2018/11/05(月)長尾景虎書状を巡る疑問点
長尾景虎書状に関して、門外漢がこの文書のみを読んだという前提で疑問点を挙げてみる。私の知識は今川・後北条関連に大きく偏っているため、越後国の表現や語用は判らないまま読んだ。
広い範囲で関連文書を読み込めばこのような疑問は解消するのだろうと思う。とはいえ、上杉輝虎に疎い初見者の感触だと「どこに引っかかってしまうのか」の記録として何かの役に立つかも知れないので、記しておく。
兄候弥六郎兄弟之者ニ、黒田慮外之間、遂上郡候、覃其断候処、桃井方へ以御談合、景虎同意ニ可加和泉守成敗御刷、無是非次第候、何様爰元於本意之上者、晴景成奏者成之可申候、恐々謹言、
十月十二日/平三景虎(花押)/村山与七郎殿
- 『上杉謙信「義の武将」の激情と苦悩』(今福匡)37~38ページ
「遂上郡候」
これは「逐上郡候」の誤記で、「上郡を逐う」と読むのだろうと思う。「遂」と「逐」はこの時代だとよく取り違えられている。こういった追放処置であれば、この後に「その断に及び候ところ」との繋がりがよい。ただ、このような表現は手元史料では見られず当て推量ではある。他家だと「追放」「追却」「追払」を使う。
「兄候弥六郎」
手元の他例を見ると「兄ニ候」「弟候」の後に続く人名は、差出人の兄弟だった。これに従って弥六郎が景虎の兄だとすると、これに続く「兄弟之者」が、持って回った表現になっていて奇妙。「兄の弥六郎の兄弟に」であれば、「私の兄弟に」と書くか、「兄候」もしくは「弟候」の後に直接その人名を書けばよい。このことから、差出人の兄ではない可能性は高いように見える。
また、弥六郎=晴景だとすると、文頭では兄としてくだけた感じで仮名を書いているのに、文の後ろでは畏まって実名を呼び「奏者」を介して報告する権威を強調している。ここに乖離があるような感触。
一方、与七郎の兄が弥六郎だとすれば、長兄弥六郎が相続その他で係争し、与七郎たち兄弟に「黒田」の知行を巡って慮外の行動を起こしたと理解可能(「兄弟共」ではないのが少し気になる)。その場合、上郡から逐われたのは弥六郎となる。
「黒田」
兄弟の知行争いであれば地名だと考えられる。そうではなく人名だとすると、上郡を逐われたのは黒田某になる。しかし、追放・成敗の事態に至る行動が「慮外」では弱い表現に感じる。他家への侵害であれば「横合非分」や「非儀」という強い表現を使うのではないか。「慮外」は利用範囲が広く、無沙汰を詫びる際にも使われる。
「無是非次第候」
「和泉守」に成敗を加える裁定に「景虎同意」したことに対して「無是非次第」とあるのは、和泉守成敗が景虎・与七郎にとって良くない決定だったとする意にもとれそう。「無是非次第」は好悪どちらにも使われるものの、それに続けて、「どうなったとしても晴景には取りなす」ような書き方をしている。これは、和泉守成敗という不利な状況で与七郎が動揺しないように書き添えたようにも見える。
「和泉守」
この人は少なくとも「弥六郎」「黒田」と同一人物ではないように見える。このどちらかが上郡追放になった措置のあとで、和泉守の成敗が行なわれているためだ。そしてまた、この成敗の動議が桃井某を経て行なわれたことから、「桃井」でもない。成敗に景虎同意が求められたことから考えると、景虎に近い人物であるかも知れない。
兄弟の知行争議だった場合は、官途名乗りであることから一族の年長者である可能性が高い。弥六郎と与七郎の騒動で和泉守が初期に調停をして、景虎を頼った。結果として弥六郎追放となったが、「御談合」「御刷」の中で、和泉守も責任を問われて処罰されたと考えられる。であれば、和泉守処分に景虎同意が必要とされ、景虎も「御談合」「御刷」に逆らえず同意した。この文脈であれば、すっきり読める。
「晴景成奏者成之可申候」
これを読み下すと「晴景の奏者となり、これをなし、申すべく候」という妙な言い回しになっている。ここは意図が推測できない。表現を迂遠にしてぼやかしたのかも知れない。
2018/03/26(月)戦国時代の掃除さぼり
掃除を命じられた町人たち
後北条氏の本城である小田原での掃除を命じた文書が伝わっている。命じられたのは小田原の船方村。
毎月の大掃除で、人足100人以上を出すように!
定置当社中掃除法
右、任先規、自欄干橋船方村迄宿中之者、人足百余出之、可致掃除普請、自当月於自今以後、毎月当城惣曲輪掃除之日可致之、何時も掃除之前日、西光院・玉瀧坊遂出仕、添奉行可申請、如此定置上、掃除於無沙汰者、西光院・玉瀧坊可処越度候、扨又朝夕之掃除之事者、両人可申付候、仍定処如件、
元亀三年五月十六日/(虎朱印)/西光院・玉瀧坊
- 戦国遺文後北条氏編1598「北条家朱印状」(蓮上院文書)
- 小田原市史小田原北条1107「北条家虎朱印状」(小田原市・蓮上院所蔵西光院文書)
定め置く当社中の掃除法。右は、先の規定のように、欄干橋より船方村までの宿中の者たちが人足を100余人出し、掃除普請をするように。今月以降は毎月の当城惣曲輪掃除の日に行なうように。何れも掃除の前日は西光院・玉瀧坊に出向いて、奉行を随伴して作業を受けるように。この定め置きがある上は、掃除を怠った場合には西光院・玉瀧坊の過失とするだろう。そしてまた、朝夕の掃除の者も両人(西光院・玉瀧坊)が指示するように。
小田原船方村
この中の「【分割】小田原市歴史的風致維持向上計画(第2章)」のPDFを参照したところ、船方村の記載があり、近世の千度小路を指すようだ。
先の朱印状では、この在所から欄干橋までの掃除を命じられている。
「掃除普請」とあることから、破損部分があれば修繕することも含まれるのかも知れない。また、毎月1度小田原城で「惣曲輪掃除の日」があったらしい。参加者は西光院と玉瀧坊で出欠をとり、(恐らく両寺院から出した)奉行を同伴するよう指示。これを怠ると、西光院・玉瀧坊の過失とすると定めている。更に、朝夕の掃除も西光院・玉瀧坊に指示したとされている。
毎日朝夕2回の細かい掃除と、作業員100名以上を出しての毎月1回の大掃除。これは厳しいと思うのだけど、案の定サボタージュして怒られている。惣曲輪掃除の日か朝夕の掃除か、または新たに賦課された掃除かは不明だが、船方村の人足が20名不足したらしい。
首に縄を付けてでも……
当社中晦日掃除人足之内、舟方村より廿人不罷出由、申上候、自古来相定候処、曲事ニ候、頸ニ縄を付引出、普請可申付候、及異儀者、可遂披露、可処厳科旨、被仰出者也、仍如件、
丑十一月二日/(虎朱印)江雪奉之/西光院・玉瀧坊
- 戦国遺文後北条氏編3758「北条家朱印状」(蓮上院文書)
- 小田原市史小田原北条2096「北条家虎朱印状」(小田原市・蓮上院所蔵西光院文書)
当社中で晦日の掃除人足のうち、船方村よりの20人が出てこなかったとのこと報告があった。古来より定めたところで、曲事である。首に縄を付けてでも引き出し、普請を指示するように。異議を唱える者は報告せよ。厳しく罪に問うだろうと仰せである。
いつ怒られたのか
この時の虎朱印状は年未詳だが、1572(元亀3)年以降で「丑」と記載されているので以下の年が候補となる。
- 1577(天正5)年
- 1589(天正17)年
小田原市史でも、奉者が板部岡融成である点から天正5年か天正17年のどちらかだろうと推測している。
掃除規則を「自古来相定候処」としているから、制定した元亀3年から5年後の段階で「古来より定めていた」と書くのは大袈裟過ぎるようにも見える。とはいえ、天正17年では氏直体制に完全に入っている。「首に縄をかけてでも」という感情的な表現は氏政体制でよく見られるため、天正5年比定も捨てがたい。
一つ留意したいのは、天正17年11月2日だとすると、通説で11月3日とされる名胡桃事件の前日に当たるという点。氏直釈明状によると、替地と称して上杉方が名胡桃を接収するという噂が流れ、それに対処して名胡桃を取ったとされている。かなりの緊張状態にあった筈であり、感情的な表現を使ってしまった可能性はある。
比較的のんびりしていた時期に氏政が激して書いたのか、名胡桃案件でピリピリしていた氏直がつい強めに警告してしまったのか。非常に興味深い。
2018/02/22(木)家康へのキレ方が氏直・秀吉で似ていた件
僅か9日の間に、敵味方の当主から同じような論調の文句を言われている徳川家康。
北条氏直「上洛が遅れたとかいうけど、12月でも1月でも2月でもいいじゃないか」
羽柴秀吉「3月1日の出馬が遅いって、じゃあ2月1日でいいよ。急げというなら1月1日にするか?」
北条氏直が羽柴秀吉への取り成しを依頼する
翻刻
従京都之御書付給候、并御添状具披見、内ゝ遂一雖可及貴答、還相似慮外候歟之間、先令閉口候、畢竟自最前之旨趣、貴老淵底御存之前、委細被仰候者、可為本懐候、猶罪之被糾実否候様所希候事、一両日以前以使申候キ、津田・冨田方へ申遣五ヶ条入御披見上、重説雖如何候、猶申候、名胡桃努自当方不乗取候、中山書付進之候キ、御糾明候者、可聞召届事、一、上洛遅延之由、被露御状候、無曲存候、当月之儀、正、二月にも相移候者尤候歟、依惑説、妙音・一鴎相招、可晴胸中由存候処、去月廿余日之御腹立之御書付、誠驚入候、可有御勘弁事、右之趣、御取成所仰候、恐々謹言、
十二月九日/氏直(花押)/徳川殿
- 小田原市史小田原北条1986「北条氏直書状写」(古証文五)
解釈
京都よりの書付をいただきました。合わせてお添えいただいた書状も拝見しました。内々で逐一お答えいただいていますが、繰り返し「慮外ではないか」とのこと、まずは閉口しております。
結局、以前からの趣旨は貴老も隅々までご存知でしょう。詳細を仰せいただければ本懐に思います。そして罪の実否をお調べいただけることを強く願います。一両日前に使者を送って申しましたが、津田・冨田方へお送りした5ヶ条をお読みいただいた上で、重ねての説明もどうかとは思いますが、更に申します。
名胡桃は当方が乗っ取ったものではゆめゆめありません。中山書付を進上しましたから、お調べいただければお聞き召しいただけると思います。
一、上洛遅延とのこと、御状に書かれていますが、つまらぬことです。当月のことは、1月、2月にも移せばよいことではありませんか。惑説があったので、妙音院・一鴎件を招き胸中を晴らそうと考えていたところ、先月20何日かのご立腹の書付があり、驚いています。よくお考えいただけますでしょうか。
右の趣旨でお取り成しをいただきたく。
羽柴秀吉が3月1日の出馬を通告し、国境警備・兵粮準備を依頼する
翻刻
芳札披見候、誠今度者早々依帰国、残多覚候、仍関東堺目無異義旨尤候、今少之間ニ候、弥無油断可被入精候、就其北条懇望之由、如書中何共申候へ、京都ハ御赦免之不沙汰、不及言舌儀候、自然号御侘言書状等持参者候者、可被為生涯候、随而御出馬相延候程可然旨、異見無余義候、然者三月朔日を二月一日ニ可被成候哉、急候て可然との事候者、正月一日も可有御動座候、其外御延引者一切不可成候、惣別於駿遠御越年程ニ雖被思召候、諸卒用意如何与、三月朔日之御出馬ニ被相究候、次兵粮米調之儀、成次第可有馳走候、自此方過分ニ被為悉候条、被闕御事候事、不可在之候間、可御心安候、猶浅野弾正少弼可申候、穴賢、
極月廿八日/秀吉(花押影)/駿河大納言■■
- 豊臣秀吉文書集2873「羽柴秀吉書状写」(二条文庫)
解釈
ご書状拝見しました。本当に今度は早々の帰国となり、心残りが多くあります。
さて関東境目に変わりがないのはよいことです。今少しの間です。ご油断なく、ますます精を入れられますように。それについて北条が懇願しているとのこと、ご書状の中にもあったように、何を言おうと京都ご赦免がないことは言辞に及びません。万が一、お詫び状などを持ってきたなら、その者を殺して下さい。
そしてご出馬を然るべく延期する件、この意見は余儀のないものです。(以下は、先行する家康書状は出陣を急かす内容だったと思われ、その返答になっている)では、3月1日を2月1日にすればよいのでしょうか。急ぐのが良いなら1月1日でもご動座があるでしょう。そのほかのご延引は一切ありません。総じて、駿河・遠江において年越しなさるお積りだとしても、諸卒の用意はどうなるでしょうと、3月1日のご出馬にお決めになりました。
次に兵粮米を調達する件ですが、可能な限りでご用意下さい。こちらからは余分に準備しますから、不足することはありません。なんでご安心下さい。
更に浅野弾正少弼が申します。