2017/09/04(月)高天神降伏拒否の意図
城兵が困窮していた高天神城に対して、織田信長が心中を語った朱印状がある。通説や解説文によっては「武田勝頼が後詰に来られないことを知っていて、その評判を落とすために開城を認めなかった」という書かれ方をしていることもあるが、これを読む限り、信長は勝頼の後詰を引き出すことを前提にしている。
増訂織田信長文書の研究913「織田信長朱印状」(水野文書)
切々注進状、被入情之段、別而祝着候、其付城中一段迷惑之躰、以矢文懇望之間、近々候歟、然者、命を於助者、最前ニ滝坂を相副、只今ハ小山をそへ、高天神共三ヶ所可渡之由、以是慥意心中令推量候、抑三城を請取、遠州内無残所申付、外聞実儀可然候歟、但見及聞候躰ニ、以来小山を始取懸候共、武田四郎分際にてハ、重而も後巻成間敷候哉、以其両城をも可渡と申所毛頭無疑候、其節ハ家康気遣、諸卒可辛労処、歎敷候共、信長一両年ニ駿・甲へ可出勢候条、切所を越、長々敷弓矢を可取事、外聞口惜候、所詮、号後巻、敵彼境目へ打出候ハゝ、手間不入実否を可付候、然時者、両国を手間不入申付候、自然後巻を不構、高天神同前ニ小山・滝坂見捨候へハ、以其響駿州之端々小城拘候事不実候、以来気遣候共、只今苦労候共、両条のつもりハ分別難弁候間、此通家康ニ物語、家中之宿老共にも申聞談合尤候、これハ信長思寄心底を不残申送者也、
正月廿五日/信長(朱印)/水野宗兵衛とのへ- 解釈
何度も報告をいただき、精を入れていることは祝着です。その包囲で城中が一段と困っている状態なのは、矢文で懇望してきたのですから、近々でしょうか。ですから、助命を願い、以前には滝坂城を添え、今では小山城を添えて、高天神と共に3箇所を渡したいとのこと。これをもって造意・心中を推量しました。そもそも3つの城を受け取れば遠江国は全て領有でき、外聞実儀はよくなるでしょうか。但し、見聞したところでは、あれ以来は小山を初めとして攻撃したところで、武田四郎の分際では再び後巻はできないのではないでしょうか。その両城も添えて渡したいとの言い分は毛頭疑いのないところです。その節は、家康が気遣いをし、諸卒の辛労するというのは遺憾ですが、信長は一両年に駿河・甲斐に出撃するのですから、難所を越えて長途戦うようなことは、外聞からして口惜しいのです。結局は、後巻と称して敵が境目に撃って出てくれれば、手間いらずで片を付けられるでしょう。そうなった時に、両国は手間いらずで領有できます。万が一にも後巻をせず、高天神と同様に小山・滝坂を見捨てるならば、その聞こえで駿河の端々の小城に至るまで保持することはできません。ずっと気遣いしていただいていて、今も苦労をかけていますけれども、両条の考え方は判断が難しいので、この通りに家康に説明して、家中の宿老たちにも聞かせ、話し合うのがよいでしょう。これは信長が思い寄せる心底を残さず申し送ったものです。
包囲している現場の徳川家中では「もう降伏させてよいのではないか」という声が出始めていたのだろう。これに対して信長は遠征したくなかったから、後詰が来るまで降伏させたくなかった。勝頼が出てくれば「手間不入」だと2度も言及している。その一方で、信長はこの朱印状で現場に相当気を遣っていて、辛労・苦労・気遣は丁寧にねぎらっている。この2点が相まって、とにかく後詰まで待てということをあれこれ説明している文面になっているのではないか。
後詰に来たら手間いらずと書いた後に「自然後巻を不構、高天神同前ニ小山・滝坂見捨候へハ=万が一、後詰に来ずに高天神などを見捨てたならば」という事態を想定しているが、これは更に出てくるであろう現場の不満「勝頼を引き出すために長陣を続けさせたとして、結局来なかったらどうするんだ」に対応しようとしているように見える。後詰がなかったら武田が駿河を維持はできないとは書いているが、後詰想定ほどにはあれこれ説明していない。
実際、勝頼が後詰に来ないまま高天神が落城した後の10月13日、信長は三河と信濃の境目に「御取出」構築を指示している。結局、「切所を越、長々敷弓矢を可取事」になってしまった。
- 増訂織田信長文書の研究957「滝川一益書状写」(武家事紀三十五続集古案)
至信州堺目、御取出可被仰付旨候、就其様子可申渡之間、其元御越弥被示合、御越奉待候、委曲牧伝ニ可申入候、恐々謹言、
十月十三日/一益在判/奥喜殿御宿所
この文書も、信長の被官が家康の被官に直接指示している辺りが面白い。