2018/06/12(火)後北条氏はどの段階で当主を「大途」と言ったのか

後北条家の当主はいつから「大途」と呼ばれたのか

『戦国大名と公儀』(久保健一郎)にある表を元にして、後北条家が文書で「大途」をどのように使ったのかを改めて調べてみた。

久保健一郎氏はこの書籍で、後北条当主が「大途」を呼ばれることになった最初の例を、1550(天文19)年の相承院文書(戦北380)に据えている。このことから、古河公方との関係性において「大途」が出てきたと推測されている。

しかし、下記で史料を検討したように相承院文書を読んでみると、この「大途」は当主人格には当たらない。

以下、初期の「大途」を細かく読んでみると、古河公方というよりは、上杉輝虎との関係性において立ち上がってくるのが当主人格の「大途」だと。

後北条氏が完全に「大途=当主人格」と言い切れる用例を使ったのは、1562(永禄5)年が初めてとなる。

その後、上杉輝虎と同盟交渉で「大途」は当主以外の用例で出てくるのが例外で出てきて、更に1571(元亀2)年に曖昧な使い方をしているのを最後にして大途=当主の用例に傾いていく。

つまり、永禄3~4年の大攻勢を経て、越相同盟交渉での相互の相対化を経由して「当主=大途」が後北条家の中で確立されていくようだ。

史料

1550(天文19)年

6月18日

中納言へ之判形をは大道寺可渡遣候
相承院一跡之事、前ゝ中納言ニ被申合候事、様躰無紛聞候、大途不及公事儀候間、大道寺・桑原、其段可申付候、仍三浦郡大多和郷、前ゝ相承院拘之地之由候、然ニ、近年龍源院被致代官候、龍源死去候之間、大多和郷相承院江渡置候、彼郷年貢之事、本務五拾余貫文、増分六拾七貫文ニ候、此内、為廻御影供之方、増分六拾七貫文、院家中配当ニ相定候、残而五拾貫文、相承院可為所務候、彼郷重而附置候上者、可然僧をも被御覧立、只今之中納言ニ被相副、相承院無退転様ニ可有御助言候、恐ゝ敬白、
六月十八日/氏康(花押)/宛所欠(上書:金剛王院御同宿中 北条氏康)

  • 戦国遺文後北条氏編0380「北条氏康書状」(相承院文書) 1550(天文19)年

そもそも、当主自身の氏康が裁決しているのに、「大途=当主」の公事には及ばないという書き方はしないだろう。「大途不及公事儀候間、大道寺・桑原、其段可申付候」というのは、この案件は「公事に及ばず=議論し裁決するほどのことではない」という主張が主であり、その形容詞としての「大途」が「名分としては・大きくいえば→表立って・仰々しく」という形容詞になっていき、「大げさに裁判するほどのことではないから、大道寺と桑原が指示を出す」と解釈すべきだろう。こちらの方が意味は通る。

1560(永禄3)年

9月3日

芳札披閲候、抑 関宿様江言上御申之由、目出珍重候、御満足之段、以御次可及披露候、就中、佐竹御間之儀、一両度雖及意見候、無納得候、遠境与云、我等助言不可届候、并那須御間之事、承候、当那須方与入魂之儀無之候、大都迄候、雖然蒙仰儀候間、連ゝ可及諷諌候、畢竟、如承瑞雲院頼被申肝要存候、委曲御使芳賀大蔵着与口上候条、不能具候、恐ゝ謹言
有明卅丁給候、祝着候、
九月三日/氏康(花押)/白川殿

  • 戦国遺文後北条氏編0641「北条氏康書状」(東京大学文学部所蔵白川文書)

北条氏康が白川結城氏に対して、那須氏とはそんなに付き合いがないと書いている。「大都まで」というのは「大まかな形だけ」という表現を指すだろう。

10月15日

態啓候、其地普請堅固ニ出来之由、稼之段、肝要候、但、大敵可請返地形、爰元無腹蔵可有談合候、仍分端之動事如何、那波地難儀間、大途調迄者、遅ゝ候条、先一動可有之由茂因へも申越候、其方相稼、早ゝ先一動可有之候、委細河尻申候、恐ゝ謹言、
十月十五日/氏康(花押)/宛所欠

  • 戦国遺文後北条氏編0650「北条氏康書状」(千葉市立郷土博物館所蔵原文書)

北条氏康が、迫り来る上杉氏の来攻を前に「那波の地は難しいので『大途調』までは遅々としているので」と書いている。大途調はどうも「殆どの情報を調べ上げるまでは」と解釈すると意が通るように思う。

1562(永禄5)年

8月12日

知行方之事
五貫文、円岡
壱貫文、田村ニあり、松村弥三郎分
弐貫文、すへのニあり、小林寺分
以上、八貫文
右去年以来、於日尾御走廻ニ付而、申請進之候、御大途御判形者、各ゝ一通ニ罷出申候間、拙者判進之候、仍如件、
八月十二日/南図書助(花押)/出浦小四郎殿

  • 戦国遺文後北条氏編0775「南図書助判物」(出浦文書)

この「大途」は当主人格を指す可能性が高い。丁寧語として「御」を付けているし、その「御判形」となれば、虎朱印を指すと思われるからだ。

1563(永禄6)年

4月12日

書出
一ヶ所、堤郷
一ヶ所、篠塚・中島
以上
右、当所進之候、可有知行候、猶本領之替、大途へ申立、可進之者也、仍如件、
永禄六年卯月十二日/氏照(花押)/安中丹後守殿

  • 戦国遺文後北条氏編0808「北条氏照判物」(市ヶ谷八幡神社文書)

本領替えを申し立てる対象が「大途」なので、これは当主人格だろう。

7月28日

三沢之郷之事、各無足ニ候へ共、被走廻ニ付而、自大途被成御落着候、全相抱弥以可被励忠節候、於此上ニも、猶可被加御扶持状如件、
亥七月廿八日/横地(花押)/十騎衆

  • 埼玉県史料叢書12_0260「横地吉信判物」(土方文書)

持ち出しで活躍した十騎衆に対して、大途より状況が落ち着いたら三沢郷を与えようと約束した判物。三沢郷を与える権限を持つということで、大途は当主氏政を指すだろう。

1570(永禄13/元亀元)年

2月27日

今度御分国中人改有之而何時も一廉之弓矢之刻者、相当之御用可被仰付間、罷出可走廻候、至于其儀者、相当之望之義被仰付可被下候、并罷出者兵粮可被下候、於自今以後ニ虎御印判を以御触ニ付而者、其日限一日も無相違可馳参候、抑か様之乱世ニ者去とてハ、其国ニ有之者ハ罷出、不走廻而不叶意趣ニ候処ニ、若令難渋付而者、則時ニ可被加成敗、是大途之御非分ニ有間敷者也、仍如件、
午二月廿七日/(虎朱印)二見右馬助・松井織部助・玉井孫三郎/宛所欠 -戦国遺文後北条氏編1384「北条家朱印状」(高岸文書)

国の危機に際して全国民を徴発する権利を主張するもの。背く者を処罰することについて「これは大途のご非分ではない」と言い切っている。大途を大義名分に言い換えても意味が通じる気もするが、「御非分」と丁寧語にしている点からみると当主である可能性がとても高いと思う。

2月27日

今度御■国中人改有之而、何時も一廉之弓箭之■■、相当之御用可被仰付間、罷出可走廻候、至于其儀者、相当望之義被仰付可被■■、并罷出者、兵粮可被下候、於自今以後、虎御印判を以、御触ニ付而者、其日限一日も無相違可馳参候、抑か様之乱世ニ者、去とてハ其国ニ有之者ハ、罷出不走廻而不叶意趣ニ候処、若令難渋付而者、則時ニ可被加成敗、是大途之御非分ニ有間敷者也、仍如件、
午二月廿七日/(虎朱印)横地助四郎・久保惣左衛門尉・大藤代横溝太郎右衛門尉/鑓、今井郷名主小林惣右衛門

  • 戦国遺文後北条氏編1385「北条家朱印状」(清水淳三郎氏文書)

前号文書と同文。

3月26日

一、此度被翻宝印、望申如案文、遠左被召出、預御血判候、誠忝令満足事
一、三郎、来五日、無風雨之嫌、当地可致発足事
付、彼日取流布候間、其砌信玄出張無心元存候、畢竟利根川端迄、此方送随分堅固ニ可申付候、利根川向端はたより可渡申間、倉内衆・厩橋衆堅ゝ被仰付専一候事
一、相房一和、先段如申届、不可背御作意候、猶様子顕書中候、此時御彼国へ被指越、引詰而御落着専要存事
一、初秋之御行、何分にも可有御談合由、誠本望至極候、但、只今御労兵之砌と云、窺御帰国信玄擬之処、大切存候、爰元進藤方・垪和両口ニ、委細申付候間、御備之様子、具御返答待入事
一、愚老父子条書之内、武上之面ゝ、後日無異儀様、弥可定とハ如何不被聞召届由候、爰元専ニ遠左ニ申含候、不達上聞処、左衛門尉越度、無是非候、併御奏者挨拶ニ、此儀二三之申事之由、被押旨致陳法候、武上之二字所を指而者、忍・松山大途雖無御別儀候、一度越苻可蒙御退治趣、深存詰候、越相御骨肉ニ被仰合上者、並而相州可得退治候、然時者、信玄へ申寄外無之由、指出申候、はや通用三度及五度者、信玄可乗計策事必然候、信玄ニ内通可令停止者、越苻為先御誓詞、忍・松山証人可取間、極御誓句段申入候、垪和ニも此口味同前候、猶此度申入候、委細口上ニ可有之事
一、新太郎所へ如被披露御条書者、愚老父子表裏を当憶意哉之由、蒙仰候、既此度前ゝ之誓句を改、只一ヶ条、無二無三ニ可申合段、翻宝印、以血判申上者、表裏之儀、争可有之候哉、惣而前ゝ誓句之内、一点毛頭心中ニ存曲節儀無之候キ、御不審之儀者、何ヶ度も可預御糺明候、就中実子両人渡進儀、誠山よりも高、大海よりも深存置処、猶愚ニ思召候事、無曲存候、此上も、或者佞人之申成、或者不逢御意模様可有之候、当座ニ御尋千言万句肝要候、さて御入魂之上者、相互道理之外不可有之間、於道理者、不及用捨可申展候、不届儀者、何ヶ度も御糺明、此度互ニ御血判之可為意趣事
一、此度三郎参候路次以下之儀、由信致馳走様ニ被仰付、肝要存候事
以上、
三月廿六日/氏政(花押)・氏康(花押)/山内殿

  • 小田原市史小田原北条0950「北条氏政・同氏康連署条目」(米沢市教育委員会所蔵上杉文書)

後北条氏が当主を「大途」と呼ぶのは家中に限られるので、上杉輝虎との交信で使われたこの例は該当しない。ただ、参考までに呼んでみると「忍・松山大途雖無御別儀候」=「忍・松山は『大途=ほとんど』別儀はないとはいえ」と読める。

1571(元亀2)年

8月20日

改而定御扶持給請取様之事
一、弐貫七百文、扶持上下三人九ヶ月分
此内
九百文、八・九・十、三ヶ月分、八月廿五日より同晦日を切而可請取
九百文、十一・十二・申正月、三ヶ月分、十月晦日ニ可請取
九百文、申二・三・四、三ヶ月分、正月晦日ニ可請取
以上弐貫七百文、九ヶ月分皆済
此外九百文、申五・六・七、三ヶ月分、申六月可出
一、七貫七百五十文、給、自分
三貫文、同、番子
以上拾貫七百五十文
此内
三貫弐百文、九月廿日を切而可請取
三貫弐百文、十月廿日を切而可請取
四貫三百五十文、霜月廿日を切而可請取
以上拾三貫四百五十文
合拾三貫四百五十文、給扶持辻
此出所
弐貫七百文、扶持、西郡懸銭米、安藤豊前守・松井織部前より、於小田原御蔵、可請取之
七貫七百五十文、給、同所懸銭米、両人前より、於御蔵、可請取
三貫文、番子給、同理、同理
以上拾三貫四百五十文
右、定置日限無相違可請取之、若日限相延者、五割之利分を加、厳渡手ニ致催促、可請取之、猶不承引者、可捧目安、如此定置上、年内ニ給扶持不相済、至于申歳令侘言候共、大途不可有御許容者也、仍如件
追而、此配符来年七月迄可指置、若出所至于申歳令相違者、別紙ニ御配符可被下、無相違者、如去年与云一筆之御印判可出者也、
辛未八月廿日/(虎朱印)/畳弥左衛門・同番子

  • 戦国遺文後北条氏編1507「北条家朱印状写」(相州文書所収足柄下郡仁左衛門所蔵文書)

この大途は、両方にとれる。「侘言をしても許容しない」のが眼目なので大途=当主と見た方が読みやすいが、「御」が見当たらず「大義名分的に許可は出ない」という表現なのだとしても通りはする。もしくは、どちらでも読めることを見越して使っている可能性もある。

1574(天正2)年

2月21日

以御飛脚・御直札遂披露御返書進之候、委細御紙面ニ候条、不能重説候、大坪之地正左再興申候歟、無是非存候、大途をも可抱地ニ候哉、如蒙仰甲州御扱之内如此之儀、不及是非候、彼使衆ニ御理在之様可遂披露候、然者輝虎厩橋近所へ越山之由注進候、因茲被摧諸勢火急ニ御出馬候、彼表之様子追而可申候、時分柄如何ニ候間、為指儀不可有之候歟、随而甲州・房へ之使近日当地迄帰路候、義堯御父子御返答一途無之、毎度之分と、先甲陣へ御通候帰路之砌、勝頼御同意ニ可有御返答分ニ候、其上其表之儀落着可申候、只今者越衆之行被合御覧之儀迄ニ候、麦秋以前ニ北口之儀者可相澄候歟、追而可遂御内談候、珍儀可申入候、又可蒙仰候、恐ゝ謹言、
二月廿一日/松左憲秀(花押)/原式参御報

  • 戦国遺文後北条氏編3937「松田憲秀書状」(西山本門寺文書)

文意がとりづらいのだが、大坪という土地について、正木氏が再興しようということなのかと質問し、是非もないとしながら更に「大途をも抱えるべき地なのか」と訊いている。正木を通して大坪の地権を後北条当主が保証すべきなのか、という点を確認したかったと思われる。形容詞として「名分的にも抱えるのか」と質問したようにも解釈可能だが、そうなると質問を重ねた意図が判らなくなる。

9月3日

従品河之郷所々江欠落之者之事、人返者御国法ニ候、為先此一札領主へ申断、不移時日可召返候、若違乱之輩有之者、背国法子細ニ候、大途江申立、可及其断者也、仍如件、
天正二年甲戌九月三日/氏照(花押)/品河町人・百姓中

  • 戦国遺文後北条氏編1726「北条氏照判物写」(武州文書所収荏原郡清左衛門所蔵文書)

この文書より先は、「大途=当主」と見てほぼ例外はない。

9月10日

下足立里村之内保正寺寺領之事、大途無御存而、先年自検地之砌、御領所ニ相紛候歟、彼寺領壱貫弐百文、如前ゝ無相違御寄進候、仍状如件、
天正二年甲戌九月十日/(虎朱印)評定衆四郎左衛門尉康定(花押)/保正寺

  • 戦国遺文後北条氏編1728「北条家裁許朱印状写」(武州文書所収足立郡法性寺文書)

1575(天正3)年

3月22日

●(前欠)小曲輪十人、内村屋敷へ出門十人、板部岡曲輪十人、関役所二階門六人、同所蔵之番十人、鈴木役所之門以上一、門々明立、朝者六ツ太鼓打而後、日之出候を見而可開之、晩景ハ入会之鐘をおしはたすを傍示可立、此明立之於背法度者、此曲輪之物主、可為重科候、但無拠用所有之者、物主中一同ニ申合、以一筆出之、付日帳、御帰陣之上、可懸御目候、相かくし、自脇妄ニ出入聞届候者、可為罪科事一、毎日当曲輪之掃除、厳密可致之、竹木かりにも不可切事一、煩以下闕如之所におゐてハ、縦手代を出候共、又書立之人衆不足ニ候共、氏忠へ尋申、氏忠作意次第可致之事一、夜中ハ何之役所ニ而も、昨六時致不寝、土居廻を可致、但裏土居堀之裏へ上候へハ、芝を踏崩候間、芝付候外之陸地可廻事一、鑓・弓・鉄炮をはしめ、各得道具、今日廿三悉役所ニ指置、并具足・甲等迄、然与可置之事一、番衆中之内於妄者、不及用捨、縦主之事候共、のり付ニいたし、氏忠可申定者、可有褒美候、若御褒美無之者、御帰馬上、大途へ以目安可申上候、如望可被加御褒美事一、日中ハ朝之五ツ太鼓より八太鼓迄三時、其曲輪より三ヶ一宛可致休息、七太鼓以前、悉如着到曲輪へ集、夜中ハ然与可詰事以上右、定所如件、
乙亥三月廿二日/(虎朱印)/六郎殿

  • 小田原市史小田原北条1176「北条家虎朱印状写」(相州文書・高座郡武右衛門所蔵)