2017/07/02(日)武功覚書まとめ

諏訪郡の千野氏、これまでの軍功を書き上げる

一、壬寅九月廿五日、諏方信濃守与御一戦之砌、御東者申、其上高名仕候、於在所者、親者伊豆涯分忠信仕候事

一、甲辰冬、諏方地下人在ゝ所ゝニ逆心人数、就中同名山城被官佐渡与由候て、殊外健者候、逆本之儀条、討進上可申由、板垣駿河守被申付候間、くミ討候、此同心者同名出雲、同半左衛門尉ニ候、就御尋者可致言上之事

一、上田原御一戦之砌、蒙手疵奉公仕候事

一、諏方西方衆逆心仕候砌、家内以下取捨、一類引連、上原江相移忠信申候事

一、砥石御帰陣之砌、涯分相挊候、此御証人者長坂筑後守褒美書中給候事

一、葛尾御本意、然処ニ石川其外所ゝ逆心故、八幡峠御人数入之時、涯分返馬相挊候、此証人者馬場美濃守殿具御披露候故、典厩様為使、於苅屋原御陣所ニ三度御褒美条ゝ被仰下様共候事

一、小田井原にて頸壱ツ

一、あミかけ小屋にて頸壱ツ

一、伊久間原にて頸壱ツ

一、塩尻峠にて頸壱ツ

一、葛山おゐて頸四ツ

一、越国西浜板垣為使罷越候時分、敵相揺之間相挊、屓鉄砲疵奉公仕候事

一、小谷城御本意之時分、於構際弓を涯分仕候、板垣具ニ言上故、以高白斎深志之御対面所江召出、無比類相挊之由、御褒美候事

一、時田台軍之時分、板垣弓奉行被申付候間、涯分挊候、此子細弓之衆ニ可有御尋候事

一、三村逆心仕候時分、諏方郡地下人も更不見届為躰候之間、近辺取人質、種々相挊忠信申候、此旨野村具ニ言上、以飯富方御悦喜之趣再三被仰下候、惣別於何趣、乍恐御譜代御旁ゝ御同前奉公之儀存入候、此趣具御披露奉頼候、

以上

甲府市史「千野氏書き出し」(千野家文書)
千野氏は諏訪郡茅野の在。1557(弘治3)年比定。

反町大膳亮、往時の武功を報告する

謹言上、反町大膳助

一、武田勝頼所ゝ罷在候時、三河国とひのすニて鑓を合、則高名仕候、

一、於遠江国高天神、高名仕候、

一、於三枚橋、鑓を合申候、

一、滝川伊与守所ゝ罷在候時、上野国かなくほの原ニて、高名仕候、

一、北条氏直ニ罷在候時、佐野ニて高名仕候、

一、同氏直ニ罷在候時、上野国沼田ニて高名仕候、

一、同氏直ニ罷在候時、同国足利ニおいて、鑓を合、くみ討を仕、高名仕ニ付而、氏直直判之感状御座候、

一、景勝ニ罷在候刻、正宗殿と合戦之■■■■■■■■■■■之刻高名■■■

一、同家ニ罷在■■■、一番ニのり■■■■■■■■

一、同最上はせた■■■■■■所ニて数度之鑓仕候、

右之条ゝ、委細之様子証據共、具ニ別紙ニ別紙ニ書付御座候、御家中届ニ奉存、乍恐言上仕候、能ゝ被成■吟味御扶助候て、被下候様ニ御披露所仰候、

以上、

卯月十日/反町大膳助業定/御近習衆御披露

群馬県史3691「反町大膳助申状案」(碓氷郡・木島文書)

北爪右馬助、往時の武功を報告する

(後筆:北爪右馬助軍功書出 八月三日 紙数七枚)

御尋ニ付而申上候、

一、越国より新田へ御はたらきの時、田嶋ニおゐてくひ一ツ取申候、此請人本田豊後殿ニおり申候、長瀬伊賀、牧野殿ニ有之、あくさわ治部此両人存候事、

一、新田の太田とはりきわニて、くひ壱ツとり申候、此請人右之両人之衆、又松平たんは殿ニおり申候、矢嶋三河存候、

一、新田・ふちなニてくひ一ツ取申候、馬場二郎兵へ・千本木四郎兵へ存候事、是ハ越前へ御よひ候、被罷越候哉、おり所不存候、

一、新田かなや口ニてくひ一ツ取申候、此請人まへはしさかい殿ニおり申候、石田ひこ・しけの内善存候事、

一、新田ゆの入之よりいおしはらいあけはニてきつき申候処を、おしかへし田村と申者打、くひ取申候、此請人右之両人存候事、

一、越国あしかゝヘ御はたらきの時分、旦那ニ候五藤左京助、屋形様の御意ニそむきこはたおしほり申候時、あしかゝひかしとはりニおゐて、樋口主計おや両人共屋形さま御かんせんニてはしり廻、くひ一ツ取申候ニ付而、五藤こはたお其時ひらかせ申候、此請人長瀬伊賀、まへはしニ罷有石田・しけの内者ニ御尋可被成候、

一、きりうさかくほの城ゑんこくより御せめ被成候時、竹はたのはさくまさしニいまい助之丞と申者、いまい与兵へと申者[我等]三人被仰付候時、御はなさき御がんせんニゐてくひ一ツとり申、此両人ハ其時うちしに仕申候、拙者もしかい同前のておい申処、やかた様御意おもつて御引取被下候、此御ほうひとしてくら内ニおいて御蔵米百石被下候、此請人本田豊後様ニおり申候長瀬伊賀存申候事、此外存候者共多候へ共、御家中ニ罷有者お申上候事、

一、小見さかさ川の御陣之時、くひ一ツ取申候、請人まへはしニ罷有わたぬき甚内存候、

一、ゑんこくよりはにう殿御引取被成候時、いゝの入小屋之衆ことゝゝくおし候て、人つき申候時、やかた様御ちしん五藤か衆をめしつられ、御かヘし被成候時、御かんせんニてさいはいもちこち、くひ取申候間御はうひとして、御はをり一ツ被下候、此請人さのゝ太ふ殿ニおり申候、市川やと申者存候、

一、あかほりニてくひ一ツ取申事、右之衆又内ゝ牧野殿ニおり申候あくさわ存候事、

一、たるニ而くひ一ツ取申候事、此請人わたぬき甚内存候、

一、新田江田ニてくひ一ツ取申事請人直江山城殿ニおり申候かぬまいなは存候事、

一、きたちうあきのかミふたう山の城めおとし申候時、両日ニくひ二ツ取申候事、請人まへはしニ罷有しけの内善・ほしの賀兵へ存候、

一、蔵内なかて取申候事、くひ一ツ取申事、此請人かたかい人や存候、松平たんは殿ニおり申候、一、小田原よりゑんこくへ三郎様への五つめとして御はたらきの時、上田ニてくひ一日ニ二ツ取申候、此請人まへはしニ罷有候わたぬき甚内、奥州ニかけかつニ罷有北条のと存候事、此ほうひとしてあきのかミ所より馬くれ被申候、

一、あきのかミいたての城かばのさわゑんこく衆せめ、二のまる迄せめあかり申候所ヲついておしいたし、三のまるニてくひ一ツ取申候、此請人わたぬき甚内・かたかい賀兵へ存候事、

一、小田わらよりまへはしへ御はたらき之時しものてうとはりきわニて一人うち申候へ共、しかいとうせんのておい申候間、くひハ捨申候、請人北条能登守存候事、

一、ゑんこくよりそうちや・いしくらおせめ被成候時、此五つめとして竹田しんけん様松井田迄御出候所ニ、御はたらきさきへ物見ニ罷越くひ一ツ取申候、此請人秋本越中かゝいニ候福田かけい左衛門尉存候事、此外はちかたへ罷うつり九年之内之事、

一、おけかわいくさの時、くひ二ツ取申候事、此請人さかきはら殿罷有候つかさわ五郎兵へ、越前ニ罷有候岡谷隼人存候事、

一、小田はらよりまへはしへ御はたらきの時分、たかはまとはりきわニてくひ一ツ取申候事、右之隼人被存候事、

一、小田はらよりくらうちへ御はたらき之時、森下の城せめおとし被申候時、くひ一ツ取申候、請人かゝニおり被申候いのまた能登・とミなかかけいさへもん被存候事、

一、ぬまたおかわニてくひ一ツ取申事、請人越前ニ罷有おゝこしへんの助・いのまた能登・とミなかかけいさへもん被存候事、

一、くらうちかわはへのはたらきの時、くひ一ツ取申事、請人秋本越中かゝいニ候、小川主水存候、上泉主水存候へ共、老しに被申候、

一、くらうちとはりきわニてくひ一ツ取申候事、請人三川様ニ罷有候本郷越前・岡谷はやと被存候事、小田原よりうつの宮へ御はたらきのとき、くひ十とり申たるよりもまし可申候間、いけ取いたし候へてきせつ御きゝ可申候間いけ取いたし候、則進上申候此請人御家ニ罷有大鷹七右衛門尉存候事、 此外八ツハ御かんてう御座候、此内二つハやかた様かんてう、六ツハあわのかミ様御かんてうニ候、請人ニおよひ不申候事、此外奥州ニての走廻之事、

一、川俣の城せめおとし申候時、くひ三ツとり申候事、請人御家ニ罷有候樋口主計、根岸主計存候事、

一、もかミはたやニおゐて、さがいひせん二千斗ニて上申候処ニ、上泉主計おやこ召連ハしえきのりつめさがいひせんを十二やりつき申候へ共、ミへどをり不申候由申、さかいうちのさいはいもちつきおとし申候、御不しんニ候ハゝ、かミ殿御煩時分、さがいひせんニ御尋可被成候、てきよりもミたれ、ほしの・こはた・くまの・かわてたちハたれそと、かすか右衛門尉所へ尋被申候、いまニさがいひせんニハふちあんないニ候、

已上、

くひかす 卅九 此内いけとり一ツ

八月三日/北爪右馬助/宛所欠

群馬県史3692「北爪右馬助覚書」(岩手県・南部文書)

桜井武兵衛、往時の武功を報告する

我等はしりめぐり之覚書

一、藤岡表ニ而、佐竹衆・小田原衆たいちんノ時、すわベ宗右衛門尉我等鑓初仕候、其時すわベ宗右衛門尉、氏直江被召出、本意仕候事、

一、新宇都宮たげと申所ニ而、京牢人村井われらてきニ候、ぢしろニいの鹿之指物、地きニかりかねの指物、赤く白くのまゼノ指物さし候者と鑓仕候、定而田代大膳見可被申候事、

一、冨田ニ而、氏直大中寺山へあかり見物被申候、冨田之宿ヲやぶり、城之門きわにて野中六右衛門尉、冨長かけゆ、われら鑓ヲ仕候事、

一、筑波山ヲ小田衆・まかべ衆持候所へ、山上郷右衛門尉われらおしこミ、知足院と申寺ニ而、高名仕候、其時中山勘解由・石原主膳も高名仕候、其時むすこ之中山かけゆも高名仕候事、

一、結城之田川ニ而、井原、はち方ノ安房守馬ヲ入せうぶ之時、井原打死、安房守鑓手ヲおい被申候所へ、われらかけすけ、てきへくびとらせす、われら高名仕候、其軍ニ松田手へ多くくび取申候、其時松田六郎左衛門尉うい高名仕候事、

一、とくらニ而、松田新六郎逆身之時、泉かしら御番ニおり、湯河表ニ而かけ合之時、朝比奈又太郎馬ヲ入泉かしら衆ヲおいくづし、うたせ申候所ニ、われら一人返し、又太郎ヲ二鑓つき申候、それより、おいとまり候、其時高名仕候、瀬戸与兵衛と申者、唯今尾張ノ名古屋ニおり申候事、

一、足利ニ而くさノ時、朝より昼比まて仕合御座候、其時われらはしりめぐり候、氏直かん状ヲ持申候事、

一、沼田之森下ニ而、藤田大学我等弐人、壱番のりヲいたし、城ヲおとし申候事、

一、皆川之大平山ヲ、あしがる衆十頭大藤弐手ニ被仰付候所ニ、やぶり不得候、其時はち方の安房守われらニ被申付候間、上ノ山よりおしこミ、くび二三十とらせ、ごんげんどうヲやき引のけ申候所へ、てきくいつき、味方ヲおしくつし申候所ニ、われら返し、壱人もうたせす引上申候事、

一、越前ニ而、久世但馬御せいはい候時、ながや之かうし之内へ、ミわのことの介おしこミ鑓仕候事、

一、永見右衛門尉御せいはいノ時、井上太郎左衛門尉、ふか沢長右衛門尉せめ口へ見使まいり、太郎左衛門尉長右衛門尉なミニ鑓四五度仕候、其時われらむすこ十大夫、あしがるかしら松崎弥五介打死仕候、井上太郎左衛門、ふか沢長右衛門尉、我等子ニて候、左介高名仕候事、

一、大坂ニ而四日ノ日、越前衆へむたひニかかり、手おい死人多く候所ニ、われらとはりきわまてあげニまいり、引のけ申候、其時矢鉄炮しげき所へ、出羽守被参下知被致候事、 此外人なミニしゆびヲ合候事、度ゝ多御座候へとも、不申上候、

九月廿五日/桜井武兵衛/宛所欠

群馬県史3693「桜井武兵衛覚書」(島根県・桜井文書)

清水正花、往時の武功を報告する

御使江若被尋候半与存思出之次第書立候事

一、安芸殿如御存之、於冨士御殿馬沢、安馬与申者を馬上ニ而、渡辺弥八郎殿与申折也、大刀打申候、弥八郎殿出合互ニ切捨候、高名之事、

一、冨士城近所ニ而、馬上乗懸馬上ニ而組候を、弥八郎殿助ケ互ニ高名之事、

一、信玄豆州江初而乱入之時、自三島敵ニ取合、無相違走廻り候故引退候、弥八郎殿父子共ニ我等屋鋪江御移候而存候事、口上故ニ、

一、武蔵国岩付之城近所飯田橋ニ而鑓合ニ、高麗備後与申仁足軽を討取候儀ニ、今備後を前ニ被有之候、麻倉与名乗候者討取候事、

一、武蔵国岩付小室与申所ニ而一戦、源七与申者ニ少シからかひ高名之時喧嘩、黄門様源七ニ御尋何茂慥ニ存候事、

一、武蔵国松山近所陣取候時、岩付より夜懸之夜一戦、当所ニ而勝負無其隠高名也、爰許ニ而源七并年寄候者ハ何茂存候事、

一、上野国新田ニ而初而、景虎乱入之時、景虎人数与一戦、自身太刀打敵百余人討取候事、

一、松田新次郎上州ニ而被討候時、助候而敵討取引退候高名之事、

一、武蔵国奈良橋与申所、高山之城退候時高名故ニ無相違退候事者、久敷乱分ハ何茂慥ニ存候事、

一、景虎乱入候所、武州河越籠城之時、高麗郡江手人数を以相働、為討候智略高名之事、

一、河越籠城之時、岩付領ニ而相働人数多打、自身太刀打手柄之事、

一、川越籠城之時、高坂ニ而相働、自身太刀打人数多討申候手柄之事、

一、高山之城ニ籠り候時、景虎人数斗ニ而働候時、各申合、我等父子高名故、百余討取追崩シ高名之事、

一、狩野之助討死候得共、高名殿父子無相違退候、其隠無之候、関東高山落城時、走廻り候儀各存罷有候事、

一、武蔵国難波田之城江相働、河越之者共何も走廻り候、大窪屋敷ニ而当地ニ有之参候鯨井与申者其外、我等鑓下ニ而三人討申候、此内負於当地ニ赤垣助左衛門与申候者ハ我等を鑓付候、其時之覚無隠候事、

一、上州沼田之城取出、窪田之城責候時、敵之持将父子両人共ニ討取、其時三ヶ処手負、当地ニ而藤田大学頭ニ御預置、看病被申候ハ何も存候覚事、

一、伊豆国笠原、甲州江心替之時、我等父子高名討取候事、

一、小田原江景虎乱入時、武州河越より道を留メ置候処、路次江馳出我等を初、生捕討取、乍去此者手柄ニ茂不存候事、

一、遠州懸川之城、今川殿御籠城之時、道を止メ之時、一切通路無之所江、我等遠国を無滞行路次ニ而、両人を数生捕候、其覚無隠候事、

一、信玄以前之詰勢、高名様ゝ、信玄お近所ニ走廻セ、御感槍抜首与被仰出候事、

一、上州新田之城責被致候時、門を開、鑓下ニ而八人討取候、但度ゝ弓ニ而手負仕候儀、度ゝ之合戦爰許ニ金井茂右衛門被存候事、

一、境目之城ニ有之候得共、毎度歟戦候得共、其外ハ手ニも不立者ニ候間、載セ不申候、将首八百三拾討取候、安芸殿御存候間、不申入事ニ候得共、鯨井茂討申候事、

一、上州新田我等城ニ而、敵足利江乗込候所、人数も我等茂自身敵討取候事、

一、新田之城敵之時分、氏直之代ニ彼表ニ而度ゝ高名何も存候事、

一、駿州長窪我等城ニ候時、甲州方ニ而沼津之城与岡野・宮田・能登ニ而懸合、渡辺次郎右衛門殿敵之時、彼御覧候通三人討取、其上次郎右衛門殿手極ニ而出合、治良右衛門殿壱人を心懸下立参り走廻り候事、

一、我等城長久保之向城取候手、麻尾之城江大働其斗城極迄打破、大手ニ而敵壱人雑兵拾人余討取候、此方ニ而者、広沢兵庫・大藤小太郎其外、其陣江何茂立候故、爰許ニ被有之、無隠走廻り候事、

一、光国寺逗夜被申候、窪小屋江乗込候敵六人、自身討取候働之事、

一、宇都宮新城責、我等ニ被申付候時、足軽衆申含、彼之谷之大働物敷為討候而、踏落候事、

一、上州沼田之城、星名曲輪ニ而鑓合、我等手使者為心得之ニ候、又御尋も候ハゝ御感状様子可申候、只今之御黒印、御感知行之証文共ニ候、人御見セ有間鋪候、尤興ク申付候、

以上、

十二月三日/正花黒印/宛所欠

群馬県史3694「清水正花武功覚書」(高崎市清水文書)

猪俣邦憲、往時の武功を報告する

猪俣能登守手合之所ゝ之覚

冨永勘解由左衛門同陣

一、上野之内、見竹と申所ニ而、歳十九、同勘解由左衛門歳十六歳、敵ハ平井豊後・小金形部左衛門・同喜兵衛、右三人之者共出合之時、能登守・勘解由左衛門働之様子、こたまと申所よりたつきと申所ノ間ニ而、四五度ノ鑓候而、能登守九ケ所手負、九ケ所之内六ケ所鑓手、壱ケ所弓手、太刀手弐ケ所、勘解由左衛門鑓手三ケ所、弓手弐ケ所、

一、上野新田ニ而懸合ノ時分ハ切手御座候、

一、上野立林同断、

一、上野さの同断、

一、ゆうきへ働之時分、両度ノ高名一度鑓下ニ而、

一、小山ニ而働之時、一度ノ高名、勘解由左衛門ハ大手柄之躰ニて御座候、但せのこ尾張、同右馬之助・勘解由左衛門鑓相手ニ而、太刀打ニ品有、城ノ大手ニ而両度之高名、

一、山川一度ハ町之内ニ而鑓下、勘解由左衛門も同事、

一、瀧川合戦ニ而ハ、能登守先手、勘解由左衛門旌壱本のさいとり之両人なから首弐つ宛高名有、

一、沼田ニ而、甲斐国勝頼働之時分、能登守城主ニ而働之時分ハ勝頼之相手、勘解由左衛門ハこかんノ橋を持候て二日迄勝頼とせりあいノ相手、手柄被仕候事、

一、おなふちと申城能登持、これニ而前橋・ごせん山・かミけ三つノ城のあいて也、度ゝ之せり合ニ手柄共御座候、勘解由左衛門も両三度、斯城ニ而も手柄御座候事、

一、新田之どんでいと申所ニ而せり合、敵ハ屋はと申人相手ニ而、是ニ而も鑓御座候つる、新田城主ハ四郎殿、

一、あしかゝノ城ニ而、両度之大せり合御座候而、是ニ而一度、勘解由左衛門手柄御座候、敵ハ長尾新五郎、

一、ミのわの城ニ而能登守居候而、真田と取合、あかつまと申城ニ而切ゝノせり合御座候、是ニ而も能登守手柄共御座候、是ニ而平太三度手に相、一度ハ手負申候、手柄(後欠)

「上書:猪俣能登守等諸処手合覚書」

群馬県史3695「猪俣能登守覚書」
(東京大学史料編纂所所蔵猪俣文書)

富永清兵衛、往時の武功を報告する

西上野冨永清兵衛覚

一、加り金ノ城主くらかね淡路守殿、是へ働之時、清水と申くわんおんたう焼申時、我等参やき候へハ、敵くわんおんたう迄もち、為焼不申候時、せり合候て鑓ニ相たうをは焼はらい申候事、同日ノ晩ニ惣人数陣場へ引申時、敵出候而、松山上田殿と敵取くミ申所へ、我等馬を乗入、鉄炮ニ中申候、せかれノ時分ゆへ、諸人能様ニ申候事、

一、瀧川合戦ニ而、安房守様御供申、御眼前ニ而高名弐つ仕候事、城主はてんとく寺殿、

一、さのてらをやつと申所ニ而さノとの衆と長尾新五郎襲、せりあい仕候所へ、夫ニ参候手ニあい高名ハ不申候へとも、鑓ニハあい申候、後ニ長尾新五郎を敵に成テ、あしかゝニ而せりあいノ時分高名比候、敵ハ長尾新五郎との衆、

一、新田どんでいと申山ニ而とり合御座候、敵ハ屋場と申人ニ而御座候、鑓も御座候つる、之即鑓比之事、

一、非山ニ而、籠城之内、我等預り申候わた波と申くるハ、ふく島大夫殿へ六月十七日ニ被責候時、人数指引仕候、随分手柄仕候つる、無相違もち申候、

一、信州之川中島真田城より、物見出候を、おしこミ我等鑓仕候、首ハ取不申候、但さゝかきよりも申候、

一、信濃あした・こやばへ働之時ハ高名仕候、為指手柄ニ而ハ無御座候つる、城主下野、

一、皆川大うけ山と申所へ氏直働被成候時、敵出申所を、北条左衛門大夫おいこミ被成候、度ゝノおしあい在之時、ミかたくつれ候処ニはがノ形部をし切、敵ヲふせき鑓被仕候処ニ、我等乗付すけたり、刑部前と立ならび、鑓比候時、松ゑた衆一人取てかへし■人立ならび申候、

以上、

群馬県史3696「冨永清兵衛覚書」
(東京大学史料編纂所所蔵猪俣文書)

2017/06/25(日)家忠日記に見る徳川家康の妻・母

月日 呼称 比定 記述 備考
1578(天正6)年 2月4日 信康御母さま 築山殿 大雪ふり三尺、信康御母さまより音信被成候
1580(天正8)年 2月17日 おハり御新造様 信長長女 おハり御新造様美濃江一円ニ御越候とて、浜松殿岡崎江御越候
2月18日 御新造様 信長長女 岡崎江越候而城江出仕候、明後日廿日御新造様おくりニ越候へ之由仰にて、ふかうすかへり候
2月20日 御新造様 信長長女 御新造様送ニ尾州おけはさま迄越候
1583(天正11)年 2月6日 岡崎御屋敷様 伝通院 岡崎御屋敷様御越にて殿様迎ニ出候、供にて出候 古書に書き込まれた鉛筆書きでは「石川家成母の妙春尼か」と比定
1585(天正13)年 4月15日 岡崎御屋敷様 伝通院 岡崎御屋敷様、石伯耆守所へ当年之礼にこし候、ふかうすへ日かへりニ帰候
1586(天正14)年 4月11日 羽柴筑前守妹 秀吉妹 ■ハ羽柴筑前守妹家康へ御こし入候
9月13日 御屋敷様 不明 浜松迄帰候、御屋敷様御越候 人名索引は家康本人、古書書き込みは家康母・妙春尼に比定
11月16日 御前様 秀吉妹 御前様はま松へ御帰候 日記他箇所:11日に家康が三河帰還、12日に大政所帰京
1587(天正15)年 4月5日 御前さま 秀吉妹 御前さまくさつのゆへ御入候
1588(天正16)年 3月5日 御前様 秀吉妹 御前様御上洛被成候
3月23日 御大方様 伝通院 御大方様三川へ御越候 日記他箇所:14日に家康は上洛
閏5月6日 御前様 秀吉妹 御前様御迎ニらいくわうし迄こし候、御前様より大儀にて越候由にて御使候
6月22日 御前様 秀吉妹 殿様大坂大政所様御煩以外ニ而上へ御のほり候由申来候、御前様ハ夜通御とをり
9月8日 御前様 秀吉妹 御前様御迎ニにしの野迄こし候
9月9日 御前さま 秀吉妹 御前さま岡崎今日ハ御とうりうにて、御音信之人をこし候
10月6日 にしのこほり殿 督姫母 柏原一庵ニ駿川にしのこほり殿夢想之連歌にこし候
1589(天正17)年 2月26日 御大方様 伝通院 御上洛御大方様御煩故延候、
3月1日 御大方様 伝通院 竹與次郎大方様御煩見舞被越候
5月21日 御袋西郷殿 秀忠母 駿川若君様御袋西郷殿一昨日十九日ニ御死去之由申来候
5月22日 西郷殿 秀忠母 竹谷與次郎同心候、西郷殿御とふらいに見付迄こし候 日記他箇所:24日「りうせんしにて御ちうゐん之御とふらい申候」
1592(天正20/文禄元)年 4月2日 御大方様 伝通院 御大方様より、普請場へ御たる、ほかい給候
4月12日 御二方様 伝通院 御二方様ニ、今度から入御陣祈念之連歌ニて越候
1593(文禄2)年 7月4日 御大方様 伝通院 こさしきたて候、御大方より御たる、肴給候

2017/06/21(水)俗にいう「北条早雲」は、同時代で何と呼ばれていたか

後北条氏初代に数えられる伊勢盛時(早雲寺殿)が、同時代の文書でどう呼ばれていたかを、手持ちのデータからまとめ。

本人は一貫して「宗瑞」と署名している。

山内上杉は顕定・憲房ともに「早雲」は使っていない。今川方の伊奈・大井は「早雲」を用いている。扇谷上杉方だと、三浦道寸は「伊勢入道」と呼ぶが建芳は「早雲庵」としている。また、伊勢盛時との対陣に言及している三不軒は「早雲」と3回も呼んでおり、敵味方で呼び分けがあった訳ではなさそう。

1496(明応5)年上杉顕定「伊勢新九郎入道」神3下6406

1504(文亀4/永正元)年上杉顕定「伊勢新九郎入道」神3下6439

年欠上杉顕定「伊勢宗瑞」神3下6478

1506(永正3)年伊奈盛泰「早雲」戦今182 大井宗菊「伊勢早雲庵」戦今183

1509(永正6)年三不軒「早雲」埼叢書12_27

1510(永正7)年上杉憲房「伊勢新九郎入道宗瑞」駿河台大学論叢第41号11 三浦道寸「伊勢入道」埼叢書12_46

1511(永正8)年福島範為「早雲庵・早雲」戦今243

1517(永正14)年上杉建芳「早雲庵」埼叢書12_78

三不軒書状

追令啓候。屋形上州へ調儀無候、思慮候而大切存候処、思之外ニ急度之事、諸人大慶可為御歓喜候、殊可然之時節帰城、早雲致打向候事、言宣不及候、然候御一戦之有無者各実候旨、御心安候、早雲も徒送日在陣者如何、定而取除候、然者令入馬上上州以来、諸人被致休労、嘱可有調儀候歟、■相調候上、御吉事遂日可相重、端々被入馬者葛西へ可有与存候、今度早雲打押付候与申入体■而可有之候歟、此間御歓楽与申、御心尽察入■、至于我々も■上ニ、尚病重成候き、下口之事、何篇可有御心安候、遂然々与御様体不承候、別条儀不可有之候、恐々謹言、
八月廿日/三不軒聖■(花押影)/北へ参
埼玉県史料叢書12_0027「三不軒某書状写」(温故雑帖五)