2017/04/21(金)他国へ運び出される兵粮を足軽が押収すること
〇永禄11年比定の北条氏邦朱印状で、他所へ移動しようとした兵粮は、発見した足軽に渡されるとしている。
敵働由候間、他所へ兵粮為無御印判、一駄も越ニ付者、見逢ニ足軽ニ被下候、其身事者、可被掛磔、小屋之義者、金尾・風夫・鉢形・西之入相定候、十五已前六十已後之男、悉書立可申上者也、仍如件、
辰十月廿三日/(朱印「翕邦把福」)/三山奉阿佐美郷井上孫七郎殿
戦国遺文後北条氏編1102「北条氏邦朱印状」(井上文書) 1568(永禄11)年
〇天正2年比定の虎朱印状で、他所へ移動しようとした兵粮を実際に押収した例がある。但し、押収者の植松右京亮に渡されはしたが、その後北条氏光が他の者に渡すよう指示している。
背御法度、為無御印判他国江出候兵粮、相押申上候、神妙ニ候、彼押置粮百四俵、植松ニ出置候、可請取者也、仍如件、
甲戌六月廿三日/(虎朱印)清水奉之/植松右京亮殿
戦国遺文後北条氏編1708「北条家朱印状」(稲村徳氏所蔵植松文書)
此度越度を以被召上兵粮百四俵、御直与一郎ニ於五ヶ村早ゝ相渡、請取を取、可懸御目者也、仍如件、
甲戌七月四日/(朱印「桐圭」)二宮奉/植松右京亮殿
戦国遺文後北条氏編1711「北条氏光朱印状」(稲村徳氏所蔵文書)
まあ、そうなるよね……。
2017/04/21(金)北条氏政の息子たち
戦国遺文を元に、可能な限り厳密に考えてみた。
1)まずは南殿(黄梅院殿)に関連した動き。
- 1554(天文23)年 南殿入嫁(勝山記・高白斎日記)
- 1555(弘治元)年11月8日 男子出産(勝山記)
- 1557(弘治3)年11月19日 晴信安産祈願
- 1562(永禄5)年 氏直生(系図?)
- 1565(永禄8)年 氏房(系図?)
- 1566(永禄9)年5月・6月 晴信が安産祈願
2)編年別で追ってみる。
●永禄12年
- 国王丸 氏真養子となり駿河を譲られる
- 国増丸 輝虎養子候補となるが幼少で外される10月段階に「5~6歳」なので永禄7~8年生
●天正3年
国増丸の岩槻入りが確認される
●天正5年
9月8日に氏直の名乗り初見。
●天正8年
菊王丸が大井宮に料足寄進(御屋形様・源五郎・御隠居様と連名)源五郎が岩槻で文書発給
菊王は諸書で氏房に比定されている。宗哲は菊寿、氏隆は菊千代なので、名乗り的に久野北条氏と関係があるかも。永禄9年5~6月に晴信が安産祈願している対象が菊王とすると、永禄10年生まれとなり天正8年は14歳で元服前の可能性が大きくなる。系図で氏房を永禄8年とする点は留意が必要。
●天正9年
9月20日十郎殿が初見(相模東郡)
●天正10年
- 3月6日源五郎が富士川周辺で戦闘
- 7月8日源五郎死去
●天正11年
7月28日岩槻で氏房が発給文書開始
●天正17年
- 2月25日氏邦が不法は新太郎へ訴えろと指示
- 4月27日関宿か江戸近辺での密漁が七郎配下の仕業と判明
- 8月1日千葉直重が文書発給開始
3)まとめ
某:弘治元年生まれの男子は登場しないため恐らく夭折
新九郎氏直:系図で永禄5年とされるのは、天正5年初見からして妥当。仮名は義氏書状から確定。
後北条氏家臣団人名辞典が「ただし、氏直文書の署名に「北条」と名乗ったものが一通も確認されず不思議である」とする謎も、今川家を継承した前提からとすると国王丸である可能性も高い。
源五郎:岩槻との同時代関連性から国増丸の可能性が高い。実名不詳。
十郎氏房:菊王丸の名が久野北条氏と近しい点、十郎殿が同氏と関係のある相模東郡と関わっている点から、菊王丸=十郎であり、源五郎死後の岩槻に入った氏房が「十郎氏房」を自称していることから、それぞれの比定は妥当。但し生年は永禄10年である可能性が高いと思われる。
七郎直重:七郎と直重の登場時期と地域が近しいため、同一人物の可能性が高い。
新太郎直定:氏邦書状の新太郎と、「新太郎直定」と自称した年欠高室院文書から同一人物との比定は妥当。
※直重・直定は通字「氏」がない点、登場時期から氏政前室黄梅院殿ではなく、後室の鳳翔院殿が母である可能性が高い。
※「顕如上人貝塚御座所日記」の表紙見返しに「相模国北条氏政[四十六歳、天正十四年]、氏直[廿三歳]当家督也」とある。これが正しいとすると、氏政は天文10年、氏直は永禄7年の生まれとなり、それぞれが通説より2歳若い。であるなら、氏直は国増丸だということになる。
2017/04/21(金)軍役をこなせるのは何歳から?
後北条氏の被官が何歳で成人となり軍役につけるかを考えてみた。とはいえ2例からなので、他にもあるかは引き続き調査中。
後北条氏には成人とみなす基準年齢があったのかも知れない。
天正3年に幼少の笠原千松に対して松田政晴を陣代としてつけた際「来る癸未年まで9年間」と限定している(戦北1771)。これは松田氏側の要因もあるのかと考えていたが、別の文書で少し理解が進んだ。
永禄12年、幼少の本田熊寿に伯父甚十郎を手代としてつけた際に「未年より跡目相続して陣役を務めよ。もし伯父が非分をするなら訴えよ」としている(戦北1251)。こっちは巳年発行の文書で言っているので、3年間の手代期間。家臣団辞典によると熊寿は本田正家で、1584天正12)年に小牧陣への援軍として選抜されている。正家は1618(元和4)年に61歳で死去というから、熊寿だった1569(永禄12)年時は12歳、家督継承時は14歳。
本田氏の例から敷衍すると、笠原千松は天正3年時に5歳だっということになる。
後北条氏が百姓らに出した総動員令で「十五より内之童部」は免除されているので、武家はこれより早めに軍役につけたというのが現状の仮説となる。
笠原千松幼少付而、陣代之事、其方ニ申付候、自当年乙亥歳、来癸未歳迄九ケ年立候者、経公儀千松に可相渡、然者代官所同心衆私領如比間、請取厳密ニ可致之、就中、豆州郡代之事、如先規相改、毛頭掟無妄様ニ可被走廻、仍状如件
天正三年乙亥三月二日/氏政(花押)/松田新六郎殿
戦国遺文後北条氏編1771「北条氏政判物」(松田敬一郎氏所蔵文書)
父本田一跡無相違可致相続、為幼少間、今来両年伯父甚十郎ニ手代申付候、自未年一跡請取而可致陣役候、若其内伯父甚十郎非分致之ニ付而者、可捧目安者也、仍如件
永禄十二年己巳壬五月廿日/(虎朱印)山角刑部左衛門尉奉/本田熊寿殿
戦国遺文後北条氏編1251「北条家朱印状」(本田文書)
掟一当郷ニ有之者、侍・凡下共ニ廿日可雇候、行之子細有之間、悉弓・鑓・鉄炮何にても得道具を持、何時成共、一左右次第、可罷出事、一此度若一人成共、隠而不罷出儀、後日聞届次第、当郷之小代官并百姓頭可切頸事、一惣而為男者ハ、十五、七十を切而、悉可罷立、舞ゝ・猿引躰之者成共、可罷出事、一男之内当郷ニ可残者ハ、七十より上之極老、定使、十五より内之童部、陣夫、此外者悉可立事、一此度心有者、鑓之さひをもみかき、紙小旗をも致走廻候ハゝ、於郷中、似合之望を相叶被下事、一可罷出者ハ、来廿八日公郷之原へ集、公方検使之前にて着到ニ付、可罷帰、小代官・百姓頭致同道、可罷出、但雨降候ハゝ無用、何時成共、廿八日より後天気次第罷出、可付着到事、付、着到ニ付時、似合ニ可持道具を持来、可付之、又弓・鑓之類持得間敷程之男ハ、鍬・かまなり共、可持来事、一出家ニ候共、此度一廻之事、発起次第、可罷立事、右、七ヶ条之旨、能ゝ見届、可入精、愚ニ致覚悟候者、可行厳科、又入精候者、為忠節間、如右記似合之望を相叶、可被仰付者也、仍如件、追而、御出馬御留守之間、御隠居御封判を被為 推候、以上
七月廿三日/(朱印「有効」)/木古葉小代官百姓中
戦国遺文後北条氏編3350「北条氏政掟書写」(相州文書所収三浦郡増右衛門所蔵文書)