと断定されている。
彼過失ニ付而、重而被為払由被仰下候間、
あの過失については、重ねて払うようにと仰せになっていましたので、
ここでいう過失は前文の芳春院自筆計策を、右馬允が言いふらしたことを指すと思う。重ねて「払う」ように仰せになったのは義氏。ここでも「払」が出てくる。払う行為は複数回行なわれており、なおかつそれを見た氏康が「勘当」と受け取るようなものだったと思われる(次の文参照)。だとすれば、「払」は「追放」もしくは「意見却下」のどちらか、もしくは両者が混交した特殊事情かと思われる。
当時彼者ハ、御勘道一理与存候へは、昨日当地へ越候て、進退可申立支度之由候、言語道断横合ニ存候、
あの時のあの者(右馬允)は、ご勘当なさったと思っていました。ですから、昨日になって当地へ行き進退を申し立てるよう支度しているとのことは、言語道断の横槍だと思います。
右馬允を「彼者」と表現している。自筆計策事件単体ですら「御勘道=ご勘当」が当然だと氏康は主張する。そんな状況なのに、つい昨日に「当地」に来て「進退」を申し立てる支度をしていると聞いたという。当地は、氏康がいる場所・宛所の周興がいる場所・文中で焦点になっている場所のどれかだろう。氏康・周興・右馬允の居所が不明だから断定はできないものの、義氏と芳春院殿は葛西、晴助は関宿にいるという推測は前後の文書から成り立つ。申し立てる支度をしているということは、義氏・芳春院殿に直訴する準備を右馬允がしていて、それを聞いた氏康が焦っているのだろう、という仮説が最も確度が高いように見える。であれば当地は葛西だろうと思う。
左候へ共、御内ゝにて令徘徊仁候間、院主■談合申候、
そうですが、内々での徘徊ですから、院主が協議すべきでしょう。
ここで氏康がやや語気を弱める。「御」がついた形なので、公方家の内々での話として、氏康が介入しないか、できないことを示すように見える。院主=宛所の周興が、家中で協議するべきだとする。あれだけ言い立てたのは、氏康が直接排除できない位置に右馬允がいたからだろう。であれば氏康が要求した「払」は追放ほど強い処置でなく、却下というレベルのものだった可能性が高いだろう。
去而一二年も置候て、氏康・中務前申調返可申候、
いなくなって1~2年も置けば、後は氏康・晴助が申し整えて返します。
ここで唐突に氏康が「去而=いなくなって」と書いてきて面食らう。後の文を見ると、いなくなるのは右馬允、返すのはその右馬允の身柄で、氏康・晴助の調整後に返すという流れが最も自然なニュアンスではないかと思う。この文は結論をいきなり書いたもので、具体的な手法はこの後に続く。
致様者、其身ニ今度 御座之地■■候様躰、条ゝ申分、為致納得、自分之様ニ上方物詣ニ可取成候、
するべきことは、右馬允に「今度御座する地を(文字欠・献上か?)することは条文で決定しましたから、あなたは上方へお参りにでも行くように」と説得することです。
「致様者=いたしようとしては」ということで、具体的な行動指示が書かれる。ここでも文字欠があって意図が把握しづらいが、「条ゝ」は晴助との起請文の条文。これを右馬允に納得させるための方策とは何だろうと思って読み進めると、「自分のように=周興自身が旅に行くかのように親身に」上方へ物詣に行くよう、周興が取りなしてほしいとしている。
定而其身も可聞分由存候、
きっと右馬允も聞き分けるだろうと思います。
自信満々に結論を出している。多分、氏康がこの長い書状を書いた目的は「周興が右馬允を説得して西国参詣の旅に出す」という、本人的に絶妙なアイデアを思い付いたからだろう。いてもたってもいられなくなって書き綴った挙句、判りづらい長文になってしまったのかも知れない。
猶以右馬允当時山林之進退にて、此度大事調之際ニ罷出、可成横合候哉、
それより、右馬允はあの時は『山林』の進退、今回も重要な案件の直前に出てきて横合いを言い立てるのはどうでしょうか。
「どうだこの妙案は」として終わればいいのだが、氏康にはまた怒りがぶり返したようで、ここで過去の例が出る。芳春院が自筆で計策した際に、右馬允はその前後で抗議の山林之進退(=ストライキ的な抗議)に及んだようだ。その抗議は氏康の意に添わなかったようで「今回も邪魔をするのか」と苛立っている。
不及申子細候へ共、寸善尺魔纔なる儀を以大事破事、古今先例候間、御断を申届候、
詳しく言うには及びませんが、「寸善尺魔」で、僅かなことを大事だと言い張ることは、昔から例がありますので、あらかじめ言っておきます。
「話すほどのことではないが」としつつ、右馬允の主張に氏康は警戒する。「寸善尺魔」とは本来、良いことは少なく悪いことは多いという語だが、この当時は「針小棒大」の意味でも用いたのか、氏康が取り違えたかのどちらかだろう。古い例を持ち出しているのは、具体的な話をされると都合の悪い情報が周興に入ってしまうと恐れたのか……。
畢竟其身ニ能ゝ被為合点、一廻西国物詣、後ゝ年可被直進退儀可然候、
最終的には右馬允をよくよく納得させ西国を一巡りさせ、後々の年に進退のことは直されるのが然るべきことでしょう。
氏康はようやく、話をまとめにかかる。右馬允本人をよく説得して、ひと廻り西国でお詣りをして、何年かあとに「進退」のことを「直す」のがしかるべきだろうと。「被直」という表現も見かけないもので解釈に迷うが、右馬允は義氏直臣なので「義氏がお直しになるのがよいだろう」という書き方になろうかと思う。「関宿様」として実績を積んだ義氏が右馬允の「古河を本拠に」という「進退=主張」を聞いて直せばよいという発想であれば、この文は自然な流れになる。
御台様へ御披露も御無用ニ候、貴僧以御計如此可有御調法候、
御台所様へご披露することもありません。貴僧のお計らいでこのようにご調整下さい。
ここで奇妙なことが書かれる。御台所には言うなとしている。この緘口令を見ると、酒井大膳に芳春院が送った自筆の計策は、事実かつ氏康にとって都合の悪いもので、それを蒸し返される点を恐れ、妹には事情を言わないように告げ、周興が単独で実行するよう依頼しているのだろう。
自此方者、遠山申付、右馬允ニ委為申聞、可為納得候、
こちらからよりは、遠山に指示し、右馬允に詳しく申し聞かせて納得させましょう。
氏康側からは遠山綱景に指示して、右馬允に直接話して納得させるとしている。