2018/09/19(水)寺社を焼くということ

寺社は戦国期によく焼かれたのか

漠然と、戦乱で寺や神社が焼かれたという認識を持っていたが、改めて史料から追ってみようと考えた。手持ちのデータから「焼」「放火」で検索し、ヒットしたものを分類してみる。

ちなみに、寺社への放火が禁制で明記されているのは、織田信長・羽柴秀吉・徳川家康。今川・後北条では見かけず、わずかに上田長則が天正9年に出した別当法禅坊宛ての禁制(戦北2237)があるのみ。

焼かれたのは何か

放火や焼き払いに関しての記述をまとめてみた。城や防御施設が対象のものが19例で最も多い。ついで、対象物は特に指定せず領域を指しているものが15例。明らかに民家を指すものが12例で続く。失火したり自ら焼いたりしたものは6例で少ない。調査対象となる、寺社を焼いたと明確な事例は5例。

城・防御施設 19例

  • 新津のね小屋焼払候を
  • 蕨地利、北新、去廿日夜、乗捕門橋焼落
  • 殊厩橋焼候哉
  • 本丸焼崩儀可有之候
  • 上野国中在松井田根小屋悉焼払
  • 二曲輪焼払候也
  • 昨日者武州深谷城際迄放火
  • 彼城中ニ有替衆、雖付火候
  • 今六日蒲原之根小屋放火之処
  • 抑去六日当城宿放火候キ
  • 谷中不残一宇放火候
  • 去廿日至中島相動、即及一戦切崩、数多討捕之、残党河へ追込、悉放火之由
  • 昨日も至花熊相働、山下放火之一揆も罷出御忠節仕候
  • 泊城押入、数多討捕之、悉令放火
  • 其上小早川幸山候得共、毎日此方足軽申付、十町・十五町之内迄雖令放火候
  • 去三日沼田東谷押替候、取出以不慮之行、打散悉放火
  • 韮山下丸乗崩、令放火之由
  • 小屋ゝゝニ火を掛
  • 端城乗入、悉令放火

領域 15例

  • 此表者焼動迄之事候条
  • 四日ニ上京悉焼払候
  • 万田より次ノ崎迄焼散被成候処ニ
  • 就在所鳥波放火
  • 佐野・新田領可放火候
  • 彼庄内悉放火
  • 今度津具郷へ相働悉放火
  • 駿府へ被相働、悉放火候
  • 今春向西上州相動、所々放火敵殺及討捕之由心地好候
  • 既向滝山放火必然之由
  • 江北中皆以放火候事
  • 伊豆堺迄放火候
  • 次伊豆浦処々放火
  • 剰小田原之地ことゝゝく放火のよし
  • 三浦渡海、如被存放火

民家 12例

  • 家へ押籠被為焼殺候
  • 彼山下焼払候旨
  • 高遠町令調儀焼候由
  • 素家之躰成共焼払所肝要候
  • 洛外無残所令放火
  • 近辺之郷村放火之由心地好候
  • 臼井筋之郷村令放火
  • 次白須賀之訳放火之事
  • 在ゝ所ゝ民屋、不残一宇放火
  • 御厨中之民家少ゝ放火
  • 然而小泉・館林・新田領之民屋不残一宇放火
  • 地下中令放火之間

失火・自焼 5例

  • 頗社頭以下放火之条 ※宮司職富士氏の御家騒動なので自焼
  • 去年於当府千灯院焼失云々
  • 火電時令焼失云々
  • 先判去年十二月令焼失云々
  • 居所とも自焼仕候而
  • 火電時令焼失云々

寺社 5例

  • 就動乱、堂塔已上九炎焼
  • 頭陀寺之儀者、云今度悉焼失
  • 殊今度敵動之刻、令煙焼之由候条
  • 廿三筑波へ乱入、知息院放火
  • 清水と申くわんおんたう焼申時

寺社はどのような状況で焼かれたのか

飯尾豊前守が頭陀寺を焼いたのは、彼の反乱に加担しなかった住持の千手院が、敵対して頭陀寺城に籠城したのが契機。千手院は今川氏真に「頭陀寺城被相移以忠節」と評され、飯尾豊前守と戦闘状態になっている。

倉賀野淡路守の戦陣で清水観音堂を焼こうとした際、焼き手の富永清兵衛は、敵の反撃に遭って一旦攻めあぐねている。

後北条氏が筑波に乱入して知息院に放火した際も、捕虜が200人以上、死者は数え切れない程だと書かれており、ここで激しい戦闘があった可能性は高い。

武田晴信・松平次郎三郎の例は不明。

5例中3例が戦闘を伴って寺社が焼かれたことから見て、何れの場合も無防備の寺社を焼いたというより、戦闘拠点として攻撃したのではないか。

天文3 松平次郎三郎→猿投神社

天文三年[甲午]六月廿二[午剋]、就動乱、堂塔已上九炎焼、 焼手松平之二郎三郎殿、当国住人、

  • 愛知県史資料編10_1186「八講諜裏書」(猿投神社文書)

永禄7 飯尾豊前守→頭陀寺

就今度飯尾豊前守赦免、頭陀寺城破却故、先至他之地可有居住之旨、任日瑜存分領掌了、然者寺屋敷被見立、重而可有言上、頭陀寺之儀者、云今度悉焼失、日瑜云居住于他所、以連々堂社寺家可有再興、次先院主并衆僧中、以如何様忠節、令失念訴訟之上、前後雖成判形、既豊前守逆心之刻、敵地江衆徒等悉雖令退散、日瑜一身同宿被官已下召連、不移時日頭陀寺城被相移以忠節、頭陀寺一円補任之上者、一切不可許容、兼亦彼衆徒等憑飯尾、頭陀寺領事、雖企競望、是又不可許容者也、仍如件、
永禄七年十月二日/上総介(花押)/千手院戦国遺文今川氏編2015「今川氏真判物」(頭陀寺文書)1564(永禄7)年比定

永禄12 武田晴信→須津八幡宮

駿河国須津之内八幡宮御修理之事。右、天沢寺殿本年貢之外、以段米之内弐拾俵、為新寄進被出置之処ニ、去従子之年已来、古槇淡路守申掠令押領之由、只今致言上之条、任先判形之旨領掌訖、殊今度敵動之刻、令煙焼之由候条、為彼造営所令寄進、不可有相違之者也、仍如件、
永禄十二己巳十二月十六日/文頭に(朱印「印文未詳」)/多門坊

  • 戦国遺文今川氏編2433「今川氏真朱印状」(富士市中里・多門坊文書)1569(永禄12)年比定

天正16 後北条氏→筑波知息院

態啓上候、仍先日者家中候者、機合相違付而、不敢聞召、御尋過分至極奉存候、追日如存取直被申候、聞食可為御太悦候候、内々以使者此旨雖可申上候、却而可御六ヶ敷候間、無其儀候、然者南軍之模様去廿二小田領被打散、廿三筑波へ乱入、知息院放火、取籠候者二百余人、越度仁馬無際限被取候由申候、昨日廿五、陣替由候、于今承届不申候、様子重而可申上候、恐々謹言、
孟夏廿六日/笠間孫三郎綱家(花押)/烏山江

  • 埼玉県史料叢書12_0852「笠間綱家書状」(滝田文書)1588(天正16)年比定

年未詳 倉賀野淡路守→清水観音堂

(抜粋)「加り金ノ城主くらかね淡路守殿、是へ働之時、清水と申くわんおんたう焼申時、我等参やき候へハ、敵くわんおんたう迄もち、為焼不申候時、せり合候て鑓ニ相たうをは焼はらい申候事」

  • 群馬県史資料編3_3696「冨永清兵衛覚書」(東京大学史料編纂所所蔵猪俣文書)

2018/08/06(月)「戸張」を含む文書

群馬県史資料編3_3692「北爪右馬助覚書」(岩手県・南部文書)。年欠

(後筆:北爪右馬助軍功書出、八月三日・紙数七枚)御尋ニ付而申上候、一、越国より新田へ御はたらきの時、田嶋ニおゐてくひ一ツ取申候、此請人本田豊後殿ニおり申候、長瀬伊賀、牧野殿ニ有之、あくさわ治部此両人存候事、一、新田の太田とはりきわニて、くひ壱ツとり申候、此請人右之両人之衆、又松平たんは殿ニおり申候、矢嶋三河存候、一、新田・ふちなニてくひ一ツ取申候、馬場二郎兵へ・千本木四郎兵へ存候事、是ハ越前へ御よひ候、被罷越候哉、おり所不存候、一、新田かなや口ニてくひ一ツ取申候、此請人まへはしさかい殿ニおり申候、石田ひこ・しけの内善存候事、一、新田ゆの入之よりいおしはらいあけはニてきつき申候処を、おしかへし田村と申者打、くひ取申候、此請人右之両人存候事、一、越国あしかゝへ御はたらきの時分、旦那ニ候五藤左京助、屋形様の御意ニそむきこはたおしほり申候時、あしかゝひかしとはりニおゐて、樋口主計おや両人共屋形さま御かんせんニてはしり廻、くひ一ツ取申候ニ付而、五藤こはたお其時ひらかせ申候、此請人長瀬伊賀、まへはしニ罷有石田・しけの内者ニ御尋可被成候、一、きりうさかくほの城ゑんこくより御せめ被成候時、竹はたのはさくまさしニいまい助之丞と申者、いまい与兵へと申者[我等]三人被仰付候時、御はなさき御がんせんニゐてくひ一ツとり申、此両人ハ其時うちしに仕申候、拙者もしかい同前のておい申処、やかた様御意おもつて御引取被下候、此御ほうひとしてくら内ニおいて御蔵米百石被下候、此請人本田豊後様ニおり申候長瀬伊賀存申候事、此外存候者共多候へ共、御家中ニ罷有者お申上候事、一、小見さかさ川の御陣之時、くひ一ツ取申候、請人まへはしニ罷有わたぬき甚内存候、一、ゑんこくよりはにう殿御引取被成候時、いゝの入小屋之衆ことゝゝくおし候て、人つき申候時、やかた様御ちしん五藤か衆をめしつられ、御かへし被成候時、御かんせんニてさいはいもちこち、くひ取申候間御はうひとして、御はをり一ツ被下候、此請人さのゝ太ふ殿ニおり申候、市川やと申者存候、一、あかほりニてくひ一ツ取申事、右之衆又内ゝ牧野殿ニおり申候あくさわ存候事、一、たるニ而くひ一ツ取申候事、此請人わたぬき甚内存候、一、新田江田ニてくひ一ツ取申事請人直江山城殿ニおり申候かぬまいなは存候事、一、きたちうあきのかミふたう山の城めおとし申候時、両日ニくひ二ツ取申候事、請人まへはしニ罷有しけの内善・ほしの賀兵へ存候、一、蔵内なかて取申候事、くひ一ツ取申事、此請人かたかい人や存候、松平たんは殿ニおり申候、一、小田原よりゑんこくへ三郎様への五つめとして御はたらきの時、上田ニてくひ一日ニ二ツ取申候、此請人まへはしニ罷有候わたぬき甚内、奥州ニかけかつニ罷有北条のと存候事、此ほうひとしてあきのかミ所より馬くれ被申候、一あきのかミいたての城かばのさわゑんこく衆せめ、二のまる迄せめあかり申候所ヲついておしいたし、三のまるニてくひ一ツ取申候、此請人わたぬき甚内・かたかい賀兵へ存候事、一、小田わらよりまへはしへ御はたらき之時しものてうとはりきわニて一人うち申候へ共、しかいとうせんのておい申候間、くひハ捨申候、請人北条能登守存候事、一、ゑんこくよりそうちや・いしくらおせめ被成候時、此五つめとして竹田しんけん様松井田迄御出候所ニ、御はたらきさきへ物見ニ罷越くひ一ツ取申候、此請人秋本越中かゝいニ候福田かけい左衛門尉存候事、此外はちかたへ罷うつり九年之内之事、一、おけかわいくさの時、くひ二ツ取申候事、此請人さかきはら殿罷有候つかさわ五郎兵へ、越前ニ罷有候岡谷隼人存候事、一、小田はらよりまへはしへ御はたらきの時分、たかはまとはりきわニてくひ一ツ取申候事、右之隼人被存候事、一、小田はらよりくらうちへ御はたらき之時、森下の城せめおとし被申候時、くひ一ツ取申候、請人かゝニおり被申候いのまた能登・とミなかかけいさへもん被存候事、一、ぬまたおかわニてくひ一ツ取申事、請人越前ニ罷有おゝこしへんの助・いのまた能登・とミなかかけいさへもん被存候事、一、くらうちかわはへのはたらきの時、くひ一ツ取申事、請人秋本越中かゝいニ候、小川主水存候、上泉主水存候へ共、老しに被申候、一、くらうちとはりきわニてくひ一ツ取申候事、請人三川様ニ罷有候本郷越前・岡谷はやと被存候事、小田原よりうつの宮へ御はたらきのとき、くひ十とり申たるよりもまし可申候間、いけ取いたし候へてきせつ御きゝ可申候間いけ取いたし候、則進上申候此請人御家ニ罷有大鷹七右衛門尉存候事、此外八ツハ御かんてう御座候、此内二つハやかた様かんてう、六ツハあわのかミ様御かんてうニ候、請人ニおよひ不申候事、此外奥州ニての走廻之事、一、川俣の城せめおとし申候時、くひ三ツとり申候事、請人御家ニ罷有候樋口主計、根岸主計存候事、一、もかミはたやニおゐて、さがいひせん二千斗ニて上申候処ニ、上泉主計おやこ召連ハしえきのりつめさがいひせんを十二やりつき申候へ共、ミへどをり不申候由申、さかいうちのさいはいもちつきおとし申候、御不しんニ候ハゝ、かミ殿御煩時分、さがいひせんニ御尋可被成候、てきよりもミたれ、ほしの・こはた・くまの・かわてたちハたれそと、かすか右衛門尉所へ尋被申候、いまニさがいひせんニハふちあんないニ候、已上、くひかす、卅九、此内いけとり一ツ、
八月三日/北爪右馬助/宛所欠

埼玉県史料叢書12_0275「上杉輝虎書状写」(三州寺社古文書三)注記、畠山下総守ヨリ謙信消息ノ写也。1564(永禄7)年比定

彼飛脚とくニも可返候へ共、爰元様見届さセ可越ためとめ置候、然者爰元様和田少地ニ候得共、晴信年を入いかにも堅固こしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、併馬を為寄候上者善悪ニ不及候間、無二セめへきそうふんにて、当月七日より取詰候へ共、れいしき国衆油断之様候つる間、越後之者共直ニ召連、惣体白井案内者にて、十一日ハとり入候、北条・箕輪・横瀬を始いつれの国衆もとはかり候しを、一つも取へす候へ共、涯分かセきそうしや・白井・越後衆者くるハにそのまゝのほりつめ置候、けつくよのてよりハてをいもこれなく候、うちのまるとはりへは五間とハ申度候へ共、十間のうちにて候、そこもとへも直ニこへ見つかり候間、いまゝてハ志内口よりハてきまへちかく候、又人数も味方者大くんニ候か、小地とハ申なからまへ五返に取まき候へ共、うつの宮・佐竹・あしかゝ衆者ひきはなし、陣取ニとんしやくなくおき候間、人数にふそくハこれなく候、併めい地にて候間、ほとのひ候てにん数すき候ハん時、両持の後詰あつてよこあいきうちのところをは、しられす候、ちやくはいなから身のうへもののふんハ、人数只今の分ニ候ハゝ後詰ハいかんあるましく候や、又両持後詰すくにおゐてハゝ国衆の事ハ佐・宮を始、弓矢かいなくわたられ候間、越後衆計ニていくさハかないかたく候、房州・太田いくさにまけ候時よりも、たゝいまハきうくつなんきニ候、とかくにこのたひハかたゝゝにあふへき事いかんあるへく候やと、心ほそく候間、はやくはかをやるへきために、一昨夜いちはんやりをとり、へいきハまてこへ候て、見かくしをゆわせ候へ者、めのまへの者ともハはらをたて候てうたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうになくゆたん候へ者、ことのひ候てきうしくちおしく候間、さてセいに入候、こさいかのきやくりきけんぶん、こさいにおよハす候、謹言。かいほつ又らう人衆のうちに一両人ておいし、さセるきなくうすてニ候、返々いつもよりかへりたく候間、このたひハおつとあるへく候やと心ほそく候、
三月十三日/虎(花押影)/金津新右兵衛尉殿・吉江中務少輔殿・本庄美作守殿

埼玉県史料叢書12_0284「簗田晴助書状写」(古簡雑纂五)。1565(永禄8)年比定

氏■当地江被取懸候附而、急度御札畏入存候、仍去二日巳刻被寄来候間、宿之外へ出人数候之処、太源為先勢打寄候間、懸野伏候処、氏康備前迄引退候、午刻氏康父子取手鑓被寄来候間、致行、宿之内へ引入、大戸張・小戸張・新曲輪、自三戸張切て出、新宿迄払出候、敵手負死人数多候条、用客廻ニ不得陣取、号中戸所、五里計引除陣取候間、翌日一行可令興行候由存候処、夜中退散無念此事候、何様御尋之御礼、自拙者可奉略候、恐々謹言、
三月七日/中務入道晴助(花押影)/佐竹次郎殿御報

埼玉県史料叢書12_0436「北条氏繁書状」(簗田家文書)。1574(天正2)年比定

依奥口所用有之、脚力差越候之処、被聞召届、貴札到来、并也三也令披読候、殊更御鷹一もと被懸芳意候、御厚志と云、地鷹と云、自愛無他事候、此等之趣、必々以使者可申入候、仍麦作為払捨可申越河、于今水海と申地簗田在戸張際ニ被陣取候、作毛悉壚ニ被致之候、当月中者、幸島口張陣可有之分ニ候、兼又其許御様子如何、承度被存候、節々氏政へ御通用可為専一候、対盛氏無二可申談心底逼塞被申候、猶以御鷹拝受本望、更以難尽筆舌候、令帰陣上、急度以使者可申述候、自陣中申入之間、抑先及尊答候、恐々謹言、
五月二日/北左氏繁(花押)/岩崎江貴報

小田原市郷土文化館研究報告No.50『小田原北条氏文書補遺二』p41「北条氏邦ヵ感状写」(酒井家史料十二)。1579(天正7)年比定

去廿六日きた条手切拠無処押返、於山之戸張際敵一人討捕候、高名之至無比類候、就走廻猶心懸者可及恩賞者也、仍如件、 卯拾月廿八日/差出人欠/北爪大学助殿

戦国遺文後北条氏編2145「北条氏邦感状」(北爪守雄氏所蔵文書)。1580(天正8)年比定

於山上戸張際、敵数多討捕之由、高名之至、無比類候、弥可抽戦功者也、仍如件、
辰二月廿七日/(北条氏邦花押)/北爪将監殿

埼玉県史料叢書12_0764「北条氏邦書状写」(赤見文書)。1585(天正13)年比定

今度沼田宿城於上戸張、両人高名、殊強敵ニ逢、鑓手数ヶ所被負、手柄之勝負、誠無比類候、御旗本御仁江茂、則猪俣を以申上候、中ニも其方走廻儀、及御披露ニ候処ニ、不浅御褒美之上意ニ候、追而御勘状可被下之由、被仰出候間、可被存過分候、恐々謹言、
九月廿九日/氏邦/矢野兵部右衛門殿

埼玉県史料叢書12_付183「北条氏直書状写」(小幡文書)。年欠

両種到来、祝着候、疾之模様如何、無心元候、好々養性専一ニ候、依而為慰労、金屏風一双、進入之候、乍序、昨日者於戸張際有仕合、敵押崩、百余人討捕、二曲輪焼払候也、恐々謹言、
月七日/氏直(花押)/小幡播磨守殿

埼玉県史料叢書12_付231「上杉憲政書状」(岡部忠勝家御文書)。年欠

先年当城相攻候時被疵、重而今度親子厳密令在陣、去六日於戸張際励戦功、数ヶ所負手候、忠信誠感悦候、当国本意之上可行忠賞候、然則不行歩之事候間、於向後者戦場之上、何時も以乗馬可走廻候、委曲倉賀野三河守可申遣候、謹言、
十二月十一日/憲政(花押)/岡部平次郎殿

2018/06/14(木)北条氏邦の憂鬱

上野国白井でのごたごた

北条氏邦が管轄していた白井で揉め事があった。年未詳の文書でその詳細が判るのだけど、なかなかに興味深い。そして、この文書を足掛かりに、氏邦が他に出した謎の書状の状況も判ってきた。

白井長尾家中の混乱

氏邦がうんざりしながらも忍耐強く書き記したのは、いかにも彼らしい現場に則した意見書・指示書。長文だが書き出してみる。

原文

先日白井へ吉里子・矢野弟侘言以吉田申候処、召出間敷候之内、従白井殿承候、左候ハゝ両人共、何方江茂可任存分歟、白井之矢野・吉里事者、不肖ニ候へ共、関東ニ無其隠弟子共ニ候間、一騎合連ゝ子共之様無躰ニハ被致間敷候、従其方所神庭三河入道所迄、以此一札早ゝ一往尋可申候、従我ゝ所長左江直ニ申度候へ共、はや無詮候、先日長文認以其方左衛門殿江及御助言つる、無其意趣候間、我ゝ者閉口候、只今一騎合之者共致出頭、矢野・吉里・高山以下あるも有ゝ候無之模様見聞候、彼等何共成候者、白井殿御手前も如何存候、其家可崩ニハ、家中老名絶物ニ候、先度之御意見、神庭・矢野・吉里・高山ニ茂不被頼候、一井斎従御代彼等走廻存之面ゝニ候へハ、左衛門殿御為を存申候、明日ニも御弓矢起候共、又御屋形様へ御出仕候共、従前ゝ御大途御存之者共、閉口申合候之者共、於白井出仕申候共、誰も召上間敷候、左衛門殿御為を存、卒爾ニ候御連共、当春其方を左衛門殿へ越候つる
一、三日以前其方申分者、先日之座頭一廻返候へ者、左衛門殿仰之由披露、近比其方無届并子細ニ候、彼座頭白井殿下ニ者、一同左衛門殿ため悪かれと計匠、座頭之不似合義致之候間、石こつミニもすへき之由存候へ共閣候、結句、白井殿呼度候由承候、是も尤候、御為を存申候へハ悪様ニ御分別候
一、面ゝ連も可聞及候、惣別当方御法度ニ而、座頭なと境目之衆致懇切置事、御きらひに候、其意趣ハ、座頭廻文を廻し、駿州・房州ニ而も、種ゝ之儀致之候、越後之座頭出頭更不及分別候、彼座頭そこもとニ而猿寿ニ預ヶ候、白井殿へ尋申越候、得にて仰候ハゝ、早ゝ可越候、人之御為を存申候へハ、無御聞届候、為労無功義候、尚以、吉里子・矢野弟何方江茂可任足歟、此儀一往左衛門殿可取伺義候、謹言、
九月四日/氏邦/矢部大膳亮殿

  • 戦国遺文後北条氏編3982「北条氏邦朱印状写」(北条氏文書写)

解釈

先日白井へ、吉里の子・矢野の弟が吉田を通じて侘言を言って、召し出しに応じない状況だと、白井殿より聞きました。それでは両人をどこへ預ければよいのでしょうか。白井の矢野・吉里といえば、詳しくはありませんが、関東でその隠れなき存在で、その子弟ですから、一騎合の連中の子供みたいに無茶な扱いはできません。あなたの所から神庭三河入道の所まで、この書状を見せて早々に一度問い合わせてみて下さい。私の所から「長左」へ直接聞きたいのですが、もう埒が明かないでしょう。先日、長文をしたためてあなたを経て左衛門殿へご助言しました。その反応もありませんから、私は閉口しています。
今は一騎合の者たちが出頭して、そこに矢野・吉里・高山以下がいるはずなのに、確認がとれていない状況なのは聞いています。彼らがどうにもならないのを、白井殿とその周辺はどうお考えなのでしょうか。その家が崩れる時には、家中の老名(おとな)が絶えるものです。
先度のご意見。神庭・矢野・吉里・高山を頼みになさっていません。一井斎の御代より活躍していた面々ですから、みな左衛門殿のおためと思って申しています。明日合戦が起きても、又は御屋形様へご出仕しても、御大途がご存じの者たちに閉口された者たちが白井で出仕したとしても、誰も召し上げません。左衛門殿のおためを思い、卒爾なつながりではあってもと、この春あなたを左衛門殿の元へ送ったのです。
一、三日以前にあなたが報告した件。先日の座頭が一巡りして返ろうとしたら、左衛門殿が仰せを披露。近ごろは届けがないし不審な事情があるとのこと。あの座頭は、白井殿の下にいる一同が「左衛門殿を貶めよう」と企んだという。座頭には不似合いな所業だとして「石こつミ」にもしよう」とのことでしたが、この意見は差し置かれ、結局「白井殿が呼びたいから」となってしまったとのこと。これもご尤もです。おためを思うなら、これは悪いご分別だと思います。
一、面々たちも聞き及んでいるでしょう。全体に、当方のご法度にて、座頭などを境目の衆が懇切に扱って手元に置く事は、嫌っています。その意図は、座頭が廻文を廻し、駿河・安房へもあれこれ伝えてしまうからです。越後の座頭を呼ぶのは更に分別がないことです。あの座頭はそちらで猿寿に預けるよう、白井殿へ確認の連絡をします。諒承が得られれば、早々に処置して下さい。
人のおためを思って申しても、聞き届けられません。労をなしても功義はありませんね。
ところで、吉里の子・矢野の弟はどこなら任せられるのでしょうか。この件、一度左衛門殿にお尋ねになってみて下さい。

箇条書きによるまとめ

当事者同士による説明の省略は余りない。これは、宛所の矢部大膳亮に対して神庭三河入道へこの書状を送って助言を乞うように指示しているからだろう。ただそれにしても白井長尾家中に詳しくないと理解が難しい。

そこで、箇条書きで情報を整理してみる。

  1. 白井殿が氏邦に伝える。「白井に、吉里の子・矢野の弟が吉田を通じて陳情し出勤拒否をしている」とのこと。

  2. 白井の矢野・吉里といえば著名な一族で変な扱いはできない。

  3. 宛所の矢部大膳亮に、神庭三河入道にこの書状を見せて相談することを、氏邦が依頼。

  4. 氏邦から「長左」へ直接言うのは、矢部大膳亮を通じて送った長文の諫言も無視されたのでできない。

  5. 現在、一騎合が氏邦の元に出頭しているのに、矢野・吉里・高山以下の所在が不明瞭。「これは白井殿の手前どうなのか。家が崩れるのは家老からだ」と氏邦が悲観する。

  6. 氏邦の意見に反して、左衛門殿は神庭・矢野・吉里・高山を頼っていない。一井斎(憲景)の代から活躍していた面々。「左衛門殿のために言っているのに」と氏邦は嘆じる。

  7. 氏邦の主張。「様々な状況での雇用であっても、人材を取り上げることはない。左衛門殿のために、この春に矢部大膳亮を派遣した」という。

  8. 大膳亮の報告について。座頭たちが一巡りして帰る際に、左衛門殿が「この座頭は無届けだし支障がある」と意見。「白井殿の下の者が左衛門殿は悪だくみをしているのだ」と言ってこの件を差し置いた。結局、白井殿は座頭を呼びたいということに。「こうなったのはもっともなことで、ためを思うならば、これは悪い分別だ」と氏邦は解釈。

  9. 氏邦は掟を説明。国境に座頭を置くのは禁止。座頭は廻文で駿河・安房に情報を流してしまうからだという。「それなのに越後の座頭を呼ぶのはありえない」と加えて指摘し、座頭を猿寿に預けるよう白井殿へ通達する。諒承あり次第の処置を命ず。

  10. 氏邦が嘆く。「人のために諫言しても聞き入れられず、苦労ばかりなことだ」と。

  11. 吉里の子・矢野の弟の預け先を最後に再び質問。大膳亮から左衛門殿に相談してほしいと依頼。

白井殿と左衛門殿 人物別まとめ

  1. 白井殿(御屋形様)……矢野・吉里の子弟に出勤拒否される。重臣たちの管理が不徹底。左衛門殿の反対を押し切って越後の座頭を呼ぶ。国境の座頭滞在は禁止だと氏邦から通達される。

  2. 左衛門殿(長左)……氏邦の長文意見を無視、家老を頼らない方針。氏邦から大膳亮をつけられる。矢野・吉里案件の相談先として氏邦が相談先に選ぶ。座頭問題では「無許可・支障」を理由に座頭招致を反対。

  3. 一井斎……神庭・矢野・吉里・高山たちを指して「一井斎従御代彼等走廻存之面ゝニ候へハ」と表現。「御代」は物故した先代の時代を指すから、白井殿か左衛門殿、あるいは双方の父であった可能性が高い。

左衛門殿は、氏邦が最初の方でうっかり「長左」と書いてしまっている。恐らく、より広い範囲の後北条家中ではそのように呼んでいたのだろう。その部下にした大膳亮に配慮してこの後は敬称にしている。

矢部大膳亮は、かつて氏邦の部下でこの年の春から左衛門殿につけられた。氏邦と左衛門殿は直接書状を送り合う間柄だが、この文書では大膳亮が仲介するように命じられている。同様の存在として冒頭に出てくる「吉田」がいて、この人物は矢野・吉里の子弟からの陳情を白井(左衛門殿)に取り次いでいる。

白井殿が御屋形様とも呼ばれていたと仮定したのは、「御屋形様」と「御大途」が併記されているため。文中で「左衛門殿の被官を召し上げることはない」とした条件の中に「御屋形様に仕えた者」と「御大途周囲の者が嫌った者」がある。左衛門殿の被官の条件だから、御屋形様は左衛門殿自身ではないし、併記されている御大途にも当たらない。ここから、白井殿=御屋形様という仮説に至った。

もう一つの書状

氏邦は同じ日付で神庭三河入道に書状を送っている。大膳亮に宛てたものに添えたものだろう。

矢野・吉里子之儀ニ付而、矢部其方所迄申候、更無所詮事ニ候へ共、先日申候成間敷なら者、早ゝ進退為近可申候、又ゝ仰出候而も、無其意趣茂、左衛門殿気も不和、是は房州御意見候間、無処召出候なとゝ存分立候者、未募間敷候之条、此侭何方へ茂、越可申候、恐ゝ謹言、
九月四日/氏邦/神庭三河入道殿

  • 戦国遺文後北条氏編3993「北条氏邦書状写」(赤見文書)

矢野・吉里の子について、矢部があなたの所まで申します。更に検討するようなことではありませんが、先日言ったようにならないならば、早々に進退を近くするように申しましょう。また、仰せ出しになっても、その意趣もなく、左衛門殿の気持ちも知らず、これは私がご意見していますから、無理にでも召し出そうなどとの考えを立てて未だ募ってはならないので、このままどこかへ送ってしまおうと思います。

「左衛門殿気も不和」は「不知」の誤翻刻かと思う。左衛門殿の意見が来ないので、氏邦が独自に判断していることを伝えているからだ。

先の書状で氏邦が気に病んでいた矢野・吉里子のことが相談されている。その中で「これは左衛門殿ではなく私の意見だから、無理に白井へ勤務させることはない」というようなことを書いている。そして「無理にでもと言い出さない内にどこかへ送ってしまおう」と続けているから、白井の家中においては氏邦より左衛門殿の意見の方が強かったのが判る。

ここに白井殿は出てこない。

専門家による人物比定

改めて、氏邦が関わった左衛門殿・白井殿は誰かを検討してみる。一井斎は白井長尾の憲景で間違いない。

憲景には、輝景と鳥房丸という二人の息子がいた。人名辞典で当該部分を抜粋すると……。

後北条氏家臣団人名辞典

長尾憲景

吉里の子と矢野弟の兄弟の扱いについて指示し長尾一井斎も存じの者とある。

長尾輝景

白井へ吉里子・矢野弟が侘言を言ってきたとある。当文書では北条氏邦が指南役として白井長尾氏の家老衆と輝景の和解を図った。

  • この辞典には輝景の弟として政景の項目があるが、家老衆との諍いに関する記載はない。

戦国人名辞典

長尾鳥房丸

天正十三年兄輝景の重臣牧和泉守親子が拠する田留城(赤城村)を所望するが果たせず、兄の意に背いて重臣牧親子と争い、城内の内通者と謀り、これを謀殺したと伝える。兄との確執や当主交替を伝える伝承があるのも、白井城周辺での内紛を反映しているのか。兄輝景が重臣と対立していたのもこの頃である。

誰が誰なのか

どちらの辞典も白井殿と左衛門殿を同一人物として扱い、輝景を比定している。しかし、同一文書で何度も両方の名が出てくること、座頭の扱いを巡って両者が対立していることから見ても、別人物と考えるのが妥当だ。

とすると、憲景(一井斎)は父であり故人、跡を継いだ輝景は白井殿・御屋形様と呼ばれていたと考えるのが最も自然である。兄弟が勤務を拒んだ「白井」は政景であり、一騎合を監督すべき家老たちの所在が曖昧であることを嘆いた氏邦が「白井殿の手前、こんな状況はいかがなものか」と案じたのも政景の指導力欠如を憂いたためだ。こう考えると全てがすっきりつながる。

憲景・輝景と続けて名乗ってた官途である「左衛門」を、輝景生存時に弟の政景が名乗ったのは違和感がある。しかし、輝景に実子がいたという痕跡がないので、父の死後に小田原から戻った政景が兄の養子になり官途を受け継いだとすれば問題はない。政景の後見役として氏邦が入り、矢野・吉田といった部下を配属させた。後北条の支援を受けた政景に押されて、実質的に輝景は若くして隠居状態となり、兄弟の関係も険悪になったのかも知れない。その状況は座頭事件での微妙な描写に窺われる。また、戦国人名辞典での内紛も何らかの形で当時の緊張が伝承として残されたと考えられる。

矢野の弟はどのような扱いを受けていたのか

1589(天正17)年に比定されている、不気味な氏邦書状がある。この文書単独では判らなかった事情が、上述の経緯を踏まえると一歩踏み込んだ形で理解ができる。

其方事此度無相違以子細、出仕候由、肝要ニ候、然ハ、其方陣所へ来り候成共、をとすもの有之ハ、爰元江不及披露、致書付以酒井、新太郎所へ可被申候、惣別小田原衆ニ付逢事、無用ニ候、無理来者有之ハ、此一札を見せ、可被断候、其方新太郎所へ可被申候、大途之可立御用候、誰歟兎角申候共、少成共、大途御相違有間敷候間、心安可被存候、をとすものを大途江可有披露候、恐ゝ謹言、
二月廿五日/氏邦/矢野孫右衛門殿

  • 戦国遺文後北条氏編3429「北条氏邦書状写」(赤見昌徳氏所蔵文書)

あなたのことは、この度相違のない事情で出仕されたとのこと。重要なことです。ですから、あなたが陣所へ来た時などに、脅す者がいたら、こちらへは報告せずに、書付をしたためて、酒井を使って新太郎の所へ申告して下さい。総じて小田原衆と付き合うのは無用なことです。無理に来る者がいたら、この書状を見せて注意して下さい。あなたが新太郎の所へ来たのは大途のお役に立つためですから、誰かがとやかく言うことではありません。少しのことでも、大途は相違がありませんから、ご安心下さい。脅す者を大途へ報告するでしょう。

鳥房丸=輝景の弟=政景とすると、矢野孫右衛門を脅していた「小田原衆」は、白井家中において小田原に人質として長く生活していた政景とその側近を指すのかも知れない。本来の小田原衆は当主である大途と直結していた筈なので不思議に考えていたが、白井の中での話だとすると判り易い。白井勤務から逃げた矢野弟=孫右衛門が、氏邦の元でその後継者と思われる「新太郎」に仕えることになり、それを面白く思わない白井の小田原衆が妨害する恐れがあったということか。

政景と矢野の因縁

1583(天正11)年比定の虎朱印状では、氏邦に宛てて、長尾鳥坊丸の帰郷を認めている。代わりの人質として「矢野」が小田原に行ったようだ。

長尾鳥坊老母煩ニ付、鳥坊丸ニ矢野証人替相達有間敷者也、仍如件、
未十月九日/(虎朱印)垪和伯耆守奉之/安房守殿

  • 戦国遺文後北条氏編2580「北条家朱印状写」(上杉文書十一)

こうした状況から、家中が安定していれば固い絆で結ばれたであろう主従も、状況によっては仇敵になってしまうことがあったのだと考えられる。