2018/01/17(水)第2次国府台合戦報告書

永禄7年の国府台合戦に関して、北条氏康・氏政が連署して、小田原にいたと思われる留守衆(北条宗哲・松田盛秀・石巻家貞)に戦況報告をした書状写が残されている。

  1. 油断して渡河して崩れた江戸衆を支えたのは氏政旗本であること
  2. 氏康旗本は地形上緒戦の状況を把握できていなかったこと
  3. 氏照・綱成・氏繁・憲秀(または氏規)・氏邦(または氏信)が活躍したこと
  4. 江戸衆の敗兵を再編成して追撃、18時前後に決戦をしたこと
  5. 太田資正は重傷を負って退却したこと
  6. 里見義弘を討ち取ったという報告があるが首級は確認できていないこと

永禄7年の1月8日はグレゴリオ暦で3月1日であり、17時35分に日没。薄明が終わるのが18時過ぎ。月の入りは20時22分で月齢2.5。月明かりは期待できない。こうした暗夜にまでもつれた合戦を指して「夜戦」と誤解されたのかも知れない。軍記ものでは緒戦の勝利に浮かれた里見方が油断した隙を狙って夜戦を仕掛けたとあるが、先勢敗退後に反撃した氏政によって里見方は後退している。更に、後北条方の接近を知って里見方も備を寄せたとあるので、奇襲ではない。

  • 小田原市郷土文化館研究報告No.50『小田原北条氏文書補遺二』p17「北条氏政・氏康連署書状写」(大阪狭山市教育委員会所蔵江馬文書)

    八日一戦勝利注進之間、即従仕場遣之、今度■前代未聞之儀候、最前敵退由申来を勝利存、先衆車次々之瀬を取越候、敵者大将里見義広為始安房・上総・岩付勢、鴻台拾五町之内備相手候、此有無不知遠山以下聊爾ニ鴻台上候処ニ、敵一銘押掛候間、於坂半分崩、丹波守父子・富永其外雑兵五十被討候、能時分ニ氏政旗本備寄候間、即押返、敵共討捕候、切所候故、氏康旗本者不知彼是非候、既先勢如此仕様、相続行兼術無了簡候処、跡者召集鍛直、無二一戦例落着、従鴻台三里下へ打廻候、敵も添而備寄候間、及酉刻遂一戦、即伐勝候、正木弾正・次男里見民部・同兵部少輔・荒野神五郎・加藤・長南・多賀蔵人を為始弐千余人討捕候、太田美濃も深手負下総筋へ逃延候、此衆太田下総・常岡・半屋を為始悉討捕候、雖義広討死候由候、其頸未見来候、椎津・村上両城自落之由申来候、源蔵・左太父子・左馬介乍常兼粉骨候、新太郎事、能時分従川越走着走廻候、此度之軍始中終両旗本を以切留候、此上者向小田喜・左貫可相動之条、先今度者可治馬覚悟候、謹言、
    正月八日/氏政・氏康/幻庵・松田尾張守殿・石堂下野守殿

8日の一戦の勝利を戦場から報告する。

今度は前代未聞のこと。

直前に敵を退けて勝ったと思ったようで、先衆が次々と瀬を越えた。

敵は大将が里見義弘の安房・上総・岩付勢。

国府台15町(約1.6km)の内に相手が備えを置いていた。

この存在を知らずに、遠山以下の者が迂闊に国府台に登った。

敵が一斉に押し寄せたので坂の半ばで崩れた。

遠山丹波守父子(綱景・隼人佑)・富永(康景)その他の雑兵50が討たれた。

良い時機に氏政の旗本備が攻め寄せたので、すぐに押し返し敵を討ち取った。

切所だったので氏康の旗本はこれを知らなかった。

先勢は既にこのようになり、続いての手立ても思いつかずにいたので、追撃のため編成し直した。

無二に一戦して決着をつけるため、国府台より3里(約2km)下へ出撃した。

敵も近づいて備えを寄せたので、酉刻(18時頃)になって一戦を遂げてすぐに切り勝った。

正木弾正・次男里見民部・同兵部少輔・薦野神五郎・加藤・長南・多賀蔵人をはじめとして、2,000余人を討ち取った。

太田美濃は重傷で下総方面へ逃げ延びた。

この衆は太田下総・恒岡・半屋をはじめとして全て討ち取った。

義弘は討ち死にしたとのことだが、その首級をまだ見ていない。

椎津・村上の両城は自落したとのこと。

源蔵(氏照)・左太父子(綱成・氏繁)・左馬介(憲秀or氏規)がいつもながら粉骨した。

新太郎(氏邦or氏信)はよい時機に川越より走り着いて活躍した。

今度の軍は最初から最後まで両旗本によって切り留めた。

この上は小田喜・佐貫に向かって作戦するだろうから、まず今回は帰陣するつもり。

2017/12/19(火)家康の起請文作戦を真似ようとした氏真

徳川家康=松平元康(以下、元康)スタートアップの成功要因は、既得権力の排除(吉良を最初に攻撃、次いで今川・一向宗を排除)に伴っての大幅な現場へのリソース還元が大きいと考えている。それに加え起請文を相手に出す率も高い。この時代起請文で契約が確定していたような気配はあるが、率先して元康自身が起請文を出すことにインパクトがあったようだ。被官側が起請文を出している例は私も武田・後北条・今川で確認しているが、被官が主家より起請文を貰い、それが濃密に伝来されているのは初期の徳川氏でしか見られないのではないか。

勿論、史料の残存状況にもよる。特に元康は後々将軍になる人物だから、起請文の残存率が高かったというのも妥当な推量だろう。ところが、今川氏真の書状に「元康は起請文によって人心掌握していた」と氏真が理解し、真似ようとしていたと推測できるものがあった。

1例しかないので心細いところだが、ひとまずまとめ。

元康に逆心された氏真は永禄4年夏に、奥平定勝・定能父子に幾通もの文書を送っている。牛久保攻めで露見した元康逆心では西三河衆が離反し、東三河の牧野右馬允、奥三河の菅沼小法師が寝返っていた。氏真からすれば、奥平父子の動向は極めて大きな要因だった。

そういう状況にあった永禄4年6月17日、氏真は奥平定能に栗毛馬一疋を贈与する書状を出している。同日付で父の定勝にも書状を送っているが、こちらには馬の記載はない。当主である定能に氏真が配慮していることが判る。

そこまでは不審なところはないけれど、その翌日付でもう1通定能に書状を送っている。その前日に馬を贈っているにも関わらず、何ということはない、忠節を称える奇妙な文言なのだが、こちらでは文末に「浅間大菩薩・八幡大菩薩不可有等閑候」が加えられている。とってつけたような感じで違和感を禁じえない。

奥平氏が今川方に留まった際には奥平一雲という人物が仲介しており、この一雲が氏真に元康の取り込み作戦の状況を報告し、「え、そうなの? じゃあ起請文ぽい文言を足してみるか」と、慌てて対応しようとしたのではないか、という見方もできる。

史料

  • 戦国遺文今川氏編1707「今川氏真書状写」(東京大学総合図書館所蔵松平奥平家古文書写)

今度松平蔵人逆心之刻、以入道父子覚悟、無別条之段喜悦候、弥境内調略専要候、此旨親類被官人可申聞候、猶随波斎・三浦右衛門大夫可申候、恐々謹言、
六月十七日/氏真判/奥平道紋入道殿

  • 戦国遺文今川氏編1708「今川氏真書状写」(東京大学総合図書館所蔵松平奥平家古文書写)

    今度松平蔵人逆心之割、無別条属味方之段喜悦候、仍馬一疋栗毛差遣之候、猶随波斎・三浦右衛門大夫可申候、恐々謹言、
    六月十七日/氏真判/奥平監物丞殿

  • 戦国遺文今川氏編1710「今川氏真書状写」(東京大学総合図書館所蔵松平奥平家古文書写)

    就今度松平蔵人逆心、不準自余、無二属味方之間尤神妙也、猶於抽忠節者、 浅間大菩薩・八幡大菩薩不可有等閑候、猶随波斎・三浦右衛門大夫可申候、恐々謹言、
    六月十八日/氏真判/奥平監物丞殿

2017/10/22(日)今川義元は大規模な軍事動員をしたのか?

朱印「調」は本当に今川義元の印判か?

有光友学氏・小和田哲男氏の著述を見る限りでは、今川氏が用いた印文「調」の朱印は義元のものとされている。僅か6例しか残されていないこの朱印状だが、以下の理由から義元が大規模な軍勢催促を予定していた証として援用されている

  1. 永禄2年8月に大井掃部丞に宛てた滑革・薫皮を急いで徴発したこと
  2. 永禄3年4月に伝馬手形を発行していること

しかし、これは「今川義元が永禄3年5月に尾張口で戦死したこと」を前提にしてしまっているのではないか。他例をきちんと読むと、これは息子の氏真が発行した確率が圧倒的に高いことが判る。

逐一追ってみる。

1559(永禄2)年

8月8日

  • 戦国遺文今川氏編1470「今川家朱印状」(静岡市葵区駒形通・七条文書)

    於当国滑革弐拾五枚・薫皮弐拾五枚之事右、来年可買分、如相定員数、只今為急用之条、無非分様可申付者也、仍如件、
    永禄弐年八月八日/文頭に(朱印「調」)/大井掃部丞殿

これが最初の文書となる。義元が戦備に要したという考え方も可能だが、後に出てくる駿府浅間社での対応を見ると氏真が代替わりに当たって儀礼を整えるために徴発したという可能性もある。

8月28日

  • 戦国遺文今川氏編1475「今川家朱印状」(山形県鶴岡市・致道博物館所蔵文書)

    為持仏堂立置賢仰院之事。右、陣取諸役可除之、并於有狼藉輩者、注交名可令注進、其上可加下知者也、仍如件、
    永禄弐年八月廿八日/文頭に(朱印「調」)/酒井左衛門尉殿

宛所が酒井左衛門尉忠次である点から、三河での文書が多く残り、この時期三河にいた可能性がある義元発給と見るのが妥当ではある。但し、禁制は寺社が受給して伝来することが多いのに対し、この文書は酒井忠次が宛所だし、彼の家が保持していた。どことなく違和感がある文書ではある。

9月26日

  • 戦国遺文今川氏編1477「今川家朱印状」(静岡県葵区大岩町・臨済寺文書)

    駿河国上原新在家之事。右、任天文廿年之判形、永不可有相違、但甘利藤一郎分依為料所、百姓桜井申様雖有之、既自新在家興行之刻、道下之分者彼在家中切発之上者、至于只今、給主方又者号料所之内、雖及異儀、永可為林際寺支配、雖然道上之儀者、重以公方人可定傍爾者也、仍如件、
    永禄弐年己未九月廿六日/文頭に(朱印「調」)/林際寺(端裏書:林際寺 氏真)

ここでは決定的な文言があり、端裏書で差出人として「氏真」が記載されている。前の2文書と異なって、駿府に位置する今川氏最大の菩提寺臨済寺宛である点から、富士浅間社も駿府浅間社も氏真に切り替わっていたこの段階では氏真が発給したと見るのが妥当だろう。

1560(永禄3)年

3月3日

  • 戦国遺文今川氏編1499「今川家朱印状」(静岡市葵区宮ヶ崎町・静岡浅間神社文書)

    浅間宮三月会装束目録。一、面、四人分。一、宝冠、紺段子後ニ付、四人分。一、光、銅滅黄、四人分。一、七条袈裟、此内三条金裯、切交、一条段子、切交、何モ緒紅、四人分。一、袍、地朽葉、四人分。一、牟志、面段子、裏朽葉、房浅黄、四人分。一、袴、面段子浅黄裏、絹、四人分。一、襪子、四人分。以上。右、前々道具令破損之条、今度改之、所被成新寄附、仍如件、
    永禄参庚申年三月三日/文頭に(朱印「調」)蒲原右衛門尉元賢(花押)/宛所欠

ここでは前々の道具が破損したことを理由に装束を新調し寄附することが伝えられている。1558(弘治4/永禄元)年8月13日には氏真がこの駿府浅間社に対して「駿河国浅間宮御流鏑馬千蔵方郷役之事」を定めている(戦今1416)。この時には朱印の印文は「氏真」となっている。祭礼の復興を代替わりを契機に行なおうとしていた流れで考えると、これも氏真の発給と見てよいだろう。

3月18日

  • 戦国遺文今川氏編1503「今川家朱印状」(某氏書状文書)

    参州当知行古部郷内蓬生分事。右、今度粟生将監依令検地、同蓬生村共可検地云々、蓬生分之事者為各別、自前々為屋敷分之間、所出置判形明鏡也、然間古部郷将監知行分計可改之、雖然蓬生分共雖相改之、為給恩増分之条、可令所務之、但将監於有申子細者、互遂糺明可加下知者也、仍如件、
    永禄参年三月十八日/文頭に(朱印「調」)/小島源一郎殿

三河国内での裁定となり、義元の可能性がある。但し、検地増分に関わる訴訟への言及は、義元の場合永禄2年6月8日のものが終見(戦今1463)であり、この後は氏真が専ら対応している点を考えると何とも判断しがたい。

4月8日

  • 戦国遺文今川氏編1505「今川家伝馬手形」(慶応義塾大学図書館所蔵反町十郎文書)

    伝馬弐疋、無相違可出之者也、仍如件。足代玄蕃ニ被下之、
    永禄参年四月八日/朝比奈丹波守奉之、文頭に(朱印「調」)/駿遠参宿々中

義元は永禄3年3月12日に中間藤次郎宛に判物を出している(戦今1501)。なので水運に関しては管理を手放してはいないが、同年4月24日に氏真が丸子宿に伝馬の定書を出している(戦今1508)。この時の朱印状は角型の「如律令」でそこに疑問は残るが、伝馬関連は氏真が担当したと見るのが妥当だろうと考えられる。

この翌月の5月19日に朝比奈丹波守親徳は尾張口で義元敗死の現場に居合わせるため、どうしても義元発給の印象が強くなったのだろうか。とはいえ1ヶ月以上のタイムラグはあるし、伊勢大湊から祭礼用の何かを取り寄せようとした可能性も高い。

また、足代氏は戦国遺文今川氏編でここしか登場していない。但し、氏真が伊勢に預けた道具の扱いをやり取りした文書伝来で名が出てくる。何れも1573(元亀4/天正元)年比定で時代は隔たっているものの、伊勢大湊に関係した足代氏と氏真の繋がりを窺わせる。

足代文書

  • 戦国遺文今川氏編2542「塙直政書状写」(賜蘆文庫文書三十三所収足代文書)

    尚以道具之事、氏実被預候ハゝ、随其代物可被召ニ候、内々候之節目候事候、若非分なる儀にて其方ニ候ハゝ、又随其何之道ニも無理ニ可被召置にてハ無之候、有様可被申候、此外不申候。急度申候、仍氏実茶道具当所在之事、必定旨申ニ付て津掃被遣候、有様ニ被申、不被進付てハ、可為曲事由御意ニ候、具掃部可被申候、恐々謹言、
    十月廿五日/塙九郎左衛門尉直政(花押影)/大湊中

  • 戦国遺文今川氏編2543「房兼・教兼連署状写」(賜蘆文庫文書三十三所収足代文書)

    就関東船上下之儀、従濃州条々被仰越候間、則自是被出使者候、然者氏実当郷廉屋七郎次郎許へ預物之儀被相改候、追可致合意由可被申付候、万一至及異儀者、濃州被仰合、即時ニ可被加御成敗候、委曲尚口上被仰出候由所候也、恐々謹言、
    十月廿九日/房兼(花押影)・教兼(花押影)/大湊中

  • 戦国遺文今川氏編2544「大湊老分衆書状写」(賜蘆文庫文書三十三所収足代文書)

    角屋七郎次郎許へ御尋物之儀申付候処、彼御預ヶ物之儀、去秋中 氏実様江送申、其上七郎次郎儀も○[此一儀付、]十日以前ニ浜松へ罷下候由、親之七郎左衛門尉申事候、并浜松より御道具下候へ由之書状為御披見懸御目候、塙九郎左衛門尉殿へも御報可申上候へ共、此之趣可預御心得候、以上、
    天正元十一月五日/老分/津田掃部助殿・鳥屋尾石見守殿

まとめ

「調」の内容は氏真を示唆

○永禄2年

  • 8月8日 革納品を命じたもの どちらも可能性あり
  • 8月28日 酒井忠次に賢仰院への禁制を出したもの 義元の可能性が高い
  • 9月26日 臨済寺に裁定での勝利を伝えたもの 氏真の可能性が非常に高い

○永禄3年

  • 3月3日 駿府浅間社の装束寄附 氏真の可能性が非常に高い
  • 3月18日 小島源一郎に検地増分安堵 氏真の可能性が僅かに高い
  • 4月8日 足代玄蕃に伝馬発行 氏真の可能性が高い

2番目にある酒井忠次宛のものだけがどうも奇妙な印象だが、3番目以降は全て氏真を指しており、そこから1番目も氏真発給である可能性が高いといえるだろう。

酒井忠次が禁制をもらった賢仰院が大樹寺内にあったことを重視するなら、もう一つの可能性が浮かんでくる。

朝比奈泰朝である可能性

義元でも氏真でもない?

永禄元年閏6月20日(大樹寺宛・戦今1403)~永禄3年5月2日(佐竹丹波入道宛・戦今1510)の間、発給文書が存在しない朝比奈泰朝が、この間は氏真側近として「調」朱印状を発給していた可能性も若干残されているかも知れない。

泰朝の父である泰能は大樹寺宛の文書も残していることから、忠次宛文書の謎も解明されるほか、同時期に氏真が「如律令」朱印を併用していた事象も説明が可能になる。臨済寺に「氏真から」と書いたのは、この印が泰朝を示すものではないという念押しだったともとれる。

泰朝は後年の永禄11年9月21日に「懸河」という八角形の朱印を発行していた(奥山左近宛・戦今2190)。

  • 戦国遺文2190「朝比奈泰朝ヵ朱印状」(奥山文書)

    犬居可相通兵粮之事。右、毎月五駄充、奥山左近方為湯分差越之間、森口・二俣口雖為何之地、無相違可令勘過者也、仍如件、
    永禄十一年辰九月廿一日/文頭に(朱印「懸河」)/津留奉行中(上書:奥山左近方へ)

ただ、泰朝が老獪だった訳ではなく、永禄元年4月22日に初見史料(戦今1392)が見られるから氏真よりむしろ後発であった点はネックになる。若い氏真と共に試行錯誤していたか。

「調」と「帰」

そもそも今川家当主の印文は名前であることが前提で、属人的意味合いが非常に強い。義元と氏真は「如律令」ではあるものの、印の形がそれぞれ異なる。

  • 今川氏親:未詳○・未詳□・氏親□・紹僖□
  • 今川義元:承芳□・義元(1型□・2型▯縦長)・如律令○
  • 今川氏真:氏真○・如律令□

○は丸印、□は角印。但し義元2型のみは縦長の矩形。

例外となるのは氏親室の寿桂が用いた「帰」の角印で、これは「当主ではない」という意味で一文字の抽象的文字を用いたのだろうと考えられるかも知れない。但し権限は強かったようで、当主氏輝の名が入っていながら無花押の文書に「帰」を押して効力をつけた例がある。

であれば、家督移行期に極めて短時間に登場した「調」も、誰かが代行した可能性があるだろう。矩形の角を切り取った特殊な八角形である点も、並行して押された義元2型印が縦長矩形の特殊形であったこととあいまって、正規の矩形印である氏真の「如律令」を侵害しない意向を示すのかと推測できる。

以下にこの時期の義元・氏真と「調」の発行時系列を挙げる。末尾は戦今の文書番号。

1558(永禄元)年

  • 閏06月02日・朝比奈泰朝判物 ※参考
  • 08月13日・氏真○1416
  • 09月02日・義元2▯1425
  • 12月12日・氏真○1437
  • 12月17日・氏真○1438
  • 12月17日・氏真○1439
  • 12月某日・義元2▯1441
  • 某月19日・義元2▯1442

1559(永禄2)年

  • 03月18日・義元2▯1451
  • 05月20日・如律令□1456
  • 05月23日・義元2▯1458
  • 06月10日・如律令□1464
  • 08月08日・調◇1470
  • 08月28日・調◇1475
  • 09月26日・調◇1477
  • 11月28日・如律令□1482

1560(永禄3)年

  • 02月22日・如律令□1497
  • 03月03日・調◇1499
  • 03月18日・調◇1503
  • 04月08日・調◇1505
  • 04月24日・如律令□1508
  • 05月10日・朝比奈泰朝判物 ※参考
  • 05月13日・如律令□1513