2018/06/14(木)北条氏邦の憂鬱
上野国白井でのごたごた
北条氏邦が管轄していた白井で揉め事があった。年未詳の文書でその詳細が判るのだけど、なかなかに興味深い。そして、この文書を足掛かりに、氏邦が他に出した謎の書状の状況も判ってきた。
白井長尾家中の混乱
氏邦がうんざりしながらも忍耐強く書き記したのは、いかにも彼らしい現場に則した意見書・指示書。長文だが書き出してみる。
原文
先日白井へ吉里子・矢野弟侘言以吉田申候処、召出間敷候之内、従白井殿承候、左候ハゝ両人共、何方江茂可任存分歟、白井之矢野・吉里事者、不肖ニ候へ共、関東ニ無其隠弟子共ニ候間、一騎合連ゝ子共之様無躰ニハ被致間敷候、従其方所神庭三河入道所迄、以此一札早ゝ一往尋可申候、従我ゝ所長左江直ニ申度候へ共、はや無詮候、先日長文認以其方左衛門殿江及御助言つる、無其意趣候間、我ゝ者閉口候、只今一騎合之者共致出頭、矢野・吉里・高山以下あるも有ゝ候無之模様見聞候、彼等何共成候者、白井殿御手前も如何存候、其家可崩ニハ、家中老名絶物ニ候、先度之御意見、神庭・矢野・吉里・高山ニ茂不被頼候、一井斎従御代彼等走廻存之面ゝニ候へハ、左衛門殿御為を存申候、明日ニも御弓矢起候共、又御屋形様へ御出仕候共、従前ゝ御大途御存之者共、閉口申合候之者共、於白井出仕申候共、誰も召上間敷候、左衛門殿御為を存、卒爾ニ候御連共、当春其方を左衛門殿へ越候つる
一、三日以前其方申分者、先日之座頭一廻返候へ者、左衛門殿仰之由披露、近比其方無届并子細ニ候、彼座頭白井殿下ニ者、一同左衛門殿ため悪かれと計匠、座頭之不似合義致之候間、石こつミニもすへき之由存候へ共閣候、結句、白井殿呼度候由承候、是も尤候、御為を存申候へハ悪様ニ御分別候
一、面ゝ連も可聞及候、惣別当方御法度ニ而、座頭なと境目之衆致懇切置事、御きらひに候、其意趣ハ、座頭廻文を廻し、駿州・房州ニ而も、種ゝ之儀致之候、越後之座頭出頭更不及分別候、彼座頭そこもとニ而猿寿ニ預ヶ候、白井殿へ尋申越候、得にて仰候ハゝ、早ゝ可越候、人之御為を存申候へハ、無御聞届候、為労無功義候、尚以、吉里子・矢野弟何方江茂可任足歟、此儀一往左衛門殿可取伺義候、謹言、
九月四日/氏邦/矢部大膳亮殿
- 戦国遺文後北条氏編3982「北条氏邦朱印状写」(北条氏文書写)
解釈
先日白井へ、吉里の子・矢野の弟が吉田を通じて侘言を言って、召し出しに応じない状況だと、白井殿より聞きました。それでは両人をどこへ預ければよいのでしょうか。白井の矢野・吉里といえば、詳しくはありませんが、関東でその隠れなき存在で、その子弟ですから、一騎合の連中の子供みたいに無茶な扱いはできません。あなたの所から神庭三河入道の所まで、この書状を見せて早々に一度問い合わせてみて下さい。私の所から「長左」へ直接聞きたいのですが、もう埒が明かないでしょう。先日、長文をしたためてあなたを経て左衛門殿へご助言しました。その反応もありませんから、私は閉口しています。
今は一騎合の者たちが出頭して、そこに矢野・吉里・高山以下がいるはずなのに、確認がとれていない状況なのは聞いています。彼らがどうにもならないのを、白井殿とその周辺はどうお考えなのでしょうか。その家が崩れる時には、家中の老名(おとな)が絶えるものです。
先度のご意見。神庭・矢野・吉里・高山を頼みになさっていません。一井斎の御代より活躍していた面々ですから、みな左衛門殿のおためと思って申しています。明日合戦が起きても、又は御屋形様へご出仕しても、御大途がご存じの者たちに閉口された者たちが白井で出仕したとしても、誰も召し上げません。左衛門殿のおためを思い、卒爾なつながりではあってもと、この春あなたを左衛門殿の元へ送ったのです。
一、三日以前にあなたが報告した件。先日の座頭が一巡りして返ろうとしたら、左衛門殿が仰せを披露。近ごろは届けがないし不審な事情があるとのこと。あの座頭は、白井殿の下にいる一同が「左衛門殿を貶めよう」と企んだという。座頭には不似合いな所業だとして「石こつミ」にもしよう」とのことでしたが、この意見は差し置かれ、結局「白井殿が呼びたいから」となってしまったとのこと。これもご尤もです。おためを思うなら、これは悪いご分別だと思います。
一、面々たちも聞き及んでいるでしょう。全体に、当方のご法度にて、座頭などを境目の衆が懇切に扱って手元に置く事は、嫌っています。その意図は、座頭が廻文を廻し、駿河・安房へもあれこれ伝えてしまうからです。越後の座頭を呼ぶのは更に分別がないことです。あの座頭はそちらで猿寿に預けるよう、白井殿へ確認の連絡をします。諒承が得られれば、早々に処置して下さい。
人のおためを思って申しても、聞き届けられません。労をなしても功義はありませんね。
ところで、吉里の子・矢野の弟はどこなら任せられるのでしょうか。この件、一度左衛門殿にお尋ねになってみて下さい。
箇条書きによるまとめ
当事者同士による説明の省略は余りない。これは、宛所の矢部大膳亮に対して神庭三河入道へこの書状を送って助言を乞うように指示しているからだろう。ただそれにしても白井長尾家中に詳しくないと理解が難しい。
そこで、箇条書きで情報を整理してみる。
白井殿が氏邦に伝える。「白井に、吉里の子・矢野の弟が吉田を通じて陳情し出勤拒否をしている」とのこと。
白井の矢野・吉里といえば著名な一族で変な扱いはできない。
宛所の矢部大膳亮に、神庭三河入道にこの書状を見せて相談することを、氏邦が依頼。
氏邦から「長左」へ直接言うのは、矢部大膳亮を通じて送った長文の諫言も無視されたのでできない。
現在、一騎合が氏邦の元に出頭しているのに、矢野・吉里・高山以下の所在が不明瞭。「これは白井殿の手前どうなのか。家が崩れるのは家老からだ」と氏邦が悲観する。
氏邦の意見に反して、左衛門殿は神庭・矢野・吉里・高山を頼っていない。一井斎(憲景)の代から活躍していた面々。「左衛門殿のために言っているのに」と氏邦は嘆じる。
氏邦の主張。「様々な状況での雇用であっても、人材を取り上げることはない。左衛門殿のために、この春に矢部大膳亮を派遣した」という。
大膳亮の報告について。座頭たちが一巡りして帰る際に、左衛門殿が「この座頭は無届けだし支障がある」と意見。「白井殿の下の者が左衛門殿は悪だくみをしているのだ」と言ってこの件を差し置いた。結局、白井殿は座頭を呼びたいということに。「こうなったのはもっともなことで、ためを思うならば、これは悪い分別だ」と氏邦は解釈。
氏邦は掟を説明。国境に座頭を置くのは禁止。座頭は廻文で駿河・安房に情報を流してしまうからだという。「それなのに越後の座頭を呼ぶのはありえない」と加えて指摘し、座頭を猿寿に預けるよう白井殿へ通達する。諒承あり次第の処置を命ず。
氏邦が嘆く。「人のために諫言しても聞き入れられず、苦労ばかりなことだ」と。
吉里の子・矢野の弟の預け先を最後に再び質問。大膳亮から左衛門殿に相談してほしいと依頼。
白井殿と左衛門殿 人物別まとめ
白井殿(御屋形様)……矢野・吉里の子弟に出勤拒否される。重臣たちの管理が不徹底。左衛門殿の反対を押し切って越後の座頭を呼ぶ。国境の座頭滞在は禁止だと氏邦から通達される。
左衛門殿(長左)……氏邦の長文意見を無視、家老を頼らない方針。氏邦から大膳亮をつけられる。矢野・吉里案件の相談先として氏邦が相談先に選ぶ。座頭問題では「無許可・支障」を理由に座頭招致を反対。
一井斎……神庭・矢野・吉里・高山たちを指して「一井斎従御代彼等走廻存之面ゝニ候へハ」と表現。「御代」は物故した先代の時代を指すから、白井殿か左衛門殿、あるいは双方の父であった可能性が高い。
左衛門殿は、氏邦が最初の方でうっかり「長左」と書いてしまっている。恐らく、より広い範囲の後北条家中ではそのように呼んでいたのだろう。その部下にした大膳亮に配慮してこの後は敬称にしている。
矢部大膳亮は、かつて氏邦の部下でこの年の春から左衛門殿につけられた。氏邦と左衛門殿は直接書状を送り合う間柄だが、この文書では大膳亮が仲介するように命じられている。同様の存在として冒頭に出てくる「吉田」がいて、この人物は矢野・吉里の子弟からの陳情を白井(左衛門殿)に取り次いでいる。
白井殿が御屋形様とも呼ばれていたと仮定したのは、「御屋形様」と「御大途」が併記されているため。文中で「左衛門殿の被官を召し上げることはない」とした条件の中に「御屋形様に仕えた者」と「御大途周囲の者が嫌った者」がある。左衛門殿の被官の条件だから、御屋形様は左衛門殿自身ではないし、併記されている御大途にも当たらない。ここから、白井殿=御屋形様という仮説に至った。
もう一つの書状
氏邦は同じ日付で神庭三河入道に書状を送っている。大膳亮に宛てたものに添えたものだろう。
矢野・吉里子之儀ニ付而、矢部其方所迄申候、更無所詮事ニ候へ共、先日申候成間敷なら者、早ゝ進退為近可申候、又ゝ仰出候而も、無其意趣茂、左衛門殿気も不和、是は房州御意見候間、無処召出候なとゝ存分立候者、未募間敷候之条、此侭何方へ茂、越可申候、恐ゝ謹言、
九月四日/氏邦/神庭三河入道殿
- 戦国遺文後北条氏編3993「北条氏邦書状写」(赤見文書)
矢野・吉里の子について、矢部があなたの所まで申します。更に検討するようなことではありませんが、先日言ったようにならないならば、早々に進退を近くするように申しましょう。また、仰せ出しになっても、その意趣もなく、左衛門殿の気持ちも知らず、これは私がご意見していますから、無理にでも召し出そうなどとの考えを立てて未だ募ってはならないので、このままどこかへ送ってしまおうと思います。
「左衛門殿気も不和」は「不知」の誤翻刻かと思う。左衛門殿の意見が来ないので、氏邦が独自に判断していることを伝えているからだ。
先の書状で氏邦が気に病んでいた矢野・吉里子のことが相談されている。その中で「これは左衛門殿ではなく私の意見だから、無理に白井へ勤務させることはない」というようなことを書いている。そして「無理にでもと言い出さない内にどこかへ送ってしまおう」と続けているから、白井の家中においては氏邦より左衛門殿の意見の方が強かったのが判る。
ここに白井殿は出てこない。
専門家による人物比定
改めて、氏邦が関わった左衛門殿・白井殿は誰かを検討してみる。一井斎は白井長尾の憲景で間違いない。
憲景には、輝景と鳥房丸という二人の息子がいた。人名辞典で当該部分を抜粋すると……。
後北条氏家臣団人名辞典
長尾憲景
吉里の子と矢野弟の兄弟の扱いについて指示し長尾一井斎も存じの者とある。
長尾輝景
白井へ吉里子・矢野弟が侘言を言ってきたとある。当文書では北条氏邦が指南役として白井長尾氏の家老衆と輝景の和解を図った。
- この辞典には輝景の弟として政景の項目があるが、家老衆との諍いに関する記載はない。
戦国人名辞典
長尾鳥房丸
天正十三年兄輝景の重臣牧和泉守親子が拠する田留城(赤城村)を所望するが果たせず、兄の意に背いて重臣牧親子と争い、城内の内通者と謀り、これを謀殺したと伝える。兄との確執や当主交替を伝える伝承があるのも、白井城周辺での内紛を反映しているのか。兄輝景が重臣と対立していたのもこの頃である。
誰が誰なのか
どちらの辞典も白井殿と左衛門殿を同一人物として扱い、輝景を比定している。しかし、同一文書で何度も両方の名が出てくること、座頭の扱いを巡って両者が対立していることから見ても、別人物と考えるのが妥当だ。
とすると、憲景(一井斎)は父であり故人、跡を継いだ輝景は白井殿・御屋形様と呼ばれていたと考えるのが最も自然である。兄弟が勤務を拒んだ「白井」は政景であり、一騎合を監督すべき家老たちの所在が曖昧であることを嘆いた氏邦が「白井殿の手前、こんな状況はいかがなものか」と案じたのも政景の指導力欠如を憂いたためだ。こう考えると全てがすっきりつながる。
憲景・輝景と続けて名乗ってた官途である「左衛門」を、輝景生存時に弟の政景が名乗ったのは違和感がある。しかし、輝景に実子がいたという痕跡がないので、父の死後に小田原から戻った政景が兄の養子になり官途を受け継いだとすれば問題はない。政景の後見役として氏邦が入り、矢野・吉田といった部下を配属させた。後北条の支援を受けた政景に押されて、実質的に輝景は若くして隠居状態となり、兄弟の関係も険悪になったのかも知れない。その状況は座頭事件での微妙な描写に窺われる。また、戦国人名辞典での内紛も何らかの形で当時の緊張が伝承として残されたと考えられる。
矢野の弟はどのような扱いを受けていたのか
1589(天正17)年に比定されている、不気味な氏邦書状がある。この文書単独では判らなかった事情が、上述の経緯を踏まえると一歩踏み込んだ形で理解ができる。
其方事此度無相違以子細、出仕候由、肝要ニ候、然ハ、其方陣所へ来り候成共、をとすもの有之ハ、爰元江不及披露、致書付以酒井、新太郎所へ可被申候、惣別小田原衆ニ付逢事、無用ニ候、無理来者有之ハ、此一札を見せ、可被断候、其方新太郎所へ可被申候、大途之可立御用候、誰歟兎角申候共、少成共、大途御相違有間敷候間、心安可被存候、をとすものを大途江可有披露候、恐ゝ謹言、
二月廿五日/氏邦/矢野孫右衛門殿
- 戦国遺文後北条氏編3429「北条氏邦書状写」(赤見昌徳氏所蔵文書)
あなたのことは、この度相違のない事情で出仕されたとのこと。重要なことです。ですから、あなたが陣所へ来た時などに、脅す者がいたら、こちらへは報告せずに、書付をしたためて、酒井を使って新太郎の所へ申告して下さい。総じて小田原衆と付き合うのは無用なことです。無理に来る者がいたら、この書状を見せて注意して下さい。あなたが新太郎の所へ来たのは大途のお役に立つためですから、誰かがとやかく言うことではありません。少しのことでも、大途は相違がありませんから、ご安心下さい。脅す者を大途へ報告するでしょう。
鳥房丸=輝景の弟=政景とすると、矢野孫右衛門を脅していた「小田原衆」は、白井家中において小田原に人質として長く生活していた政景とその側近を指すのかも知れない。本来の小田原衆は当主である大途と直結していた筈なので不思議に考えていたが、白井の中での話だとすると判り易い。白井勤務から逃げた矢野弟=孫右衛門が、氏邦の元でその後継者と思われる「新太郎」に仕えることになり、それを面白く思わない白井の小田原衆が妨害する恐れがあったということか。
政景と矢野の因縁
1583(天正11)年比定の虎朱印状では、氏邦に宛てて、長尾鳥坊丸の帰郷を認めている。代わりの人質として「矢野」が小田原に行ったようだ。
長尾鳥坊老母煩ニ付、鳥坊丸ニ矢野証人替相達有間敷者也、仍如件、
未十月九日/(虎朱印)垪和伯耆守奉之/安房守殿
- 戦国遺文後北条氏編2580「北条家朱印状写」(上杉文書十一)
こうした状況から、家中が安定していれば固い絆で結ばれたであろう主従も、状況によっては仇敵になってしまうことがあったのだと考えられる。