2017/09/26(火)小田原評定とは何か
『小田原評定』という慣用句の始まり
『小田原評定』(小和田哲男・名著出版小田原文庫)では、通説での意味「まとまらない会議」としての使い方は『関八州古戦録』が最古とする。1726(享保11)年成立のこの本が初出ということは、後北条氏の活躍時期とはかなり隔たりがある。
- 「其比関東ノ俚俗、果敢ゝゝシカラス評議ヲ小田原談合ト云触シテ、今ノ世ニテ、常談ニ伝へ、此時ニ起レル事ナリトソ」
この段階では「小田原談合」としているが、その後の『松屋筆記』では「小田原評定」・「小田原評諚」と変更している。松屋筆記は小山田与清(1783~1847年)の著作なので、100年足らずで言葉が変わってきている。これは後でまとめてみる。
同書のp17には興味深い情報が掲載されていた。
現在なお、小田原地方では「小田原の相談はまとまらず、久野の寄合はなりたたない」、あるいは「小田原評定・久野寄合は、まとまりそうでまとまらぬ」といった俚揺として生き続いている。(中略)立木望隆氏は、久野に「七軒屋敷」という地名のあるところから、そこには、幻庵の家臣七人が住み、寄合衆として「久野寄合」なるものを構成していたのではないかと推定されている。
これはむしろ、一旦全国的な文化の中に取りこまれた後で地元に逆輸入されたのではと思う。古態のまま継承されたならば、「評定」「寄合」は使われていない筈だからだ。
ということで、言葉の使い方をちょっと深く掘ってみようと思う。
戦国期の合議はどのような言葉で表現されたか
そもそも考えてみると、「評定」という言葉は同時代史料で余り見かけない。試しに自前のデータで検索してみると、「評定衆」が自らの名乗りで使っているものを除くと1点しかなかった。
- 評定「縦豊前守雖有訴訟、一切不可及評定」茨木県立歴史館史料叢書20p255
これは今川氏真が岩瀬彦三郎に出した判物写で、他例が圧倒的に「不可有許容」なのを考えると、「及評定」の部分は誤翻刻・誤写ではないかと思わざるを得ない。
では「寄合」はどうかというと、こちらも当時との意味が違う。戦国期には「寄せ集め」とまではいかないが、その案件用に編成された集団を意味しているようだ。昭和ぐらいまでは使われていた「寄り合い=合議」を想起してしまうが、それは当時の言い方ではない。
寄合
- 「是者寄合衆之番所ニ候」戦北1181
- 「其地所ゝ之寄合普請用心弓断有間敷候」岐阜県史資料編古代・中世4_p0864
- 「船橋之警固、以寄合衆可指置候、物主注交名、可承之事」戦北2758
では当時どう言っていたのかというと、談合や相談が該当する。3人以上で会議のような場と思われる例だけ抜き出してみた。
談合
- 「各遂談合」戦武642
- 「各有談合」群馬県史資料編3_2184
- 「百姓有談合」戦北3772
- 「出馬可遂一戦之旨談合議定候処」戦武902
- 「久能之当在城衆可有談合之事」戦武1396
- 「長篠後詰ニ成候之様、穴左・消遙軒・朝駿・岡丹・岡次等有談合」戦武2155
- 「信州衆・箕輪在城之衆以談合鉢形へ相働」埼玉県史料叢書12_0544
- 「本郷の町人とも致談合」戦北2273
- 「町人中致談合」戦北2543
- 「右之郷中有談合」静岡県史資料編8_1745
- 「其上之行者於陣中可談合申候」戦北3872
相談
- 「各被相談一途遂本意候者快然候」戦今638
- 「兄弟八人相談」戦今1113
- 「由木上下之強人相談」戦北662
- 「退衆相談」岐阜県史資料編古代・中世補遺p356
- 「諸家中各ゝ相談」戦古860
- 「但乱後間、代官・領主・百姓相談」戦北724
- 「庁鼻和乗賢・那波刑部太輔宗俊・厩橋賢忠・成田下総守・佐野周防守方々相談」埼玉県史料叢書12_0322
- 「各一味ニ被相談簡要候」戦北1244
- 「各相談可走廻候」戦北1212
- 「身類中并寄親令相談」戦北1598
- 「各味方中相談」戦北1660
- 「各可相談候」戦北1923
- 「各被相談」埼玉県史料叢書12_054
- 「今度猿ヶ京衆相談」戦北2163
- 「各相談」戦北2119
- 「高野・根来・其元之衆被相談」証言本能寺の変第4章13
- 「治部少輔同心・被官相談」戦北2365
- 「郷中百姓其外給衆相談」戦北3105
- 「縦憐郷・他郷之百姓と成共相談」戦北3602
- 「御門徒中有相談」戦武713
- 「各令相談」増訂織田信長文書の研究969
まとめ
上記からすると『小田原評定』も『久野寄合』も戦国期の言葉として奇妙で、小田原評定は存在が危うく、久野寄合は別の意味(久野に暫定集合した人たち)となってしまう。「相談」は問題がないが、それに次いで他出する「談合」が出てこないという点から、言葉の成立がいつぐらいかの推測はできそうだ。
合議の語彙として「相談」が生き残りつつ、「談合」は外れてしまい、新たに「寄合・評定」が入ってきた時期。恐らく近世だろう。
小田原に加えて久野が出てくるとなると、早川用水・荻窪用水を巡る利権調整が難航したことを指すようにも見えてくるが、これ以上は近世に詳しくないため判断できない。
史料で出てきた『小田原評定』的な北条氏政の発言
巷間に出回った『小田原評定』は天正18年の小田原攻め直前に設定されているのだけど、実はその8年前に印象的な文書がある。
天正10年に北条氏政が奔走している時のもので、この時は武田滅亡に際して正規の情報が全く入ってこなくて焦っていた。終日談合しているとしながら、西上野・甲斐・駿河のどこから攻め込むかは不明だがとにかく出陣の準備を急げと指示している。この文書の方がよほど『小田原評定』に近いような感じ。
- 戦国遺文後北条氏編2311「北条氏政書状」(三上文書)
幸便之間申候、信州模様必然之儀者、昨日自是申候キ、今日者終日及談合候、動之様子無落着候、先早ゝ多波川迄諸口之人数可打着由、立早飛脚候、其内遂工夫、西上州へ成共、甲州表へ成共、駿州表へ成共、可有行迄候、猶ゝ急速ニ御用意専一候、当方弓矢此時候、恐ゝ謹言、
二月廿日/氏政(花押)/安房守殿
幸いな便があったのでお伝えします。信濃国の状況(武田家滅亡)は必然であること、昨日こちらから申しました。今日は終日談合していました。作戦の内容は定まりません。まずは早々に多摩川まで諸口の部隊を徴集させるとのことで、早飛脚を立てました。その内に段取りにつけて、西上野国なり、甲斐方面なり、駿河方面なりに動員があるでしょう。なお、急速にご用意なさるの大切です。我々の勝負が決するのはまさにこの時です。