2017/08/06(日)10年前の解釈議論をあえて蒸し返してみる
古文書を本格的に読み始めてちょうど10年ということで思い出した。
解釈を始めたばかりの頃、かぎや散人氏と下記の文書の「別可馳走」の解釈を巡って真剣に議論をしたのだった。当時はせいぜい100件以内の守備範囲での議論だったので、今から振り返ると引き出す用例が少なくて心もとない。
用例が増えた現状で再び試みてみようと思う。
今度、山口左馬助別可馳走之由祝着候、雖然織備懇望子細候之間、苅屋令赦免候、此上味方筋之無事無異儀山左申調候様、両人可令異見候、謹言、
十二月五日/義元(花押)/明眼寺・阿部与五左衛門殿
戦国遺文今川氏編1051「今川義元書状」(岡崎市大和町・妙源寺文書)
原文では、山口左馬助について今川義元が与えた指示が主な内容になっている。といっても、宛所は左馬助ではない。寺と武家が併記されるちょっと奇妙な構成だ。
ここで「山口左馬助別可馳走之由祝着候」をどう捉えるかが重要になってくる。
「可」は未来に向けて開かれた状態だから「山口左馬助が特別に馳走するだろう」という予定を義元が聞き「祝着」と言っている。
「可」は誤字で「別可」ではなく「別而」。「山口左馬助が特別に馳走した」という経緯を義元が聞き「祝着」と言っている。
前者なら、妙眼寺・阿部は山口の調略をしていたことになる。後者だと山口は既に調略済みで活動していたことになる。
この後の文章では「でも刈谷の水野とは和睦しちゃうから。味方の中で反対する奴がいないように山左に言っておいて」と義元がしれっと書いている。これはどちらの状況でも説明がつくので、後半の文では決め手にならなない。
かぎや氏は前者のように「馳走するべく」と読むべきで、山口左馬助はこの時点では馳走を期待される存在だったと解釈した。
一方で私は「可」は「而」の誤字で、馳走は既に行なわれていたものの、織田信秀の悃望によって刈谷の赦免が決定してしまい、山口左馬助の努力が無駄になったと解釈した。
改めて考えるに当たって、まずは「別可」は脱字でも誤字でもなく、そのまま「別可」を使用していたかを調べてみると、他例の検索では下記のようにこの組み合わせは使われていなかった。やはり何らかの脱字・誤字を疑った方がよいようだ。
別可 3例 (当該以外は別義→為各別可相除・以分別可被申与之由承候)
脱字・誤記について何パターンか検討する。
1)「而」が脱字していると考えて「別而可馳走」とする仮説
別而可 17例
「別して~べく」の用例は上記のように普通に存在する。しかし一方で、
可馳走 1例(当該のみ) 「可[^、]+馳走」 0
「可馳走=馳走すべく」はこの例でしか見られず、他の語を挟んでも存在は見られなかった。
可有馳走 3例 可令馳走 2例 <以下は1例ずつ> 可被馳走 可致馳走 可在其方馳走 可然様ニ馳走・可然様ニ貴所御馳走
上記の結果を見ると、可と馳走は直接繋がらず「有・令・被・致・在」を間に挟むようだ。
このことから、「可馳走」は成り立たず、更に別の脱字を想定しなければならない。
ちなみに、可と走廻は直接繋がる。
可走廻 130例
そして間に語を挟む例も存在する。
可被走廻 20例 可為走廻 2例 可有御走廻 2例 可然様ニ走廻 1
2)「可」が「而」の誤記か誤翻刻と考えて「別而馳走」とする仮説
「可[^、]+馳走」でGrepすると、「別而」と「馳走」の組み合わせは8例ある。
別而馳走 6例 別而御馳走 1例 別而此節之間御馳走可申候 1例 別令馳走 1例 <後述>
この想定だと、「可」と「而」の取り違えだけで説明可能。
参考:走廻の場合
別而走廻 6例 <以下は全て1例> 別而可被走廻 別ニ抽而被走廻 別而可走廻 別而無油断走廻 別而成下知走廻
3)「可」が「令」の誤記か誤翻刻と考えて「別令馳走」とする仮説
「別令馳走」は以下の文書でしか見られない。
沓掛・高大根・部田村之事右、去六月福外在城以来、別令馳走之間、令還付之畢、前々売地等之事、今度一変之上者、只今不及其沙汰、可令所務之、并近藤右京亮相拘名職、自然彼者雖属味方、為本地之条、令散田一円可収務之、横根・大脇之事、是又数年令知行之上者、領掌不可有相違、弥可抽奉公者也、仍如件、
天文十九十二月朔日/治部大輔(花押)/丹羽隼人佐殿
戦国遺文今川氏編0989「今川義元判物」(里見忠三郎氏所蔵手鑑)
類似で「爰元能ゝ為御分別令啓達候候」というものはあるが、これは「御分別」と「令」の組み合わせなので異なる。「令馳走」は10例あることから、「別而令馳走」だったのが「而」が欠け、「令」が「可」に誤読されたと考えことが可能。
結論:1~3を比較・検討する
- 「別(而)可(有)馳走」 2箇所の脱字発生を想定
- 「別(可→而)馳走」 1箇所の誤字発生を想定
- 「別(而)(令→可)馳走」 1箇所の脱字・1箇所の誤字発生を想定
最もシンプルな修正で済ますのであれば、2の「而を可と誤記か誤読した」という解釈にするのが、最も妥当と考えられる。
最後に改めて
当時の解釈と今の解釈を並べてみた。昔は結構たどたどしかったなあと、感慨深い。
今度、山口左馬助別可馳走之由祝着候、雖然織備懇望子細候之間、苅屋令赦免候、此上味方筋之無事無異儀山左申調候様、両人可令異見候、謹言、
十二月五日/義元(花押)/明眼寺・阿部与五左衛門殿
戦国遺文今川氏編1051「今川義元書状」(岡崎市大和町・妙源寺文書)
- 過去の解釈
山口左馬助が、今度際立って活躍したのはとても祝着です。とはいえ、織田備後守が色々と陳情してきた事情もありますので、刈谷は赦免させました。この上は、味方筋の無事・無異議を山口左馬助が申し整えるよう、ご両人からご意見なさいますように。
- 現在の解釈
今度山口左馬助が特別に奔走したとのこと、祝着です。とはいえ織田備後守が懇望した状況がありますので、刈谷は赦免させていただきます。この上は、味方の中から和平に反対する者が出ないように、山口左馬助へ両人から意見して下さい。
補足:宛所について
- 明眼寺
安城と岡崎の間にあって松平氏と非常に縁が深いが、刈谷の水野氏から寄進を受けたこともあって、「苅屋令赦免」の仲介役として見てよいと思う。
- 阿部与五左衛門
史料がこれしかないので不明だが、ちょうど同じ頃に活動していた阿部大蔵の一族かも知れない。大蔵は松平氏被官だけど、もうこの頃は今川被官に近くなっている。ただ大蔵は動いていない。
まとめると、松平でも水野でもない周縁的位置で、ほんの少し松平寄りな特殊な構成といえそうだ。妙眼寺はこれ以外で政治に関わった経歴はないし、与五左衛門はここにしか出てこないから、かなり特殊なメンバー。