2018/06/14(木)北条氏邦の憂鬱

上野国白井でのごたごた

北条氏邦が管轄していた白井で揉め事があった。年未詳の文書でその詳細が判るのだけど、なかなかに興味深い。そして、この文書を足掛かりに、氏邦が他に出した謎の書状の状況も判ってきた。

白井長尾家中の混乱

氏邦がうんざりしながらも忍耐強く書き記したのは、いかにも彼らしい現場に則した意見書・指示書。長文だが書き出してみる。

原文

先日白井へ吉里子・矢野弟侘言以吉田申候処、召出間敷候之内、従白井殿承候、左候ハゝ両人共、何方江茂可任存分歟、白井之矢野・吉里事者、不肖ニ候へ共、関東ニ無其隠弟子共ニ候間、一騎合連ゝ子共之様無躰ニハ被致間敷候、従其方所神庭三河入道所迄、以此一札早ゝ一往尋可申候、従我ゝ所長左江直ニ申度候へ共、はや無詮候、先日長文認以其方左衛門殿江及御助言つる、無其意趣候間、我ゝ者閉口候、只今一騎合之者共致出頭、矢野・吉里・高山以下あるも有ゝ候無之模様見聞候、彼等何共成候者、白井殿御手前も如何存候、其家可崩ニハ、家中老名絶物ニ候、先度之御意見、神庭・矢野・吉里・高山ニ茂不被頼候、一井斎従御代彼等走廻存之面ゝニ候へハ、左衛門殿御為を存申候、明日ニも御弓矢起候共、又御屋形様へ御出仕候共、従前ゝ御大途御存之者共、閉口申合候之者共、於白井出仕申候共、誰も召上間敷候、左衛門殿御為を存、卒爾ニ候御連共、当春其方を左衛門殿へ越候つる
一、三日以前其方申分者、先日之座頭一廻返候へ者、左衛門殿仰之由披露、近比其方無届并子細ニ候、彼座頭白井殿下ニ者、一同左衛門殿ため悪かれと計匠、座頭之不似合義致之候間、石こつミニもすへき之由存候へ共閣候、結句、白井殿呼度候由承候、是も尤候、御為を存申候へハ悪様ニ御分別候
一、面ゝ連も可聞及候、惣別当方御法度ニ而、座頭なと境目之衆致懇切置事、御きらひに候、其意趣ハ、座頭廻文を廻し、駿州・房州ニ而も、種ゝ之儀致之候、越後之座頭出頭更不及分別候、彼座頭そこもとニ而猿寿ニ預ヶ候、白井殿へ尋申越候、得にて仰候ハゝ、早ゝ可越候、人之御為を存申候へハ、無御聞届候、為労無功義候、尚以、吉里子・矢野弟何方江茂可任足歟、此儀一往左衛門殿可取伺義候、謹言、
九月四日/氏邦/矢部大膳亮殿

  • 戦国遺文後北条氏編3982「北条氏邦朱印状写」(北条氏文書写)

解釈

先日白井へ、吉里の子・矢野の弟が吉田を通じて侘言を言って、召し出しに応じない状況だと、白井殿より聞きました。それでは両人をどこへ預ければよいのでしょうか。白井の矢野・吉里といえば、詳しくはありませんが、関東でその隠れなき存在で、その子弟ですから、一騎合の連中の子供みたいに無茶な扱いはできません。あなたの所から神庭三河入道の所まで、この書状を見せて早々に一度問い合わせてみて下さい。私の所から「長左」へ直接聞きたいのですが、もう埒が明かないでしょう。先日、長文をしたためてあなたを経て左衛門殿へご助言しました。その反応もありませんから、私は閉口しています。
今は一騎合の者たちが出頭して、そこに矢野・吉里・高山以下がいるはずなのに、確認がとれていない状況なのは聞いています。彼らがどうにもならないのを、白井殿とその周辺はどうお考えなのでしょうか。その家が崩れる時には、家中の老名(おとな)が絶えるものです。
先度のご意見。神庭・矢野・吉里・高山を頼みになさっていません。一井斎の御代より活躍していた面々ですから、みな左衛門殿のおためと思って申しています。明日合戦が起きても、又は御屋形様へご出仕しても、御大途がご存じの者たちに閉口された者たちが白井で出仕したとしても、誰も召し上げません。左衛門殿のおためを思い、卒爾なつながりではあってもと、この春あなたを左衛門殿の元へ送ったのです。
一、三日以前にあなたが報告した件。先日の座頭が一巡りして返ろうとしたら、左衛門殿が仰せを披露。近ごろは届けがないし不審な事情があるとのこと。あの座頭は、白井殿の下にいる一同が「左衛門殿を貶めよう」と企んだという。座頭には不似合いな所業だとして「石こつミ」にもしよう」とのことでしたが、この意見は差し置かれ、結局「白井殿が呼びたいから」となってしまったとのこと。これもご尤もです。おためを思うなら、これは悪いご分別だと思います。
一、面々たちも聞き及んでいるでしょう。全体に、当方のご法度にて、座頭などを境目の衆が懇切に扱って手元に置く事は、嫌っています。その意図は、座頭が廻文を廻し、駿河・安房へもあれこれ伝えてしまうからです。越後の座頭を呼ぶのは更に分別がないことです。あの座頭はそちらで猿寿に預けるよう、白井殿へ確認の連絡をします。諒承が得られれば、早々に処置して下さい。
人のおためを思って申しても、聞き届けられません。労をなしても功義はありませんね。
ところで、吉里の子・矢野の弟はどこなら任せられるのでしょうか。この件、一度左衛門殿にお尋ねになってみて下さい。

箇条書きによるまとめ

当事者同士による説明の省略は余りない。これは、宛所の矢部大膳亮に対して神庭三河入道へこの書状を送って助言を乞うように指示しているからだろう。ただそれにしても白井長尾家中に詳しくないと理解が難しい。

そこで、箇条書きで情報を整理してみる。

  1. 白井殿が氏邦に伝える。「白井に、吉里の子・矢野の弟が吉田を通じて陳情し出勤拒否をしている」とのこと。

  2. 白井の矢野・吉里といえば著名な一族で変な扱いはできない。

  3. 宛所の矢部大膳亮に、神庭三河入道にこの書状を見せて相談することを、氏邦が依頼。

  4. 氏邦から「長左」へ直接言うのは、矢部大膳亮を通じて送った長文の諫言も無視されたのでできない。

  5. 現在、一騎合が氏邦の元に出頭しているのに、矢野・吉里・高山以下の所在が不明瞭。「これは白井殿の手前どうなのか。家が崩れるのは家老からだ」と氏邦が悲観する。

  6. 氏邦の意見に反して、左衛門殿は神庭・矢野・吉里・高山を頼っていない。一井斎(憲景)の代から活躍していた面々。「左衛門殿のために言っているのに」と氏邦は嘆じる。

  7. 氏邦の主張。「様々な状況での雇用であっても、人材を取り上げることはない。左衛門殿のために、この春に矢部大膳亮を派遣した」という。

  8. 大膳亮の報告について。座頭たちが一巡りして帰る際に、左衛門殿が「この座頭は無届けだし支障がある」と意見。「白井殿の下の者が左衛門殿は悪だくみをしているのだ」と言ってこの件を差し置いた。結局、白井殿は座頭を呼びたいということに。「こうなったのはもっともなことで、ためを思うならば、これは悪い分別だ」と氏邦は解釈。

  9. 氏邦は掟を説明。国境に座頭を置くのは禁止。座頭は廻文で駿河・安房に情報を流してしまうからだという。「それなのに越後の座頭を呼ぶのはありえない」と加えて指摘し、座頭を猿寿に預けるよう白井殿へ通達する。諒承あり次第の処置を命ず。

  10. 氏邦が嘆く。「人のために諫言しても聞き入れられず、苦労ばかりなことだ」と。

  11. 吉里の子・矢野の弟の預け先を最後に再び質問。大膳亮から左衛門殿に相談してほしいと依頼。

白井殿と左衛門殿 人物別まとめ

  1. 白井殿(御屋形様)……矢野・吉里の子弟に出勤拒否される。重臣たちの管理が不徹底。左衛門殿の反対を押し切って越後の座頭を呼ぶ。国境の座頭滞在は禁止だと氏邦から通達される。

  2. 左衛門殿(長左)……氏邦の長文意見を無視、家老を頼らない方針。氏邦から大膳亮をつけられる。矢野・吉里案件の相談先として氏邦が相談先に選ぶ。座頭問題では「無許可・支障」を理由に座頭招致を反対。

  3. 一井斎……神庭・矢野・吉里・高山たちを指して「一井斎従御代彼等走廻存之面ゝニ候へハ」と表現。「御代」は物故した先代の時代を指すから、白井殿か左衛門殿、あるいは双方の父であった可能性が高い。

左衛門殿は、氏邦が最初の方でうっかり「長左」と書いてしまっている。恐らく、より広い範囲の後北条家中ではそのように呼んでいたのだろう。その部下にした大膳亮に配慮してこの後は敬称にしている。

矢部大膳亮は、かつて氏邦の部下でこの年の春から左衛門殿につけられた。氏邦と左衛門殿は直接書状を送り合う間柄だが、この文書では大膳亮が仲介するように命じられている。同様の存在として冒頭に出てくる「吉田」がいて、この人物は矢野・吉里の子弟からの陳情を白井(左衛門殿)に取り次いでいる。

白井殿が御屋形様とも呼ばれていたと仮定したのは、「御屋形様」と「御大途」が併記されているため。文中で「左衛門殿の被官を召し上げることはない」とした条件の中に「御屋形様に仕えた者」と「御大途周囲の者が嫌った者」がある。左衛門殿の被官の条件だから、御屋形様は左衛門殿自身ではないし、併記されている御大途にも当たらない。ここから、白井殿=御屋形様という仮説に至った。

もう一つの書状

氏邦は同じ日付で神庭三河入道に書状を送っている。大膳亮に宛てたものに添えたものだろう。

矢野・吉里子之儀ニ付而、矢部其方所迄申候、更無所詮事ニ候へ共、先日申候成間敷なら者、早ゝ進退為近可申候、又ゝ仰出候而も、無其意趣茂、左衛門殿気も不和、是は房州御意見候間、無処召出候なとゝ存分立候者、未募間敷候之条、此侭何方へ茂、越可申候、恐ゝ謹言、
九月四日/氏邦/神庭三河入道殿

  • 戦国遺文後北条氏編3993「北条氏邦書状写」(赤見文書)

矢野・吉里の子について、矢部があなたの所まで申します。更に検討するようなことではありませんが、先日言ったようにならないならば、早々に進退を近くするように申しましょう。また、仰せ出しになっても、その意趣もなく、左衛門殿の気持ちも知らず、これは私がご意見していますから、無理にでも召し出そうなどとの考えを立てて未だ募ってはならないので、このままどこかへ送ってしまおうと思います。

「左衛門殿気も不和」は「不知」の誤翻刻かと思う。左衛門殿の意見が来ないので、氏邦が独自に判断していることを伝えているからだ。

先の書状で氏邦が気に病んでいた矢野・吉里子のことが相談されている。その中で「これは左衛門殿ではなく私の意見だから、無理に白井へ勤務させることはない」というようなことを書いている。そして「無理にでもと言い出さない内にどこかへ送ってしまおう」と続けているから、白井の家中においては氏邦より左衛門殿の意見の方が強かったのが判る。

ここに白井殿は出てこない。

専門家による人物比定

改めて、氏邦が関わった左衛門殿・白井殿は誰かを検討してみる。一井斎は白井長尾の憲景で間違いない。

憲景には、輝景と鳥房丸という二人の息子がいた。人名辞典で当該部分を抜粋すると……。

後北条氏家臣団人名辞典

長尾憲景

吉里の子と矢野弟の兄弟の扱いについて指示し長尾一井斎も存じの者とある。

長尾輝景

白井へ吉里子・矢野弟が侘言を言ってきたとある。当文書では北条氏邦が指南役として白井長尾氏の家老衆と輝景の和解を図った。

  • この辞典には輝景の弟として政景の項目があるが、家老衆との諍いに関する記載はない。

戦国人名辞典

長尾鳥房丸

天正十三年兄輝景の重臣牧和泉守親子が拠する田留城(赤城村)を所望するが果たせず、兄の意に背いて重臣牧親子と争い、城内の内通者と謀り、これを謀殺したと伝える。兄との確執や当主交替を伝える伝承があるのも、白井城周辺での内紛を反映しているのか。兄輝景が重臣と対立していたのもこの頃である。

誰が誰なのか

どちらの辞典も白井殿と左衛門殿を同一人物として扱い、輝景を比定している。しかし、同一文書で何度も両方の名が出てくること、座頭の扱いを巡って両者が対立していることから見ても、別人物と考えるのが妥当だ。

とすると、憲景(一井斎)は父であり故人、跡を継いだ輝景は白井殿・御屋形様と呼ばれていたと考えるのが最も自然である。兄弟が勤務を拒んだ「白井」は政景であり、一騎合を監督すべき家老たちの所在が曖昧であることを嘆いた氏邦が「白井殿の手前、こんな状況はいかがなものか」と案じたのも政景の指導力欠如を憂いたためだ。こう考えると全てがすっきりつながる。

憲景・輝景と続けて名乗ってた官途である「左衛門」を、輝景生存時に弟の政景が名乗ったのは違和感がある。しかし、輝景に実子がいたという痕跡がないので、父の死後に小田原から戻った政景が兄の養子になり官途を受け継いだとすれば問題はない。政景の後見役として氏邦が入り、矢野・吉田といった部下を配属させた。後北条の支援を受けた政景に押されて、実質的に輝景は若くして隠居状態となり、兄弟の関係も険悪になったのかも知れない。その状況は座頭事件での微妙な描写に窺われる。また、戦国人名辞典での内紛も何らかの形で当時の緊張が伝承として残されたと考えられる。

矢野の弟はどのような扱いを受けていたのか

1589(天正17)年に比定されている、不気味な氏邦書状がある。この文書単独では判らなかった事情が、上述の経緯を踏まえると一歩踏み込んだ形で理解ができる。

其方事此度無相違以子細、出仕候由、肝要ニ候、然ハ、其方陣所へ来り候成共、をとすもの有之ハ、爰元江不及披露、致書付以酒井、新太郎所へ可被申候、惣別小田原衆ニ付逢事、無用ニ候、無理来者有之ハ、此一札を見せ、可被断候、其方新太郎所へ可被申候、大途之可立御用候、誰歟兎角申候共、少成共、大途御相違有間敷候間、心安可被存候、をとすものを大途江可有披露候、恐ゝ謹言、
二月廿五日/氏邦/矢野孫右衛門殿

  • 戦国遺文後北条氏編3429「北条氏邦書状写」(赤見昌徳氏所蔵文書)

あなたのことは、この度相違のない事情で出仕されたとのこと。重要なことです。ですから、あなたが陣所へ来た時などに、脅す者がいたら、こちらへは報告せずに、書付をしたためて、酒井を使って新太郎の所へ申告して下さい。総じて小田原衆と付き合うのは無用なことです。無理に来る者がいたら、この書状を見せて注意して下さい。あなたが新太郎の所へ来たのは大途のお役に立つためですから、誰かがとやかく言うことではありません。少しのことでも、大途は相違がありませんから、ご安心下さい。脅す者を大途へ報告するでしょう。

鳥房丸=輝景の弟=政景とすると、矢野孫右衛門を脅していた「小田原衆」は、白井家中において小田原に人質として長く生活していた政景とその側近を指すのかも知れない。本来の小田原衆は当主である大途と直結していた筈なので不思議に考えていたが、白井の中での話だとすると判り易い。白井勤務から逃げた矢野弟=孫右衛門が、氏邦の元でその後継者と思われる「新太郎」に仕えることになり、それを面白く思わない白井の小田原衆が妨害する恐れがあったということか。

政景と矢野の因縁

1583(天正11)年比定の虎朱印状では、氏邦に宛てて、長尾鳥坊丸の帰郷を認めている。代わりの人質として「矢野」が小田原に行ったようだ。

長尾鳥坊老母煩ニ付、鳥坊丸ニ矢野証人替相達有間敷者也、仍如件、
未十月九日/(虎朱印)垪和伯耆守奉之/安房守殿

  • 戦国遺文後北条氏編2580「北条家朱印状写」(上杉文書十一)

こうした状況から、家中が安定していれば固い絆で結ばれたであろう主従も、状況によっては仇敵になってしまうことがあったのだと考えられる。

2018/06/12(火)後北条氏はどの段階で当主を「大途」と言ったのか

後北条家の当主はいつから「大途」と呼ばれたのか

『戦国大名と公儀』(久保健一郎)にある表を元にして、後北条家が文書で「大途」をどのように使ったのかを改めて調べてみた。

久保健一郎氏はこの書籍で、後北条当主が「大途」を呼ばれることになった最初の例を、1550(天文19)年の相承院文書(戦北380)に据えている。このことから、古河公方との関係性において「大途」が出てきたと推測されている。

しかし、下記で史料を検討したように相承院文書を読んでみると、この「大途」は当主人格には当たらない。

以下、初期の「大途」を細かく読んでみると、古河公方というよりは、上杉輝虎との関係性において立ち上がってくるのが当主人格の「大途」だと。

後北条氏が完全に「大途=当主人格」と言い切れる用例を使ったのは、1562(永禄5)年が初めてとなる。

その後、上杉輝虎と同盟交渉で「大途」は当主以外の用例で出てくるのが例外で出てきて、更に1571(元亀2)年に曖昧な使い方をしているのを最後にして大途=当主の用例に傾いていく。

つまり、永禄3~4年の大攻勢を経て、越相同盟交渉での相互の相対化を経由して「当主=大途」が後北条家の中で確立されていくようだ。

史料

1550(天文19)年

6月18日

中納言へ之判形をは大道寺可渡遣候
相承院一跡之事、前ゝ中納言ニ被申合候事、様躰無紛聞候、大途不及公事儀候間、大道寺・桑原、其段可申付候、仍三浦郡大多和郷、前ゝ相承院拘之地之由候、然ニ、近年龍源院被致代官候、龍源死去候之間、大多和郷相承院江渡置候、彼郷年貢之事、本務五拾余貫文、増分六拾七貫文ニ候、此内、為廻御影供之方、増分六拾七貫文、院家中配当ニ相定候、残而五拾貫文、相承院可為所務候、彼郷重而附置候上者、可然僧をも被御覧立、只今之中納言ニ被相副、相承院無退転様ニ可有御助言候、恐ゝ敬白、
六月十八日/氏康(花押)/宛所欠(上書:金剛王院御同宿中 北条氏康)

  • 戦国遺文後北条氏編0380「北条氏康書状」(相承院文書) 1550(天文19)年

そもそも、当主自身の氏康が裁決しているのに、「大途=当主」の公事には及ばないという書き方はしないだろう。「大途不及公事儀候間、大道寺・桑原、其段可申付候」というのは、この案件は「公事に及ばず=議論し裁決するほどのことではない」という主張が主であり、その形容詞としての「大途」が「名分としては・大きくいえば→表立って・仰々しく」という形容詞になっていき、「大げさに裁判するほどのことではないから、大道寺と桑原が指示を出す」と解釈すべきだろう。こちらの方が意味は通る。

1560(永禄3)年

9月3日

芳札披閲候、抑 関宿様江言上御申之由、目出珍重候、御満足之段、以御次可及披露候、就中、佐竹御間之儀、一両度雖及意見候、無納得候、遠境与云、我等助言不可届候、并那須御間之事、承候、当那須方与入魂之儀無之候、大都迄候、雖然蒙仰儀候間、連ゝ可及諷諌候、畢竟、如承瑞雲院頼被申肝要存候、委曲御使芳賀大蔵着与口上候条、不能具候、恐ゝ謹言
有明卅丁給候、祝着候、
九月三日/氏康(花押)/白川殿

  • 戦国遺文後北条氏編0641「北条氏康書状」(東京大学文学部所蔵白川文書)

北条氏康が白川結城氏に対して、那須氏とはそんなに付き合いがないと書いている。「大都まで」というのは「大まかな形だけ」という表現を指すだろう。

10月15日

態啓候、其地普請堅固ニ出来之由、稼之段、肝要候、但、大敵可請返地形、爰元無腹蔵可有談合候、仍分端之動事如何、那波地難儀間、大途調迄者、遅ゝ候条、先一動可有之由茂因へも申越候、其方相稼、早ゝ先一動可有之候、委細河尻申候、恐ゝ謹言、
十月十五日/氏康(花押)/宛所欠

  • 戦国遺文後北条氏編0650「北条氏康書状」(千葉市立郷土博物館所蔵原文書)

北条氏康が、迫り来る上杉氏の来攻を前に「那波の地は難しいので『大途調』までは遅々としているので」と書いている。大途調はどうも「殆どの情報を調べ上げるまでは」と解釈すると意が通るように思う。

1562(永禄5)年

8月12日

知行方之事
五貫文、円岡
壱貫文、田村ニあり、松村弥三郎分
弐貫文、すへのニあり、小林寺分
以上、八貫文
右去年以来、於日尾御走廻ニ付而、申請進之候、御大途御判形者、各ゝ一通ニ罷出申候間、拙者判進之候、仍如件、
八月十二日/南図書助(花押)/出浦小四郎殿

  • 戦国遺文後北条氏編0775「南図書助判物」(出浦文書)

この「大途」は当主人格を指す可能性が高い。丁寧語として「御」を付けているし、その「御判形」となれば、虎朱印を指すと思われるからだ。

1563(永禄6)年

4月12日

書出
一ヶ所、堤郷
一ヶ所、篠塚・中島
以上
右、当所進之候、可有知行候、猶本領之替、大途へ申立、可進之者也、仍如件、
永禄六年卯月十二日/氏照(花押)/安中丹後守殿

  • 戦国遺文後北条氏編0808「北条氏照判物」(市ヶ谷八幡神社文書)

本領替えを申し立てる対象が「大途」なので、これは当主人格だろう。

7月28日

三沢之郷之事、各無足ニ候へ共、被走廻ニ付而、自大途被成御落着候、全相抱弥以可被励忠節候、於此上ニも、猶可被加御扶持状如件、
亥七月廿八日/横地(花押)/十騎衆

  • 埼玉県史料叢書12_0260「横地吉信判物」(土方文書)

持ち出しで活躍した十騎衆に対して、大途より状況が落ち着いたら三沢郷を与えようと約束した判物。三沢郷を与える権限を持つということで、大途は当主氏政を指すだろう。

1570(永禄13/元亀元)年

2月27日

今度御分国中人改有之而何時も一廉之弓矢之刻者、相当之御用可被仰付間、罷出可走廻候、至于其儀者、相当之望之義被仰付可被下候、并罷出者兵粮可被下候、於自今以後ニ虎御印判を以御触ニ付而者、其日限一日も無相違可馳参候、抑か様之乱世ニ者去とてハ、其国ニ有之者ハ罷出、不走廻而不叶意趣ニ候処ニ、若令難渋付而者、則時ニ可被加成敗、是大途之御非分ニ有間敷者也、仍如件、
午二月廿七日/(虎朱印)二見右馬助・松井織部助・玉井孫三郎/宛所欠 -戦国遺文後北条氏編1384「北条家朱印状」(高岸文書)

国の危機に際して全国民を徴発する権利を主張するもの。背く者を処罰することについて「これは大途のご非分ではない」と言い切っている。大途を大義名分に言い換えても意味が通じる気もするが、「御非分」と丁寧語にしている点からみると当主である可能性がとても高いと思う。

2月27日

今度御■国中人改有之而、何時も一廉之弓箭之■■、相当之御用可被仰付間、罷出可走廻候、至于其儀者、相当望之義被仰付可被■■、并罷出者、兵粮可被下候、於自今以後、虎御印判を以、御触ニ付而者、其日限一日も無相違可馳参候、抑か様之乱世ニ者、去とてハ其国ニ有之者ハ、罷出不走廻而不叶意趣ニ候処、若令難渋付而者、則時ニ可被加成敗、是大途之御非分ニ有間敷者也、仍如件、
午二月廿七日/(虎朱印)横地助四郎・久保惣左衛門尉・大藤代横溝太郎右衛門尉/鑓、今井郷名主小林惣右衛門

  • 戦国遺文後北条氏編1385「北条家朱印状」(清水淳三郎氏文書)

前号文書と同文。

3月26日

一、此度被翻宝印、望申如案文、遠左被召出、預御血判候、誠忝令満足事
一、三郎、来五日、無風雨之嫌、当地可致発足事
付、彼日取流布候間、其砌信玄出張無心元存候、畢竟利根川端迄、此方送随分堅固ニ可申付候、利根川向端はたより可渡申間、倉内衆・厩橋衆堅ゝ被仰付専一候事
一、相房一和、先段如申届、不可背御作意候、猶様子顕書中候、此時御彼国へ被指越、引詰而御落着専要存事
一、初秋之御行、何分にも可有御談合由、誠本望至極候、但、只今御労兵之砌と云、窺御帰国信玄擬之処、大切存候、爰元進藤方・垪和両口ニ、委細申付候間、御備之様子、具御返答待入事
一、愚老父子条書之内、武上之面ゝ、後日無異儀様、弥可定とハ如何不被聞召届由候、爰元専ニ遠左ニ申含候、不達上聞処、左衛門尉越度、無是非候、併御奏者挨拶ニ、此儀二三之申事之由、被押旨致陳法候、武上之二字所を指而者、忍・松山大途雖無御別儀候、一度越苻可蒙御退治趣、深存詰候、越相御骨肉ニ被仰合上者、並而相州可得退治候、然時者、信玄へ申寄外無之由、指出申候、はや通用三度及五度者、信玄可乗計策事必然候、信玄ニ内通可令停止者、越苻為先御誓詞、忍・松山証人可取間、極御誓句段申入候、垪和ニも此口味同前候、猶此度申入候、委細口上ニ可有之事
一、新太郎所へ如被披露御条書者、愚老父子表裏を当憶意哉之由、蒙仰候、既此度前ゝ之誓句を改、只一ヶ条、無二無三ニ可申合段、翻宝印、以血判申上者、表裏之儀、争可有之候哉、惣而前ゝ誓句之内、一点毛頭心中ニ存曲節儀無之候キ、御不審之儀者、何ヶ度も可預御糺明候、就中実子両人渡進儀、誠山よりも高、大海よりも深存置処、猶愚ニ思召候事、無曲存候、此上も、或者佞人之申成、或者不逢御意模様可有之候、当座ニ御尋千言万句肝要候、さて御入魂之上者、相互道理之外不可有之間、於道理者、不及用捨可申展候、不届儀者、何ヶ度も御糺明、此度互ニ御血判之可為意趣事
一、此度三郎参候路次以下之儀、由信致馳走様ニ被仰付、肝要存候事
以上、
三月廿六日/氏政(花押)・氏康(花押)/山内殿

  • 小田原市史小田原北条0950「北条氏政・同氏康連署条目」(米沢市教育委員会所蔵上杉文書)

後北条氏が当主を「大途」と呼ぶのは家中に限られるので、上杉輝虎との交信で使われたこの例は該当しない。ただ、参考までに呼んでみると「忍・松山大途雖無御別儀候」=「忍・松山は『大途=ほとんど』別儀はないとはいえ」と読める。

1571(元亀2)年

8月20日

改而定御扶持給請取様之事
一、弐貫七百文、扶持上下三人九ヶ月分
此内
九百文、八・九・十、三ヶ月分、八月廿五日より同晦日を切而可請取
九百文、十一・十二・申正月、三ヶ月分、十月晦日ニ可請取
九百文、申二・三・四、三ヶ月分、正月晦日ニ可請取
以上弐貫七百文、九ヶ月分皆済
此外九百文、申五・六・七、三ヶ月分、申六月可出
一、七貫七百五十文、給、自分
三貫文、同、番子
以上拾貫七百五十文
此内
三貫弐百文、九月廿日を切而可請取
三貫弐百文、十月廿日を切而可請取
四貫三百五十文、霜月廿日を切而可請取
以上拾三貫四百五十文
合拾三貫四百五十文、給扶持辻
此出所
弐貫七百文、扶持、西郡懸銭米、安藤豊前守・松井織部前より、於小田原御蔵、可請取之
七貫七百五十文、給、同所懸銭米、両人前より、於御蔵、可請取
三貫文、番子給、同理、同理
以上拾三貫四百五十文
右、定置日限無相違可請取之、若日限相延者、五割之利分を加、厳渡手ニ致催促、可請取之、猶不承引者、可捧目安、如此定置上、年内ニ給扶持不相済、至于申歳令侘言候共、大途不可有御許容者也、仍如件
追而、此配符来年七月迄可指置、若出所至于申歳令相違者、別紙ニ御配符可被下、無相違者、如去年与云一筆之御印判可出者也、
辛未八月廿日/(虎朱印)/畳弥左衛門・同番子

  • 戦国遺文後北条氏編1507「北条家朱印状写」(相州文書所収足柄下郡仁左衛門所蔵文書)

この大途は、両方にとれる。「侘言をしても許容しない」のが眼目なので大途=当主と見た方が読みやすいが、「御」が見当たらず「大義名分的に許可は出ない」という表現なのだとしても通りはする。もしくは、どちらでも読めることを見越して使っている可能性もある。

1574(天正2)年

2月21日

以御飛脚・御直札遂披露御返書進之候、委細御紙面ニ候条、不能重説候、大坪之地正左再興申候歟、無是非存候、大途をも可抱地ニ候哉、如蒙仰甲州御扱之内如此之儀、不及是非候、彼使衆ニ御理在之様可遂披露候、然者輝虎厩橋近所へ越山之由注進候、因茲被摧諸勢火急ニ御出馬候、彼表之様子追而可申候、時分柄如何ニ候間、為指儀不可有之候歟、随而甲州・房へ之使近日当地迄帰路候、義堯御父子御返答一途無之、毎度之分と、先甲陣へ御通候帰路之砌、勝頼御同意ニ可有御返答分ニ候、其上其表之儀落着可申候、只今者越衆之行被合御覧之儀迄ニ候、麦秋以前ニ北口之儀者可相澄候歟、追而可遂御内談候、珍儀可申入候、又可蒙仰候、恐ゝ謹言、
二月廿一日/松左憲秀(花押)/原式参御報

  • 戦国遺文後北条氏編3937「松田憲秀書状」(西山本門寺文書)

文意がとりづらいのだが、大坪という土地について、正木氏が再興しようということなのかと質問し、是非もないとしながら更に「大途をも抱えるべき地なのか」と訊いている。正木を通して大坪の地権を後北条当主が保証すべきなのか、という点を確認したかったと思われる。形容詞として「名分的にも抱えるのか」と質問したようにも解釈可能だが、そうなると質問を重ねた意図が判らなくなる。

9月3日

従品河之郷所々江欠落之者之事、人返者御国法ニ候、為先此一札領主へ申断、不移時日可召返候、若違乱之輩有之者、背国法子細ニ候、大途江申立、可及其断者也、仍如件、
天正二年甲戌九月三日/氏照(花押)/品河町人・百姓中

  • 戦国遺文後北条氏編1726「北条氏照判物写」(武州文書所収荏原郡清左衛門所蔵文書)

この文書より先は、「大途=当主」と見てほぼ例外はない。

9月10日

下足立里村之内保正寺寺領之事、大途無御存而、先年自検地之砌、御領所ニ相紛候歟、彼寺領壱貫弐百文、如前ゝ無相違御寄進候、仍状如件、
天正二年甲戌九月十日/(虎朱印)評定衆四郎左衛門尉康定(花押)/保正寺

  • 戦国遺文後北条氏編1728「北条家裁許朱印状写」(武州文書所収足立郡法性寺文書)

1575(天正3)年

3月22日

●(前欠)小曲輪十人、内村屋敷へ出門十人、板部岡曲輪十人、関役所二階門六人、同所蔵之番十人、鈴木役所之門以上一、門々明立、朝者六ツ太鼓打而後、日之出候を見而可開之、晩景ハ入会之鐘をおしはたすを傍示可立、此明立之於背法度者、此曲輪之物主、可為重科候、但無拠用所有之者、物主中一同ニ申合、以一筆出之、付日帳、御帰陣之上、可懸御目候、相かくし、自脇妄ニ出入聞届候者、可為罪科事一、毎日当曲輪之掃除、厳密可致之、竹木かりにも不可切事一、煩以下闕如之所におゐてハ、縦手代を出候共、又書立之人衆不足ニ候共、氏忠へ尋申、氏忠作意次第可致之事一、夜中ハ何之役所ニ而も、昨六時致不寝、土居廻を可致、但裏土居堀之裏へ上候へハ、芝を踏崩候間、芝付候外之陸地可廻事一、鑓・弓・鉄炮をはしめ、各得道具、今日廿三悉役所ニ指置、并具足・甲等迄、然与可置之事一、番衆中之内於妄者、不及用捨、縦主之事候共、のり付ニいたし、氏忠可申定者、可有褒美候、若御褒美無之者、御帰馬上、大途へ以目安可申上候、如望可被加御褒美事一、日中ハ朝之五ツ太鼓より八太鼓迄三時、其曲輪より三ヶ一宛可致休息、七太鼓以前、悉如着到曲輪へ集、夜中ハ然与可詰事以上右、定所如件、
乙亥三月廿二日/(虎朱印)/六郎殿

  • 小田原市史小田原北条1176「北条家虎朱印状写」(相州文書・高座郡武右衛門所蔵)

2018/06/11(月)朝比奈文書にある謎文書

朝比奈文書にある謎の書付

戦北に北条氏規書状として掲載されている書付がある。これは朝比奈泰寄の家に伝来したもので、異筆で「御返事 にら山ニて給候御文」とあるだけで、月日・差出人・宛所の何れも欠いている。親しい間柄で短く返信してきたのだろう。韮山で受け取ったとある。この内容が難しい。

志かとそのくつハ仕置可被成候、五日のうちたるやう候、いくたひ何分申候へ共、御聞わけなく候、あさましき御存分にて候と存候て、くちおしく候、彼またにハあしかる共百余人さし置候、その物主一人二人ハかくしてかなわす候、そもゝゝ其方なとあるへき所に候や、見まいも更ニ不入候、日のうち一度ハかりさへ見まわり候へハすミ候、此度に分別不参候と存候て、あさましく口惜候、二人の子共ニ二度あり不申候、ほう偽にハ不申候、謹言、
月日欠/差出人欠/宛所欠[後筆:御返事 にら山ニて給候御文]

  • 戦国遺文後北条氏編4030「北条氏規書状」(朝比奈文書)

伝来や書き方から考えると、宛所は朝比奈泰寄・差出人は北条氏規で良いだろうけど、確信はない。とはいえややこしいので以下【泰寄】【氏規】と書く。

文全体から掴みとってみる

全体の文意を見ると、3つの軸がある。

  1. 轡の仕置きを5日の内に行なうよう、差出人が厳重に言ったのに従わなかった。
  2. 足軽共100余人の物主(責任者)は命じられない。
  3. 2人の子供に2度目はない。

鍵になるのは「二人の子共ニ二度あり不申候」で、【泰寄】・【氏規】のどちらかが、この息子2人の父親なのだろうと推測できる。そう考えると、以下の点が具体的に解釈できる。

  • 「その物主一人二人ハ」と、2人とも物主にするか、少なくとも1人はするかを匂わせている点。「その物主ハ」でも文意が通らなくもないのに、「一人二人」を挿入しているということは、息子2人とも物主に命じたい意向が【氏規】にあったからだと解釈できる。

  • 「そもゝゝ其方なとあるへき所に候や」と、そもそも何故お前がいるのだと、問うている点。この書付が返書であることから、まず轡仕置きの遅滞を咎める【氏規】の書面が兄弟(息子2人)の元に届き、兄弟に代わって返信したのが【泰寄】という経緯があり、それに【氏規】が返信したのがこの書付と考えられる。兄弟に宛てたのに【泰寄】から返信があったからこその「なぜお前が」という苛立った問いかけになっている。


※ちなみに。戦北では「その物主一人二人ハかくしてかなわす候」の「かくして」を「隠して」と注記しているが、「斯くして=このようにして」の方が「かなわす=適わず」に繋がり易いと思う。「斯」は「如斯」という言い回しが多いが、このような書付ではより砕けた言い回しになり「如」は用いずに強い口調になっていると思われる。 # 難読部分の解釈 文書全体の方向性が見えたところで、通常の読み方では把握できない部分を細かく見ていく。 >「志かとそのくつハ仕置可被成候」 この「仕置」は「調達」だろうと考えている。後段で1日1回見回ればよいだけなのに、それもできないのかという指摘があるため、「くつハ」という在所の管理という解釈も可能ではある。ただ「五日のうちたるやう候」という条件が加えられていることから、これが納期だと考えると、馬具の轡を調達しようとしていた可能性が非常に高い。この「五日のうち」が、当該月の5日が締め切りということを示すか、5日間以内ということを示すかは、この史料からは判らない。 > 「彼またにハあしかる共百余人さし置候」 足軽100余人を配置した「彼また」は地名か地形を指すのかと考えたが、「また」が「表」の誤翻刻だとすれば意味が通り易い。原文を見ていないため推測になるが、「彼表」としておきたい。 > 「ほう偽にハ不申候」 「ほう」が判らない。この文は「2人の子供にもう2度と機会は与えない」という脅しの後に入っていて、この後は「謹言」で終えている。かなり強い言い切りに続けて「これは嘘ではない」と補強しているから、「ほう」が「万々」の誤翻刻だと見て「万々偽には申さず=少しも偽りではない」とすると意が通る。こちらも原文を見ていないので推測だが、仮定しておく。 # 読み下してみる 仮置きした部分は『』で括ってある。 > しかとその『くつは=轡』仕置きなられ候、 五日の内たるやう候、 幾たび何分申し候へども、 お聞き分けなく候、 浅ましきご存分にて候と存じ候て、 口惜しく候、 彼『また=表』には足軽共百余人差し置き候、 その物主一人二人は『かくして=斯くして』適わず候、 そもそもその方などあるべきところに候や、 見舞いも更に入らず候、 日の内一度ばかりさえ見回り候へ済み候、 この度に分別参らず候と存じ候て、 浅ましく口惜しく候、 二人の子供に二度あり申さず候、 『ほう=万々』偽りには申さず候、 # 現代語に解釈してみる 轡を調達するように、5日の内にと、しっかり何度も指示したのに、お聞き分けがありません。 浅ましいお考えと思い、悔しいです。 あの方面には足軽100余人を配置しました。 その物主<として>1人か2人を<と考えていましたが>これでは<任命も>適いません。 そもそも、あなたなどがいるべきところでしょうか。 さらには見舞いもしていません。 1日1回だけ見回れば済むことです。 今回分別できないことを思うと、浅ましく悔しいです。 2人の子供に2度<と機会>はありません。少しも偽りには申しません。 謹言 # 子供2人の正体 この息子の父親はどちらだろう。 ## 氏規が父親? 氏規には氏盛・辰千代がいるが、もしこの兄弟だとすると、齢から見て天正17~18年だろう。天正15年3月21日に泰寄が辰千代の陣代に命じられていて状況から見ると違和感はない(戦北3067)。 ただ文面が適さないように見える。絶望的な戦いを前に氏規は兄に逆らっていたりもするが、この文書にはそうした切迫感が薄い。せいぜい「2度目はないぞ」が決死の意味を帯びてくると思うのだが、ではなぜ、轡の調達がそんなに重要なのか、そしてそれを弱年の息子たちに任せた理由も判らない。 ## 泰寄が父親? 泰寄の場合、家臣団辞典によると泰之(六郎大夫)が嫡男と目されている。泰之は1571(元亀2)年に初出。1574(天正2)年には高野山高室院に書状を出しているので、氏盛・辰千代より年長だった可能性が高い。 >雖未申通候、一筆令啓入候、仍南条因幡守在陣ニ候之候間、拙者委曲可申達候由、氏規被申付候、然者石塔又日牌銭之末進之儀、弐拾参貫文、今度慥御使僧ニ渡置申候、重而御便宜ニ御請取候段、御札可蒙仰之、并毎年百疋并御返札是又慥此御使僧ニ渡申候、猶以重而之御便宜ニ右之分御請取之由、御札待入申候、委曲期来信之時候、可得尊意候、恐惶敬白、 八月五日/朝比奈六郎大夫泰之(花押)/高室院参御同宿中 - 戦国遺文後北条氏編4060「朝比奈泰之書状写」(集古文書七十六)※戦国遺文では年未詳としていて家臣団辞典でなぜ天正2年比定をしたかは不明。恐らく「南条因幡守在陣」と絡めての比定で、妥当性があると考えるのでこれに従う。 この泰之と兄弟(某)が対象だったとすれば、この書付が出されたのは天正9年に伊豆が主戦場になった対武田戦が見込まれると思う。この時は笠原正晴が武田に寝返ってしまい、後北条方は劣勢に陥っている。 >寄親候松田上総介、対勝頼忠節之始、去十月廿八日向韮山被及行処、北条美濃守出人数間遂一戦刻、頸壱討捕条、神妙候、仍大刀一腰遣之候、自今以後弥可励武功者也、仍如件、 十二月八日/勝頼(花押)/小野沢五郎兵衛殿 - 戦国遺文武田氏編3632「武田勝頼感状」(愛知県南知多町・加古貞吉氏所蔵文書) 武田勝頼に追い込まれていて、物主として強引にでも若手を起用したかったのではないか。ただその切迫度は、「戦う前から負ける」と判っていた天正18年よりはかなり低い。これは、若者の未熟に愚痴ったり叱責して育てようとしたりという文脈とも合致する。 そう考えると、泰寄の息子2人(泰之・某)に直接指導していた氏規が、割り込んできた泰寄もろともに兄弟を叱った書付という仮説が成り立つだろう。ただ、泰之は泰寄との血縁関係を直接明示した史料が残されておらず、この解明が必要になる。 また、同書によると別系と比定されるものの、「朝比奈右衛門尉」がいる。この官途を名乗った綱堯が1521(永正18)年~1542(天文11)年に活動した史料が残されている。1585(天正13)年と1588(天正16)年に氏規奉者として「朝比奈右衛門尉」が登場するので、この右衛門尉は、綱堯の後継者である可能性が高い。但し家臣団辞典では1590(天正18)年7月の北条氏規朱印状に登場する「朝比奈兵衛尉」をもこの綱堯後継者に比定しているが、泰寄は1592(天正20)年の北条氏盛判物(戦北4322)に登場することから、そのまま泰寄に比定すべきだと思う。 >知行方 弐百石、丈六 三百石、南宮村 以上五百 右、従 関白様被下知行ニ候間、進之候、其方之事者、はや三十余年一睡へ奉公人御人ニ候、我ゝニも生落よりの指引、苦労不及申立候、就中、小田原落居以来之事、更ゝ不被申尽候、一睡同意存候、存命之間、何様ニも奉公候而可給候、進退之是非ニも不存合御身上与存候得共、若ゝ我ゝ身上於立身者、何分ニも随進退、可任御存分事不及申候、為其一筆申候者也、仍如件、 天正廿年壬辰三月十五日/文頭(北条氏規花押)・氏盛(花押)/朝比奈兵衛尉殿 - 戦国遺文後北条氏編4322「北条氏規袖加判・北条氏盛判物」(朝比奈文書)